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天武天皇の年齢研究

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2015年専門誌に投稿

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武大地震、大飢饉 てんむだいじしん、だいききん

First update 2012/10/13 Last update 2015/03/04

天武大地震

684天武13年10月14日22時頃にこの大地震は発生しました。「白鳳地震」とか「天武地震」と呼ばれています。現在、「大地震」とはあまり呼ばれません。「白鳳地震」、これが現在の解釈です。なぜ大地震ではないのでしょう。

天武天皇時代、地震が多いことは注目できます。それどころか天災、異常気象が多いこともこの時代の特徴です。気候不順、長雨、大雨、洪水や干ばつ、日照り、雹(ひょう)、大雪のオンパレードです。また、流星や隕石落下、日食とこれだけの天変地異のなか、天武天皇の時代は目立ちませんが、他の時代に比較しても安定していたと思われるのです。聖武天皇の時代のような周章狼狽する大げさな風景は見られません。

本稿では、「天武地震」をまれに見る「大地震」だったと解釈しました。しかも、そんな苦難にも関わらず冷静に対応できた時代だったとも判断します。

 

追記:以降「白鳳地震」の表記を止め「天武大地震」としました。これは坂本太郎氏の論文により、天武朝の「白鳳」とは平安後期以降の呼び名であるとする説でほぼ、定説化されたと確認したためです。「日本古代史の基礎的研究 下 制度篇」参照

文頭の地震表の規模数字(マグニチュード)を改めました。あくまで目安です。(2014.12.21

 

天武天皇前後の地震記録

上記の図をまず、説明します。西暦580年から740年までの地震の記録、この図では日本書紀と続日本紀の一部から抽出しました。横軸0の紫の破線は当時の在位天皇名を示します。天武天皇在位は673天武2年から686赤鳥1年です。縦軸は地震の規模を示します。記述された表現から単純に3段階に別けました。

厳密には史書から地震の規模がわかりません。表現として「地震」「震」「大地震」「地動」「大地動」「地大震」とあります。感覚的なものにすぎませんが、目安として本稿では

    (地震)M3<(地動)M4<(大地震、大地動)M5、としてグラフ化してみました。

「振動」より「動く」のほうが大きいと単純に考えました。

なお、日本地震学会で公表された地震については、その数字を採用しています。天武大地震はM81/4とあります。被害を載せ規模を示す数字のないものはM5としました。

 

こうして仕分けした上記の表、これだけ見ても天武天皇在位期間中の地震が異常に多いかわかります。数字で示せば、推古1回、舒明0回、皇極3回、天智1回、天武21回、持統1回、文武2回、元明4回、元正7回、聖武5回(740年まで)となります。天武天皇時代は地震の表記数が格段に多いのです。在位期間を加味し、年間発生件数で計算すればもっと多い確率で地震が頻発していた時代だったのです。

 

ただ、注意しなければならないのは、天武天皇の頃から、日々の記録がしっかりしてきたため、規模の小さな地震も記録として残ったとも考えられます。

また、地震の発生場所がはっきりしていません。この頃から律令体制が充実し、全国から中央への報告の量と精度が上がったとも考えられます。

また、現実の今の自分の感覚論ですが、本当に大きな地震が起こった経験者のご意見として、地震そのものに敏感になり、この頃、地震の程度が過大に報告されているのかもしれません。

 

地震の発生場所

通説に従い「天武大地震」は、「南海トラフ沿いの巨大地震」と推定されています。南方からの報告記事が多いことから推測された結果と思われます。

「古代中世地震史料研究会」の記事では日本書紀の記録から「飛鳥付近」と記されていますが、上記の通り、場所の特定はできません。ただ、日本書紀の記録ですので、この周辺での事象と捉えたものと推察します。大きな地震なのでしょうが、地方国司の報告として記載されたものも多かったようです。

 

日本書紀の表現

「地震」「地動」「地震る」「地動る」と和訳し、同じく「ない(ゐ)ふる」と読ませています。岩波版には「ナは大地や土地。ヰはしっかりとすわっているところ。即ち、居。ナヰで地盤のこと。フルが振動する、ナヰフルで地震の意」とあります。(ナヰが本来地震の意味ではないとあります。)

 

古代日本の地震の記録

以下に、地震の記録を羅列します。

資料は古代中世地震史料研究会のものを参考にしました。

日付の書物の記載通りで表現しています。(旧暦)

太文字は、日本書紀の記述です。他は図書名を記しました。

訳は断りない場合、岩波版、日本書紀引用、宇治谷孟訳を用いています。

 

416允恭5年7月14日 「五年秋七月丙子朔己丑、地震。」

被害の記述はありませんが、日本書紀では初見となり日本最初の地震記録です。但し、年号にズレが有ります。正確な日付ではありません。

 

599推古7年4月27日

七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破、則令四方、俾祭地震~。

「地震がおきて建物がすべて倒壊した。そこで全国に命じて地震の神をお祭りさせた。」

地震の被害がわかる最古の記録ですと言われています。(日本地震学会:M7)

 

【聖徳太子伝暦】

(乙未)春三月、太子候望天気、奏曰、応致地震。即命天下令堅屋舎。

夏四月。大地震。屋舎悉破。太子密奏曰。天為男為陽。地為女為陰。

陰理不足、即陽迫不能通。陽道不填即陰塞而不得達。故有地震

陛下為女主居男位。唯御陰理。不施陽徳。故有此譴。

伏願徳沢潤物。仁化被民。天皇大悦。下勅天下。

今年、調庸租税竝免。

大意「春3月、太子が天気を望み、地震に備え、建物の補強を命ずるよう奏上した。

夏4月に大地震がおき、建物がことごとく壊れた。太子は密奏して曰く、「天は男、陽である。地は女、陰である。男女の秩序が乱れ、故に地震が起こる。今、陛下は女の身で位に就かれておられる。陰理に従う為、陽徳が施されていない。民に徳を施されるよう伏して願う。」天皇は大いに喜び、天下に勅を下し、今年の租税が免じられた。」

 

642皇極1年10月 8日 「冬十月癸未朔庚寅、地震、而雨。」

●642皇極1年10月 9日 「辛卯、地震、是夜地震、而風。」

●642皇極1年10月24日 「丙午、夜中地震。」

 

664天智3年3月

三月、〜、有星殞於京北。是春、地震

「3月、〜京の北で星が落ちた。この春、地震があった。」

 

―673天武2年2月27日天武天皇即位――――――――――――――――――――――

●675天武4年11月   「是月、地動。」

●677天武6年6月14日 「六月壬辰朔乙巳、震動。」

         【類聚国史】「壬辰朔乙巳、大地震動。」

 

67天武7年12月

十二月癸丑朔己卯、臘子鳥蔽天、自西南飛東北。

是月、筑紫國地動之。地裂廣二丈、長三千餘丈。百姓舍屋、毎村多仆壞。

是時、百姓一家有岡上。當于地動夕、以岡崩處遷。然家既全、而無破壞。

家人不知岡崩家避。但會明後。知以大驚焉。

「12月27日、臘子鳥(あとり)が空を覆って、西南より東北に飛んだ。

この月、筑紫国で大地震があった。地面が広さ二丈(約6メートル)、長さ三千余丈(約10キロメートル)にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡が崩れて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡がこわれて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気づいて大いに驚いたという。」(日本地震学会:M6.5〜7.5)

 

【豊後国風土記 日田郡五馬山条】

昔者、此山有土蜘蛛。名曰五馬媛。因曰五馬山。飛鳥淨御原宮御宇天皇御世、戊寅年、大有地震山崗裂崩。此山一峽崩落慍湯泉、處々而出。湯氣熾熱、炊飯早熟。但一處之湯、其穴似井。口徑丈餘、無知深淺、水色如紺、常不流。聞人之聲。驚慍騰泥、一丈餘許。今謂慍湯、是也。

「昔、この山に土蜘蛛がいる、名を五馬媛(いつまひめ)といった。これによって五馬山(大分県日田市天瀬町五馬市付近)という(郡役所の南にある)。天武天皇のみ世の戊寅の年に大きな地震があって、山や岡が崩れた。この山の一つの谷間が崩れ落ちて湯の泉が所々に出た。湯の気は猛烈に熱く、ご飯を炊くと早く蒸れた。ただ一カ処の湯はその穴が井戸に似ていて口径一丈余りで深さははかり知ることができない。水の色は濃い藍色で、ふだんは流れない。人の声をきくと、驚き怒って泥を奔騰させることは一丈あまりもある。今、慍湯(いかりゆ)というのはこれである。」一つは間欠泉だったという。久留米市から東に延びる水縄(みのお)断層の活動とされている。」「風土記」吉野裕訳 東洋文庫

 

小郡市機関誌(H8/7/1)によると、(以下「〜」は原文引用や説明で本稿とダブル部分を省略した。)

「最近、久留米市や三井郡北野町の遺跡調査で、1300年ほど前に起こった地震による噴砂や、地割れ跡などが十数カ所で確認されている。〜。発掘調査で姿を現した地震の痕跡を分析すると、九州では最大規模の直下型地震であったことが判明している。もちろんここでいう「筑紫国」は、まもなく筑前・筑後両国に分割される地域内(現・福岡県内)を指している。〜。耳納山脈には約3600年ごとにマグニチュード7.1規模の地震を起こす活断層があり、その地震による被害は久留米市から大分県日田市の東部にまで及んでいたのである。だが年代が特定できるこの地震による遺跡の破壊の跡が、筑後の古代遺跡の年代測定に活用できる状況をつくりだしている。

 ところで山頂にある江戸時代後期の祠の前では、今も里人による祭事が行われている。ところがその周辺には、なんと八世紀中ごろの祭祀用土器片が散乱したままになっていた。山の東と北側の斜面は縦・横数十メートルに及ぶ巨岩が重なり合って絶壁をなし、人を寄せつける足場もない。耳納連山の縁を背景にした白壁のような巨石は、古代には遠くの平野部からも目立つ神秘的な存在となっていたに違いない。

 現在の甘木市と朝倉郡の行政区域が接する所には古代の上座郡と下座郡を分けたときの直線道があって、今も農道として使用されている場所がある。しかもその道路の一方を延長すると、それは明らかに白建石の山を指している。古代の郡境を決める起点の一つに、目立つ白建石の山が選ばれたのではないだろうか。〜律令体制の強化をはかった天武天皇は、伊勢王や官人たちを全国に派遣し、諸国の「境界を限分」させている。筑紫国の地震からは6年後のことで、白建石の巨岩もまだ白くて目立った時期である。上座郡と下座郡の直線による分割は、大地震から間もないこの時期に実施されたのではないだろうか。」

「天武朝の大地震と筑紫小郡」『小郡市史第一巻通史編』小郡市編集員会編 小郡市発行

 

●679天武 8年10月11日 「戊午、地震。」

●679天武 8年11月14日 「十一月丁丑朔庚寅、地震。」

●680天武 9年 9月23日 「乙未、地震。」

●681天武10年 3月21日 「庚寅、地震。」

●681天武10年 6月24日 「壬戌、地震。」

●681天武10年10月18日 「癸未、地震。」

●681天武10年11月 2日 「十一月丙申朔丁酉、地震。」

●682天武11年 1月19日 「癸丑、地動。」

●682天武11年 3月 7日 「庚子、地震。」

●682天武11年 7月17日 「戊申、地震。」

 

●682天武11年 8月12日 下記

●682天武11年 8月17日 下記

壬申、有物、形如灌頂幡、而火色。浮空流北。毎國皆見。或曰、入越海。

是日、白氣起於東山。其大四圍。

癸酉(12日)、地動

戊寅(17日)、亦地震

是日平旦、有虹、當于天中央、以向日。

「8月11日、灌頂幡(かんじょうのはた・仏具で大幅のきれを長く垂れたもの)のような形で、火の色をしたものが、空に浮かんで北に流れた。これはどの国でも見られた。「越の海(日本海)にはいった」というものもあった。この日、白気が東の山に現れ、その大きさは四囲(三尺×三尺)であった。

12日、大地震があった。

17日、また地震があり。この日、平旦(とらのとき・午後4時)に、虹が天の中央に日に向かい合って現れた。」

 

「天武大地震」

684天武13年10月14日(2回)

壬辰、逮于人定、大地震

擧國男女叺唱、不知東西。則山崩河涌

諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔~社、破壌之類、不可勝數、

由是、人民及六畜、多死傷之。時伊豫湯泉、沒而不出。

土左國田苑五十餘萬頃沒爲海

古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方。

有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益、三百餘丈。更爲一嶋。

則如鼓音者、~造是嶋響也。

「14日、人定(いのとき・夜10時頃)に大地震があった。

国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ、河は溢れた。

諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、寺社の破壊されたものは数知れず、

人畜が多数死傷した。伊予の湯泉も埋もれて湯が出なくなった。

土佐国では田畑五十余万頃(しろ)(約12平方km)がうずまって海となった。

古老は、『このような地震は、かつて無かったことだ』といった。この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。

『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(地震に伴う地殻の沈降だろう。)(南海トラフ沿いの巨大地震 日本地震学会:8¼)

 

【熊野年代記古写】40代天武13年

四拾代天武甲申十三、〜熊野浦々ニ津浪入。

詔男女衣服、神造伊豆嶌、十ノ十四大地震。

乙酉十四、熊野三山大破造修料黄金下ル御輿ヲ錺ル。

 

歳代記 第壱】40代天武13年

四拾代天武甲申十三、熊野三山大破修造ス黄金下ル。

朱鳥乙酉十四。去年〜熊野浦々縄浪入。

詔、男女衣服神造伊豆嶌、十ノ十四天下大地震。

(注:『熊野年代記』は近世初期に作られたと考えられるので、古代に関しては注意が必要である。

熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会 H1・9・1発行)

 

「翌月の土佐国司の報告は本地震による津波を、翌年の紀伊国司の報告は本地震による温泉停止を示すと考えられている。

南海トラフ沿いのプレート間巨大地震(南海地震)とみなされており(東海地震も含むかどうかは不明)

津波など地震の記録として世界でも最古のものともいわれてる。」

 

愛媛県「朝倉村誌」S61/5/20によると、(長文のため、一部文章を入れ替え改変した。)

「伊予の国のあらゆる中心地であり、先進地としての朝倉郷は港として、近畿と九州を結ぶ航路の中間碇泊地として、盛んに利用され、港としての施設も整い、また、寺社、條里制など、最も早く設けられ、国造家の越智郡司として、居館を定めていた。

 この朝倉港は、天武天皇の御代に起こった、たびたびの大干抜・大洪水によって、水が涸れて、作物が皆無であったり、水が溢れて反乱したり、山津波による土砂の流出によって、河川の流れを変え、田畑は流失し、屯田川本流をはじめとした総社川・浅川などから押し出してくる土砂によって、遠浅であった海は、徐々に陸地し、府中平野が出現したのである。

 天武天皇13年、白鳳13年10月14日午後10時に勃発した大地震が、朝倉郷を決定的に破滅してしまった。「全国各郷にある官舎はつぶれ」て、朝倉郷行司原の木の丸殿は倒壊、浄禄寺の滅失、歓喜寺も流失し、住職であった輝月妙鏡律尼も同年遷化している。今は僅かに過去の寺塔のあとを残すのみとなっている。古谷にあったと思われる越智郡市居館も倒壊したため、最終的にこれを捨て、桜井郷に近く、国府に隣接する拝志郷上神宮に転居したのである。結果、朝倉港は、陸化して港湾としての役目を失い、新しい府中平野の越智郡桜井港とにとって代わった。」

『天武天皇13年以降の伊予の国』朝倉村誌編さん委員会編

なお、本稿は「伊予熟田津石湯」を道後温泉ではなくこの朝倉村付近と考えました。→伊予朝倉郷参照

辛亥灰零

 

684天武13年11月3日報告(大津波)

庚戌、土左國司言、大潮高騰、海水飄蕩。由是、運調船多放失焉。

「3日、土佐国司が、『高波が押し寄せ、海水が湧き返り、調税を運ぶ舟がたくさん流失しまいした』と報告した。」

(追記2014/06/20)これは10月14日の大地震から20日後の記録ですが、大地震の際に襲われた際、同時大津波の被害報告と考えていいと思います。11月3日に土佐(高知県)から報告されたと解釈できます。南から押し寄せた南海トラフ型、大津波だったのです。

 

●4年前の記事と共に、火山噴火と思われる記事が続きます。この180年後、下記貞観大地震でも、連鎖と思われる、富士山の大爆発噴火が記録されたのです。(追記2014.08.03

680天武9年6月8日「辛亥、灰零。丁巳、雷電之甚也。」

「8日灰が降った。14日、雷電が甚だしかった。」

685天武14年4月、「是月、灰零、於信濃國。草木皆枯焉。」

「この月、信濃国に灰が降り、草木がみな枯れた。」

 

685天武14年4月4日

夏四月丙子朔己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉、沒而不出也。

「夏4月4日、紀伊国司が、『牟婁温泉(むろのゆ・和歌山県西牟婁郡の湯崎温泉)が埋もれて湯が出なくなりました』と報告した。」

 

685天武14年12月10日

十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中、皆失衣裳。

則爲防人衣服、以布四百五十八端、給下於筑紫。

辛巳、自西發之地震

「12月4日、筑紫に遣わした防人らが、海上で難破漂流し、みな衣服をなくした。

防人の衣服にあてるため布458端を筑紫に発送した。

10日、西の方から地震がおこった。」

 

●686天武15年 1月19日 「庚申、地震。」

―686朱鳥 1年 9月 9日天武天皇崩御――――――――――――――――――――――

 

●686朱鳥 1年11月17日 「癸丑、地震。」

 

―697文武 1年 8月 1日文武天皇即位――――――――――――――――――――――

●701大宝 1年 3月26日 「己亥、丹波国地震三日。」

丹波で若狭湾内の凡海郷が海に没したという「冠島伝説」もあるといいます。

 

●707慶雲4年6月23日【興福寺略年代記

大地震、諸国樹木僵仆、禁中講仁王經、木皆々如故、鬼神悉逃去

他に神皇正統録、如是院年代記等に同様の記録がありますが、続日本紀には文武天皇崩御のためか記録されていません。

前年の慶雲3年11月から病に沈んだ息子、文武天皇の譲位依頼に対し、母元明は頑なに固辞していたとあります。6月15日、文武天皇崩御。あえて憶測を広げることが許されるなら、息子の死に際しても空位が続きました。そこへ神の怒りともいえる地震が彼女たちを襲ったのです。地震(6月23日)の翌日、元明天皇は慌てて即位を受諾したのです。息子の死を嘆き悲しむどころではなかったでしょう。(2015/03/04加筆訂正)詳細説明:天武天皇の年齢研究−阿閇皇女(元明天皇)の年齢 参照

 

−707慶雲4年7月17日元明天皇即位―――――――――――――――――――――

●712和銅5年6月 7日 「地震。」

 

●715和銅8年5月25日

遠江国地震。山崩壅麁玉河。水為之不流。

経数十日潰、没敷智・長下・石田三郡民家百七十餘区、并損苗。

「遠江国に地震があった。山が崩れて麁玉川(あらたまがわ・馬込川)がふさがれ、水が流れず数日後に決潰して、敷智・長下・石田の三郡の民家百七十余区劃が水没し、あわせて水田の苗も損害をうけた。」

(日本地震学会:M6.5〜7.5)

 

●715和銅8年5月26日 

「参河国地震。壊正倉卌七。又百姓廬舍、往々陥没。」

「参河国に地震があり、正倉47棟が倒壊した。また民家の廬舍(ろしゃ・粗末な建物)も方々で陥没した。」(日本地震学会:M6.5〜7)

 

●715和銅8年7月10日 「地震。」

 

―715霊亀1年 9月 2日元正天皇即位――――――――――――――――――――――

716霊亀2年 1月 4日 「地震。」

●719養老3年 3月26日 「地震。」

●720養老4年 2月15日 「夜地動。」

●721養老5年 1月24日〜25日 「辛未、地震。壬申、亦。」

●721養老5年 2月 7日 「地震。」

●721養老5年12月29日 「地震。」

 

―724神亀1年 2月 4日聖武天皇即位――――――――――――――――――――――

●73天平4年 7月15日 「地震。」

●732天平4年12月22日 「地震。」

 

●734天平6年4月7日

夏四月〜戊戌7日)地大震、壊天下百姓廬舍。圧死者多。山崩川擁地往々坼裂、不可勝数。

癸卯12日)、遣使畿内七道諸国、検看被地震神社。

戊申17日)、詔曰、今月七日、地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王・真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓。又詔曰、地震之災、恐由政事有關。凡厥庶寮勉理職理事。自今以後、若不改励、随其状迹、必将貶黜焉。

壬子21日)、遣使於京及畿内、問百姓所疾苦。詔曰、比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。今故、発遣使者、問其疾苦。宜知朕意焉。〜

秋七月〜、辛未712日)、詔曰、朕、撫育黎元、稍歴年歳。風化尚擁、囹圄未空。通旦忘寐、憂労在茲。頃者、天頻見異、地数震動。良由朕訓導不明、民多入罪。責在予一人、非関兆庶。宜令存寛宥而登仁寿、蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。〜

4月〜7日、大きな地震があって天下の人々の家が壊れた。圧死した者も多かった。山が崩れ川はふさがり、地割れが方々におこり、その箇所は数えきれない程であった。

4月12日、使者を畿内七道の諸国に遣わして、地震の被害をうけた神社を調査させた。

4月17日、次のように詔した。今月7日の地震は普通ではなかった。恐らくは山稜に被害を与えているであろう。諸王や真人の姓をもつ者は、土師宿禰(工事に通じている)の一人を加えて、天皇陵八カ所と、功のあった王の墓を調査させた。また次のようにも詔した。地震の災害は恐らく政治に欠けたところがあったことによるものであろう。そこで諸司はその職務をよく勤め治めるよう。今後もし改め励まなかったら、その状況に応じて官位を下すことであろう。

4月21日、使者を京および畿内に遣わして、人々のなやみ苦しむところを問わせた。天皇は次のように詔した。このごろの天智の災難は異常である。思うにこれは朕が人民をいつくしみ育てる徳化において、欠けたところがあったのであろう。そのため今、特に使者を遣わして、汝らのなやみ苦しむところを問わせる。よろしく朕の心をよく理解するように。〜

7月12日、次のように詔した。

 朕が人民をいつくしみ育てることになってから何年かたった。しかし教化はまだ充分でなく、牢獄は空となっていない。夜通し寝ることも忘れて、このことについて憂えなやんでいる。この頃天変がしきりに起こり、地はしばしば震動する。まことに朕の教導が明らかでないために、人民が多く罪におちている。その責任は朕一人にあって、多くの民に関わるものではない。よろしく寛大に罪を許して長寿を全うさせ、きずや汚れを洗い流し、自ら更正することを求め、天下に大赦を行う。〜」

712日に天変による大赦の詔が発せられたが、「地がしばしば震動」とあるから、余震が続いたのだろう。)日本地震学会にはマグニチュードの記述がありません。具体的記述に乏しいからでしょうか。

 

734天平6年 9月24日 「壬生、地大震。」

●737天平9年10月19日 「地震。」

 

以上です。

 

天武紀の異常気象の記事の多さ

前から感じていたのですが、この天武朝の記録には地震をふくめ、干ばつなど天災を異常に多いことに気づかされます。それに大地震や火山の噴火が続いています。このような中でありながら、一揆などを感じさせる記事が少ない。それなりの管理体制、救援対応ができていたと思うのは贔屓目なのでしょうか。当然、天武天皇の時代に大飢饉といった表現はありませんが、この頃の厳しさは尋常でないと思い、あえて大飢饉と副題に採用してみました。

 

673天武2年8月25日 「〜亦時、寒波嶮。」(波高し)

675天武4年8月22日 「巳、大風、飛沙(砂を巻き上げ)、破屋。」

676天武5年5月7日

甲戌、下野國司奏、「所部百姓、遇凶年、之欲賣子。」而、朝不聽矣。

「7日、下野国司が、「国内の百姓は凶作のため飢えて、小を売ろうとする者があります」といったが、

(調の納期の遅れを)ゆるされなかった。」

 

676天武5年6月

是夏、大。遣使四方、捧幣帛、祈諸~祗。亦請諸僧尼、祈于三寶。

然不。由是、五穀不登。百姓之。

「この夏、大干魃があった。使いを各地に遣わし、幣帛(みてぐら)を奉じてあらゆる神々に祈らせになり、また多くの僧尼をまねいて三宝に祈らせた。しかし、雨が降らず五穀はみのらず百姓は飢えた。」

 

677天武6年5月 「是月、(ひでり)之。於京及畿内、(雨乞い)之。」

677天武6年12月1日 「十二月己丑朔、、不告朔。」「雪が降って告朔がなかった。」

679天武8年2月

是月、降大恩、恤貧乏。以給、其

「大恩をもって貧者に施しをされ、飢えこごえた者たちに物を賜った。」

 

680天武 8年6月 1日

庚戌朔、氷零、大如桃子。壬申(23日)。」

1日、桃の実大のヒョウが降った。23日、雨乞いをした。

 

680天武 8年7月 6日 「秋七月己卯朔甲申、。壬辰(14日)祭、廣瀬龍田~」

680天武 9年6月14日 「丁巳、雷電之甚也。」

●680天武 9年7月 5日 「是日、之。辛巳(8日)祭廣瀬龍田~。」

680天武 9年8月 4日 「〜是日、始之三日、雨、大水。」

680天武 9年8月14日 「大風、折木、破屋。」

●681天武10年6月17日 「乙卯、之。」

●682天武11年7月25日 「是日、信濃國・吉備國、並言、「降、亦大風、五穀不登。」

 

●863天武12年7月15日

 庚子、之。癸卯、天皇巡行京師。

乙巳、祭、廣瀬龍田~。是月始至八月、旱之。百濟僧道藏、之得雨。

「15日、雨乞いをした。18日、天皇は京の中を巡行された。

20日、広瀬・竜田の神は祭った。この月から始まって8月まで旱が続いた。」

 

●683天武12年9月2日 「乙酉朔丙戌、大風。」

●684天武13年6月4日

 六月辛巳朔甲申、之。

秋七月庚戌朔癸丑、幸于廣瀬。戊午、祭廣瀬龍田~。

「6月4日に雨乞いを行った。

秋7月4日広瀬におでましになった。9日広瀬竜田の神を祭った。」

 

●685天武14年3月 「灰零於信濃國。草木皆枯焉。」    火山噴火と思われる。

686朱鳥1年6月12日 「庚辰、之。」

 

 

数字で客観的に時代を比較できないかと思い、上記の表は、気象の異常を示すような言葉を思いつく限り集めてみました。思い至らぬ文字や数え間違いもあると思いますが傾向はつかめたと思い一覧にして掲示します。各天皇の時代の在位期間で平均を出そうとも思いましたが、これで判断できると思います。

 

一目超然、天武天皇の時代、決して温和な時代ではなかったことがこの数字の多さからもわかります。しかし、その正直な記述のなかでもこの時代は活気に溢れて見えます。記述の偽装ばかりとは思えません。飢える人々も推古天皇の頃のように多くはありません。皇極天皇は4年の短期間641〜645年で天変記事が多すぎます。下表の大寒冷期に一致します。記述での誇張や嘘はないようです。政府の対策は象徴的な言葉として抽出できませんでしたが、神への祈り、雨乞いは天武天皇の時代、極端に多いのです。

 

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左の図は1970年に伐採された1866本の年輪をもつ屋久杉を10年ごとに分析した結果です。(北川浩之)

 

「採取された場所も確かに問題ですが、かなり広範囲に引き起こされた気候変動を繁栄していると考え」ていいと思います。天武時代は一時的にしろ大変な寒冷期に入っていたことがわかります。ちなみに、朝鮮の三国史記には気象の記録はほとんどなくわかりません。

 

天武天皇の娘、十市皇女が亡くなったのは678天武7年4月1日です。

「この頃はひどい旱魃で、飢えで苦しむ人々があふれていたときでもあります。各地で必死の思いで神々が祭られ、飛鳥寺でも斎会がもうけられ、政府側でも浮浪人対策、全国の大赦令、免税処置等、矢継ぎ早に対策が打たれています。」「十市皇女の年齢」参照

本稿では、彼女もこの時の犠牲者の一人と推理しました。29歳の未亡人などではなく、若き巫女として責任の重圧から自殺したと考えました。

 

最後に、当時の大地震として、東北地方を襲った貞観(じょうがん)地震を掲げます。

 

【日本三代実録】869貞観11年5月26日

五月〜廿六日癸未。陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之、人民叫呼、伏不能起。

或屋仆壓死、或地裂埋殪。馬牛駭奔、或相昇踏。城郭倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數。

海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝漲長、忽至城下

去海數千(十)百里、浩々不辨其涯涘。原野道路、惣爲滄溟。

乘船不遑、登山難及。溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉。

「5月26日、陸奥国で大地震があった。流光昼のごとく夜空を映し出した。その頃、人々は叫び、伏して立つことできなかった。ある者は家屋の下敷きで圧死し、ある者は地が裂け生き埋めになった。牛や馬は走り回り、互いに踏みつけ合った。(多賀城)城郭の倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰、数もわからない。河口の咆吼は雷鳴のように聞こえ、潮が湧き上がり、川が逆流し、膨張し連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。海から千百里にわたり広々と広がり、野原も道路は海に覆われてしまった。船で逃げることも、山に避難することもできなかった。溺死者は千人余りにのぼり、資産、稲苗を失い、ほとんど何も残らなかった。」 (日本地震学会:M8.3)三陸沖の巨大地震とみられる。

 

原文では「去海數千百里」「去海數十百里」と二種類存在し一定しません。千百里は途方もない数字だから十百里にしたようです。しかし「十百里」では日本語になっていません。

もう一つ、多賀城壁にまで達したはずと推測する意見と、考古学上では、確実な浸水の証拠が見つかっていない以上即断すべきではない、と言います。

シンポジウム「歴史文化遺産と日本古代学」2012/10/6明治大学古代学研究所主催より

 

また、この5年前、浅間山と富士山噴火が次々起こっています。富士五湖の出現など、この付近の地震記録も異常に多いことが知られます。

 

【日本三代実録】864貞観6年5月25日

富士郡正三位浅間大神大山、其勢甚熾、山方一二許里。

光炎高二十許丈、大有声如地震三度。歴十余日、猶不滅。

岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。

大山西北、有本栖水海、所岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。

焔遂属甲斐国堺。

「富士郡の正三位浅間大神大山が噴火した。その勢いは甚だ激しく、12里(約1km)四方の山を焼き尽くした。火炎は20丈(60m)の高さに及び、大音響は雷のようで、大地震が3回あった。10日以上経過しても、火の勢いは未だ衰えない。岩を焦がし峰を崩し、砂や石が雨のように降る。煙や雲が鬱々と立ち込め、人は近づくことができない。富士山の西北にある本栖湖に焼け石が流れ込んだ。焼け石の流れは長さ約30里(20km)、広さ34里(約2.3km)、高さ23丈(約8m)に及ぶ。やがて火は甲斐国との境に達した。」(1里は6=650mという記述からkmを試算。「〜許里」は「〜里ばかり」の意。)

 

日本三代実録】864貞観6年7月17日

駿河国富士大山、忽有暴火砕崗巒、草木殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并剗両水海。

水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。

両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖、剗等海。

埋之前、地大震動雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉

「駿河国の富士山が大噴火した。峰を焼き砕き、草木は焦がれ死ぬ。土や石くれが流れて、八代郡の本栖湖と剗の海(そのうみ)を共に埋めた。湖水は熱湯になり、魚や亀の類は全滅してしまった。民家は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。ふたつの湖の東には河口湖という湖があり、火はこの方角にも向かっている。湖が焼け埋まる前に大地震があり、雷と豪雨があり、雲や霧が立ち込めて暗闇に包まれ、山と野の区別もつかなくなった。しかる後に、このような災厄が訪れたのだ。」ウィキペディア

「「せのうみ」と呼ばれる巨大な湖がありました。貞観噴火で噴出した大量の溶岩流は「せのうみ」の大部分を埋めて分断し、小さな2つの湖を残しました。これが精進湖と西湖です。

富士山北西麓に広がる約3000ヘクタールの原生林「青木ヶ原樹海」は、貞観噴火で流出した溶岩流の上に、長い年月をかけて草木が芽吹き、樹林が形成されたものです。」(静岡大学防災総合センター)

 

2011平成23年3月11日、東日本大震災による被災地の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

がんばれ日本。

 

参考文献

   「講座文明と環境『第6歴史と気候』」朝倉書店 2008

   「日本の歴史地震史料 拾遺」宇佐見龍夫編 日本電気協会 H10

    静岡大学防災総合センター 

           http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/

    日本地震学会 http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php?content_id=1259

 

 

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