天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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役行者(役小角) えんのぎょうじゃ(えんのおづの)

First update 2009/12/23 Last update 2012/08/24

 

通称として呼ばれる修験道の開祖とされる役行者は役小角のことをいいます。

平安時代に山岳信仰の隆盛に伴い「役行者」と呼ばれるようになったといいます。

五色の雲に乗って空を飛び、海の上を走り、鬼神たちを自在に操り支配したといわれる人物です。天皇の政を疎み、主に山に住み修行したといわれています。

伝説では、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、さらに、熊野、大峰の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得した。20歳代で、中臣鎌足の病気を治癒した伝説もあります。

 

修験道は日本古来の神道の一つ山岳信仰であり、山に籠り修行することで「験」(しるし)が得られると信じられ、そのもの達を修験者とか山伏と呼んでいます。時代とともに中国からの儒教、道教、仏教などのすぐれた新しい要素を巧みに取り込みながら、日本独特の習合宗教となっていきました。

ここでは、天武天皇との関わりに限定して話を進めます。よって、修験道の変遷と苦難の歴史まで扱うことはしていません。天武天皇時代に生きた、生身の役小角を描き出すことに心掛けました。

 

役小角は「続日本紀」に出てくる実在の人物です。さらに、同時代に著された「日本霊異記」にも取り上げられたことから、当時から著名な人物であったことがわかります。しかし、彼の生き様は道教を母体とした仙人思想に基づくものであったために、その足跡はその後、顕著に伝説化されていきます。平安後期の大江匡房が「本朝神仙伝」においてさらに具体的に仙人になった役行者を紹介し、鎌倉時代末期の「役行者本記」により、ほぼ現在描かれる役行者像が完成されたと言われています。他に「扶桑略記」をはじめ「元亨釈書」、「今昔物語 巻11第4」、「三宝絵詞中」など多数描かれていますが、中村宗彦氏が書かれたように(「役小角」伝私記―その原初伝承―)、詳細な現状伝わる文献の調査から、「原初伝承に近づくためには、『続日本紀』、『日本霊異記』以外に部分的に『為憲記』及び『役公伝』を参考にすれば十分」とされています。内容は「大同小異」といわれます。

それならば、なおさら基となった「続日本紀」と「日本霊異記」を詳細に読み込んでおくことが大切と考えました。

 

続日本紀は国書、日本書紀に続くものです。当然その長大な作品の前部分(役小角が描かれる時代)は早くに完成していましたが、何らかの理由によりこの前半部分は全面的に書き直しが行われ、出来上がったのは続日本紀全体が完成された797延暦16年より少し早かった程度に過ぎませんでした。

一方、日本霊異記は薬師寺の僧、景戒(きょうかい)によって787延暦6年に著されました。仏教の立場に立つものですが、より庶民に近い目線から描かれているように思います。よって、この二つの視点は異なるものの、ほぼ同時代の作品といえるものです。これら二つを比較することは大きな意義があるのです。

 

続日本紀 699文武3年5月24日

 

丁丑、役君小角流于伊豆嶋。  丁丑、役君小角、伊豆嶋に流さる。

初小角住於葛木山、以呪術称。 初め小角、葛木山に住みて、呪術を以てほめらる。

外従五位下韓国連広足師焉。  外従五位下韓国連広足が師なりき。

後害其能、讒以妖惑。     後にその能を害ひて、讒づるに妖惑を以てせり。

故配遠処。          故、遠き処に配さる。

世相伝云、          世相伝へて云はく、

小角能役使鬼神、汲水採薪。  「小角能く鬼神を役使して、水を汲み、薪を採らしむ。

若不用命、即以呪縛之。    もし命を用ゐずは、即ち呪を以て縛る」といふ。

五月二十四日、役の行者小角を伊豆嶋に配流した。

はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。

外従五位下の唐国連広足の師匠であった。

のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。

世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛ってうごけないようにした」といわれる。

宇治谷孟 訳

 

日本霊異記二八

 

役優婆寒(えんのうばそく)と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役公(えんのきみ)で、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)はこの系統の出である。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の人である。

生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行につとめていた。この僧はいつも心のなかで、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人たちといっしょになって、永遠の世界に遊び、百花でおおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。

このため、初老を過ぎた四十余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛(かずら)で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって種々の欲望を払いのけ、『孔雀経(くじゃくきょう)』の呪経の呪法を修め、不思議な験力(げんりょく)を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在になすことができた。

多くの鬼神を誘い寄せ、鬼神をせきたたて、「大和国(奈良県)の金峯山(きんぷせん)と葛木山との間に橋を架け渡せ」と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代に葛木山の一言主の大神が、人に乗り移って、「役優婆寒は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしていると悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて優婆寒を逮捕しようとした。しかし、彼の験力で簡単にはつかまらなかった。そこで母を捕まえることとした。すると優婆寒は、母を許してもらいたいために、自分から出て来て捕らわれた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。

伊豆での優婆寒は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万丈もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国(静岡県)の富士山に行って修行を続けた。

さて一方、優婆寒は極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。こうして、この島に流されて苦しみの三ヵ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって701大宝元年正月に朝廷の近くに帰ることが許された。

ついに仙人となって天に飛び去った。

わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆寒であった。法師は、さては「わが国の聖だな」と思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。

例の一言主大神は役優婆寒に縛られてから後、今に至ってもその縛めは解けないでいる。

この優婆寒が不思議な霊験を示した話は数多くあって揚げ尽くせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人にはこの術を体得できることがかならずあるということを実証するだろう。

日本霊異記 中田祝夫訳 講談社学術文庫 

アンダーラインの部分は本稿では異なる訳を含めて考えたい部分です。重要な部分には原文を引用しました。長文につき全原文は省略しました。

 

役行者の実像

行者の素性ははっきりしています。日本霊異記によると、

 

役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。

 

役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣(たかかものあそん)を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたというから矛盾はありません。

優婆寒(うばそく)であるといいます。僧侶ではないのです。在家のものですが帰依三宝(仏、法、僧)を重んじた僧の一歩手前のような立場といえます。

かなりのインテリで、中国の書物に深く傾倒し、舶来の儒教、道教、仏教に精通していました。

ここで三教を論じるつもりはありませんが、この頃の教えはそれぞれがいい意味で影響しあい、混然としたものでした。儒教は孔子によってまとめられた、すぐれた中国思想です。道教は中国独自に古くからある多神教です。仏教はインドから伝わる一神教です。ひとつになることはありませんでしたが、それぞれに影響を与え、独自な発展を遂げたものなのです。

日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、彼の知識は仏典だけに留まらなかったと思われます。しかも彼の行動から察するに、彼の興味はむしろ道教にあり、とくに自然とともに生きる仙道に共感しながら、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。

「初老を過ぎた四十余歳」といいますから673天武2年頃でしょうか。彼の生年は諸説ありますが、たぶん天武天皇の壬申の乱前後と思われます。この歳になってもまだ、岩屋に籠っていたと書かれます。

ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。

 

密告者は誰か

 

続日本紀の解釈の違いと思われますが、朝廷に讒言したのは弟子の韓国連広足という記事をよく見かけますが、ここは上記で示した宇治谷孟氏の訳が正しいと思います。

韓国連広足は、藤氏家伝に724〜728神亀年の頃、呪禁(呪術で病気を祓う)師とあり、731天平3年正月27日に外従五位下を授けられ、翌年10月17日に典薬頭に任じられている高級官僚です。「韓国」という氏姓は790延暦9年11月10日の記事に書かれるように、物部連の苗裔で、その祖先が韓国に派遣されたので韓国姓となったものと届けられ、このとき韓国の文字を伏せ、高原連に名が替わりました。姓氏録では摂津神別に物部韓国連、和泉神別に韓国を載せています。

つまり、渡来系氏族ではなく、古くからの物部氏の一派です。正真正銘の役行者のりっぱな弟子であり、文脈からも「あの広足殿の師匠が役行者なのです」とのニュアンスをもつ紹介記事のはずです。

密告者の韓国とは、漢文記事を誤訳したのだと思います。現代文は文章を流れに沿って意味を組み立てますが、漢文では短い文章の中に大量の情報を書き込むのです。ですから讒言の記事の前に韓国連広足に名前が出たからといって、彼が密告の首謀者とは言えないと思います。韓国連広足は役行者の忠実な弟子であり、続日本紀は単に讒言されたといったにすぎません。しかし、日本霊異記ははっきり密告者を語っているのです。だから続日本紀の記述と矛盾してはいないのです。

ただ、注意したいのは、弟子の韓国は宮廷に籍を置いていることです。役行者には多くの弟子がおりますが、こうした宮廷内部にまでいたのです。私は役小角が朝廷にも顔のきく人物だったと考えます。韓国は師匠の推薦で堂々と天皇に仕えることできたと思います。これから述べていきますが、彼の行動には朝廷の命に逆らう行動は一切見られないと思われるからです。

 

続日本紀では鬼神を私物化し、わがまま放題に使役していました。日本霊異記で示されたように、「讒言したのは一言主の大神が人に乗り移り」巫女などに神や死人を代弁させたのです。真の密告者は鬼神や一言主神など古い日本の神たちでした。役小角を嫌い訴えたのだと思われます。古い日本の呪術系神道一派が関与していたのです。事代主との類似は別に譲るとして賀茂神社(葛城市)や鴨都波神社(御所市)、さらには富士山を含む三島大社(静岡県三島市)はその主神です。役行者は葛城の賀茂の一族ですから、一族の守り神やそれを奉じる他の賀茂氏の一部に反感をかっていたようです。

 

流刑とされた本当の理由

 

流罪の理由が続日本紀と日本霊異記では大きく異なっています。

日本霊異記では「謀して天皇を傾けむとす」とあり、政府転覆の企みとなります。続日本紀では「妖惑=庶民を惑わ言動」の罪となります。日本霊異記のような政府転覆は死罪ですが、実際には流罪でしたから、当時の法に照らせば続日本紀の表現が正しかったようです。

すぐれた能力が人に誤解され、悪用されると続日本紀、すなわち時の朝廷は考えたのです。日本霊異記の庶民感覚からすれば、役小角の態度や行動は見た目にも危ういものに見え、天皇に反目する存在と考えたからなのかもしれません。いずれにしろ、彼は讒言にあい、伊豆に流されました。

この辺は、黒岩重吾氏がいうように、民衆に慕われた役行者が政府側から危険視されたとするのが最善のようです。

 

彼は天武天皇の死後、少しおごり高ぶっていたのかもしれません。彼だけではありません。一族のもの達もこのとき浮き足立っていたと思われるのです。役小角は賀茂氏と同族です。その賀茂氏も朝廷から咎められているのです。続日本紀698文武2年3月21日 山背国(山城国)の賀茂祭の日に、多勢の者を集めて騎射をすることを禁止した、と認められるからです。

じつは前年、賀茂氏の娘が文武天皇夫人となったのです。むろん、その娘宮子の父親が藤原朝臣不比等であることは言うまでもありません。この藤原不比等は人の前面に出て目立つことを極端に嫌った男です。あまり派手な行動で問題を起こすな、と一族の者を戒めたのです。

他にも原因があったのでしょうが、賀茂氏を代表して罰せられたのが役小角でもあったわけです。

 

697文武1年8月20日、賀茂朝臣比売の娘、宮子が文武天皇夫人となる。

698文武2年3月21日、賀茂祭での無礼講を諫める、詔。

699文武3年5月24日、賀茂氏の一族の一人、役氏の小角が伊豆に流される。

       6月23日、浄広参の日向王が卒した。

       6月27日、浄大肆の春日王が卒した。

       7月21日、浄広弐の弓削皇子(天武天皇と大江皇女の子)が薨じた。

       9月25日、新田部皇女(天智天皇皇女)が薨じた。

       12月3日、弓削皇子の母、大江皇女(天智天皇皇女)が薨じた。

 

【賀茂氏と天皇家の関係系図】

天武天皇

 ├―――――――草壁皇子

持統天皇      |

          ├―――文武天皇

天智天皇      |     |

 ├―――――――元明天皇   |

姪娘              ├―――聖武天皇

                |

鴨朝臣小黒麻呂――鴨比売    |

          ├――――宮子

中臣鎌足―――――中臣不比等

 

ところが、699文武3年役行者が流罪に処せられると、皇位の近親者が次々亡くなられていきます。役小角を伊豆島に流した途端、皇室の面々が次々倒れたのです。あわてた当時の朝廷は10月13日、天下の有罪の人々を赦免します。

しかし、この原因は役行者に起因するとは考えなかったようです。斉明天皇の越智陵と天智天皇の山科陵が問題と判断したようで、すぐに二つの陵の修造を命じているのです。

かつて、私もこの次々と起こった死亡記事を流行病と断定し、この時期に薨去された弓削皇子への暗殺説を否定する根拠に用いたことがあります。

朝廷では役小角の恨みが原因とは考えていません。持統天皇の周囲には彼女を守る堅固な呪術家たちがそろっていたとも考えられますが、むしろ役小角をよく知る持統太上天皇は彼が恨みをいだくような男などとは考えてもみなかったと思うのです。彼はいい人なのです。むしろ朝廷は「小角の能力が悪いことに使われる」ことのないよう、この純朴な能力者を地方に流すよう配慮したのです。

 

伊豆島に流された役小角のですが、実際には意外に行動が自由に見えます。伊豆島にいながら、「遠江(とおとうみ)」静岡県大井川以西一帯を駆けめぐります。空を飛び、海上を走ったとありますから、実際に見たかどうかは別にして、まさに神出鬼没、広範囲な行動範囲であったのです。むろん大和の山々を踏破した役小角ですから、日本の象徴、富士山にも登ったのです。

この自由な行動を許したのは、実は朝廷でした。伊豆は賀茂氏の勢力圏内です。「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館によると、

 

伊賀国      の鴨藪田公、

伊予国      の鴨部首・酒人君、

大和・阿波・讃岐国の賀茂宿禰・鴨部・役(えん)君

遠江・土佐国   の鴨宿禰・鴨部、

伊予国      の賀茂伊予朝臣・賀茂首

 

伊豆での役小角と賀茂氏との関わりを「役行者」日本経済新聞社による前田良一氏は疑問としながらも生き生きと描いて見せます。

賀茂氏は大変大きな古くからある氏族です。神武天皇東征で大和に導いたヤタガラス伝説は賀茂氏といいます。また、修験道に通じた後年の忍者にも共通点を見出し、伊賀国などが基幹としています。また四国伊予国の地方豪族、越智氏、さらには九州、宗像氏、安曇氏と通じた大航海王国として関連つけようとします。また、本研究で不思議と感じていた河内(本研究では泉大津、難波)・淡路島、讃岐国を結ぶラインについても言及しています。また、黄金伝説と吉野を結びつけます。

これらの視点には目が覚めるような鋭さを感じます。彼の行動力と取材能力には脱帽です。本研究で漠然と述べたことがこの本では明確に説明されていたからです。

本稿での役行者は天武天皇時代の実像に迫ります。人間くさいものです。本研究内で描いたバラバラな記述をここで集約しておきます。

 

役小角はいつ流刑を許され、何故許されたのか。

 

701文武5年1月   、通説では、同年の大宝元年1月、役小角は京に戻ったといわれ、

       6月 7日 68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したともいわれます。

701大宝1年3月21日、対馬国が金を貢じたので、年号を大宝と改めた。

    この年     、宮子夫人が、後の聖武天皇を生むと続日本紀にある。

701大宝1年11月4日、全国に大赦する。

702大宝2年正月   、大赦により、役小角、京に戻る。(本説)

 

上記の年表で本稿の結論を示しましたが、日本霊異記が記したように、伊豆島に流された役小角は3年で戻ることができました。

伊藤太文氏は「これには文武の即位に当たって旧体制につながる勢力を駆逐しようとする持統―文武の意思が見て取れます。しかし、同年、持統上皇が重症の床に臥すことになり、それを役行者の恨みによる『「験術』のせいではないかと怯えた持統―文武側が、彼を許すに至った」と解釈されました。秩父今宮神社一八〇〇年史 古社・秩父今宮神社研究会編 叢文社

卓見と推察します。この論を推し進めて、続日本紀を読み直してみると、ことはもっと大きな広がりを見せたのです。

 

まず、役小角の赦免の日付を特定します。

文武天皇に譲位してから持統太上天皇が崩御されるまでの5年間に全国的な大赦は文武3年に1回、4年に1回、大宝1年に1回と2年に5回の合計8回ありました。

役小角の赦免だけは特別で続日本紀には書かれていないという考え方もありますが、几帳面な続日本紀に関して漏れはないと思います。この8回の大赦のどれかで京にもどったのです。

 

通常の現代語訳には大宝1年正月に赦されたような文面を多く見かけますが、原文を読むと違います。日本霊異記には「以、大宝元年歳次辛丑正月、令近天朝之辺」とあるのです。大宝元年正月はこのときまだ、文武5年正月です。大宝元年になるのは3月21日なのです。「次正月」とは翌年大宝2年正月のことです。しかも、「正月に赦免された」のでもありません。少し前、大宝元年11月4日の全国におよぶ大赦「於是垂慈之旨により赦免されたものです。その結果、流された時より3年後の翌大宝2年正月までに天皇のそばに戻れたと日本霊異記は正確に記しているのです。正確には2年7ヶ月におよびました。

699文武3年5月24日(続日本紀)〜702大宝2年1月(日本霊異記)

 

続日本紀は11月4日の大赦の理由を書いていませんが、たぶん聖武天皇が生まれたからだと推測できます。聖武天皇が生まれたのは大宝元年の生まれであることはわかっています。賀茂一族の娘が、天皇の第一皇子(後の聖武天皇)を出産したのです。この年の大赦は11月4日だけです

時代は大宝に代わっていました。金が対馬で発見されたから大宝としたとありますが、案外、藤原不比等の策謀のようにも思えます。この頃、この生まれた子は中臣氏と賀茂氏の娘ですから、まだ文武天皇の側室で身分は高くありません。しかし、藤原不比等の頭の中はすでに、この子を天皇にすべく壮大なプロジェクトがはじまっていたのです。別の理由で、元号を変えさせ、全国的な大赦まで行ったのです。

対馬に金が出たことはデマだったとあります。対馬の歴史はこれ以降、政治がらみの嘘が多いのです。

案外、このときの嘘の出所は、不比等辺りだったのかもしれません。対馬にはお咎めがないからです。対馬の金に騙されたのは朝廷だったのではなく、我々庶民側であったのかもしれません。不比等の孫が生まれたことを金にかこつけて全国からお祝いさせられた形です。

 

ところで、これをどう訳したらよいのでしょう。

然庶宥斧鉞之誅、近天朝之辺、故伏殺剣之刃、上富岻之表。

斧鉞の誅を宥れて朝の辺に近かむことを庶ふが故に、殺剣の刃に伏して、富岻に上る。

 

1.極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。(中田祝夫氏)講談社学術文庫

2.極刑を許されて朝廷のある都の近くに帰りたいと願ったので、今度は誅殺の刑に処せられ、あやうく逃れて富士山に飛び上がった。(池上洵一訳)対訳日本古典新書 創英社1978

3.刑罰を許されて天皇の辺りに近づきたいと願い、命をかけて富士山に登った。(原田敏明、高橋貢訳)東洋文庫97平凡社1967

4.重い刑罰を赦されて都へ還ろうと思って、自ら刃に伏して富士山に上った。(蔵野憲司訳)古典日本文学1筑摩書房

 

1.2.は「役公伝」など後世に描かれた役行者が流罪中、再度の誣告にあったとする記述を踏まえて訳出されたものとおもわれます。原文にはない余分な解釈があるからです。

しかし、役公伝をはじめ三宝絵詞、扶桑略記は、続日本紀、日本霊異記と比較してかなり遅い書物です。そこで本稿は続日本紀、日本霊異記の記述だけで役行者像を描いています。

本来の訳は3,4でいいのです。

ではこのわかりにくい原文をどう解釈すべきなのでしょう。

実は、富士にある三島神社はやはり賀茂氏の守り神です。その祭神は事代主神です。一言主神との違いが正確にはわかりませんが、ここでは同等と考えました。つまり、京で彼を陥れた神にここでも対峙して見せたのです。役小角は、そんな富士に登って祈りをささげたのです。当時はまだ富士は活火山であったはずです。

 

役小角はそれほど帰りたがっていたのです。そこには朝廷への恨みや憎しみは微塵も見られません。それどころか、戻りたい一心で祈っています。誠意を尽くして嘆願したようです。朝廷とその周辺の反目をこの文章からは窺い知れません。

それにしても、役小角はなぜ、そこまでして京に戻りたいと願ったのでしょう。そんなに老いた母が恋しかったのでしょうか。私は彼がそれまで歩んできた朝廷との関わり、特に天武天皇との結びつきに大きな自負と自信をのぞかせていたように思うのです。彼が戻りたかった場所は故郷の山々ではありません。日本霊異記にもあるとおり「近天朝之辺」つまり、朝廷そのものだったのです。

 

しかし、役行者にとって、京での不在の3年間に環境は大きく変化していました。以下で述べる彼を知る道照たちは役行者の流罪中に次々亡くなっており、政治の舞台での彼の存在はもう無用ものだったのです。

たぶん、彼を重用した天武天皇のあとを継いだ皇后、持統太上天皇までが崩御されたのを期に、彼は自らまた自然を求めて、京を去ったと思われます。もう彼の過去の業績を知るものなど残っていなかったのです。まさに、仙人となり天に飛び去ったのでした。「遂作仙飛天也。」

 

 

ここまでの話をまとめます。

朝廷が役小角を流罪にした理由は、朝廷そのものから彼を遠ざけることでした。罪を犯したからではないのです。讒言したのは、中国からの仏教や道教を嫌う古い日本の神々を信仰するものたちでした。

その刑は意外に軽いと思います。3年間も短い。しかも伊豆は彼の一族が支配する行動が自由な地域でもあるのです。朝廷は役小角を彼の親戚筋に預けたのです。伊豆の一族は彼に同情的だったようです・逆に、少なくとも60歳を超える高齢者が、一族のもの達と高速船を操り、伊豆を歩き回ったことは何か密命を帯びていたようにも思えます。伊豆の島を抜け出すのは一人ではむりで、海の一族でもある賀茂氏の協力があったはずです。

しかし、役行者は天皇の傍に戻りたいと願っていました。自分の氏族、賀茂氏の娘が文武天皇の子を生んだのを期に京に帰る事を許されたのです。

 

道照について

 

日本霊異記に紹介された役小角を「聖」すぐれた能力者であると認めた人物に道照がいます。

道照について、続日本紀はまれにみる長文をもって彼の小史を載せています。日本霊異記22にも載せられた讃辞より長いのです。朝廷からの信頼の大きさがわかる一文です。

とても続日本紀の全文を紹介できないのが残念ですが、概要は次の年表でまとめてみました。なお、年表は続日本紀以外の記録も一緒に載せています

 

道照(道昭) 629舒明1年生〜700文武4年没 72歳

629舒明1年( 1歳)河内国丹比郡に生まれる。若くして飛鳥寺(元興寺)に住む。

653白雉4年(25歳)5月、遣唐使、貞慧もこのとき参加。玄奘三蔵に師事。

661斉明7年(33歳)この頃帰国。元興寺の東南隅に禅院を建立。弟子に行基など。

669天智8年(41歳)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。

679天武8年(51歳)10月の勅により、京にもどる。

680天武9年(52歳)天武天皇の勅願により、往生院(大阪府泉南市牧野)を開基。

692持統6年(64歳)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。

698文武2年(70歳)大僧都に任命される。(疑問とする説も多い)

700文武4年(72歳)3月10日没。座禅のまま没した。「記録上火葬された最初の人物」

 

彼の年齢はわかっています。その結果、653白雉4年(25歳)5月、遣唐使として、中臣鎌足の長男貞慧らとともに参加します。中国ではあの孫悟空で有名な玄奘三蔵に師事したとあります。660斉明6年(32歳)頃帰国したようです。もといた元興寺の東南隅に禅院を建立し、ここを基点に修行したようです。

 

そこでこの役小角と道照の接点です。

道照が役行者のことを語ったのは晩年の彼の講話でのことだったと思われます。10年唐で修行しているとき、仙道を身につけた役小角と千里を超えた新羅の地で再会できたのだよ、とでも語ったのだと思います。

日本霊異記の記述では、道照との唐での再会記事は時間軸がずれていると指摘するものがありますが、そうではないと思うのです。道照が晩年、仙人となった役小角と大陸で会ったのではなく、晩年の講話のなかでの思い出話だったはずです。それは道照が唐で役小角に出会った話はこの道照だけが知る事実です。このことは道照が唐に行く20歳代ですでに、役小角と親交があったと解釈したいのです。若い頃から修行に励む役小角を褒め称えたようです。山に籠り厳しい修行を自分に課す仙人、役小角行者を知るものだからこその讃辞です。黒岩重吾氏は「役小角仙道剣」で役小角にこうした舶来の学問を授けたのは、道照あたりではなかったと卓越した視点で書いておられます。

伝承でも650白雉1年 役小角17歳のとき、飛鳥寺(元興寺)で、孔雀明王の呪法を学ぶとあります。このとき、道照も飛鳥寺にいたはずです。

少なくとも、この頃から道照と役小角は知り合いであるわけです。日本霊異記の現代語訳からは、役小角が伊豆嶋から許され戻ってから、唐に居た道照と会ったように描かれています、ここは、原文構成から後半部分に役小角の不思議な奇跡をひとまとめにして紹介したものだと考えられます。先にも述べましたが、文章を前後の流れで捕らえると見間違います。仙人になった役行者が後年、道照と会ったのではないのです。

 

もう少し、道照を追います。

 

続日本紀 700文武4年

三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。

和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。

父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。〜

「3月10日 道照和尚が物化(死去)した。天皇はそれを大変惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連、父は少錦下(従五位下相当)の恵釈である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。〜」宇治谷孟 訳

 

日本で記録上、火葬すなわち荼毘に付された最初の人物と言われています。

そして、2年後、702大宝2年12月22日、持統太上天皇も火葬されました。皇室でも初めてのことと言われます。明らかに、道照を見習ったものです。道照の教えに大きな影響をうけ仏教に帰依したものです。これはとんでもないことだったはずです。一般の古い風習に従わず、愛し尊敬し続けた夫、天武天皇の持つ死後の道教の概念を踏襲することなく、自分の肉体を1年後の12月17日とはいえ火葬させたのです。この一年におよぶ殯(もがり)の儀式は行われ、復活への思いは残したようです。

(参照:天武・持統天皇陵

 

俗姓(出家前の姓)は「船連」また「丹」とも書きます。

河内国丹比郡の人です。大阪府松原市・美原町・狭山市と羽曳野市・堺・など西部にわたる地域を指します。同族に津氏や白猪氏がいます。

父、恵尺は百済王の子か孫といわれ、天智時代の官位、小錦下(従五位下相当)でした。皇極天皇4年6月に乙巳の変により蘇我蝦夷が自殺する際、国記を火の中から救ったといわれた人物でもあるのです。つまり代々蘇我本宗家に仕えていたと思われます。

船連はもと船史で渡来氏族です。553欽明14年7月4日に天皇から勅を承った蘇我大臣稲目宿禰が王辰爾(おうじんに)を遣わし、船の税を記録させました。これによって船司とし、船史(ふねのふびと)の姓を賜ったとあります。683天武12年に史から連となり、791延暦10年正月に宮原宿禰となっています。

また、造船、港湾施設建造などの土木工事の高度な技術をもっていた渡来氏族ということで、元百済王ですから大変な人脈をもっていたはずです。

宇治橋は彼が造ったと続日本紀にはありますが、実際の碑には大化2年道登が造ったとあり日付もあわず、日本霊異記も道登が造ったとしているので、正しいとすれば宇治橋については修理をした程度なのかもしれません。

その活動範囲は大和・山背・摂津・河内に渡るといわれます。

 

679天武8年5月の吉野会盟あと、10月の勅令が道照らを寺に戻したと言われています。

 

日本書紀 天武天皇 679天武8年5月

是月、勅曰、凡諸僧尼者、常住寺内、以護三寶。

然或及老、或患病、其永臥陝房、久苦老病者、進止不便、淨地亦穢。

是以、自今以後、各就親族及篤信者、而立一二舎屋于間處、老者養身、病者服藥。

「この月、勅して、『そもそも僧尼は、常に寺内に住して仏法を護持すべきである。しかし老いたり病んだりして、狭い僧坊に寝たまま、長らく苦しむのでは、動くにも不自由であり、清浄なるべき場所も穢れる。それ故。それ故今後はそれぞれの親族か、信心の厚いものをこれにつけ、一つ二つの屋舎を空いた所に建てて、老人は身を養い、病人に薬を服するようにせよ』といわれた。」

 

つまり、669天智8年の頃から天武天皇の指示で全国を歩き回ったような表現です。まさに壬申の乱のなかを歩いているのです。この勅令により、その労をねぎらうかのように壬申の乱は終わったのです。天智8年、中臣鎌足が薨じた頃には天武天皇は壬申の乱を想定し始めていたことになります。息の掛かった僧などの仲間が全国に散り、豪族との協定を模索していったのです。

 

【皇室と役行者の年齢構成】

600 77777777788888888889999999999000000 年

年   01345678901234567890123456789012345 齢

天武天皇――30―――――――――40――43(本稿説)

持統天皇――30―――――――――――42―――――――50―――――――58

草壁皇子HIJKLMNOPQRS――――25―――28

文武天皇             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

聖武天皇                               @ABCD―

役小角 ――40―――――――――50――53――――――60―――――666870

道照  ―――――――50―――――――5860―――――――――――72

    (壬申の乱)                      (流罪期間)

 

役小角がいつ生まれいつ死んだか不明です。上記年表は634舒明6年に生まれで生誕地は吉祥草寺とする後世の書物から取りました。本稿でも役行者と道昭は年齢が近いと思われることから、この説を採用していきます。

ただ流罪のとき母親が老いたとはいえ生きておられたわけです。長男と考えても年齢80歳をゆうに超えていたことになります。黒岩重吾氏は10歳ぐらい若いと設定されています。あるいはそうなのかもしれません。

本稿が描いた役行者の人物像はのちに偶像化され描かれた小鬼を足で踏みつけた金剛力士像とは相容れません。最先端の中国道教を書物で研究し尽くした知識人であり、朝廷に忠実で自然を愛するやさしい山男の風貌が浮かび上がりました。

 

やっと、前段が終わり本題に入ります。ここまでてこずったのは、続日本紀や日本霊異記への誤訳とも思える異訳の多さへの驚きからです。後世に伝わる多くの知識が古原文訳に反映してしまったように思えます。別に古典漢文の授業ではないのですが、本稿の主旨に沿い、原文と現代解釈の間に横たわる長い時間のほこりを取り除きたいという思いがこんな長文になってしまいました。

 

次に天武天皇と役行者の接点を列挙していきます。

文献による二人の接点はありません。そのほとんどが伝承に頼ります。よって、矛盾した表現、断定的な思い込み、神社、仏閣側からの保守的態度が見られますが、よく吟味すればするほど、どれもすばらしいものであることがわかります。

 

天武天皇と役行者の史実と伝承による接点

 

賀茂氏と天武天皇との関わり

 

賀茂蝦夷

賀茂蝦夷は役行者の親族であり、壬申の乱で活躍した功臣です。

日本書紀 672天武1年壬申 6月

因乃令吹負拜將軍。

是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及羣豪傑者、如響悉會將軍麾下。

因りて吹負に命して將軍に拜す。

是の時に、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及び豪傑しき者、響の如く悉に將軍の麾下に会ひぬ。

 

壬申の乱の初め6月、「吹負を大和の将軍に任命された。このとき三輪君高市麻呂、賀茂蝦夷ら諸豪族は響きが声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った」といいます。

 

7月には、河内から進入する近江軍に備え、数百人を率いて岩手道(二上山の南を河内に抜ける竹ノ内峠か)を守ったとありますから賀茂氏の地元で行動したようです。

684天武13年に鴨君が朝臣姓を賜り、695持統9年4月17日、直広参の位を賀茂朝臣蝦夷に追贈し賻物を賜りました。つまりこの時亡くなったことになります。

 

「三輪君高市麻呂、賀茂蝦夷ら諸豪族は響きが声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った」とはどういうことなのでしょう。少なくとも、吹負の招きに応じたわけですが、早すぎる対応といえます。

賀茂氏は、はじめから天武天皇に付き従っていたように思えます。または賀茂一族らは天武天皇と打ち合わせを事前に済ましており、吹負の呼びかけを待っていた書き方にも見えます。なぜなら、共に応じた三輪君とは後に大三輪朝臣となりますが、奈良時代には大神(おおみわ)朝臣と表記される、賀茂(鴨)氏と同類の大和の古くからの氏族です。天武天皇はこの葛城の地との盟約をすでに終わらせていたのです。それを仲介したのが役行者であったのかもしれません。

 

賀茂氏は大きく二系統あるようです。

大和葛城(奈良県御所氏)を本拠地とする賀茂君、後の賀茂朝臣は大物主の子、太田田根子の孫、大鴨積を始祖とします。葛城の高鴨神社は賀茂朝臣の神社ですが、事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂朝臣が祀っていた神であると考えられているのです。

賀茂氏にはもう一派、山城国葛野を本拠とした代々賀茂神社の奉齋した賀茂県主がいます。佐伯有清氏の研究によれば、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とするものたちにあたります。葛城氏と同類で神武天皇を大和に導いたものです。

 

八咫烏伝説では、熊野から大和に向かった神武天皇が道に迷われたとき、天照大神から遣わされたこの八咫烏の導きによって、無事、宇陀の下県につけたとあります。このとき、大来目(おおくめ)の大軍を率いたのが、大伴氏の祖先の日向氏で、天皇から道臣の名を授けられました。

ほとんどの壬申の乱の氏族が吉野の周りに集結したような伝説です。久米氏は後に皇族の戦闘歌舞の久米舞とまでいわれた部族で、天武天皇に付き従い、後に朝臣姓を授かりました。神武天皇のころは大伴氏とこの久米氏が軍部を統括する2大勢力でした。また道臣には壬申の乱の功臣、路真人になる豪族もいるのです。

余分なことですが、八色の姓で大伴氏はなぜか、朝臣姓を得られませんでした。その下となる宿禰姓です。そのなかの筆頭ではあります。

 

当麻国見(当摩とも) たいまのくに、たぎまのくにみ

用明天皇の皇子、麻呂子皇子=当麻皇子(麿古王=聖徳太子の弟)の孫、当麻豊浜の子?

麻呂子皇子は603推古11年7月征新羅将軍として難波から出発されました。ところが妻の舎人姫王が赤石で薨じたため、その地に葬りそのまま帰還した皇子です。

姓はもと当麻公 たぎまのきみ、後に八色の姓により真人姓を得ています。

大和国葛下郡当麻郷(北葛城郡当麻町・香芝町一帯)を本拠地とする氏族のようです。

 

【当麻国見関連年表】

684天武13年10月   八色姓の制定で最高位の真人姓を得る

685天武14年5月19日 直大参、当麻真人広麻呂卒。壬申年之功。贈直大壱位。

686朱鳥 1年、     天武天皇の葬儀の際、左右兵衛の事を誄。時に直大参(正五位上相当)。

696持統11年2月28日、直大壱の国見は東宮大傳に任じられる。 時に直広壱(正四位下)

              文武天皇、当時軽皇子の教育係か?

697文武1年 8月 1日、文武天皇即位

699文武3年 5月24日、役行者、伊豆嶋へ流罪

699文武3年10月20日、国見らが越智山陵(母の斉明天皇陵)修復のため派遣された。

              時に直大壱(正四位上)

701大宝1年 7月21日、壬申の功臣として100戸が与えられた。

              このとき、亡くなったか?

 

壬申の乱では吉備国守、当麻公広嶋は近江朝の使者に欺かれ殺されています。日本書紀は、吉備国守当麻公広嶋と筑紫大宰栗隈王は元から大皇弟(天武天皇)についていた、と敵に語らせています。壬申の乱のとき、すでに吉備国と筑紫国は天武天皇の味方であり、つまり親しかったことになるのです。

685天武14年5月に直大参、当麻真人広麻呂が卒し、壬申年之功として直大壱位を贈られます。残念ながらその具体的な功績は不明です。

一方、朱鳥1年天武天皇崩御の際、直大參の当摩真人国見が左右兵衞事を誄る、とあることから、国見は軍事権を掌握する重要な立場にあったことがわかります。

一方、当麻真人智徳は688持統2年11月に天武天皇の2年にもおよんだ最後の誄を終わらせ、大内陵に葬りました。この男は以降、持統天皇、文武天皇の葬儀を仕切る高い立場にいたようです。

国見に限らず、当麻氏全体が密接に当時の朝廷を支えていたことがわかります。

 

葛木市富麻(たいま)には当麻寺(奈良県葛城市當麻1263)があり、役行者所縁の地と云われているところです。681天武10年、河内国交野郡山田郷の禅林寺を移し、当麻寺を建立したとあります。(692年と社伝にはあるという)

上記を象徴するように、この寺は桜井市の三輪山に相対する二上山の麓に位置し、西方浄土(死者)の入口と言われるようになるのです。

当麻氏は役行者と同郷だったのです。

 

次に寺に残る、天武天皇と役行者との接点です。

 

笠置山(かさぎやま)と笠置寺 

京都府相楽郡笠置町にあります。

671天智10年 大海人皇子出家して笠置山から吉野に入る。旗揚げの地とも言われる。

685天武14年 天武天皇、笠置寺建立。

        (笠置寺縁起には白鳳11年天武天皇の創建とあるそうです。)

皇子時代に狩猟で断崖絶壁の地に迷い込み、神仏により助けられ、そこに笠を目印にしました。後日来山したところ一羽の白鷺によってその場所を知り得え、ここに仏堂を建てたと社伝にあるというものです。

ここは、山伏修行の場としても知られており、役行者もこの地で修行されたようです。昔は修行に使われたという千手窟(せんじゅいわや)があったといいます。古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地と推定された場所です。いたるところに巨石あり仏像が刻まれました。

昔、笠置寺は法相宗の寺です。道照と同じであり、役行者もその教えを学んでいるのです。

 

桜本坊 さくらもとぼう

天武天皇勅願寺。 金峯山修験本宗 奈良県吉野町吉野山1269。

兄、天智天皇のもとを離れ、吉野に向かった大海人皇子(後の天武天皇)は、現在の「桜本坊」の前身である吉野離宮日雄殿(ひのお)に留まったと言われています。冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た大海人皇子が役行者の高弟、日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜は花の王といわれ,近々皇位に就くよい知らせです」と答えました。その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所に寺を建立し桜本坊とされたものです。

役行者は常に天武天皇と一緒には行動してはいないようです。しかし、天皇のおそばには必ず、彼の部下がつき従っていたように見えます。

これ以外にも、吉野には役行者と天武天皇の影が多く存在するのです。

 

大日寺 だいにちじ

桜本坊に近く上記の日雄角乗が開基したものです。真言宗醍醐派。奈良県吉野町吉野山2357。

天武天皇との縁が深いとあり、上記に伝承とダブルものがあります。

役行者霊蹟札所36カ所寺社の一つです。

役行者の高弟といわれる人物は、こうしたお寺の開祖に留まらず、朝廷内部にまで幅広くいたことがわかります。決して組織的な大きな宗教集団を目指すものではありませんでしたが、役行者を慕うものはどこにでもいたようです。役行者の自由な行動様式が少し見えてきます。

 

矢田寺

矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)奈良県大和郡山市矢田。

大海人皇子が矢田山で壬申の乱の戦勝祈願を行なった伝承が残ります。

勝利の後、675天武4年智通に命じて、七堂伽藍造営が始まりと言われています。

この智通は653斉明4年唐に渡り、法相宗を広める道昭と同期生です。

673天武2年には僧正、その後、平城京に観音寺建立にも関係しました。

八咫烏(やたがらす)伝説と矢田寺があるのかわかりませんが、奇妙な名の類似が見られます。

 

千光寺

白鳳時代 役行者が開基されました。真言宗醍醐派。奈良県平群町鳴川188。

天武天皇時代、朝廷より500石とともに寺名が与えられたといわれます。本稿では、吉野会盟で天皇自ら千年の平和を約したとしました。天武天皇の志、千の光の名にふさわしいと思うのです。

つまり、朝廷とは天武天皇のことと考えられ、少なくとも彼はこのことを知っていたはずです。この吉野会盟にも、役行者の影がしのびやかに控えているように見えるのです。

役行者霊蹟札所36寺のひとつです。

 

弘川寺

役行者によって建立された奈良県南河内郡河南町にある山寺です。

役行者霊蹟札所36ヶ寺社の一つです。天武天皇の勅願寺でもあります。

白鳳5年天武天皇が請雨祈願をはたしたことから勅願寺になったといわれます。伝承では天武天皇に請われ、役行者が雨乞いの祈祷により雨を降らせたと伝わるところです。白鳳5年とは677天武6年を指すと考えています。大地震と日照りのあった年です。翌年678天武7年に天武天皇の長女十市皇女が雨を降らせようとした巫女として自殺しています。

何とか雨を降らせようとしていた天武天皇がここでも役行者に協力を依頼していたのです。

 

勝持寺(花の寺)

京都市西京区大原野にあります。680天武9年 神変大菩薩=役行者が創建。本尊は薬師如来 薬師霊場42番札所、天武天皇勅願寺です。皇后(後の持統天皇)が重い病になったとき、薬師寺建立を期に日本全国にこうした薬師如来を祭る寺が作られています。

役行者も天武天皇とともに鵜野皇后の病気を治そうとしていたことがわかるのです。

696年には役小角が和泉国普賢山に薬師浄土を創開するといいます(現、獅子窟?寺)。

 

蛇足ですが1799寛政11年、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表しました。その際、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして、神変大菩薩の諡を贈ったとあります。

 

室生寺 むろうじ

奈良県宇陀市室生区にあります。天武天皇の勅願寺ですが、寺伝によると681天武10年天武天皇の願いで役行者が創建したと伝えられているそうです。

714和銅7〜793延暦12年の興福寺の僧賢m(けんきょう)により桓武天皇の病気平癒により開基といわれています。法相宗の僧。真言宗室生派。

法相宗といいますから、役行者の親友、道昭と同じ宗派です。また、竜神を信仰する山岳寺院です。

 

長谷寺 

天武天皇の勅願寺です。奈良県桜井市初瀬。

686朱鳥1年 長谷寺の開祖、道明(天武天皇の病気平癒を祈願して豊山(初瀬)に多宝塔を敬造した) 霊木を用いて十一面観音像を造立して長谷寺を創建、開眼供養には行基が関与。 

奈良弘福寺(川原寺)の僧侶、俗姓は六人部氏。室生寺のそばにあり、共通のにおいがします。

 

このように、天武天皇と役行者は壬申の乱での活躍もさることならが、それ以降もつかず離れず、天皇をサポートしているように思えるのです。

 

天武天皇と役行者との活動範囲の類似点――和泉市に関わる

 

天武天皇と役行者がともに壬申の乱における吉野の地に大きな共通点があることがわかりましたが、和泉市にも二人は共通な交わりが見え隠れするのです。

和泉市は本研究では天武天皇が誕生した場所と特定しています。

ところがそこには、役行者の足跡が数多く残るところでもあるのです。

 

聖神社 ひじり 

大阪府和泉市王子町

天武3年 天武天皇の勅願により、渡来氏族の信太首(しのだのおびと)が氏神として祀る。聖 は「日知り」の意味で暦の神とある。近くの信太の森は安倍晴明誕生秘話が残るところ。

陰陽道などもこの流れを引き継ぐものと思われる。山岳地だけではなく、京における修験者、聖神社の伝説などに注目することができます。

 

施福寺 せふくじ

近くに和泉市槇尾山の山頂近く(和泉市槇尾山町136)があります。

欽明天皇勅願寺、行満上人により開基といわれます。

役行者が書写した法華経を葛木の峰々に安置し最後の巻尾をこの地、如法峯に納めたことから巻尾(まきお)と呼ばれました。行基や空海もこの山で修行を積んだようです。往事には3000人の僧を抱える太寺だったとあります。

 

松尾寺 まつおでら 

大阪府和泉市松尾寺町2168

役行者霊蹟札所36寺のひとつで泉州松尾寺があります。672白鳳元年に役行者が開基とあります。

役行者がこの地で7日間修法し、楠の霊木に「如意輪観世音菩薩」の尊像を刻んで安置したことに始まったとあります。

一方奈良にも同名のお寺があります。こちらは

718養老2年 舎人親王 真言宗醍醐派 奈良県大和郡山市山田町683

天武天皇の皇子・舎人親王が42歳の厄除けと「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立したと伝わります。元正天皇の勅願といわれ、役行者像が安置されているそうです。

 

往生院 

大阪府泉南市信達牧野

天武9年 上記で述べた道照によって建てられました。天武8年に勅により地元に戻った翌年のこととなります。持統天皇には絶大の信頼を得ており、このことは天武天皇にとっても同じと考えていいと思います。往生院は天武天皇の勅願寺だからです。持統天皇自らをも火葬させることでも、道照への傾倒の大きさは測りしれません。しかも、この道照は役行者を聖として讃え、彼をよく知る旧知の間柄だったことも日本霊異記などの記述からわかるのです。

 

慈眼院 

大阪府泉佐野市日根野

天武2年 隣接する日根神社(和泉五社のひとつ)の神宮寺。泉州の最古刹、覚豪阿闇梨によって井堰山願成就寺無辺光院という名で創建。日根氏の氏寺。

天武天皇の勅願寺。

 

 

役行者霊蹟札所は現在、36ヶ寺社あります。役行者が開基したとするもの19社、36社のうち天武天皇に関するもの6社、白鳳時代に創立するものは21社、吉野にある寺10社と集中しているのです。

 

 

天武天皇と役行者の仙道思想の類似

 

「丹生川上神社上社 本来は吉野川の近くにあったが、大滝ダム建設で水没。平成10年3月、川を見下ろす現在地に移ったといいます。例大祭での晴れやかな舞楽奉納は有名、雨師の神、竜神をまつり、天武天皇創建と伝わります。」

これはインターネット上での新聞記事で見たものです。あるいはホームページの書き込み記事だったかもしれません。

天武天皇は「丹生にゅう」に大きな興味をもっていました。

吉野(東吉野―宇陀)は水銀の産地です。丹生といわれるその原石は水銀朱を加熱することで水銀が採取できるものです。

水銀朱は道教では不老不死、不老長寿の高貴薬とされ、聖なる水として水銀朱に聖水を混ぜたものを飲み、若さを保とうとしたのです。

天武天皇の崩御の後も、続日本紀において、文武初年度から鉱物献上の記事が多いのです。顔料や染料としたという言い訳が目立ちます。仙薬調合のための収集であったはずです。このことは前に述べました。(「天武天皇崩御の謎」参照)

また、年号も大宝は金にまつわる年号、和銅は自然銅の発見によるもの、さらに、慶雲、霊亀、神亀、にいたっては露骨に神仙思想そのものになるのです。

 

天武天皇は仙道に深く関与していました。役小角はその先達であり、よき理解者であり、丹生を求めて山々を渡り歩く仙薬収集の達人であったと思われるのです。早くから、役行者とは知り合っていたように思えます。

その発想は彼の人生のなかでもかなり若い頃にまで遡ることができます。彼が生まれ育ったと思われる、父や叔父の住んだ和泉地方は丹生の研究に相応しい土地だったのです。

 

しかも、彼の母、斉明天皇も神仙思想には違う意味で深い理解者であったことも大きな関わりがあったはずです。斉明天皇は吉野が聖なる地―神仙境とされ、そこの離宮を建てたと言われています。仙薬があるとする三神山一つ蓬莱山には亀の背中に乗っているという神仙思想があります。明日香の地に残る亀の石像などは有名で、仙薬より神仙世界の具体化に興味が集中していました。斉明天皇の宮を広げたのちの飛鳥浄御原宮は母の水の宮殿といえるものでした。神仙の極意なのです。

 

壬申の乱は天武天皇にとって突発的な受け身としての防衛行動ではなく、かなり計画的な前向きな天皇位奪取を目指したとする説を多く見かけます。私もそう思います。

壬申の乱をサポートした人間離れしたスピードある組織行動に関与したのは天武天皇の優秀な舎人たちでした。役行者を勉強するうちに、さらに深く低く飛び回り情報伝達に携わったと思われる役行者や道照などの仏教徒や道教を重んじる優婆寒が俳諧して全国を駆けめぐっていたことがわかってきたのです。

悪い表現かもしれませんが、趣味ではじめた仙薬の高貴薬、丹生収集の産地は天武天皇や役行者の壬申の乱を踏破した地名とダブってくるのです。

天武天皇は九州から京に戻った天智7年以降、仙薬収集を役行者などに委託しながら、自らは天皇転覆を企むようになっていきます。役行者のようなもの達は、全国を飛び歩くなかで各豪族たちとの橋渡し役として利用されてきたとも思えます。

近年の精鋭の小説家がまるで忍者のような天武天皇といった、じつは影の立役者たちがいたのです。吉野会盟により天武天皇は全国に散った名もない優婆寒や僧侶達を郷里に戻す勅令を発しています。彼の中での壬申の乱がやっと収束し終わったのです。そんな僧侶達を大切にしなさいと、労をねぎらったのです。

 

この頃の最先端の知識は中国にあり、三教と言われました。

儒教は紀元前6世紀、孔子により道徳理念としてまとめられました。前漢の武帝により国教として全盛を迎えています。

仏教は1世紀ごろインドの釈迦を祖としています。儒教と関わりながら中国独自の発展をとげ随・唐時代に多くの寺院が建立されました。

道教は5世紀中頃、民間信仰が基になって成立。文献としては「無為自然」自然のまま生きる老子を祖と考えられますが、2〜3世紀の五斗米道(ごとべいどう)という呪術的活動などその起源はさらに古いと思います。

道教のなかの仙道は老子・荘子中心の道家思想として不老長寿を目指すものです。歴史的には、古来の巫術や鬼道の教を基盤とし、墨家の上帝鬼神の思想信仰、儒教の神道と祭礼の哲学老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、中国仏教の重層的、複合的にとりいれたものといわれます。道(タオ)という宇宙と人生の根源的な真理の世界一の不滅とそれに一体となるべく修行し煉丹術をおこない、不老不死の霊薬、丹を練り服用し仙人になることを究極の理想とするものなのです。

 

役行者は日本の古い神道をあたかも従えるかのように中国の道教、広くは道教の性格でもある仏教や儒教をも複合させ、習合させていきます。さらに役行者の好み、山岳信仰として独自の発展を遂げたということで教祖といえると思います。

天武天皇も役行者と同時代に生き、二人が歴史のなかで交差するなかで、互いを認めあい協力しあってきたと考えられるのです。

 

 

本テーマに関わる参考文献

日本霊異記 岩波新日本古典文学大系30 出雲路修校注 岩波書店1996

日本霊異記 中田祝夫氏 講談社学術文庫 1978年

      池上洵一訳 対訳日本古典新書 創英社1978

      原田敏明、高橋貢訳 東洋文庫97 平凡社1967

      蔵野憲司訳 古典日本文学1 筑摩書房 

役小角仙道剣  黒岩重吾  新潮文庫 2003年

役小角 伝私記―その原初伝承― 中村宗彦 大谷女子大学紀要 第14郷2輯1980年1月

役行者 前田良一  日本経済新聞社 2006年

秩父今宮神社一八〇〇年史 古社・秩父今宮神社研究会編 叢文社 2000年

道教の神々 講談社学術文庫 窪徳忠 1996年

 

 

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