天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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古代日本の暦法 れきほう

First update 2014/05/08 Last update 2014/05/08

 

日本書紀の暦法

コンピュータ解析により、日本書紀は神武紀から允恭、安康紀までは、編纂当時、唐で使用されていた新しい()(ほう)(れき)で書かれ、雄略紀以降から末尾の持統紀までは、逆に古い(げん)()(れき)が用いられていたことがわかっています。

つまり概略的に、日本書紀という史書は40年という世代の違う二種類の大きなグループが関与して作成された、と推測できるのです。

暦学は高度な学問です。元嘉暦と儀鳳暦を同時に使い分けるのは容易ではありません。日本書紀が編集された720養老4年当時は儀鳳暦が使われていたのですから、彼らが神武天皇から允恭、安康までの暦を定め、さらに雄略から最後尾の持統までを、天武10年に天皇自らが組織した10名のもの達によって古い元嘉歴を用い、定められていたという可能性が考えられます。

この辺の事情をもう少し詳細に調べました。

 

【元嘉暦と儀鳳暦が使用された時系列での全体像】

 

西暦

 

44 4〜5555555 6 6666  666666666  77 77 

44〜5〜0000111〜0〜6666〜〜999999999〜〜22〜66〜

45 7〜6789012 4 2345  012345678  89 34 

中国暦法

日本暦法

←〜―〜元嘉暦→←**〜―〜戊寅→←〜〜――――儀鳳暦――〜〜→←〜大衍〜

   ?―――――元嘉暦〜―〜――――〜〜→←―――儀鳳暦―〜〜――〜→大衍

 

和暦

 

 允 雄    継    推〜   天  持 持    文       宝 

 恭〜略〜   体   〜古〜   智〜〜統 統    武 〜〜  〜 字〜

 34 01    03    12〜   04 10 04 06    01  04     08

正史

――――〜―――日本書紀〜―〜――――〜―〜――――――→←―〜―〜続日本紀―〜

注:天武10年は史書の編纂開始、養老4年は日本書紀完成

 

古代中国の暦法

古代中国で使用された暦法は、年代により異なり、さらに国ごとに暦が異なります。漢では殷暦→太初暦→三統暦が使われ、後漢になると四分暦→乾象暦、三国時代(魏は景初暦)、晋は泰始暦(内容は景初暦と同じ)、南宋は永初暦(内容は泰始暦)→元嘉暦、斉も元嘉暦、梁は元嘉暦→大明暦、陳は大明暦、隋では開皇暦→大業暦、唐では戊寅元暦→麟徳(儀鳳)暦→大衍暦→五紀暦→宣明暦と続き連なります。このように、古代中国の暦法は多岐にわたりますが、世界でも屈指の暦法の歴史と正確さを誇る文明を持っていたといえます。

その中で日本書紀が使用した、元嘉暦と儀鳳暦をさらに追求します。

 

(げん)()(れき)と日本書紀

南朝は、宋(420-479年)、斉(479-502年)、梁(502-557年)、陳(557年-589年)と続いた王朝です。

「元嘉」とは宋の文帝劉義隆の元号(424年〜453年)のことです。元嘉年間の頃の始まった元嘉暦は445元嘉22年から509天監8年までの65年間、この宋と斉と梁の始めまで使われました。

次ぎは大明暦で、梁の510天監9年から陳の末年589禎明3年までの80年間です。

 

【元嘉暦の始まり】

 

西暦

444444 4 4444444444444444 444 5555555555

222222〜3〜4444444555555555〜777〜0000000001

012345 8 3456789012345678 789 1234567890

中国

使用暦

←―――――〜―〜―――宋――――――――――――〜―-→←斉→←-――梁――――

――景初暦―〜―〜―→←――――――――元嘉暦――〜―――〜――――――――→

 

和暦と倭王

允  允   允       安  雄   倭雄      継 継 

恭  恭  恭       康  略 〜 王略〜     体 体 

9  12    34       1  1   23      01 03 

 

日本書紀の元嘉暦はいつから書き始められたのか。

ここで、注意しなければならないことは、日本書紀での元嘉暦使用=現実の日本での元嘉暦使用ではありません。史料の一つとしての日本書紀が、どこから元嘉暦が使われているかということ、さらに言い換えれば、書紀の編纂者たちがどの天皇から元嘉暦を採用し、書き改めたのかということです。

 

有坂隆道氏の説明によると、日本書紀で表現された暦、厳密には仁徳87年10月から安康3年8月までの57年間に示された月朔干支(年月日)は儀鳳暦でも元嘉暦でも同じ日付になるため区別ができません。元嘉暦と儀鳳暦使用を最初に見つけた東京天文台の小川清彦氏は、一つの推論として安康3年から元嘉暦が使われたとしました。この説が現在も生きています。

しかし、日本書紀という本は安康までと雄略紀ではっきり章が別れています。執筆者も異なると言われており、暦法の考え方もここから変わったと考えるのが自然です。本稿もこの雄略1年からの説に従います。

 

次は、現実の世界についてです。

和暦では允恭―安康―雄略の時代ですが、中国南朝宋に入朝した俗に倭の五王と呼ばれる時代と一致します。中国史書には、425年に倭王讃が入朝、438倭国王珍が、443年には倭国王済、451倭王世子興、478年には倭国王武、さらに、479年に斉と503年に梁にも倭王武が登場しています。

倭の五王の時代、日本が中国の冊封体制に加わるとき、中国は倭に対し暦法も伝授したとする意見があります。実は当時の日本書紀編纂者達も同じように考えていたのではないでしょうか。

同じ暦法を使えるのは冊封関係国だけです。中国南宋が元嘉暦を使い始めたのは445年以降ですから、宋を訪れた倭王興か武の遣使が、451年、478年の頃に日本に持ち帰ったと考えることができます。南宗の冊封体制に入った倭(日本)が、元嘉暦を持ち帰った相応しい年代ということになります。

 

しかし、日本書紀に書かれたどの天皇が倭王興や武であるかは、諸説あり一定していません。

倭王武だけは雄略天皇とする説が有力ですが、斉書や梁書にも倭王武が書かれています。その頃は日本書紀の雄略天皇は崩御された後です。斉や梁は日本の実情を知らなかったなど、いろいろな理屈で説明されています。

いずれにしろ、この頃から元嘉暦を使用したとしても矛盾はないように見えます。

倭王武以降、冊封関係を結んだ大王(天皇)はいなかったと思われます。唯一の可能性としては100年後の推古天皇の頃の遣隋使が考えられます。中国ではどんどん新しい暦に進化、変化していったのに、日本ではさらにその100年先まで元嘉暦が相変わらず使い続けていたことになります。

 

長すぎる元嘉暦の運用の歴史

このまま現実に元嘉暦の運用が続いていたとすると、儀鳳暦にかわるまで239年にも及びます。

元嘉暦は19年7閏法と呼ばれ、19年に7回の閏月(12月/年に対し、7回13月/年)を設けた、結果的には現在の4年に一回の閏月を設けた太陽暦と同じになり、かなり優秀な暦法といわれるものです。それでも1年は365.247日(実際の太陽周期は365.242日)一年で0.005日ずつずれてきます。実際、中国の暦法の歴史でも、長くても90年以内に変更されます。現実と合わなくなるからです。日本では暦を修正がされた形跡は見当たりません。まさにコンピュータ通りで、長い元嘉暦使用は日本書紀内の机上の空論の可能性が濃厚です。

日本書紀の記述からも実際に暦法を学び始めたのは、欽明、推古の時代からのようです。

しかも、実際には中国からの直輸入というより、百済から元嘉暦を学んだとしたほうが自然なのかもしれません。

 

【推古朝から元嘉暦が始まったとする頃】

 

西暦

55555 5555555555555555555566666 6 666666

00001〜8888888888999999999900000〜1〜111222

67890 0123456789012345678901234 2 789012

国名

中国暦法

日本暦法

梁――― 〜 ←―――――――隋――――――→←―――――唐――――――――――

元嘉暦→←〜→大象暦←―――開皇暦―――――→←――大業暦――〜―〜―→←戊寅暦

―――――〜――日本書紀の元嘉暦――――――――――――――←〜―〜実質元嘉暦―

 

和暦

 継 継   敏  敏 用 崇    推   推    推 推 推   推   

 体 体 〜 達  達 明 峻    古   古    古 古〜古〜  古   

 01 03   10  13 01 01    01   05    10 12 20   27   

 

日本書紀による暦輸入の記録

553欽明14年6月、百済に使いを送り、「医博士・易博士・暦博士等を当番制とし交代で送れ。丁度交代の時期なので一緒に卜書・暦本・種種薬物を送れ」と勅した。

554欽明15年2月、上記の勅に答えて、百済は易博士施徳王道良・暦博士()(とく)(おう)(ほう)(そん)・医博士奈率王有悛陀・採薬師施徳潘量豊・固徳丁有陀楽人施徳三斤・季徳己麻次・季徳進奴・對徳進陀を遣わした。

 

百済を経由して、暦が伝わったと具体的は記述の初見です。しかし、使用できた百済人や渡来系の方々だけだったと言われています。その送られた暦本も元嘉暦かどうかは定かではありません。

 

602推古10年冬10月、百済僧観勒が来た。暦本及び天文地理書、併せて遁甲方術の書を奉る。この時、書生34人を選び、観勒に学ぶ。陽胡史の祖、玉陳は暦法を学ぶ。大友村主高聰は天文遁甲を学ぶ。山背臣日立は方術を学ぶ。皆それぞれに学び業を遂げた。

 

やっと、推古10年に渡来系日本人の手から運用する機運が盛り上がります。

伝えられた暦法とは本当に元嘉暦で、本来の元嘉暦の運用の始めがこの時なのでしょうか。

本来百済や新羅、高句麗などは極端に中国寄りで、元号も中国の元号を使用したりしていましたから、中国の暦法がどんどん変わるのを無視して、長く同じ100年も古い元嘉暦を使用していたとも考えにくいのです。

因みに、根拠となる朝鮮史書、三国史記などでは年月日が干支で書かれていません。国の王の在位年を示しているだけなので、朝鮮での使用暦の種類がはっきりわからないのが現状です。

こうした記録は元嘉暦で書かれた日本書紀の証言です。日本書紀の記述に基づき、当時、百済も元嘉暦を使用していたとすることは、逆説的な仮定に立った推論にすぎません。日本書紀がずっと同じ元嘉暦を使っているから、輸入元の百済も同じ元嘉暦のはずと、現代の学者たちも思い込んでいるように見えます。

百済が伝えた暦法は、中国の最新の大業暦だったかもしれないのです。あるいは、あえて古い100年前の元嘉暦を暦の教育目的に指導していたかもしれないのです。

 

【政事要略巻廿五】

儒傳云、以小治田朝十二年、歳次甲子正月戊申朔、始用暦日。

「『儒傳』にいう、604推古12年1月1日に暦日を使用し始めた。」

【日本書紀】

十二年、春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。

(甲子年604推古)12年の春正月戊戌朔(1月1日)、始めて冠位を諸臣に賜うこと、各差あり。

 

同日の二つの記述を重要と考えます。政事要略に従えば、元嘉暦と思われる暦法を百済から招いた僧から推古10年に学んだことが2年後に日付が整い、日本で使用し始めたことになるからです。しかし、この文章には幾つかの問題点があります。

 

1.日本書紀にこの暦の使用のことは書かれていません。この日は、「始めて、冠位を諸臣に賜う」ことが書かれているだけです。その後、4日に憲法12箇条が発布されます。政治的要件に終始しています。

2.「政事要略」とは、1009寛弘6年に惟宗允亮によって著されたもので、日本書紀が書かれた時代からさらに300年近くが過ぎていました。だから、信用できないのでしょうか。

3.「儒傳」とは、儒家の伝記や歴史を書いたものと言われていますが、現在、伝わっていません。間接資料なのです。

4.ここでいう「暦日」とは何を指すのか。これが元嘉暦であったことにはなりません。

5.一番問題なのは、推古12年11日を「政事要略」は「甲子年正月戊申朔」といい、日本書紀は「甲子年正月戊戌朔」ですから違います。「政事要略」の誤記と単純に片付けて良いのでしょうか。

 

ここの日付の意味は、60年干支の初年、甲子年1月の初日、朔(1日目)が政事要略は「戊申」、日本書紀が「戊戌」です。60年干支順では、1番目の「甲子」から数えて35番目が「戊戌」で36番目が「戊申」で一つ違いです。日本書紀の(一部間違いがあるものの)正確な元嘉暦で書かれた、11日は「戊戌」日です。もしかすると、「戊申」と書かれた政事要略が引用した儒傳は、元嘉暦でない可能性もあるのです。

 

いずれにしろ、国内のどこまで浸透していたかは別として、少なくとも推古朝廷内では、推古12年が60年干支の初年、甲子年に当たり、さらに11日に重要な意味があることを認識していたと思われます。讖緯(しんい)説の持ち込んだ三善清行もこの日を甲子革令と位置づけています。暦法のスタート日と定めたことは相応しいことなのです。

こうした、下地があったからこそ、620推古28年、皇太子(聖徳太子)は嶋大臣(蘇我馬子)と共に議して天皇記の国記と臣連伴造國造百八十部併せて公民等の本記を記録することができた、とする記事に重みが出てくるのです。

 

日本における()(ほう)(れき)の使用開始

儀鳳暦は中国唐の正式名称では(りん)(とく)(れき)といいます。「麟徳」は唐の高宗李治の4番目の元号で664年〜665年の2年間の元号です。665麟徳2年から始まり728開元16年までの73年間用いられた暦法だからです。

日本では麟徳暦ではなく、儀鳳暦といわれるのは、唐の儀鳳年間(676天武5〜679天武8年)に伝わったからとする有坂氏の説があります。

三国史記新羅「674(ぶん)()14年春正月、唐にいって宿衛をしていた大奈麻の徳福が、暦術を学び伝えて帰国し、あらためて新暦法を採用した」とあります。東洋文庫注に「新羅ではこれに改良を加え、唐の儀鳳年間(676〜679)から使用したため、これを儀鳳暦という」とあります。直接中国からの輸入ではなかったようです。唐からの直接なら麟徳暦と名乗ったはずです。儀鳳暦と日本が名乗ったのは新羅からの間接輸入だからです。

よって、日本に渡った時期は天武5年儀鳳1年より前でないことは確かですが、それほど遅くない天武初期と考えて良いと思います。なぜなら、この頃は毎年のように、新羅からあらゆる身分の方々が来訪し、訪朝を繰り返しており、細部にわたる情報が伝わっていたからです。

そして、681天武10年の国史編纂事業がスタートしていますし、新しい儀鳳暦は採用しなかったものの非常な興味をもって接していたはずです。時期としても合致していると思います。

また、儀鳳暦を採用する690持統4年の記事までに15年以内ですから、年代的観点からは相応しいと思われます。

 

【儀鳳暦の始め】

 

西暦

 

666666666666666666666666666666666 〜77

666666777777777788888888999999999〜〜22

456789012345678923456789012345678 〜89

唐元号

 

中国暦法

日本暦法

麟徳←→総章    ←上元←→調露

 →乾封→←―咸亨―→ ←儀鳳→←以下略

 ←―――――――――――――――――――――――麟徳(儀鳳)暦――〜〜→

――――――――――――元嘉暦――――――――――→←―――儀鳳暦―〜〜――

 

和暦

 

 天     天 天  天  天     朱   持 持    文     

 智     智 武  武  武     鳥   統 統    武 〜〜  

 04     10 02  05  08 10    01   04 06    01  04   

正史

――――――――――日本書紀―――――――――――――――――→←――続日本紀

 

天武天皇の天文遁甲

天武天皇は天文遁甲(てんもん・とんこう)=占星術、に精通していたとありますから、当初から元嘉暦に詳しく、儀鳳暦が入って来たときにもその違いを正確に把握していたと思います。

 

【天武天皇紀上 即位前紀】

及壯、雄拔~武。能、天文・遁甲。

男盛りに至り、雄々しく武だけしい。天文・遁甲によし。

672天武元年6月24日夜半、名張川に至って、黒雲が天をわたったので、天皇は(ちく)(陰陽道の道具)を取り出し吉兆を占った。擧燭親秉式占=()(ささ)げて(みずか)(ちく)()りて占う。」

675天武4年1月5日、始めて「占星台(せんせいだい)」を立てた。占星台は天文を観察し吉兆を占うための施設。始興占星臺=「始めて占星臺を()つ。」唐では「司展築」といわれ、新羅では瞻星台(せんせいだい)を善徳王(640年頃)が築いたとあります。

単に「占、卜」と目をそらせてはなりません。当時は最先端の天体観測による星の運行、事象予測なのです。

 

【日本書紀 持統4年11月条】

甲申、奉勅、始行、元嘉暦、與、儀鳳暦。

「11日に、勅を奉り、始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ。」

これを一般には、今まで元嘉暦を使っていたが、儀鳳暦に切り替える様、併用した、と解します。

日本書紀は最後の持統末年まで元嘉暦なので、儀鳳暦の使用は、次の文武元年からとする、三正綜覧(1880明治13年に刊行された暦の日本暦、 中国暦、イスラム暦、西暦の対照表、内務省地理局編)の記事を一般的には採用しています。つまり、持統5年はじめから持統10年末までは、元嘉暦と儀鳳暦を併用したとなります。

 

併用とは何か。日本書紀の記述は天武持統朝では元嘉暦で書かれていました。それなのに、持統5年から現れる実際には起こらなかった日食の記事は儀鳳暦を用いた予測結果と考えられ、矛盾するのです。二つの暦を同時に同じ場所で使い分けていたということになりますが、現実的には難しく、なかなかできることではありません。

また、日本書紀の記述を根拠とするのも間違いです。日本書紀は執筆当初から、厳格に雄略始から持統末までは元嘉暦を使用すると決めていたものです。

よって、考えられる併用とは、日本書紀の執筆のような、隔離され継続している特殊作業や、遠方への波及、教育への時間差を考慮したものです。本稿は有坂隆道氏のいうように、原則的には、飛鳥では早速、翌年の持統5年正月から儀鳳暦に切り替えたと考えます。優しさに溢れた、のんびりした古代などと甘く考えない方が無難です。

 

日本での暦の始まり(まとめ)

1.日本書紀は、初代神武天皇から第20代安康天皇まで、執筆当時使われていた最新の儀鳳暦を用いて日付を計算表記されました。第21代雄略天皇から第41代持統天皇の最終章の記述まで、儀鳳暦より古い200年前の元嘉暦を用い、日付が統一されました。机上で作成されたものです。

 

2.元嘉暦は中国南朝の宋の時代、445元嘉22年(允恭34年?)に始まり〜509天監8年(継体3年?)まで65年間使われていました。その間に日本に入ってきたと日本書紀の編纂者達は考えました。よって、暦の記述は雄略から元嘉暦で統一して書かれたと思います。

 

3.現実的使用は、その範囲は別として、鏡に見られるように三世紀の239景初三年や240正始元年のように中国元号を使用しており、それとともに60年干支が、比較的早くから輸入され用いられていました。大和王朝に結びつくのも雄略の頃からと考えられます。

 

4.精密な元嘉暦の使用開始は、100年後の推古12年からです。ただ、百済から伝えられたものは100年前の古い元嘉暦でした。当時、百済自身も古い元嘉暦をずっと使用し続けていたとも言えますが、中国の影響を無視できない朝鮮半島の状況下では考えにくいものです。その頃、百済は年号を中国の年号なども使っていましたので、どのような暦法かの判別はできていないのです。

 

5.日本における現実的な元嘉暦から儀鳳暦への切り替えは、持統5年からです。文武元年からとする説は元嘉暦の日本書紀が終わり、続日本紀が文武元年から儀鳳暦で記述されているからにすぎません。

 

日本書紀が元嘉暦と儀鳳暦の二つの暦法で書かれた理由

それでは、なぜ、日本書紀は暦の記述を一つに統一せず、古い元嘉暦と新しい儀鳳暦を用い、雄略期を境に別けて書き上げたのでしょう。

その一つの理由は、推古朝からの記録が存在し、これが元嘉暦で書かれていたからと思われます。それと、日本書紀自体も執筆陣が大きく二つの離れた時期に分かれて書かれたからだと思われます。

天武10年に天皇が直々に指名した10名の執筆陣、5年後、天武天皇は崩御されますが、持統天皇が文武天皇に譲位されるまで、作業は継続されていたと推測します。その執筆陣は途中に入ってきた儀鳳暦にはなじまなかったと思います。

その20年後、元明天皇によって、再度組織された、紀清人、三宅藤麻呂の両人に代表される執筆陣により、儀鳳暦により雄略以前の歴史を古事記などの記事に基づき、日付を付け、内容の大幅に改訂、充実を図ったのです。

 

神武天皇から安康天皇までの構想がいつ完成したかは、暦法の違いでは説明出来ませんが、日付が統一されたのは、明らかに、日本書紀完成直前から10年前の間のことと思われる、比較的完成間近のことであったことが判ります。古事記のように、一部、干支で書かれていたところもあり、最初は儀鳳暦を当てはめてみたと思われます。しかし、厳格な暦法ではどうしても、同一にすることできず、結果、日本書紀独特の年代記が作られたと想像します。

 

その結果、日本書紀は完成されたわけですが、現代もまだ、日本において、雄略の前後から元嘉暦が部分的に使われ始め、推古朝で運用が始まり、持統が文武に譲位するまで元嘉暦が、200年間も使い続けられていたと、信じる方々が多くいるのです。

 

 

参考文献

山田英雄「即位前紀と大歳記事」『日本書紀』教育社歴史新書<日本史>19、教育社1979

有坂隆道「古代の歴史」『図解検証現像日本C』旺文社1988

渡辺敏夫「日本・朝鮮・中国日食月食宝典」雄山閣出版1979

井本進「日本最古の古典に現れた暦日の研究」科学史研究第17号 岩波書店 1951.1

金富軾「三国史記1」井上秀雄訳注 東洋文庫 平凡社 1980

 

 

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