天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
日本書紀の3つの紀元 First update 2019/05/01
Last update 2019/05/01 一般に、日本の紀元は神武即位年、辛酉BC660年1月1日です。
ところが、この年は他の天皇即位年に使われる重要な「太歳」の文字がない為、「太歳」の文字が使われた 7年前の神武東征年、甲寅BC667年が始まりとも言われます。
さらに、この太歳甲寅BC667年の1,792,470年前を天孫の邇邇芸命が降跡した年と定めているのです。
この一百七十九萬二千四百七十年はすでに解き明かしました。参照:1792470年を見直す 1792470 = 1340×1340
- 1800 + (-666 - 664) -666 - 1792470 = 664 - (1340 × 1340 - 1800) 意味は、BC667神武東征年の1792470年前は、儀鳳暦の始まる年AD664麟徳元年の(1340×1340−1800)年前と一致するのです。日本書紀の編者は古代中国の暦法に則り「上元積年法」と言われる暦が始まる「積年」を表現しようと、儀鳳暦の手法「総法」と呼ばれる「1340」の乗数を利用していたのでした。 さらに、この「総法」1340はAD681天武10年国史編纂記事の年からBC660神武即位年を結び付けています。 681 – 1340 = -659 664 - (1340 × 1340) = -666 - 1792470 -1800 日本建国年の数字の意味 神武天皇即位年の議論は昔から語られてきました。 革命勘文 平安時代901昌泰4年、三善清行による讖緯説が、着目されました。詳細は、別項に述べました。 簡単にまとめると、「辛酉」年は革命の年で、一蔀を1320年間と考え、その年に周期的な大変革が起こるとされました。神武即位元年が「辛酉」年であることから、その21元(1蔀)を超えた1320年が、斉明7年天皇崩御=天智天皇称制年が「辛酉」に当たります。 この説が重要視され、その後の日本では「甲子」と「辛酉」の年ごとに元号が変更され続け、戦国時代を除き、江戸幕末まで続いたのです。 明治に入り、那珂通世氏が21元=1蔀は1260年の計算違いとして、これを引き下げ、推古9年「辛酉」年が変革の年であるとしました。いずれにしても、神武即位辛酉年は日本建国の重要な年として、現在に至ります。 ここで重要なことは、当時表現した年号が実際の年月を表現したものではなく、机上の創作であることがわかったことです。 その後もいろいろな考え方が表れては消えていきました。闇雲に紹介してもきりが無いので、本稿において重要と位置づける、現在の諸説を紹介します。 その前に、ここで使用する日本書紀で表された暦日を確認しておきます。 関連日付 神武東征 BC667神武前7年10月5日 「太歳甲寅年冬十月丁巳朔辛酉」 神武即位 BC660神武 1年 1月1日 「辛酉神武即位年春正月庚辰朔」 天武吉野出 AD672天武 1年6月24日 「壬申年六月辛酉朔甲申」 天武即位 AD673天武 2年2月27日 「太歳癸酉年二月丁巳朔癸未」 国史編纂 AD681天武10年3月17日 「三月庚午朔丙戌、〜令記定帝紀及上古諸事」 儀鳳暦の「総法1340」 まず、有坂隆道氏は、儀鳳暦の計算基準とされる「総法1340」が重要と考えました。 神武即位年は天武天皇紀の国史編纂年から逆算して併せたものではないかと考えました。 BC660辛酉神武天皇即位元年から、681天武10年3月17日に国史編纂記事開始までの年が AD681−BC660=681−(−660+1)=1340年 (キリスト暦ではBC1年の次はAD1年となるため、数字上の誤差修正が必要です。) 「(中国)南北朝から隋唐にかけて讖緯思想と深く結びついて、辛酉革命説の周数などにも用いられたわけなのです。ところが、麟徳暦=儀鳳暦の第一の特徴は、古来まちまちの数を使ってきた章・蔀・元・紀などを廃し、あらゆる周数を統一して総法1340という数字を用いたことであります。これまで別々の数字でしか表現できなかった太陽や月の運行も用いたことであります。『新旧唐書暦志』の麟徳暦=儀鳳暦の暦法を記したところをみますと、真っ先に一行、「総法千三百四十」と特筆してあり、まことに印象的であります。『書紀』編者には、この周数こそ宇宙と人間界を貫く最新の真理であり、いわば聖なる周数として強く印象づけられたはずなのであります。」有坂隆道「古代史を解く鍵」 暦日、一年365日、17や19という聖数を用いた連鎖 江口洌氏はBC660神武即位1年1月1日から673天武2年即位2月27日が、 673年−(−659年)=1332年 (365×365)÷100 =1332.25 として、一年365日の「365」累乗になることを示しました。(小数点以下は合いません) 江口氏の暦日の数字分析は面白いもので、他にも2,3羅列してみます。 神武天皇崩御年BC585年〜天武天皇即位年AD673年は1258年で、17年の74倍、 さらに持統天皇即位年AD690年まで17年、 さらに元明天皇即位707年(文武崩御年)まで17年、 さらに聖武天皇即位724年(元正譲位年)までが17年 と中国思想の天9地8数の和とされる聖数で、聖徳太子17条憲法の例があるといいます。 BC660神武天皇即位はAD690持統天皇即位年 陰陽19×71=1349と一致すると言います。 BC660神武天皇即位はAD697文武天皇即位年 三才の天地人6+8+9=23として23×59=1357 江口洌氏はこの19年を重視し、神武天皇や欠史八代などの紀年を結びつけようと考えました。 神武天皇の在位76年は19年の4倍(後漢で用いられた四分暦ではこれを1蔀)、2倍が安寧天皇の在位38年、その他、数々の数字合わせを試みています。この様に、その執念はすさまじく、忌諱しにまさるものですが、あまりの整合性が逆に一般研究家にも遠ざけられていますが、無視できないものです。 江口洌「日本書紀の聖数ライン」 本稿の結論 結論を先に記せば、日本書紀による日本の基準年は、神武天皇東征年、太歳甲寅年だと考えます。 いろいろな解説書が「辛酉」神武天皇即位元年を基点としている記事を見かけますが、本稿の結論はそれとは違います。 以下で証明しますが、辛酉即位元年は、その6年前甲寅年10月5日、東征出発日付「冬十月丁巳朔辛酉」に基づき、辛酉を神武元年にしたものです。また、元となる東征期間は、古事記が記したように、筑紫1年+安芸7年+吉備8年=16年であったものを、6年と短くして、辛酉の年に合わせたのです。 さらに、神武東征日付は672年の天武天皇壬申の乱から逆算された日付です。 【日本書紀 天武天皇(上)】
天武天皇が起こした壬申の乱のはじめ、ここで「東に入る」とあること自体、言葉が不自然です。天武天皇は吉野から脱出し、まず北を目指したからです。まさに神武東征を意識した「東」という言葉だったのです。岩波版など、解説書では「東海道伊賀以東、東山道美濃以東の諸国をさす広義の意」と補注まで付けて長々解説しています。結果、天武天皇は当初、「東」の尾張を目指したと、仮説が生まれた不自然な「東」なのです。 その上で、この起源年と天武即位年〜神武東征年の関係を見ます。 日本書紀が重要としていたのは太歳干支です。日本書紀では全体で「太歳」の使用が44ほどあります。そのほとんどが、天皇即位年を示した干支です。崩御年ではありません。ところが、神武紀では、即位年は神武元年辛酉であり、太歳辛酉とは書かれていません。神武天皇の太歳は、即位7年前の、東征開始のBC667年太歳甲寅年です。 そして何よりもこの神武東征年、太歳甲寅とは古代中国暦法「太歳」木星歳星の基準年なのです。一般的には干支は甲子年が初年です。しかし、それ以前で使用された太歳干支は歳星12年周期の木星を真逆に仮想した星を基準にしていた中国古来の暦法です。甲寅年が基準でした。十干の最初は「甲」、十二支の最初は本来「寅」と定められていました。日本書紀が太歳甲寅を日本の基準年としたのは当然なのです。 「甲子」年でもなく、ましてや「辛酉」年でもありません。「甲子」が60年干支の初年と位置づけられるのは儀鳳暦が使用される唐の時代ぐらいからです。 日本書紀、最古の年代記録「1792470余年」 日本書紀を読むと、神武天皇即位「辛酉」年はそれほど重要な年としては描かれていません。太歳の文字がないからです。「太歳辛酉」とは書かれていないのです。 日本書紀で最初にあらわされた数字としての年代は、天照大神の天孫、瓊瓊杵尊が日向降臨してから 1792470余年後の、BC667年10月5日に神武天皇が東征を開始したことです。 神武45歳のときとあります。このとき、はじめて「太歳甲寅」と太歳干支が使われました。 【日本書紀 神武天皇】
そして、天孫降臨から1792470年にも神武と天武の間に意味があるのです。 それにしても、なぜ、「1792470余年」と、このように大きな、しかも細かな年代を示したのでしょう。 この膨大な数字を日常的には、「大きな時間経過を意味する」として読み飛ばすのが普通でした。 伴信友や「日本書紀通釈」も、これを重要視せず、「自天祖降跡」以下二十三字を後人の傍書が本文に竄入したものとしました。細字で書かれていたといいますが、他の写本はすべて、同数字が本文として明確に書かれていて、この説は採用できません。 日本書紀は儀鳳暦を用いて暦を正確に計算していました。 儀鳳暦の元になる中国麟徳暦の基準は、AD664麟徳1年甲子年をさかのぼること、269880年前甲子年の前年11月朔甲子(冬至)を上元として計算する手法を用いていました。麟徳暦以前の暦を見てもわかるように、三統暦以来の上元積年法(暦元を遠い過去に置いて計算する方法)を用いているのです。 本稿が作成した、儀鳳暦換算表(表計算はExcel)「天武天皇の年齢研究−元嘉暦と儀鳳暦」参照 なお、AD664−上元269880=-269216(これは計算上の西暦で本来はBC269215年のこと) 麟徳以前の暦が用いた基準年と上元 麟徳暦 上元甲子、至麟徳元年甲子AD664 269880年 戊寅暦 上元戊寅、至武徳9年丙戌AD626 164348年 大業暦 上元甲子、至大業4年戊辰AD608 1427644年 皇極暦 上元甲子、至仁壽4年甲子AD604 1008840年 開皇暦 上元甲子、至開皇4年甲辰AD584 4129000年 日本書紀 上元甲申、至神武東征元年甲寅BC667 1792470余年 こう考えれば、特にこの数字が突飛な数字でないことが解ります。 このように、日本書紀編纂者はこれら歴代中国暦法の数字を意識していたのではないでしょうか。 暦法の基準に天孫降臨を結びつけ、意味を持たせようとしたのです。 ここで、まず問題になるのが「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の「餘歳」の意味です。 当時、数字を示す場合、例えば「123歳」を「120年余り3年」と読みます。 ですから、1792470余年とは、70年から79年の間を指すと理解できます。 一般には「約1792470年」という意味になります。 いろいろ史書をめくると、「皇代記」などは、 瓊瓊杵尊 318,542歳 天孫降臨した天照大神の孫 彦火火出見尊 637,892歳 葺不合尊 836,042歳 この子供が、神武天皇となります。 三代合計 1,792,476歳 と、天孫降臨から神武までの3代の親子を分割し、合計の日本起源年の「余歳」に6歳を加えて答えました。 さらに、飯島忠夫氏は「日本上古史論」で、余歳を参天台五台山記・簾中抄などにも同じく載せられた数字であることから、余歳はこの六歳と定めました。これを用いて、BC667年東征年から逆算し、1792476がBC1793143年に当たり「戊寅」年になると計算しました。(下記表参照) このことから、唐の武徳九年に造られた戊寅元暦の上元戊寅年が天孫降臨の年として計算されたのであろうといいます。本当に、これは儀鳳暦の前に使用された、唐初年に編み出された「戊寅元暦」に基づいて積み上げられた数字なのでしょうか。 中国暦法との関連を指摘されたことは評価できますが、ここだけが儀鳳暦ではなく、戊寅元暦とは考えにくいものです。飯島忠夫「日本上古史論」参照 一方、ホームページに気になる記述を見つけました。 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/1792470.html 東征開始「太歳甲寅」BC667年10月5日から 天武即位「太歳癸酉」AD673天武2年2月27日の間が AD673−BC667=673−(−666)=1339年 1792470余年の平方根=√1792370=1338.83158=1338年+304日 東征開始から天武即位の間が1339年で同じになるというものです。 なお、この304日とは365日/年×0.8315=303.5267日のようです。 実は、江口洌氏もBC667神武東征年から672壬申の乱まで1338年が乗数の関係があると考え、 1338年×1338年=1790244年 1792470年−1790244年=2226 この端数2226を日付と考え、天武即位日天武2年2月27日の前日までの日数を示すとしました。 【天孫降臨から神武東征、さらに天武即位まで】 日本書紀が計算基準とした年代干支 BC667神武東征開始年、太歳甲寅年からAD673天武2年即位、太歳癸酉年までが1340年という儀鳳暦の総数1340に設定されていると考えることも可能です。 単純には、AD673−BC667=673−(−666)=1339 と計算されますが、上図をみて解るように、実際は、前後、0年目に当たる甲寅年(+2ヶ月+24日)と1338年目壬申年の翌年(+1ヶ月+27日)を足せば、正味1340年なのです。 AD673−BC667=673−(−666)+1=1340 です。(実際は1338年3ヶ月51日) 別途検討中ですが、当時、西暦を輸入し使用していて、紀元前後の数字を誤解していたかもしれません。 AD673−BC667=1340 HP氏の着眼点、二つの太歳干支が長大な天孫降臨以来神武東征までの長大な数字に関係があるとする説に着目しました。 AD673天武2年太歳年とBC667神武東征太歳年の間 673−(−666)=1339年 √1792470年 =1338. 83158年 =1338年+304日(365×0.83158) これには問題点があります。当時、乗数やルート、小数点といった考え方はありません。 (追記2014/11/23 上記の表現に対し「乗数のルートの考え方はある」とご指摘を頂きました。 謹んでお礼申し上げると共に、訂正させていただきます。 紀元一世紀を過ぎた古代中国ではすでに、『九章算術』と『周髀算経』で乗数「自乗」や平方根「開方除」とした使用例や方法が細かく書かれていました。日本でも使用形跡が見られるといいます。) さらに、日付もグレゴリオ暦であり、本来、当時の儀鳳暦で計算すべきです。 また、日付を加味しても合いません。(上記3ヶ月51日、対、304日) まず、計算上で日本書紀が用いた儀鳳暦には重要な基本数字があります。 AD664麟徳1年から 上元269880年前の前年、冬至11月朔の干支が甲子年甲子日に当たります。 1太陽年=365+328/1340=489428/1340=365.2447761日/年 1朔望月= 29+711/1340= 39571/1340=29.53059701日/月 これが、総法「1340」と呼ばれる所以です。 麟徳暦 はAD664甲子、麟徳1年から積年269880年前を上元としました。 日本書紀はBC667甲寅、神武東征から1792470年前に天孫降臨したと意味を持たせたのです。 神武東征年BC667年2月27日から天武即位年673年10月5日までの正確な年月日 BC667年10月 5日からBC667年末の日数は(29−5)+30+30日=84日 天武天皇即位は「太歳癸酉二月丁巳朔癸未」 BC666年1月1日〜AD672天武1年末までの年数は、672−(-665)+1=1338年 AD673天武2年1月1日〜同年2月27日の日数は、30+27=57日これは元嘉暦でも同じです。 よって、神武東征出発日から天武天皇即位年=1337年+(84+57)日 厳密には、1339年ではなく、1338年+4ヶ月程度で、やはり微妙に一致しないのです。 そこで、当初の1339の乗数という考え方が違うと考えました。 これは有坂隆道氏がいう、総数1340が関係しているのではないか考えました。 1792470年÷1338=1339年+888/1338年 1792470年÷1339=1338年+888/1339年 1792470年÷1340=1338年−450/1340年 =1338年−(450/1340)×(489428/1340)日 =1338年−122.65日 1792470年÷1340=1337年+890/1340年 =1337年+(890/1340)×(489428/1340)日 =1337年+242.588日 総法1340を使用するとマイナスになりますから、天武2年即位ではなく、むしろ、前年の天武壬申の乱に関係している数字になることがわかります。 神武東征年10月朔と天武即位2年2月朔の干支が一致する 戦前、水野惟之氏は、日本書紀の干支記事は日本固有暦によるものとする古い考え方を支持しておられました。しかし、「神武天皇紀の月朔」で、神武東征年の2月と天武即位2年の月朔が同じであることを発見しました。具体的には、神武東征年10月1日と天武2年2月1日の干支が同じ「丁巳」です。しかも8年先天武10年4月まで、神武の干支が同じなのです。 このことは、儀鳳暦、元嘉暦に関わらず、その期間に60日の倍数で結び付いていることになります。 また、日付干支まで一致している事実があることになります。 この関係を用いると計算が正確で容易です。儀鳳暦と元嘉暦の影響を考えないですみます。 神武東征前6年始め〜天武即位1年末まで1338年間 +(天武2年1月の30日間)+(神武東征前7年12月の30日+11月の30日+10月の29日) を足した日数です。 さらにその合計日数は60で割り切れる日数でなければなりません。 (1338×489428/1340+30+(30+30+29))/60=488816.51日/60=8147 正確には8147×60=488820日です。 甲寅神武即位前10月1日と癸酉天武2年2月1日の間は488820日になります。 これが基点となります。 神武東征10月5日から天武即位2月27日まで 488820+(27−1)−(5−1)=488842日 488842/(489428/1340)×1340=1793450 1793450−1792470=980 980差が生じ、合致しません。 つまり、合致するための日数Xは、 X/(489428/1340)×1340=1792470 X=1792470/1340×(489428/1340)=488574.85 488575−488820=-245=-5—6-30-29-30-29-30-29-30-27 どうやら、最終的に天孫降臨からの年号を計算する際、計画変更があったようです。 当初、神武東征10月5日から天武即位2年2月27日 であったものが、 神武東征10月5日から壬申天武1年6月24日 吉野発までの期間に変更されたようです。 つまり、天武2年2月27日から天武1年6月24日の期間が差し引かれたものと考えられます。 −6月分(6日)−7月(30日)−8月(29日)−9月(30日)−10月(29日)−11月(30日) −12月(29日)−1月(30日)−2月分(27日)さらに、神武東征の−5日間です。 本来、基点は元々、天武2年1月末までですから、27日を差し引く必要はありません。 これは単に間違ったと考えるより、あえて天武2年2月27日即位に関連付けたとも思える数字変更です。その結果、 488820—6-30-29-30-29-30-29-30-5−27=488575 488575/(489428/1340)×1340=1792470.54 1792470年に余りが生じるのです。1792470余年とは端数を示す言葉だったのです。 神武東征BC667年と1792470年そして儀鳳暦総数1340の真の関係 儀鳳暦の一年を示す489428/1340日と今回の488575/1340は数字が酷似しています。 元々、この数字は (489428/1340)×(489428/1340)=365.2448×365.2448=133404 だったのかもしれません。 これだと、江口洌氏の365×365や、1338×1338の公式も一概に間違いとは言えません。ただ、当時の編纂者はもっと厳密に儀鳳暦を応用していたのです。 489428/(489428/1340)×1340=1340×1340=1795600 儀鳳暦AD664年に対し、上記1795600年前は、664−1795600=−1794936年=甲申年 その1800年後が、 −1794936年+1800年=−1793136年=甲申年=−666年−1792470年 BC667年神武東征年の1792470年前に瓊瓊杵尊が天孫降臨した数字と一致します。 儀鳳暦から導き出される正確に一致する天孫降臨年、単なる偶然とも思えません。 日本書紀の編纂者の一人、この暦博士は儀鳳暦を駆使して、日本の歴史を数字で表して見せたのです。 追記(2014/10/14) 大漢和辞典、巻七(大修館書店)にこう在ります。 「甲子」〜〔漢書、律歴志上〕歴数三統、天以甲子、地以甲辰、人以甲申。 まとめ 結局、私たちは神武即位辛酉年を信じ、1200年間、明治になるまで、辛酉年を恐れ、元号がその都度改元され続けられたのです。現在、建国記念日はこのBC660神武即位2月11日と決められました。 しかし、神武即位元年は基準年にはなりえないのです。日本の歴史学会は長い間、辛酉という讖緯思想に騙されていたことになります。 日本書紀の数字は日本書紀の思想を如実に語っていました。 これをどう正しく解釈するかは明らかです。 日本書紀は、神武天皇(始馭天下之天皇)、について東征を果たした開拓者として始祖王と評価していたと思います。ただ、神武天皇が国土統一は果たした天皇とは考えていません。10番目の崇神天皇(御肇國天皇)にも同等の大王名を与えています。ここに至って初めて関西の大和地区を統治したと、冷静な観察眼で、天皇を評価していると思います。 今まで見てきたように、神武天皇は現実の天武天皇を投影している存在です。天武天皇に至り、日本建国が完成したのです。これが日本書紀の一番言いたかったことだと思います。 参考文献 今井宇三郎校注「革命勘文」「日本思想大系8古代政治社会思想」岩波書店1979 那珂通世・三品彰英『増補上世年紀考』養徳社1948 小川清彦「日本書紀の暦日に就いて」1940『小川清彦作品集』皓星社1997 内田正男編「日本暦日原典第四版」雄山閣出版H4 新城新蔵「東洋天文学史研究」弘文堂書房1928 P459 飯島忠夫「日本上古史論」中文館書店1947 山田英雄「日本書紀」教育社歴史新書<日本史19>1979 有坂隆道「古代史を解く鍵」講談社学術文庫1999 森博達「日本書紀の謎を解く」中公新書1999 江口洌「日本書紀の聖数ライン」河出書房新社2007 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/1792470.html 能田忠亮「周髀算経の研究」東方文化学院京都研究所1933 清水達雄「九章算術」『数学セミナー』1976/2〜4月号 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |