天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
天武・持統天皇陵 てんむ・じとう てんのうりょう First update 2012/08/06
Last update 2013/01/16 延喜式:檜隈大内陵 野口皇ノ墓古墳(奈良県高市郡明日香村大字野口) 天武天皇は686朱鳥1年9月9日に崩御され、翌年10月より陵墓築造が開始され、2年後、688持統2年11月に葬られました。その14年後、皇后であった持統天皇が702大宝2年12月に崩御され、翌年火葬。天武陵に合葬されました。 現在、数多ある古代天皇陵になかでも、確実とされる天皇陵はこの天武・持統陵だけと言われるくらい貴重な存在となっています。世界でも類を見ない遅れた日本の歴史、考古学の実情がここにあります。個人の墓である天皇陵墓を暴くことは許されないというのが宮内庁の見解と聞きおよびます。
確定的な檜隈大内陵(以降、天武・持統天皇陵のこと)ですが、多くの疑問も存在しています。なぜ、持統天皇は合葬されたのか。なぜ、天武天皇のご遺体に並んで葬られず、自らを火葬して骨壺に収まったのか。なぜ、この古墳は八角型なのか。その正確な構造と方位関係、墓室内部の壁画などないのか。いくらでもあります。これが現在の日本の実情です。 檜隈大内陵も、昔からこの野口皇ノ墓古墳が天武・持統天皇陵だったわけではありません。やはりいろいろな変遷がありました。武烈天皇陵、倭彦命墓、文武天皇陵と移り変わります。逆に天武・持統陵は石舞台古墳や、見瀬丸山古墳などと言われてきました。これが確定できたのは墓泥棒により荒らされ、その惨状をみた正確な下記の記録が発見されたからです。1880明治13年のことです。宮内庁の記録ではありません。 当時の政府役人が実見したのは事件発生から13ヶ月も後のこととあります。しかもその前に簡単に埋め戻された後のようで、実見者の名前、報告者の名前、その経緯は緻密ですが、実態の檜隈大内陵の記述はこの「阿不幾乃山陵記」に及びません。ただ、「阿不幾乃山稜記」の文章は誤字が多く、公文書でなく、専門用語で書かれていない、学者の記録でもないことから、内容に疑問を呈する現研究者もいますが、本稿では一般的にも認定されているこの「阿不幾乃山稜記」を最有力資料と掲げます。 【阿不幾乃山陵記】(原文は漢文体)
「天皇陵総覧」水野正好他著 新人物往来社より、柳澤一宏氏の記述。(寸法は唐尺と思われる) 句読点段落は本稿の判断による。 この陵が暴かれた記録は、1235年文歴2年 鎌倉時代 四条天皇、将軍藤原頼経、執権北条泰時のときです。ただ、公式の記録ではありません。肩書きのない一般人と思われますが、山稜観察の研究者のように観察眼は鋭く、いろいろな古墳を見て歩いた人物のようです。 大意(現代語訳が見つかりません。よって「大意」としました。間違いあれば、ご指摘ください。) 「阿不幾」は「青木」と同音で、この古墳が昔から「青木御陵」と伝承されていたことや「野口」の里名を持つ古墳であることがわかります。不明文字は虫食いとそこに印が押されたためです。「両夜」とありますから3月20、21日の2日間の夜に乱入されたと思われます。 墳形は八角形、五重で、たぶん一番下の石段が周囲一町(109m)位とはっきりしていたようです。十数本の木が生えています。現在の小山全面森といった面影とはだいぶ違ったようです。 南面に石門があり、石の通路がまっすぐ伸びていたと思われます。この石門に盗賊等は人一人通れる小さな穴を開けたようです。(凝灰岩は加工しやすいとされる。) 御陵内部は2部屋「内外陣」に分かれていました。 まず外陣は1丈四角(3×3m)の広さ(約6畳分)、天井高さ2.1mです。材質は「皆瑪瑙(オパール)」とありますが、花崗岩を切り出し、美しく研磨した大理石ではないかと言われています。少なくとも表面は一枚岩で造られていました。 その奥にある内陣の広さは、南北奥行き4.2m〜4.5m、東西横幅3m。(約8畳分) 外陣と内陣の仕切には入口として金銅の扉があって左右に開く観音開きです。それぞれの扉は横1m高さ2m厚み45mmです。 これを取り付けるために周囲に木材が使われています。脇柱(14cm広、12cm厚)、横梁(マグサ9cm、鼠走9cm)、扉の上下の冠木(14cm広、12cm厚)です。内外の部屋を仕切る金銅の扉を支えるために容易に開閉できるよう、精密に加工しやすい木材が使用されたと考えられます。後に朽ちると知っていたはずです。封印ではないようです。また中に入るためです。 さらに、扉の内側には合計6つ、10cmの「蓮花返花」模様が4つ、12cmの「不滅の獅子」が2つ、皆金製で付けられていました。扉について、細かな表示がなされているので、豪華さからか驚いているような表現になっています。「内陣」の奥と左右、天井と床石は「皆、瑪瑙(オパール)」で、朱で赤く塗られていました。いわゆる戸口を除き、すべて大理石のようなすべすべで真っ赤です。 天武天皇の御棺は長方形で四隅を切り落とした形、木製です。これに全面を布張りした物で覆われています。むろん、朱塗りで長さ2.1m、幅75cm、深さ75cm、内寸です。長さが長いのは頭に鏡や宝石類が置かれるためです。棺の蓋が木製とわざわざ書かれたのは、壊されて木質が露出していたからと言われています。この朱塗りの御棺は厚さ15mmの金銅の台に置かれてあります。これは他に例を見ないものと言われます。左右に8ヶ、前後に4ヶの透彫り、上下の側面に彫り込み装飾(クリカタ<刳形>とは(モールディング)中国漢代に台の水平材を支える垂直材の上下をひろげ補強するもの)が見られました。 御骨は頭が普通より少し大きく、赤黒い。足の骨は48cm、腕の骨は42cm、御棺内に朽ちた紅色の御衣が少し残っていた。はじめから赤い衣を着ていたかもしれません。 盗掘を免れた物は橘寺に移されました。いずれも豪華のもので言葉に言い尽くせない物のようです。例えば「石帯一筋」とは、銀で兵庫鎖にして種々の玉で飾った物、石は2個9cm位の長さで銭を連ねたような形をし、水晶色をしていました。枕は金銀珠玉を飾った鼓(つづみ)のような形をした玉枕で、阿武山古墳出土の枕と冠は有名です。唐製品に似ていると書かれています。 なぜ、これらを持ち出さなかったのでしょう。たぶん、もっといい物が取り切れないほどあった、だから2日かけても盗み終わらなかったということでしょう。 さらに、一斗缶ほどの大きさの金銅製の桶があり、礼盤のような真四角の形をした台の上に安置されていました。鎖が少しと、ここにもクリカタ<刳形>がありました。また、琥珀の銅の糸で貫いた御念珠が三重に置かれてあります。しかし、これらを多武峰の法師が取ってしまいました。また御棺には銅のカケカケ?が二つあります。 ここでは、墓室の内部構造に的を絞ります。 まず、下記、A,B,C図を比較します。 学術書では横穴式古墳は入口に羨道が続き、その奥に玄室があると定義されています。しかし、この古墳については「阿不幾乃山稜記」の記述のように「内陣、外陣」の表現のほうがわかりやすいと思います。玄室にいたる羨道があるのではなく、この陵墓は部屋が2つに別れていた構造だったと思います。外陣高さ7尺、仕切扉高6.5尺、内陣に高さの記述がないのは2部屋の高さが同じだからです。古い学術書では、玄室と羨道などと定義して一連の横穴式古墳と同列に分類するから、この「羨道は玄室に比べて短く、また高さも羨道のそれに対し比較的に差が少ないことが著しい特徴」などと妙な記述になるのです。 重要なのは、その内陣の巨大さであり、奥行きと横幅比が3:2と藤原宮の縦横比が同じだと学会も注目していることです。 【阿不幾乃山陵記に基づいた推定寸法】 1丈=10尺=3mとして計算した。
(A)図は井上直夫氏の図です。これによると、「内陣、外陣」の間は観音扉で開く「金銅」の扉で仕切られています。「内陣」に入るとすぐに火葬された皇后の金銅の骨蔵器が礼盤のような台座の上にあり、その周囲を鎖で台座に固定されています。この「金銅桶」の中には「銀筥」があり、その中に皇后の御骨が納められていたはずです。その玄室の奥中央には天武天皇の木製御棺が金銅製の棺台の上にあります。いわゆる縦一列の配置です。後から火葬された持統天皇が手前になると考えたようです。確かに奥行きは余裕がありますが、賛成できません。一番奥には溢れるばかりの宝物があったはずです。 (B)現地の天武・持統天皇陵に掲げられた、石槨内部の図を示す掲示板(下B図)です。本稿はこの図に賛同します。配置は一番現状に近いと思います。奥の石室に入ると、左右に天武木棺と、持統金銅桶が並んでいたと思います。天武天皇崩御当初は二つの棺を仲良く並べようと皇后の持統天皇は考えたはずです。その横に皇后の棺が後で収まったとするとぴったりの大きさをもつ構造です。この陵墓ははじめから計画的に2体を収める構造として造られたと思います。 (C)図は秋山日出雄氏のすぐれた長文の論文に描かれています。これだと持統天皇の壺はどこに置かれていたのでしょう。寸法基準尺度を示しながら、外陣の奥行きが微妙に長く、狭くしています。どうしても、羨道としたい意識を感じます。また木棺の幅が広すぎます。本来の棺は古くからある舟形木棺ほどではないものの細長いものです。厚さ5分(15cm)の金銅製の棺台の上にありました。木棺とほぼ同様の大きさだったと思います。天武天皇の木棺は中央ではなく右か左の壁際にあったはずです。これらは外部の壁石や天井石を含め、500年も後の元禄の記録や現在発掘された他の古墳等を参考に作成されたようです。一見、見てきたように精密に見えますが、これでは安易に信用できません。
(A)「飛鳥の王陵」墓室復元図 (B)現地、天武持統天皇陵 (C)「檜隈大内陵の石室構造」 井上直夫 掲示板より 秋山日出雄
右図は本稿の想像図です。波線は不明部分です。大きな違いは御棺が細長いこと。これは棺内頭上に鏡や宝玉類が置かれていたはずだからです。そして、棺の位置は部屋の中央ではなく、内陣に入って左右は不明ですが、図では入って左側に配置されているとしてみました。右は当初予定していたはずの同規模の持統棺が入るスペースを示し、さらに、実際置かれた骨蔵器の位置を重ねました。一方外陣は真四角のはずです。周囲上下の壁石の積み上げ状況は不明です。 内陣の内面は美しく磨かれた大理石面が朱に染まっていました。 別の高松古墳は内側を漆喰で塗り固め、その上から四方に四神(龍虎雀亀)、女官や舎人の近親者を描いています。鎮魂であり、内に留め楽しめるよう、外に出さない仕組みに見えます。檜隈大内陵にはそれがありません。2つの墓から浮かぶイメージは全然違うものです。 ところで、予定に反し、持統天皇は死に際し、自分を火葬するよう命じたのです。骨蔵器を2重にして、鎖で固定し、中を開けられないようにしたようです。逆に天武天皇の棺は木蓋で開くことが出来る造りです。 天武天皇が崩御され、翌年、陵墓が完成されても、さらに4年間、持統天皇は夫の元に通い続けていたのです。本来はこの二つの部屋は、奥の天武天皇のご遺体が納められていた部屋と、持統天皇が殯の後、2年間は祈りを捧げ続けた部屋であり、ここに引きこもり続けるといった時期が実際にあったと想像します。 686朱鳥1年 9月 9日 天武天皇崩御(43歳本稿) 10月 2日 大津皇子の変(24歳) 687持統1年10月22日 檜隈大内陵築造開始 688持統2年11月11日 天武天皇を埋葬 689持統3年 1月18日〜21日 初の吉野行幸。 同 4月13日 草壁皇子薨去(28歳) 690持統4年 1月 1日 持統天皇即位(46歳) 693持統5年10月 1日 日食(記述されているが、実際には起こらなかった) 同 10月 8日 陵戸を五戸以上と定める。 694持統6年 6月21日 陵造営貢献者に官位。 696持統8年12月 6日 藤原京遷都。 この年表を見る限り、持統天皇の哀しみの大きさを感じます。天武天皇崩御に際し、皇后は常軌を逸していました。一ヶ月後、義理の息子、大津皇子を殺してしまいます。ずっと、天武天皇のご遺体は飛鳥浄御原宮の正殿南庭に殯宮を建てられ、その中に安置されていました。当然、皇后はずっとご遺体に寄り添っていたはずです。推古天皇なども夫敏達天皇が崩御されると殯宮に長く籠っていました。やっと2年後に埋葬されます。 ところが、今度は吉野の聖地に向かい、この世にいない天武天皇に会いに行きます。これ以降、31回の吉野行きが挙行され続けられました。 その5ヶ月後、唯一の息子、草壁皇子が突然薨去されます。夫に続けて息子まで亡くした皇后の哀しみは如何ばかりでしょう。強く自分を責めたはずです。死んだ夫に関わりすぎ、息子の病、息子の悩みに気づかなかったのだから。翌正月に持統天皇として気丈にも次期天皇として即位されます。46歳の時でした。 こうした中、本稿の予測では、檜隈大内陵の中まで皇后は行き、住み着いていた時期があったと考えています。 その状況は古事記の天の岩戸物語と同じです。 須佐之男命の理不尽な行動に対し、天照大御神は天石屋の戸を開き、中におこもりになってしまわれました。このために高天原がすべて暗くなり、葦原中國が闇で覆われ、常夜が訪れてしまいました。 そこで、八百萬神が天安之河原で話し合い、高御産巣日神の子、思金神に善後策を考えさせます。常世の長鳴鳥を集め鳴かせ、鏡を作らせ、勾玉を通した長玉の緒を作り、枝に掛けます。祝詞を唱え祝福します。そこへ天宇受賣命が踊り出し、胸乳を出し、裳を押し下げたので高天原中が動くような皆の笑い声の渦となりました。このため天照大御神は怪しみ細く天石屋戸を開いたとあります。「すべてが暗くなったのに、何故楽の音が鳴り、皆が笑うのか」と問いただします。そこで、「あなた様にもまさる神がお出でになり歌舞していました」と鏡をお見せになります。天照大御神はますます不思議に思い石戸を出でられました。咄嗟に、御手を取り、外に引き出されてしまいます。久米繩で石戸を封印しました。こうして、高天原も、葦原中國も太陽が照り、明るくなったといいます。 おもしろいことにと言ったら申し訳ないですが、持統天皇5年10月1日に日食があったとあります。この記事には大きな意味があったはずです。世紀の天体ショーを利用した天石屋伝説誕生だったのです。絶妙なタイミングです。ですから、この話は伝承ではなく後から創作されたことになります。すぐ、一週間後には天武天皇陵の陵戸を格上げしています。御霊が信じられていた時代です。素早い対応といえます。そして持統6年6月に陵造営貢献者に官位を与えることで、この陵墓造営が終わったと一般的に言われています。このように持統天皇は異常に長く、天武天皇陵と関わり続けていたのです。しかし、その後、吉野行きはその頻度が著しく増え始めることになります。 (追記2014/4/7 鈴木敬信によると、この日に日食はなかったことが、現在の天文技術の進化からわかっています。持統天皇には他にも日食の記事が持統7年3月1日、同9月1日、8年3月1日、同9月1日と多くあります。皆うそです。7年9月1日が部分日食ですが、言われないと気が付きません。日本書紀編纂者が持統天皇から、続日本紀も続けて日~思想が引き継がれたと考えていいように思えます。) なぜ、火葬になったのでしょう。 これも古事記です。 伊邪那美命が、お産によりお亡くなりになります。 夫の伊邪那岐命が亡き伊邪那美命を懐かしみ、黄泉国に行かれます。 そこで、女神は神と相談するのでその間、決して私を見ないように告げます。男神は待ちきれず、覗いてしまいました。 【古事記】
「一つ火燭して入り見ます時、蛆がたかり、ごろごろと鳴って、頭には大雷がおり、胸には火雷がおり、腹には黒雷がおり、陰部には拆雷がおり、左手には若雷がおり、右手には土雷がおり、左足には鳴雷がおり、右足には伏雷がおり、合わせて八種の雷神がなり出ていた。」(次田真幸訳) この古事記の文章をはじめて読んだとき、この描写の臨場感に驚かされました。これを書いた人は、きっと狭い暗い部屋のなか、腐乱死体を間近で見た実体験がある人だと直感しました。 たぶん、持統天皇も夫、天武天皇の変わりゆくご遺体を見続けていたと思います。 古事記は朗読させ、持統天皇も聞いていたといわれます。遺体状況や腐乱臭は忘れることができないと言われます。その後に発表された日本書紀には古事記のこの印象的な話はありません。時代は少しずれますが、天皇の希望により削除されたように見えるのです。 700文武4年 3月10日 道昭和尚物化(72歳)「火葬於粟原。天下火葬従此而始也。」(続日本紀) 702大宝2年12月12日 持統天皇崩御(58歳) 703大宝3年12月17日 飛鳥岡で火葬 同 12月26日 檜隈大内陵に合葬 700文武4年3月10日に高僧道昭が亡くなりました。座禅のまま没したとあります。72歳です。続日本紀には道昭のことが詳しく記載されていることから、中央に顔が利く高僧だったと思います。たぶん、天武天皇や持統天皇とも親しかったと思っています。(同「役行者」参照) 重要なことは、記録上、日本で火葬された最初の人物と言われていることです。これが、持統天皇を火葬させるきっかけと思われます。 なぜ自分を火葬するよう命じたのでしょう。単に宗教上の理由だけとは思えません。たぶん、彼女は自分の体が朽ちていくのを見られたくなかったのだと思います。 天武天皇は道教の永遠の命を信じていた部分があります。天武天皇が崩御されたとき、二人とも復活を信じていたのかもしれません。でも、それはありませんでした。夫の体はみるみる朽ちていったのです。それをじっと見続けていた妻だったと思います。 自分の番が来たとき、迷わず、新しい火葬の方式を取り入れたのです。しかも、骨は絶対に開かぬよう何重もの器に入れ、鎖に固定し、夫の横に置くよう命じ、崩御されたのです。 皮肉なことに、崩御後、火葬されたのは1年後でした。殯の古習は変えられなかったようです。 火葬はその後、文武、元明、元正と続き、周囲の同調者も現れたようですが、聖武天皇以降は火葬されていません。万葉集にも柿本人麻呂の歌B428「土形娘子、火葬、泊瀬山時」、B429,430「溺死、出雲娘子、火葬、吉野時」があります。これらもこの頃の歌ですが、正常な死に方とは思えない娘らが対象であり、一般に火葬は風習として広まることはなかったようです。 その後を含めた、天武・持統天皇陵の記録です。 上記、「阿不幾乃山陵記」にあるように1235文暦2年3月20日〜21日(?)の二晩にわたる盗掘は、当時かなり大きな話題となり、人々を驚かせたようです。以下、別の記録です。 【百錬抄】4月8日条
盗賊が陵内に穴をあけ重宝を探し、多くの金銀を盗んだ、とあります。 そらから3年後に犯人が検挙され、都に引きたてられたといいます。 【帝王編年記】4月11日条
南都並びに京都近隣の人々が多く陵内に入り、遺骨を拝んでいた、とあります。 「明月記」嘉禎元年(改元は同年9月19日より)
晩年、藤原定家(74歳)現存する「明月記」最後の年の記述です。 4月22日の記録。盗掘され、白骨化したご遺体が相連なり、白い髪が残っていた、と伝文しています。 さらに、6月6日「山陵を見奉る者からの又聞きであるが、話を聞くたびに哀慟の思いがます。御陵は再び埋め固めたそうであるが、定めし粗末で簡略なやり方であったろう。骨を納めた「銀筥」を盗むため、持統天皇の御骨が道頭に遺棄されていたという。塵灰とは言え探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。悲しい事だ。」藤原定家はその6年後、1241仁治2年80歳の生涯を閉じました。 「実躬卿記」永仁元年四月
この事件から60年後、1293正応6年4月12日、再び盗掘があったことを三条実躬が書き残しています。中原章文、天武天皇陵の盗掘者を捕う。犯人は僧侶。このときは荒らされ、天皇の髑髏(頭骨)さえ持ち出されたと書かれます。 墓の中はすでに荒らされており、腹立ち紛れに、洗いざらい残っていた御骨すらすべて持ち出したような記録に見えます。 当時、墓荒らし、強盗の類の最盛期であり、庶民の悲惨さが表面化する時代です。飯が食える公家でさえ、隣屋敷が盗賊に襲われても、ただじっとやり過ごすことしかできない世の中でした。 本当にひどい。これが現実の話です。 こうした惨状の状況を越え、現在、御陵の中はどうなっているのでしょう。 もう空墓なのかもしれません。 以上、いろいろな論文の一部、史料をコピーし、陵の内部予測資料を比較検討してみました。 本来なら写真一つで解決する簡単な事項ばかりです。優秀な学者諸氏にはDNA鑑定をはじめ、年齢や死亡原因、地質調査など、もっと高度な研究をしてもらいたいものです。 将来いつまで封印され続ける天皇陵なのでしょう? 「今日では、石室へ入ることはもちろん、墳丘に立ち入ることも近づくことも、研究者に対してでもいっさい認められていない。天皇陵古墳といえども、本来は考古学の遺跡であり、したがって古墳研究の基礎資料であり、さらに日本古代史の重要史料であるのに、研究者とは遮断されている。そのことは、考古学にとっても不幸なことであるばかりか、陵墓研究に停滞をもたらしてしまったという点では、皇室に取っても好ましいことではなかろう。こういう現状は、なんとか改めてもらわねばならい」。森浩一「天皇陵考察の基礎」 「『真陵』調査のためには、当然、専門家への公開は避けて通れないだろう。しかし、それは、陵墓管理官が墳丘を巡回したり、技術・作業員が修復のために立ち入るのと、なんら変わらない。『陵墓の森厳と静謐』を損なうものでは決してあるまい。さらに、『真陵』の確定のためには、発掘調査も将来、必要になろう。いつの日には、天皇陵の発掘調査が認められることを、私たちは鳩首して待ちたい。」岡本健一「天皇陵はなぜ発掘できないのか」 追記1:2012年7月1日読売新聞(関西版)に「奈良県明日香村の天武・持統天皇陵を宮内庁が約50年前に調査し、報告文書をまとめていたことが、読売新聞の情報公開請求でわかった。文書では、墳丘は、測量や石材の配置から7世紀代の天皇陵に特有の八角形であると記述」と現場写真付きでありました。今(2012年7月31日現在)、この詳細記事をHPで見ることはできません。削除されたようです。不思議な世界です。 追記2:2013年1月10日、大塚初重氏のお話を聞き、終末古墳と後期横穴古墳の概念を混同して、本稿を記述していたことに気がつきました。「終末期古墳の中でも少し年代の新しくなった内部構造が『横口式石槨』となる。横口石槨とは横穴式石室の中の家形石棺の南側の小口に入口を設け、その前方に前室・羨道をつけたものである。」中には、高松塚古墳のように羨道もないものもある。前室もない。底石があるため、かつて横穴式石室内に置かれた家形石棺が大きく変化したという説もあるくらい石槨そのものが、大きな石棺である。その中に、あらためて木棺や乾漆棺を納めるものもある。百済古墳の影響も考えられている。後半部は「古墳の知識T」白石太一郎著など参照しました。 大塚氏は横口式石槨は一人用と言っていました。そうかもしれませんが、すると、持統天皇は自分を火葬してまで天武陵の狭い石槨に入ろうとしたことになります。天武から託された持統の思いは、単に愛情だけではない重い使命に近いものだったと考えられます。 参考資料 秋山日出雄「檜隈大内陵の石室構造」『橿原考古学研究所論集第五』 吉川弘文館 藤井利章「天武天皇『檜隈大内陵』の一考察」『青陵』22-1973 橿原考古学研究所 伊達宗泰「皇陵」『明日香村史 上巻』 明日香村史刊行会 柳澤一宏「天武・持統天皇陵」「『天皇陵』総覧」新人物往来社 森浩一「天皇陵考察の基礎」『日本の古代5』中公文庫 堀田善衛「定家明月記私抄」新潮社 など ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |