天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
干支と太歳 かんし と たいさい First update
2014/05/31 Last update 2014/05/31 中国で生まれた干支の歴史は古く「陰陽五行」と密接につながっています。この説明するには大漢和辞典(大修館書店)がわかりやすく、大きな力となりました。本稿の目的はあくまで暦法の調査です。暦法の関わりに限定して説明を試みます。 十干とは 陰陽家の語。木・火・土・金・水の五行(本稿注:5種の元素から展開された5つの星)を、各々兄弟(陽陰・えと)に分け配したもの。十幹。十日。 甲(きのえ 木兄)乙(きのと 木弟) 丙(ひのえ 火兄)丁(ひのと 火弟) 戊(つちのえ 兄土)己(つちのと 弟土) 庚(かのえ 金兄)辛(かのと 金弟) 壬(みづのえ 水兄)癸(みづのと 水弟) 十干に十二支を配して、歳時人事の変化運用に当てる。干は幹、支は枝。十母十二子。 十二支とは 陰陽家の語。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の称。 十干と相配して、歳時・人事の変化運用に当てる。 干支とは えと。兄弟の義。十干十二支(じっかんじゅうにし)の略称。 この十干十二支を順次に配合して、六十回を以て一周とする。 干支は木の幹枝の義。 天皇氏(本稿注:中国道教の天皇大帝、北極星を指す天神)の創めたもので、(上古)黄帝の時、大撓氏が始めて天干を地支に配して甲子を作ったと伝える。 以上、大漢和辞典(大修館書店)より一部抜粋。 十干は10種、十二支は12種があり、理論上の組み合わせは120通りですが、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」が「甲子」、「乙丑」・・・と、それぞれ順番に割り振り続けると60番目「癸亥」で終わり、次は元の「甲子」に戻ります。たとえば「甲丑」などにはなりません。いわゆる最小公倍数だからです。 干支表 00甲子01乙丑02丙寅03丁卯04戊辰05己巳06庚午07辛未08壬申09癸酉 10甲戌11乙亥12丙子13丁丑14戊寅15己卯16庚辰17辛巳18壬午19癸未 20甲申21乙酉22丙戌23丁亥24戊子25己丑26庚寅27辛卯28壬辰29癸巳 30甲午31乙未32丙申33丁酉34戊戌35己亥36庚子37辛丑38壬寅39癸卯 40甲辰41乙巳42丙午43丁未44戊申45己酉46庚戌47辛亥48壬子49癸丑 50甲寅51乙卯52丙辰53丁巳54戊午55己未56庚申57辛酉58壬戌59癸亥 これが、年、月、日、時間、方位など、あらゆる事象にこの干支が春秋戦国時代に積極的に使われていたのです。BC300年ぐらいです。一般には、もっと古くからと言われています。 紀年法 紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では「支配者年号に基づく紀年法」とともに、干支を用いた60年周期の「干支紀年法」が併用されてきました。その起源は木星の観測と深い関わりがあるようです。それが「歳星紀年法」です。 歳星(木星)紀年法 木星は地球と同じ太陽を廻る惑星ですから、見かけ上、北極星を中心に同心円に廻る他の星とは違い、星座の間を縫って12年かけ天球上を一周して元の位置にもどる星として信仰の対象となってきました。歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法です。 StellaNavigatorより図面引用 上記はある一ヶ月の木星の軌跡です。見かけの動きは複雑で全天をジグザグに行きつ戻りつしながら、まるで順に12年掛けて見回るようにした後、元に戻ります。天空に十二支を配置していましたから、天球を天の赤道帯に沿って西から東に正確に12等分した12の区画にわけ、これを12次とし、1年に一次進みます。こうして木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼ばれ、十二次(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)における木星の位置で年を記しました。 太歳紀年法 太歳とは、本来木星の運行とは鏡のように真逆にある天球を仮想的に想定したものです。 木星は天球上を十二次に沿って西から東に進みますが、当時の人たちが使っていた天球は天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支に対しては、木星運行の方向と順序が逆でした。 そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星をもうけ、十二辰における位置で年を記すようにしたのです。 十二辰は十二支の古称です。「辰」は「とき」を表し、太歳を表現する占星術的意義を備えたものです。「支」は「やどり」で日月惑星の所在を示す天文学的なものです。よって、「辰」と「支」は太歳と木星として逆行します。 その年を「歳」、太歳はここからから導き出された名称です。太陰、歳陰、青龍、天一、などとも呼ばれ、「諸天神の中で最も貴いもの」とされていました。昔から占星術に使用されるもので、揺れ動く太歳の所在は吉凶禍福の標示となったのです。 二十八宿 ついでに、「二十八宿」は月の運行から導きだされたものです。28個の星座を取ったものが二十八宿です。東西南北4方に分けられた7星座を合わせて、その形から、それぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武と呼び習わされました。なお、「二十八宿」は「十二支」のように均等ではありません。 厳密には動かない星と地球を回る月との関係、恒星月=27.321662日(月の真の公転日)ですが、これは、新月から新月までの朔望月=29.530589日とは違います。朔望月は、月が地球を1周しても、地球が太陽の周りを1/12ほど動いてしまいますから、月が地球の蔭に入るにはさらに2.2日ほど多くかかるのです。別項で細説しますが、この二つは計算でも求められる関係にあります。月の満ち欠けと星々と月との関係は正確な実測で求め、違うものと識別していたと思われます。 太歳と干支 中国の戦国時代初めBC366年、周の顕王3年には、たとえば太歳が寅の位置に存在する年は木星が丑の位置に存在する年のことですが、「太歳在寅」と記録する代わりに、太歳が「寅年」と「年」の名称を設けて使用することが行われていたのです。 ただし、木星の公転周期は正確には11.86年であるため、12年で一周すると仮想された太歳とは約85年にごとに一次(一辰)ずれることになり、干支の修正をする必要があります。これを「超辰」と呼びます。 木星の公転周期が太歳と一年ずれる年数=1÷(1/11.86-1/12)=1016.571年 木星の公転周期が天空上で一次ずれる年数=1016.571×1/12 ≒ 85年 この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(BC246年)には木星が亥にあり、これを「太歳」が寅にある年とする新しい基準「太歳」を設け、昔からの12支を「太陰」として区別しました。 木星=丑子亥戌酉申未午巳辰卯寅 太陰=寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑 (上古においては十二支の第一は寅であった) 太歳=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥 (寅が立春の日を指し、子は冬至の日となる) さらに前漢時代、BC104太初元年の改暦(太初暦)、BC95太始2年三統暦の補正と、いわゆる超辰を次々行い、干支の入替が新しい暦が変更されるごとに行われました。 これに理論上、終止符を打たせたのが後漢時代の四分暦(AD85年)です。木星と歳星を切り離して考えられることになり、実際の木星周期とは違い、仮想の太歳は12年ちょうどに1周するとされたのです。ここから、60年干支は現在に至るまで修正変更されることなく忠実に繰り返されたのです。 暦元と干支 最初に引用した漢和辞典の様に、十干と十二支は対になった考え方です。木星の12年周期が採り入れられる中で、干支として十干を加え、精度が加えられていきました。 各暦の初年、暦元も、上古の黄帝暦は甲寅歳(年)甲寅朔旦立春から、始皇帝では甲寅歳甲子朔旦冬至(他説あり)、四分暦では庚辰歳甲子朔旦冬至になりますが、麟徳暦(儀鳳暦)ぐらい以降には、すべて、甲子歳甲子朔旦冬至に統一されました。 日本書紀にもこれを尊重してなのか、初代神武東征年甲寅年を中国上古の黄帝暦の基準年、甲寅年としてあわせ、第2代綏靖天皇即位元年を元嘉暦の暦元と同じ庚辰年としています。 三善清行の「革命勘文」により有名になった讖緯思想、神武即位辛酉年は、中国暦法の世界では大して重要視されていないことになります。 日本書紀の太歳表記 このような太歳を紀年とした使用例は世界中で日本書紀だけです。古書、史書各種、さらには中国でさえ用いられていません。古事記は崩年干支を重視したようですが、日本書紀は太歳表記を特別扱いすることで、即位年干支を重視していたことがわかります。太歳は木星の仮想的存在だったものが、「諸天神の中で最も貴いもの」として、権威として利用されました。 いくつかの無視出来ない例外もありますが、おおよそ代替わり天皇即位初年を太歳干支で表記しています。 【日本書紀の太歳事例】
注)日本書紀では弘文天皇を天皇と認めていません。太歳表記がないのは当然です。 黄色は「太歳」を示し、橙色は「大歳」やここでは略すが、その他注意点をあらわす。 別に崩年干支や年齢を示し、古事記と比較してみた。 書紀太歳の例外 1.第1代神武紀 東征開始年を「太歳甲寅」と記しています。神武即位元年に「太歳」表記はありません。日本書紀自体も「辛酉」を特別に扱ってはいないのです。 2.第40代天武紀 天武元年は「壬申」で、天武2年2月27日に即位、この年を「太歳癸酉」と書かれています。信友によれば、当初、大友天皇元年に太歳壬申、天武天皇元年に太歳癸酉とあったが改変して大友天皇を削り、天武元年としたためという。岩波版は考えすぎとしており、賛成です。 3.第13代成務元年は「太歳」表記がありません。理由は不明ですが、記事がほとんどない天皇です。 4.第2代綏靖記 元年の他、即位前年に「于時也、太歳己卯」とあります。神武崩御後、3年の空位のために発語として「太歳」を用いたかと岩波注にありますが、なぜ即位前年が太歳なのか不明です。 5.神功紀 201摂政元年「太歳辛巳」、さらに摂政69年皇后崩御時「太歳己丑」。さらに、「三十九年。是年大歳己未」、とわざわざ断りを入れ、魏志倭人伝の卑弥呼の記事を引用しています。 以上「太歳」39例。しかし、この神功39年の記事以下5例は「太歳」ではなく、「大歳」とあります。「岩波版新装版日本書紀」はすべて、「太歳」に統一(意改)しています。しかし、ここは原文通り「太歳」「大歳」を別に表記に戻すべきです。確かに漢和辞典でも、「大歳」は「太歳」と同じとしていますが、ことが日本書紀です。意識して書き分けたと考えた方がいいと思います。 1.神功39年に「三十九年。是年大歳己未」とあり、魏志倭人伝の引用記事を載せています。 2.仲哀元年「大歳壬申」 仲哀天皇は日本武尊の子で、直系ではありません。 3.仁賢元年「大歳戊辰」 古事記は顕宗、仁賢兄弟の在位を合わせて顕宗天皇在位は8年とし、仁賢在位は示していません。 4.継体25年 百済本記の引用文に「大歳辛亥三月」の崩御記事を載せています。この百済本紀の例により、日本書紀全体に「太歳」表記が採用されたように言われていますが、百済本記は「太歳」ではなく「大歳」ですから、もしそうなら。日本書紀全体も「大歳」となったはずです。そうはならず、「太歳」ですから、陰陽五行、天文遁甲本来の古代中国の考え方を採り入れたと考えるべきでしょう。もしくは、重要な引用記事は神功39年と同じく「大歳」とあえて変えて表現したのか。 5.持統1年を「大歳丁亥」と記しています。持統即位は4年1月1日ですが、改めて「太歳」と記していません。夫の天武に対し、対等になることを控えたように見えます。 このように、日本書紀では「太歳」と「大歳」には意味に違いがあると思います。 参考文献 山田英雄「即位前紀と大歳記事」『日本書紀』教育社歴史新書<日本史>19、教育社1979年 有坂隆道「古代の歴史」『図解検証現像日本C』旺文社1988 飯島忠夫「天文暦法と陰陽五行説」『飯島忠夫著作集4』第一書房S55 大漢和辞典 大修館書店1990 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |