天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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日食と月食

First update 2014/04/20 Last update 2016/07/11

 

日食とは、壮大な天体ショーの一つで、太陽―月―地球が一直線に並ぶことです。逆に、太陽―地球―月が並ぶと月食になります。当時は太陰暦ですから、毎月1日初日は新月で、日食になりやすいことは知っていたようですが、まだ正確には計算しきれなかったと思われます。

古代史を学ぶなかで、そもそも古事記や日本書紀の記述はどこまで正しいのかわからなくなることがしばしばあります。いろいろな文献の比較や考古学の発見による突き合わせをしなければなりませんが、これもいろいろな解釈があり、はっきりしません。

そんな中で、当時の日食と月食の記事が正しいか否かが今でははっきり区別できるのです。

 

日本書紀に描かれた日食の記録

日食の日本最古の記録は日本書紀の推古36年3月2日の記録です。ところが同月6日に推古天皇が体の激しい痛みで倒れます。二人皇子に有名な遺言を残し、翌7日に崩御。古事記は15日崩御です。日本書紀の流れるような時の記述には、日食の現象が影響しているようにも見えます。

「東洋においては日食が起るということは天子の不徳の致すところとして非常に重視され、日食の日は廃朝とされたものである」と、渡辺敏夫氏はいいます。この日食は本当にあった皆既日食でした。

 

日食の記録と計算値(食分は測定地を飛鳥とし、10を完全な日食としたもの)

太陽暦

日本書紀(太陰暦)

計算日食

628年 4月10日

636年 2月12日

637年 4月 1日

680年11月27日

681年11月16日

691年10月27日

693年 4月11日

693年10月 5日

694年 3月31日

694年 9月25日

696年 8月 4日

推古36年 3月2日

舒明 8年 1月1日

舒明 9年 3月2日

天武 9年11月1日

天武10年10月1日

持統 5年10月1日

持統 7年 3月1日

持統 7年 9月1日

持統 8年 3月1日

持統 8年 9月1日

持統10年 7月1日

食分(数字9以上は皆既)

  ×(地球上で日食なし)

  9

  9

  2

  −(飛鳥ではない日食)

  −

  2*(日没時の食分)

  −

  −

  −

内田正男編著「日本暦日原典」雄山閣S50を参照

 

その後、即位したのが舒明天皇です。6年から天文に関する記事が多くなります。

舒明6年8月、長い星(ほうき星)が南の方角に見えた。

舒明7年3月、ほうき星が廻って東の方にみえた。

舒明8年春1月1日に日食。

この日食はあり得ないことが判っています。記録違いかもしれませんが、5月には長雨で洪水になるなど、この頃は大陸規模の異常気象の時期と重なり、見誤ったとも考えられます。

→「白鳳大地震」の項参照

舒明9年春2月23日、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。流星の落下?

   同年3月 2日、日食。現行の計算上と一致、飛鳥で皆既日食。

舒明12年2月 7日、星が月の中に入った。(彗星など一時的に現れる客星のことで凶事を示す)

舒明13年10月9日、天皇崩御

皇極 2年5月16日、月食。この頃は不吉な事象が多く記されています。この皆既月食は実際には見ることのできないものです。誤報もしくは日付違いであったかもしれません。元嘉暦の計算結果を載せたとする説もありますが、実際の現象を記録していたと推測します。

 

【日本書紀の日食、月食記事】

(推古)卅六年〜三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。

(舒明)八年春正月壬辰朔、日蝕之。

(舒明)三月乙酉朔丙戌、日蝕之。

(皇極)二年〜          五月庚戌朔乙丑(16日)月有蝕之

(天武)九年十一月壬申朔、日蝕之。    丁亥(16日)月蝕

(天武)十年冬十月丙寅朔、日蝕之

(持統)五年冬十月戊戌朔、日有蝕之

(持統)七年三月庚寅朔、日有蝕之

(持統)七年九月丁亥朔、日有蝕之

(持統)八年三月甲申朔、日有蝕之

(持統)八年九月壬午朔、日有蝕之

(持統)十年秋七月辛丑朔、日有蝕之

 

日食の記事は上記のように簡単で、これによる世の動向がまるで記されていません。

ただ天武9年11月1日の日食だけは違います。

11月1日に金環日食が本当にありました。急に、天文の記事が多くなります。

 同 3日、戌(22時)から子(24時)まで、東の空が明るいとあります。

 同10日、西方で大きな雷。

 同12日、皇后が病に倒れます。全国に薬師寺建立を宣言。病は徐々に治ったとあります。

 同16日、月食。日本書紀に2つしかない皇極2年に続く記録。実際にあった月食です。

 同17日、僧恵妙没

 同26日、天武天皇も病で倒れる。ほどなくして癒える。

 同30日、臘子鳥(あとり)が天を覆い東南から西北に飛んだ。燕雀科の渡り鳥で秋に北から群れて飛来するものですが、逆に北に飛び去ったことになります。この臘子鳥、天武7年12月には西南から東北に同様に北に飛び去り、筑紫大地震が起こっています。

 

この11月だけ、妙に、空を観察し、神経質になっています。皇后と天皇の病が原因のようですが、日食が引き金になっているようです。

さらに翌年10月1日に、再度日食を記録しています。部分日食でした。部分日食は気が付かないことも多かったと思われますが、しっかり記録されたのです。空を観察するようになっていたと思われます。

上記は渡辺敏夫「日本・朝鮮・中国−日食月食宝典」より−破線は金環日食帯、実線は皆既日食帯、2線間が食分10。日本を横断した680年11月27日(太陰暦:天武9年11月1日)食分9と東南アジアを通過した681年10月16日(太陰暦:天武10年10月1日)食分2。

 

ところが、持統天皇以降の日食の記録は、実際には現れませんでした。持統天皇6回の記録記事は全滅です。むろん、これら日食の記事による、周囲の反応や影響も記されていません。

 

あまりに事務的な記述です。なぜ、架空の日食を記録し始めたのでしょう。

一つの理由は、暦が、元嘉暦から儀鳳暦に改まったことと関係があると思います。690持統4年11月11日に「勅を承り始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」つまり、以後、儀鳳暦に改めるために、一時期併用期間を設けた記述です。暦博士は同時に、日食の予測をこのときからやり始めたと思われます。計算上の記録だったのです。

古代中国において「日官は予め日食の日時を推算したり、天を観望して予め天子に奏上したその結果、奏上なく日食が起こると、日官は罰せられた。日食は避けられないものだから、事前に祈りを捧げ、凶の兆しを避けたと考えられる。」(渡辺敏夫)

数多輸入した日本は中国の習慣をここでも取り入れたのです。実際には起こらない日食の予測記事は、そのまま記録として残り、後の日本書紀編纂者により採用されたのでしょう。

 

元嘉暦、儀鳳暦の併用施行は通説では、持統6年からで、一本化は文武1年からとされていますが、上記のような日食の予測失敗記事は、すでに翌年の持統5年大和では、早々と儀鳳暦を使用し始めたことを物語る証拠の一つではないかと考えます。

 

それにしても、中国、特に朝鮮における実現率が高いのはわかるとしても、日本の実現率が低すぎるのです。

【日食の記録と実日食の整合性】

 

 

記録有り

実現    不現

記録無し

実現

 

   合計(実現率)

飛鳥時代

奈良時代

平安時代

以降日本

   7  18

  20  40

  25  20

 268 352

   0

   0

   0

  19

   25(28%)

   60(33%)

   45(55%)

  729(37%)

古代中国

古代朝鮮

 646 390

 301 115

   2

   4

 1038(62%)

  420(72%)

渡辺敏夫「日食月食宝典」第1表「日食記録数」から一部を抽出加工しました。

 

この中にあって、最初に記述された推古から天武までは計算ではなく、実際の記録があったと思われる高い実現率を示しています。

しかし、持統紀に入ると6回の記録は、どれも実際に日食は起こりませんでした。当時の計算上での記述といえるものです。あまりに違いすぎます。日本では、日食予測ミスで首が飛ぶことはない寛容さもあるかもしれません。問題は、予測せずに実際に日食が起ってしまったときです。

 

持統天皇のありえない日食の記述は、日神思想の影響ではないかと考えたくもなります。天岩戸伝説は実際にあったのではないかと、本稿では考えています。→「天武・持統陵」参照

天武天皇が崩御され、大津皇子を殺してしまいましたが、実子の草壁皇子まで亡くなってしまいます。残された持統天皇の悲しみはいかばかりかと思います。2年も続く殯の儀式の末に埋葬された夫を偲び、自身も陵墓に引きこもる時期があったと思うのです。陵墓に関する記事が持統5年までも続いているからです。政治空白を恐れた周囲のものが心配し、陵墓から連れ出し封印したのです。それが持統5年の日食の記述です。

 

 

参考文献

渡辺敏夫「日本・朝鮮・中国−日食月食宝典」雄山閣S54

内田正男編著「日本暦日原典」雄山閣S50

『日本書紀』皇極天皇二年五月十六日の月食記事と元嘉暦 国立天文台報第1513-28(2012)

http://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/15-12-2.pdf

 

 

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