天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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熟田津と伊予温泉 にきたづ と いよのゆ

First update 2008/10/17 Last update 2011/03/01

 

熟田津と伊予温泉は同地にあるはずです。その場所は道後温泉と同市の和気町、堀江町、古三津町等諸説あります。しかし、本稿ではこれらを否定します。結論を先にすれば、伊予温泉とは今治市湯ノ浦温泉、石風呂付近であり、熟田津とは今はない同今治市の朝倉湾を指すと考えます。

 

その理由は順を追って説明していきますが、そのきっかけとなる大きな理由に伊予旧国府が今治市側にあったこと、古代山城である永納山が同じ地区(東予市)にあること、大和からの航路上道後温泉まで迂回するよりこの今治地区の方が最適と思われることなどが上げられます。

併せて、写真集も閲覧頂けると幸いです。

 

伊予温泉の文献の抽出

釈日本紀」に引用された逸文「伊予風土記」には断片的ですが幾多の情報が伝わります。

 

1.湯郡。神代には大穴持命(おおあなもち)は大分の速見(はやみ)の湯を地下に通して持って来て宿奈比古那命(すくなひこな)に浴びせかけ生き返らせたとあります。

九州の別府温泉と思われる地は伊予の道後温泉の対岸に位置します。このことが道後温泉の古さを証明しています。事実、遺跡も豊富です。しかし、このことは逆に道後温泉が九州の勢力圏にある存在であり、当時の大和朝廷の勢力圏内と思われる瀬戸内の朝倉の地とははっきり別物と考える必要があると考えます。

 

2.湯郡への天皇行幸は5度あった。景行天皇とその大后八坂入姫命(やさかいりひめ)、仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子とお付きの人たち、舒明天皇と皇后、その後、皇后たる斉明天皇とその息子達、天智天皇と天武天皇のことです。

このなかで、聖徳太子は石碑を残しました。その文章が記録されています。むろん現在の道後温泉の碑は観光用のものです。特に「神井は湯浴みするままに病気はいやす」また「山岳の断崖をながめながら」また「生命の木は繁りあってアーチを形づくり」また「朝には小鳥が喜々として鳴きたわむれ」等の表現が見られ、このことは重要な内容です。病気をいやす温泉とは、湯量豊富な道後温泉のアルカリ性単純温泉でしょうか、それとも現在は湯の浦温泉に代表される冷泉となってしまった不思議な温熱効果のあるラドン放射線温泉なのでしょうか。場所も自然溢れ、湯のそばに断崖絶壁の景観また海も見えていたと思われるものです。

 

3.伊予郡、郡家から東北に天山がある。天山の名の由来は、倭に天香具山がある。天から天降ったとき、二つにわかれ、片端は倭国に天降り、片端が此の地に天降った。その御影は久米寺に奉納された。

この文章は重要なことが多いが難解ともいえます。

まず引用した「釈日本紀」は「湯郡」と「伊予郡」とはっきり区別していることが気になります。気分としては天山も伊予温泉も熟田津も同じ場所に特定したいのですが別物なのでしょうか。結論は最後に譲ります。

天山(あまやま)とは何なのでしょう。一つ驚かされるのは、大和の天香具山の片割れがここにあるという伝説です。そういえば、日本書紀の国造り神話でもこの四国の地は大和の地に次ぎ、九州の地より早く生まれたと讃えられた土地です。

道後温泉にある天山は松山市天山町にある天山神社といわれています。標高51mの小さな岡です。

もっとも、奈良の天香具山も低い地味な山です。

気になるのが「郡家」の存在です。原文、「伊予郡自郡家以東北在天山」郡家はその東北に天山があるのです。郡家とは郡役所です。伊予国府ではないようです。伊予国府は越智郡桜井郷にあります。延喜式に伊予国は14群を掲げています。上、菅、宇麻、新居、周敷、桑村、伊予喜多、宇和、越智、野間、風早、和気、温泉、久米浮穴です。すると伊予国伊予郡の郡家の東北に天山があるとすれば正しい位置関係といえそうです。

御影を奉納した久米寺とは何か。奈良県橿原市に久米寺があります。聖徳太子の弟の来目皇子に由来するといいます。それとも、久米郡は温泉郡に接していますから、そこの何らかのお寺かもしれません。

 

日本書紀に見える伊予温泉

 

日本書紀 639舒明紀11年

十二月己巳朔壬午、幸干伊豫温湯宮。 12月14日伊予温湯宮に幸す。

是月、於百濟川側、建九重塔。    この月に百濟川の側に九重塔を建つ。

十二年春二月戊辰朔、甲戌星入月。  12年2月7日に星が月に入る。(凶事)

夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、  4月16日、天皇伊予よりかえりおわしまし

便居廐坂宮。            すでに廐坂宮に居します。

 

4ヶ月も伊予温泉に行っていたことになります。

舒明天皇は翌13年10月9日に百済宮で崩御されました。49歳でした。

 

日本書紀 661斉明紀7年1月

庚戌御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。 14日御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。

熟田津、此云爾枳陀豆。       熟田津、此を爾枳陀豆という。

三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津。 3月25日、御船、還りて娜大津に到る。

居于磐瀬行宮。           磐瀬行宮に居ます。

天皇改此、名曰長津。        天皇、これを改めて、名を長津という。

 

この直前1月8日に斉明天皇の初孫の大伯皇女が船上で産まれています。

そして、1月14日から2ヶ月と10日間伊予の石湯行宮に長逗留となるのです。

斉明天皇の強い意志を感じます。男達の思いは皆、朝鮮との戦いにあるからです。

その後、3月25日に船団は九州博多に向け出発します。ここで日本書紀は「還りて」という表現を使います。このことから熟田津が寄り道となる道後温泉であることを学者たちに正当化させました。しかし、この大船団を朝倉の地に足止めさせること自体が寄り道のはずです。ましてや道後温泉の地まで船団を回り込ませるなど現実的とは思えません。

その後、斉明天皇はこの年、7月24日に崩御されました。55歳としました。通説では68歳。

伊予風土記にいう他の貴人、景行天皇、仲哀天皇、聖徳太子の記録は日本書紀に見当たりません。

ここで表された伊予温泉の二つの記事すらも地名が微妙に違います。

・「伊予の温湯宮」      12月から4月

・「伊予の熟田津の石湯行宮」  1月から3月

一つは斉明天皇が若く舒明天皇の皇后として訪れたときであり、もう一つはその斉明天皇が自ら訪れたときの名です。しかも一つは大船団を伴う行幸です。同じ季節です。潮の流れに関係があったからでしょうか。その間約20年の歳月がありました。ですから同じ土地でも宮は再度建て直されたものでしょう。

 

日本書紀 684天武紀13年10月

壬辰、逮于人定、大地震。      14日、人が寝静まるに至り、大地震あり。

擧國男女叫唱、不知東西。      國こぞり男女叫び唱、逃げまどいぬ。

則山崩河涌。            則ち山崩れ河涌く。

諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔~社、 諸國の郡官舍、及び百姓倉屋、寺塔~社、

破壊之類、不可勝數。        破壊の類、あげて数ふべからず。

由是、人民及六畜、多死傷之。    これ由、人民、六畜、多に死傷する。

伊豫湯泉、沒而不出。       時に伊豫湯泉、沒し出でず。

土左國田苑五十餘萬頃沒爲海。    土佐国の田苑、五十余万余り海に沒す。

古老曰、若是地動、未曾有也。    古老曰く、かくのごとく地動ること未曾有也。

是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方。    是夕、鳴る音、鼓のごとく、東方に聞ゆ。

有人曰、              人有り曰く

伊豆嶋西北二面、自然増益、三百餘丈。伊豆嶋の西北二面、自然に増し、三百余丈。

更爲一嶋。             更に一つの島となり。

則如鼓音者、~造是嶋響也。     則ち鼓音の如くあるは~がこの島を造る響也。

 

日本書紀で詳しく報じられた大地震の記録です。

いろいろ興味深い内容ですが、ここでは伊予のその後を探ります。

この時、伊予温泉は山崩れなどで埋没し、湯が出なくなりました。本稿ではこれは道後温泉ではないと思っています。これ以降、道後温泉はこの地区の唯一良好な温泉として独占し続けることになるのです。

 

日本の歴史地震史料」拾遺、宇佐見龍夫編 日本電気協会にのる「朝倉村誌 上巻」の引用から、

「朝倉湾は、遠浅である欠陥はあったが、東風や西風を防止する自然の良港であって干潮時を除けは船舶の出入は便利であったので近畿と九州を結ぶ航路の中間停泊地として、盛んに利用され、港としての施設の整い、また、越智郡内の文化の中心地として、寺社、条里制など、最も早く設けられ、寺という呼び名のもとに宿泊地もあり、越智国造家の越智郡司として、居かんをこの朝倉郷に定めていた。」と知られていました。

しかし、同誌によると、「天武天皇時代に起こったたびたびの大干拔・大洪水によって屯田川本流をはじめ各支流は水が涸れて、作物が皆無であったり、水が溢れて氾濫したり、山津波による土砂の流出によって、河川の流れを変え、田畑は流失し、その運ぶ土砂は下流の方に堆積して遠浅であった海は、陸地に替わり、府中平野が出現したのである。」

わたしの取材によっても、この屯田川は近年までとんでもない暴れ川であったと言われており、長雨などでその流れを常に変えてしまうほどだったといいます。

そして迎えた天武13年10月14日午後10時に勃発した大地震はその傾向を決定的にしたといいます。

「朝倉湾は、陸化して港湾としての役目を失い、九州―近畿間の瀬戸内海航路の唯一の碇泊港の価値は全然なくなって、新しい府中平野の出現によって、九州―近畿間の碇泊港は、朝倉港から越智郡桜井郷の桜井港の港湾にてって代わった。〜伊予文化の中心地としての朝倉はその機能を桜井郷へゆずらざるを得なくなったのである。」

そして、現在の朝倉郷は三方を山に囲まれた穏やかな田舎盆地です。かつての港湾であり、文化の中心とは思えない静かな土地です。峠の山を超えると、そこには海岸線が広がり湯ノ浦温泉や石風呂があります。桜井郷とあの永納山に守られ挟まれた地域です。

 

 

万葉集に残る熟田津の記憶

 

万葉集 巻第一 雑歌

後岡本宮御宇天皇代

天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮

額田王歌

@8

熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

にきたつに  ふなのりせむと  つきまてば しほもかなひぬ  いまはこぎでな

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今漕ぎ出でな

熟田津で船に乗り込み月を待つ。潮も頃合、さあ出陣だ。 (意訳)

 

右は、山上憶良大夫が 類聚歌林に(ただ)すに(いわ)く、「飛鳥の岡本の宮に御宇(あめのしたしらしめす)天皇の

元年己丑の九年丁酉十二月己巳(つきたち)壬午に天皇・大后、()()の湯の宮に(いでま)す。

後岡本宮馭宇(あまのしたしらしめす)天皇七年辛酉春正月丁酉(つきたち)壬寅も、御船西つかたに()き、

始めて(うみつ)()()く。庚戌に、御船伊豫の熟田津(いわ)()(かり)(みや)()つ。

天皇、昔日のなほし(のこ)れる物を御覧して、その時にたちまちに(かん)(あい)の情を起こしたまふ。

この(ゆえ)により歌詠(みうた)(つく)りて()()しびたまふ」という。

すなわち、この歌は、天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり。

 

661斉明7年正月の歌といいます。朝鮮出兵のため九州に向かう際の歌です。

万葉集の添え書きには、

「右は、山上憶良大夫が類聚歌林にのせて曰く、

舒明天皇637舒明9年12月14日に天皇と大后は伊予湯宮に幸(いでま)す。

斉明天皇661斉明7年春正月6日、御船は西征して始めて海路に就く。

14日、御船は伊予熟田津の石湯行宮に泊まる。

天皇、昔日(むかし)よりなお残れる物を御覧になり、感愛の情を起こされた。

そこで歌を作り詠まれ哀傷された。

即ちこの歌は天皇の御製なり。

但し、額田王の歌は別に四首有り」

とあります。

すでに述べたとおり、斉明天皇は20年を超えて同地を訪れたのです。

 

万葉集 巻第三 雑歌

山部宿祢赤人至伊豫温泉   山部宿禰赤人、伊豫温泉に至りて

作歌一首 并短歌      作る歌一首 併せて短歌

B322

皇神祖之   すめろきの   すめろきの   代々の

神乃御言乃  かみのみことの 神の命の    天皇が

敷座     しきませる   敷きませる   統治する

國之盡    くにのことごと 国のことごと  国のどこにでも

湯者霜    ゆはしも    湯はしも    温泉は

左波尓雖在  さわにあれども さはにあれども あるけれども

嶋山之    しまやまの   島山の     島や山の

宜國跡    よろしきくにと 宜しき国と   すばらしい国と

極此疑    こごしかも   こごしかも   そびえ立つ

伊豫能高嶺乃 いよのたかねの 伊予の高嶺の  伊予の高嶺の

射狭庭乃   いざにはの   射狭庭の    伊佐尓波の

崗尓立而   にたたして 岡に立たして  岡に立って

歌思     うたおもい   歌思ひ     歌を思い

辞思為師   ことおもほしし 辞思ほしし   辞を思いつつ

三湯之上乃  みゆのうへの  湯の上の   湯の上の

樹村乎見者  こむらをみれば 木群らを見れば 林を見れば

臣木毛    おみのきも   臣の木も    臣の木も

生継尓家里  おひつぎにけり 生継ぎにけり 生茂げり

鳴鳥之    なくとりの   鳴く鳥の    鳥の

音毛不更   こゑもかはらず 声も変わらず  鳴き声も変わらない

遐代尓    とほきよに   遠き世に    これから先も

神左備将徃  かむさびかむ 神さびかむ  苔むして行くことだろう

行幸處    いでましところ 幸しところ   行幸されたところは

 

反歌

B323

百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久

ももしきの おほみやひとの にたつに  なのりしけむ としのしらなく

ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく

大宮人が 熟田津で 乗船したという 年がもうわからない

 

万葉集に書かれた飽田津の「飽」は「饒」(じょう、ゆたか)で「ニギ」と読ませるという。「全注3」

熟田津が道後温泉とする解釈では、ますます盛んに繁栄する土地を前提にしてのこととなるのでしょうが、本稿のように朝倉の地に定めると自ずと解釈が異なってきます。見る影もない朝倉の地を望み、山部赤人の郷愁に慕ったとする解釈も可能と考えます。

年がわからないのではありません。自然のなかにどんどん埋もれ、何時のことかわからないほど、それほどまでに現状は変わっていたのです。

奇しくも、伊藤博氏が言われているとおり「この推移は、近江荒都を見た人麻呂の手法と似ている」のです。

 

まとめ

熟田津と道後温泉を考えるとき、その時間的推移を考慮する必要があり、すべての記録がすべて道後温泉の地の出来事ではないと考えます。

日本書紀の舒明天皇と斉明天皇の伊予温泉行幸は埋没前の朝倉湾での出来事であり、熟田津とは朝倉湾を指します。しかし、天武13年の大地震を境にして、国府は朝倉郷から、三角州の桜井郷、そして国府と定まることになる府中平野へと移ったのです。また温泉は道後温泉の地に移っていったのです。

朝倉誌によれば、越智郡司、伊予大領である小千玉興は小谷に屋敷を構えていたと思われます。父の小千守興は朝鮮半島に出陣、拘留中の身であり、彼が帰郷できた39年ぶりの702大宝2年には、すでに息子小千玉興は天武13年の大地震で屋敷が倒壊したことから、これを捨て、当時、文化の中心になっていた桜井郷に近く、国府に近接する拝志郷上神宮に居館を新築して、そこに転居していたのです。

741天平13年聖武天皇勅願により国分寺などが建造されました。ここに名実共に伊予の中心が定まったのでした。

ですから、逸文伊予風土記は、いろいろな伝承記事が一部混在していると考えました。それが5天皇の行幸記事です。伊予風土記も他の風土記同様、地域ごとに書かれていたはずです。よって、逸文冒頭の「越智(乎知)郡」「伊予郡」「野間郡」「(温泉)湯郡」はそれぞれの郡の伝承といえます。

ですから、神代の大穴持命(おおあなもち)の話も温泉郡にあった昔からの九州との交流を示す貴重な伝承記事といえそうです。

ただ、大和朝廷の5天皇が温泉郡、すなわち道後温泉に来たということだけは行き過ぎた表現でした。近畿の王朝の足取りはあくまで越智郡朝倉までにとどまるものだったはずです。

実際、伊予風土記には熟田津が温泉郡にあるとは一言も書かれていません。

天山も伊予郡、すなわち道後温泉側にあるとしていいようです。ただ、この記事は日本書紀の記述に詳しい当時の風土記報告者のねつ造とも考えられます。伊予郡の天山の伝承があるとすれば、それはこの地区と近い九州の天山と親しい関係とする伝承であった公算が高いと考えるからです。

 

 

斉明天皇は九州に渡るとその後、朝倉橘広庭宮に移られます。この朝倉が伊予の朝倉のことで斉明天皇は四国に戻っていたとする説があります。この件はまだ不勉強です。現段階では少し無理があると思われる説ですが、この朝倉の地におもしろさは尽きません。

参考図書 宮脇通赫編「伊予温故録」

この「伊予温故録」によると、真の熟田津の地は道前なる新居郡西田村で、石湯行宮の跡も同郡古川村地内にあったというのです。道後でない考え方は同じもので興味深いのですが、この地は行ったことがないので保留させていただきます。

 

 

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