天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
神武即位元年と讖緯思想 しんいしそう First update 2013/06/30
Last update 2013/06/30 神武天皇の即位元年は日本書紀によれば紀元前660年1月1日です。「辛酉年の春正月の庚辰の朔に天皇、橿原宮に帝位す」とあります。古代中国では秦始皇帝の前、春秋戦国時代の前、周の第17代恵王(BC676−BC652)のときです。この文章により、日本民族は古代中国に匹敵する古くから栄えてきた民族だとずっと信じられてきました。 日本書紀は西暦720年に完成されたものです。その後901昌泰4年に「革命勘文」が三善清行55歳により上奏されました。神武天皇の即位年は古代中国の易緯などにみえる讖緯説で説明できるとしたのです。神武天皇の即位年、紀元前660年は一蔀(1320年)ごとに訪れる革命の年とされる辛酉年に当たると唱えたのです。当時この論は相当に評価されたようで、年号が7月15日に「延喜」と改元されたほどです。そんな讖緯説に基づく辛酉革命とは何なのでしょう。 その後、明治に入り、那珂通世氏により再発掘されたこの「革命勘文」を学問的に明らかにすることで、夢のような古代紀元節は机上論であると確定的に否定されました。日本人の心の支えを断ち切ることにつながる大いなる英断とも言えるものです。 那珂通世氏の説を簡単にまとめると、 ○記紀に示されている歴代天皇の年齢や在位が長すぎること ○文飾が多く、数字に間違いと思える矛盾が多いこと ○「三国史記」等の朝鮮側記事と相照らすと、日本書紀の紀年は延長して干支のみを合わせたこと ○辛酉革命は三善清行の論以前から存在していたこと ○三善清行の21元、1320年は「恐らくは1260年の違算なるべし」 ○神功応神の時代は60年干支を利用し、朝鮮の歴史書との間に120年の差異があること ○国史と韓史と紀年を比較すると帝王代数などの違いは「韓史の誤りと見なすべき理なし」 ○欠史八代が試しに一世30年として計算すると、神武元年は中国古代漢の元帝の頃(BC43〜BC33)となる、こと等が論じられています。 こうして日本書紀は、辛酉601推古9年を基準にして、これより一蔀21元(1260年)前の辛酉年を神武即位元年と意図的に設定されたと考えました。 1蔀=干支1周60年×21元=1260年 本稿でも、讖緯思想の日本最古の記録といわれる三善清行の「革命勘文」に大きな興味を覚えました。 しかし、この意見書「勘文」は読んでみると、間違いや誤解、さらには思い込み、見当たらぬ古書引用と、乱用が多く見られることがわかりました。那珂通世氏でさえ、肝心の一蔀21元が1320年ではなく1260年の計算違いだと断じています。当時の三善清行自身も、最終的にこの書を「秘文」扱いにして、隠していたこともわかっています。 そもそも「讖緯」の意味は、「予言」ですから、「神武紀元の問題」と同意語にするのも変です。 最初このような論文をそこまで重要視して神棚に祭り上げる必要があるか疑問に思いましたが、あまりに有名なこの讖緯説をしっかり認識しておこうと調べ始めました。 【革命勘文の前半部】 群書類従 第貮拾六輯 雜部 より
古代史獺祭革命勘文原文より引用 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/kakumeikannbunn/gen.htm 内容大意 いろいろな解釈がありますが、重要な前半部分(上記)を訳します。 「易経の緯書は、辛酉を革命となし、甲子を革令となすという。 鄭玄は、天道は遠からず、三五にして反るという。 六甲を一元となり、四六・二六交相乗じ、七元にして三変あり。三七相乗じて、二十一元を一蔀となる。合せて千三百二十年なり。 春秋の緯書も、天道は遠からず、三五にして反る、という。 宋均の注には、三五は、王者改代の際会なり。能くこの際において、自から新たにすること初のごとくなれば、則ち無窮(無限、永遠)に通ずる。 詩経の緯書は、十周(36年/周×10周)して集まり、気は神明(神のような人)を生む。戊午運を革め、辛酉命を革め、甲子政を革むという。 (宋均の)注には、天道は三十六歳にして周る、とある。 十周を名づけて王命の大節(国家の大変事)という。一冬一夏し、凡そ三百六十歳にして一たび畢る。 三推(十周360年×3推)終れば、則ち始めに復り、更めて綱紀(国の法)を定める。必ず聖人あり、世を改め統理する(すべてを治める)者はかくのごとし。 十周を名づけて大剛という。則ちまた、三基(三推に同じ、十周360年×3基)にして会聚(多く集まり)し、すなわち神明(神のような明知の人)を生ずる。神明の聖人は世を改める者なり。 周の文王は、戊午の年に虞芮の訟え(注1)を決し、辛酉の年は青龍図を銜んで河に出で(故事不明)、甲子の年に赤雀丹書銜んだ(甲子の「年」ではなく「日」の逸話)。 こうして(周の)武王は(殷の)紂を伐つことができ、戊午の日に軍孟津を渡り(注2)、辛酉の日に泰誓(書経の中の章の名)を作り、甲子の日に、商郊(注2における殷郊外の牧野)に入る。」 注1:虞と芮が互いの訟えを周に仲裁をたのみ訪れたところ、互いに譲り合う周の人々を見て恥入ったという「史記」に載る故事。ただ戊午の年かどうかは書かれておらず三善清行の創作。 注2:周は殷を攻め、黄河を孟津から渡った、吉兆を得て勝つことができたという故事。 辛酉革命の意味 三善清行が言いたいことの一つは、神武天皇が即位したこの年は、辛酉革命と称する大きな変革の年に当たるということです。歴史の流れはいろいろな周期があり、特に一蔀ごとの年にはその幾種類の周期が重なる年で、大変革の年になるといいます。 「革命勘文」の信憑性 今では、この革命勘文の信憑性はありません。これは学者たちの長年の研究成果であり、中国の古代史書を詳細にわたり調べ、この意図する文章が見当たらないことが確かめられているからです。 まず、「易経の緯書は、辛酉を革命となし、甲子を革令となす」という本論の根本を示すこの言葉の引用句は古代中国史書から見つかっていません。 「詩経の緯書は、〜戊午運を革め、辛酉命を革め、甲子政を革むという」詩緯の引用も「すべて検覈しても勘文所引の一文を発見することができない」とあります。 「戊午年〜、辛酉年〜、甲子年〜」などの事例引用も史実であったとしても、年や日付には「何の資料的根拠もなく、清行の創作である」と、どこまでも手厳しいものです。「日本思想大系8」岩波書店 「蔀」の意味は「しとみ」日光・風雨などを遮る戸などといわれますが、暦法の名としては「76年を1蔀という。」事例として「従三統暦、七十六歳為一蔀」さらに「二十蔀為一紀」となります。(『大漢和辞典』大修館書店)三善清行の1蔀21元説は、蔀という字を用いていますが、これが21の倍数に結びつくものではないのです。 古代中国の文献を利用しながら、実は三善清行の作文になっています。よく、まだ見つからぬ世に出ていない文書があるはずだ、などと夢見ることも可能です。逆に単純に全否定することもできますが、これも問題です。かりにも、当時の文章博士が提出した論文です。 これは、残念ながら世界(古代中国)に通用する論文ではありません。ここでは「辛酉革命」とは日本国内だけに伝わる言葉だと解釈するしかありません。先人諸先輩から、伝え学んだ言葉、伝承を、三善清行が中国の故事と結びつけ、文章に重みを加えたものと思われます。 内容解釈の論点 まず革命勘文で二度ほど現れる「天道は遠からず、三五にして反る」の三五は「三正五行」のことで、「天地人」の正しい道と五行の「木火土金水」の元素の成相で、「道は無窮で、ただ永遠というのではなく、三・五の数値で繰り返される」という春秋緯の引用で、数字そのものの意味より、繰り返すことを言いたいようです。 解説の一説に、「天道卅六歳」=12年×3回=「十二支三運」=36年と考え、「三五而反」は三運(36年)×5周=180年を指すとする説もありますが、ここでは取りません。 次の一文に、あらゆる解説書が注目しています。 「六甲爲一元、四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗。廿一元爲一蔀、合千三百廿年。」 「6甲すなわち6回甲の年、60年を1元と称し、6甲が4回の四六の変(240年)と6甲が2回の二六の変(120年)が交互に一つの変として、7元(420年間)の間に3変ある(1260年)。3元(180年)が7度三五の変が到来するともいえ、21元を1蔀とし、合わせて、1320年目に(「変」が重なる)大きな時代の単位である。」と一般的に訳されています。 注:「甲の年」=十干=「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の単位10年 「六甲爲一元」 =10年/甲×6回=60年/元 また、十二支=「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の単位12年として 60年干支とは「甲子、乙丑、〜壬戌、癸亥」まで60年間の組み合わせを指すことです つまり、4つの変革「六甲爲一元」、「四六二六交相乗」、「七元有三變」、「三七相乗」が重なる、21元一蔀が大変革の年だというものです。 この考え方でいいのかもしれませんが、「四六二六交相乗」だけが21元になりません。解説書の多くが「四六・二六交相乗」を単独に扱っていますが、これでは、3変が1080年となり、大きな差が生じてしまいます。 4回×(6甲×10年)+2回×(6甲×10年) =240年+120年=360年 さらに、4変なら1440年となり、1260年(那珂説)や1320年(三善説)になりません。 そこで、本稿では「六甲爲一元、四六、二六、交相乗」を一文として考え、(一元+四元+二元=7元)は「七元有三變」となり「三七相乗」ともいえると考えてみました。 六甲爲一元四六二六交相乗=(60×1元+60×4元+60×2元)×3変=1260年 言い換えれば、七元有三變 =(60×7元)×3変=420年×3変=1260年 あるいは、三七相乗 =(60×3元)×7変=180年×7変=1260年 廿一元爲一蔀 =(60×21元) =1260年 1280年ごとに変革の年が重なる。 いずれにしろ、どのように考えても、古来日本に伝わる本来の姿21蔀とは、1260年を指す言葉なのです。 【図1 1260年の間に起こる変の数】 0
240
420
660
840
1080
1260年 ←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→
@ A B C D E F G H I J K三L M N O P Q R S 21 四 二 一 四 二 一 四 二 一 四 六 六 六 六 六 六 六 六 六 六 変←― 240――→変
120→変→変←――240 ―→変 120→変→変←――240 ―→変 120→変→変 七 七 七 七 三 三 三 三 変←――――420――――→変←――――420――――→変←――――420――――→変 三 三 三 三 三 三 三 三 七 七 七 七 七 七 七 七 変←180→変←180→変←180→変←180→変←180→変←180→変←180→変 では、なぜ三善清行は1260年を1320年と間違えたのでしょう。 1320年の考え方 この後、三善清行は、いろいろな変革例を示しながら、360年を例に、いわゆる「四六二六交相乗」だけに集約して語り始めています。 「詩経の緯書は、十周(36年/周×10周)して参聚し」 「(宋均の)注には、天道は三十六歳にして周る」 「一冬一夏し、凡そ三百六十歳にして一たび畢り、余節あるなし」 「三推(十周360年×3推)終れば則ち始めに復り、更めて綱紀を定める」 「則ちまた、三基(十周360年×3基)にして会聚し、すなわち神明を生ずる」 など、さらに、革命勘文は続いており、ここでは省略しましたが、360年(240年+120年)の組み合わせ例が続いています。ですから、 三善清行の「廿一元爲一蔀 合千三百廿年」とは、 「四六二六交」とは60×4と60×2が交互にやってくると考えていたのではないでしょうか。 四六240年、二六120年と2つの変が交互に配置されています。 240+120+240+120+240+120+240=1320年 =(360×3)+240=1320年 つまり、360年の3変に次の変の240年の変が始まるとすれば、1320年説は解決します。 その後、革命勘文によれば、四六、二六の年ごとの事象を詳細に検討しています。 【図2 三善清行の正統な形】 ←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←―
@ A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S 21 22 四 二 四 二 四 二 四 一 六 六 六 六 六 六 六 蔀 変←― 240――→変
120→変←― 240――→変 120→変←― 240――→変
120→変←― 240――→変 【図3 三善清行が挙げた事例】 神武1 孝昭56孝安93 孝元35 崇神38 景行51 応神32 允恭10 推古9斉明7 BC660
BC420BC360 BC180 BC60
AD121
AD301 AD421 AD601 661 0
240 300
480
600
780
960 1080
1260 1320 ←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→
@ A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S 21 22 四 二 四 二 四 二 四 四 六 六 六 六 六 六 六 六 変←― 240――→変―変←―180 →変 120→変←―180 →変←― 180→変 120→変←― 240――→変 このように、本来の形から、事例では3箇所が大きく計算違いをしています。しかも、さらに細々と間違いが続きます。 四六 BC660神武元年辛酉 二六 BC420孝昭天皇五十六年辛酉 差240年 四六 BC
二六
AD421允恭天皇 これは二六の事例のはずですが、書き漏れたものか、二六とも四六とも記されていません。 AD601推古天皇九年辛酉 推古天皇十二年甲子春正月始賜冠位〜夏四月皇太子肇制憲法十七條云云 一蔀 AD661斉明天皇七年辛酉秋七月崩 天智天皇即位。 四六 AD901今年辛酉【昌泰四年也】 こうしてみると、三善清行の「革命勘文」は計算上の間違いも多いようです。ただ、那珂通世がいうように、1蔀を21元とするところ、22元で計算し間違えたとは単純には決めつけられないように思えます。四六二六交相乗の計算結果から、1320年が21元1蔀と一致すると操作していたようです。 後の事例でも、BC660神武元年から1260年後の推古9年を例に挙げ、はっきり意識しながら、1320年について説明を進めているからです。 「推古天皇九年辛酉春二月、上(聖)徳太子初めて宮を斑鳩村に造り、事大小となく皆太子に決せり。この年新羅を伐ち、任那を救うのことあり。 十二年甲子春正月、始めて冠位賜い各差あり。徳・仁・義・礼・智・信あり。大小合わせて十二階なり。夏四月、皇太子肇めて憲法十七条を制す云々。然らば則ち本朝の冠位・法令を制するは、推古天皇の甲子の年に始まる。あに甲子革令の験にあらずや。」 さらに、続けて、 「(以上の)一蔀は、神倭磐余彦(神武)天皇即位の辛酉の年より、天豊財重日足姫(斉明)天皇六年の庚申の年に至るまで、合して千三百廿年にして已み畢る(止め終わる)。」 現在説、22元目を一蔀に含むという考え方 三善清行の1320年説を「日本思想大系8」岩波書店の補注では、次のように解説しています。 「一元というのは辛酉から次の辛酉までである。次文の四六・二六を説く挙例を見ても、すべて辛酉から辛酉までであるからである。従って二十一元は第一元目の辛酉から第二十二元目の辛酉までである。そこで第二十二元目の辛酉から庚申(第二十三元辛酉の前年)までを加えて、二十一元の実年数とし一三二0年という年数を導いたものであろう。」 つまり、一元は一年目の辛酉から庚申までの60年間だが、三善清行の辛酉から辛酉とは1年目の辛酉から60年目の辛酉を超え、次60年目辛酉の前年までを指すというものです。一蔀とは一年目の辛酉から1260年に60を足した1320年辛酉の前年までを言うということになります。 【図4 三善清行1320年の構造】 神武01 推古9斉明7 BC660
AD601
661 0 60 120 240 300
480
600
780
960 1080
1260 1320年 ←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←― @ A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S 21 22
元 数学的には無理筋ですが、この後の文章を見ると、三善清行自身そう考えていたようにも見えます。もしそうなら、彼は、一蔀を1260年と知りつつ、強引に1320年の区切りを定めていたことになってしまいます。 「一蔀の首 〜中略〜天豊財重日足姫(斉明)天皇、七年辛酉七月崩じ、天智天皇即位す。三年甲子春二月、詔して冠位の階を換え、更に廿六階となす。〜」 日本書紀は661斉明7年斉明崩御により、天智天皇が称政します。翌年を662天智1年と数え、668天智7年で正式に即位したことになっています。「七年辛酉七月崩じ、天智天皇即位す」の意味は理解できますが、今までの三善清行の文章の性格から、一蔀のはじめの年、辛酉年を天智天皇の即位年にしたかったようです。ここにも作為が感じられるのです。 「四六 今年辛酉(901昌泰4年) 謹みて案ずるに、天智天皇辛酉の年より、昨年庚申に至るまで、合して二百四十年なり。これ所謂四六相乗ずるの数、已み畢る(止め終わる)。今年辛酉は大変革命の年に当たるなり。また天智天皇以来二百四十年のうち、小変の六甲、凡そ三度なり。〜」 この論文が提出された、901昌泰4年が辛酉の年で「大変革命」の年であると最大限に強調されています。さらに「大変」「小変」という、造語を新たに生み出してしまいます。きりがありません。 【図5 第2蔀の検証】 斉明7 昌泰4 永保1 弘長1
文亀1
寛保1
昭和56 661
901 1021
1081
1261
1501
1741 1921
1981 0 60 120 240 360 420
600
840
1080 1260
1320 ←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←→←― @ A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S 21 22
元 大 小 小 小 大 七 七 七 変 変 変 変 変 三 三 三 ←――――420――――→変←――――420――――→変←――――420――――→変 四 二 一 四 二 一 四 二 一 四 六 六 六 六 六 六 六 六 六 六 変←― 240――→変
120→変→変←――240 ―→変 120→変→変←――240 ―→変
120→変→変 大変は661斉明7年と901昌泰4年を例に挙げ、小変として721養老5年、781天応元年、841承和8年が挙げられています。420年の間七元に3変(大変)があるはずですから、たぶん、本稿の予測図(図1)を用いれば、360年目、1021治安元年の年ということになります。実際、この年、辛酉革命の為、改元したとした記録があります。(図5下段) しかも、2蔀目の初め1320年は二六の変になるのではなく、再度四六の変がはじまり、自分の年AD901昌泰4年も、AD661〜AD901昌泰4年までもう一度、四六変240年目に当たり革命の年と位置づけたのです。強引といえる、奇妙な自由さがあります。 三善清行の二つの目的 三善清行にすれば、関係のない辛酉661推古9年の記事と3年後の甲子604推古12年の記事を見逃さなかったことは注目されます。21蔀1260年を知っていたのです。 彼の目的の一つは推古天皇時の案件を、自分たちの皇祖である天智の案件にすり替え、21蔀を1320年としたかったと思われることです。三善清行の時代は血筋が天武天皇ではなく天智天皇の血筋に変わり紀元を考える風潮があったとも言われます。 二つ目は、革命勘文を発表した年が240年目の大変革の年に当たると、注目を集める表題にしたかったのでしょう。単なる辛酉年を大変革命の年と自ら名付け、強調したのです。 三善清行の辛酉革命から見えてくる正しい伝承 このように、三善清行は、自分の都合のいいように、辛酉901昌泰9年を特別の年としたのですが、本来、彼が聞いていた日本古来の伝承とは何だったのでしょう。 その一つは、那珂通世氏が見抜いたように、BC660神武元年は推古朝に基づくということでした。 本来、日本古来の伝承は、基準年が推古天皇の時に当たるとされていたことになります。計算の基準は天智元年ではなく、それより60年前の辛酉601推古9年であると解したことです。 日本創成原案が示されたのは、記紀編纂者たちがはじめではなく、聖徳太子とそのブレーンであったと推測できることです。日本書紀執筆陣も、聖徳太子が中心とした、上古の記述を尊重し、その記述を忠実に残していたことになります。もう少し、憶測を重ねれば、蘇我蝦夷が、焼き捨てたとされる、上古の記録が、存外残っていたのではないかという疑惑です。 もう一つは辛酉年にこだわらないということです。 三善清行の辛酉革命は、辛酉だけでなく、戊午、甲子も変革の要素と位置づけ、以下の検証でも事例を挙げています。 「辛酉を革命となし、甲子を革令となす」 「戊午運を革め、辛酉命を革め、甲子政を革むという」 この二例から甲子年も重要視していたということです。 例えば、甲子の年604推古12年は、重要な官位制定と憲法が発布された年です。 革命勘文が与えた後世への影響 以下に、現在までの辛酉、甲子年を一覧してみます。 辛酉BC660神武 1年1月1日 神武、橿原宮において即位(革命勘文事例にあり) 甲子BC657神武 4年2月23日 蓁原の地で天神を祀る(革命勘文事例にあり、中国周の事例) 辛酉BC600神武61年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC597神武64年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC540安寧 9年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC537安寧12年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC480懿徳31年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC477懿徳34年 懿徳天皇崩御 辛酉BC420孝昭56年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり) 甲子BC417孝昭59年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国周の事例) 辛酉BC360孝安33年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国秦の事例) 甲子BC357孝安36年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国斉の事例) 辛酉BC300孝安93年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC297孝安96年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC240孝霊51年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC237孝霊54年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC180孝元35年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国漢の事例) 甲子BC177孝元38年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC120開化38年 ――日本書紀に記述なし 甲子BC117開化41年 ――日本書紀に記述なし 辛酉BC 60崇神38年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国漢の事例) 甲子BC 57崇神41年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、中国漢の事例) 辛酉AD 1垂仁30年 垂仁の2皇子への王位継承対応 甲子AD 4垂仁33年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD 61垂仁90年 田道間守を常世国(神々の国)に遣わす 甲子AD 64垂仁93年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD121景行51年 前年、日本武尊薨去、成務を皇太子(革命勘文事例にあり、後漢の事例) 甲子AD124景行54年 景行天皇、伊勢より帰国(革命勘文事例にあり) 辛酉AD181成務51年 ――日本書紀に記述なし 甲子AD184成務54年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD241神功41年 ――日本書紀に記述なし 甲子AD244神功44年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD301応神32年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、前涼の事例) 甲子AD304応神35年 ――日本書紀に記述なし(革命勘文事例にあり、前趙の事例) 辛酉AD361仁徳49年 ――日本書紀に記述なし 甲子AD364仁徳52年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD421允恭10年 茅渟に通う天皇を皇后が諫める 甲子AD424允恭13年 ――日本書紀に記述なし 辛酉AD481清寧 2年 白髪部を諸国におく 甲子AD484清寧 5年 清寧天皇崩御 辛酉AD541欽明 2年 天皇、五人の妃を迎える 甲子AD544欽明 5年 不穏な朝鮮半島情勢と任那復興計画 辛酉AD601推古 9年 聖徳太子、斑鳩に宮を建てる(革命勘文事例にあり) 甲子AD604推古12年 17条憲法発布(革命勘文事例にあり) 辛酉AD661斉明 7年 斉明天皇崩御(革命勘文事例にあり) 甲子AD664天智称政3年 冠位二十六階を制定(革命勘文事例にあり) 庚申AD720養老 4年 5月21日、日本書紀完成 辛酉AD721養老 5年 12月7日、元明上皇崩。(革命勘文事例にあり) 甲子AD724神亀 1年 1月1日、聖武天皇即位元年 (革命勘文事例にあり) 辛酉AD781天応 1年 1月1日改元 光仁天皇、同12月23日崩御。翌年1月16日延暦と改元 甲子AD784延暦 3年 11月、平城京より長岡京へ遷都 辛酉AD841承和 8年 ――特記事項はない(革命勘文事例には前後の年に淳和崩、嵯峨崩) 甲子AD844承和11年 ――改元等の特記事項なし 辛酉AD901延喜 1年 昌泰4年2月22日三善清行「革命勘文」を献上。7月15日に改元 甲子AD904延喜 4年 ――改元等の特記事項なし 辛酉AD961応和 1年 天徳5年2月16日辛酉革命により改元 甲子AD964康保 1年 応和4年7月10日甲子革令により改元 辛酉AD1021治安1年 寛仁5年2月 2日辛酉革命により改元 甲子AD1024万寿1年 治安4年7月13日甲子革令により改元 辛酉AD1081永保1年 承暦5年2月10日辛酉革命により改元 甲子AD1084応徳1年 永保4年2月 7日甲子革令により改元 辛酉AD1141永治1年 保延7年7月10日辛酉革命により改元 甲子AD1144天養1年 康治3年2月23日甲子革令により改元 辛酉AD1201建仁1年 正治3年2月13日辛酉革命により改元 甲子AD1204元久1年 建仁4年2月20日甲子革令により改元 辛酉AD1261弘長1年 文応2年2月20日辛酉革命により改元 甲子AD1264文永1年 弘長4年2月28日甲子革令により改元 辛酉AD1321元亨1年 元応3年2月23日辛酉革命により改元 甲子AD1324正中1年 元亨4年12月9日甲子革令により改元 辛酉AD1381弘和1年 天授7年2月10日辛酉革命により改元(南朝) 辛酉AD1381永徳1年 康暦3年2月24日辛酉革命により改元(北朝) 甲子AD1384元中1年 弘和4年4月28日甲子革令により改元(南朝) 甲子AD1384至徳1年 永徳4年2月27日甲子革令により改元(北朝) 辛酉AD1441嘉吉1年 永享13年2月17日辛酉革命により改元 甲子AD1444文安1年 嘉吉4年2月 5日甲子革令により改元 辛酉AD1501文亀1年 明応10年2月29日辛酉革命により改元 甲子AD1504永正1年 文亀4年2月30日甲子革令により改元 辛酉AD1561永禄4年 ――改元等の特記事項なし(8月〜9月 第4次川中島の戦い) 甲子AD1564永禄7年 ――改元等の特記事項なし 辛酉AD1621元和7年 ――改元等の特記事項なし 甲子AD1624寛永1年 元和10年2月30日甲子革令により改元 辛酉AD1681天和1年 延宝9年9月29日辛酉革命により改元 甲子AD1684貞享1年 天和4年2月21日甲子革令により改元 辛酉AD1741寛保1年 元文6年2月27日辛酉革命により改元 甲子AD1744延享1年 寛保4年2月21日甲子革令により改元 辛酉AD1801享和1年 寛政13年2月5日辛酉革命により改元 甲子AD1804文化1年 享和4年2月11日甲子革令により改元 辛酉AD1861文久1年 万延2年2月19日辛酉革命により改元 甲子AD1864元治1年 文久4年2月20日甲子革令により改元 辛酉AD1921大正10年 ――改元等の特記事項なし 甲子AD1924大正14年 ――改元等の特記事項なし 辛酉AD1981昭和56年 ――改元等の特記事項なし 甲子AD1984昭和60年 ――改元等の特記事項なし こうしてみると、三善清行の「革命勘文」のその後の影響力は長く大きかったことがわかります。しかし、実際には論文の影響は、単に60年に一度現れる辛酉年と甲子年への対応だけでした。 1.神武天皇即位以降、大変革命を示す、日本書紀の記述はない。 2.むしろ、古代中国の歴史では、甲子年に多くの皇帝らの即位記事が存在する。 3.紀元1年が辛酉年に当たる。 4.1260年目の辛酉推古9年や甲子推古12年は、基準年として相応しい。 5.1320年目の辛酉斉明7年より、むしろ甲子天智3年のほうが、意識していたかも知れない。 6.さらに60年後も辛酉年より甲子年の神亀1年1月1日聖武天皇即位は明らかに意識している。 7.こうして辛酉AD901昌泰4年2月22日に「革命勘文」が発表された。 8.これ以降、60年ごとの辛酉、甲子年に改元が必ず実行されていたことに驚かされる。 讖緯思想といわれる、三善清行の「革命勘文」は日本国内だけに通用する考え方です。甲子年の考え方を除き、中国古典書に辛酉革命のような考え方は皆無です。その上で、三善清行が信じていたと思われる伝承の根源を見つめ直す必要があると思います。 参考文献 那珂通世・三品彰英『増補上世年紀考』養徳社1948 那珂通世「上世年紀考」明治文学全集78 筑摩書房1976 今井宇三郎校注「革命勘文」「日本思想大系8 古代政治社会思想」岩波書店1979 西野凡夫「新説日本古代史」文芸社1999 田中卓「所功氏著『三善清行』を読みて『革命勘文』に及ぶ」皇学館論叢4-5 S46-10 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |