天武天皇の年齢研究

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 継体大王の年齢 

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 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

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 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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元明天皇(阿閇皇女)の年齢 

First update 2015/03/20 Last update 2015/03/20

元明天皇在位 707慶雲4年7月17日〜715和銅8年9月2日 9年間

661斉明7年降誕 〜 721養老5年12月7日崩御  61歳(続日本紀 他)

                    12月4日崩御 扶桑略記、一代要記

目次

1.前段、縁戚表、系譜、年表

2.誕生年から生地を推理する

3.元明天皇即位の実態

4.不改常典(政治的実力)

5.譲位の謎

6.元明太上天皇崩御の謎

7.元明天皇の万葉歌(紹介のみ)

 

天武紀以降、続日本紀、他書もほぼ「阿閇皇女」と書かれています。天智紀だけが「阿陪皇女」です。よって本稿も「阿閇皇女」で統一します。なお、「阿倍」ではありません

 

【阿閇皇女縁戚表】

父 天智天皇の第四皇女    626〜671 48歳

母 姪娘(めいのいらつめ)蘇我倉山田石川麻呂の娘 桜井娘とも言われる。

同母姉 御名部皇女 天武皇子高市夫人といわれる。

夫 草壁皇子(天武皇子)   662 〜689 28歳

子 氷高内親王(後、元正天皇)680 〜748 69歳

  軽皇子(後、文武天皇)  683 〜707 25歳

  吉備内親王(長屋王夫人) 685?〜729 45歳くらい(夫、子供たちと共に自害)

 

【阿閇皇系譜】

   女            藤原不比等―┬――――光明子

   ├――――姪娘            └宮子   ├―――孝謙天皇

   |    ├――――――――阿閇皇女  ├―――聖武天皇

   |  天智天皇        ├―――文武天皇

   |   |          ├―――元正天皇

蘇我倉山田  ├―――鸕野皇女   ├―――吉備内親王

   麻呂  |    ├――――草壁皇子  ├―――膳夫王

   |   |   天武天皇        ├―――葛木王

   |   |    | ├――高市皇子―長屋王

   |   |    | 尼子娘

   |   |    ├――――大伯皇女

   |   ├―――大田皇女

   ├――遠智娘

   女

 

【阿閇皇女の史書年表】

661斉明7年      降誕                         1歳

675天武4年2月13日 十市皇女と阿閇皇女15歳が伊勢~宮に参詣      15歳

680天武9年      草壁皇子19歳との間に氷高皇女(元正天皇)を出産  20歳

683天武12年     第二子、()()皇子(後の文武天皇)を出産       23歳

697文武1年8月 1日 持統天皇から息子、文武天皇15歳、受禅即位。    37歳

706慶雲3年11月   息子、文武天皇不予。天皇謙譲を固辞して受けず。   45歳

707慶雲4年6月15日 息子、文武天皇崩御25歳              47歳

       7月17日 元明天皇即位

708和銅1年3月13日 石上朝臣麻呂を左大臣、藤原朝臣不比等を右大臣に任ず。48歳

710和銅3年3月10日 平城京に遷都                    50歳

712和銅5年1月 2日 古事記献上                     52歳

713和銅6年5月 2日 風土記編纂を命じる                 53歳

715霊亀1年9月 2日 氷高内親王(元正天皇36歳)に譲位         55歳

720養老4年5月21日 日本書紀奏上                    60歳

       8月 3日 藤原不比等薨去62歳    

721養老5年12月7日 元明太上天皇崩御                  61歳

 

 

●誕生年から生地を推理する

続日本紀の崩御記事に61歳とあります。これに基づくと誕生は661斉明7年になります。

阿閇皇女=元明天皇の周囲には天皇が多いことから年齢がわかります。阿閇皇女と周囲との年齢関係がこれほど明確にわかるのは珍しいことです。父天智天皇36歳のときに生まれ、後に一歳年下の草壁皇子と婚姻し、20歳で氷高内親王(後の元正天皇)、続けて文武天皇、吉備内親王を生み分けました。

 

【年齢比較表】  斉明天皇在位→←―天智天皇在位―→←―天武天皇在位―――――

600 5555555555666666666677777777778888 年 出典

    0123456789012345678901234567890123 齢 根拠

天智天皇―――――30―――――36―――40―――――46             46日本書紀

阿閇皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――2361日本書紀

元正天皇                              @ABC―69続日本紀

文武天皇                                 @―25続日本紀

持統天皇EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――――――58続日本紀

大田皇女FGHIJKLMNOPQRS―――葬                  日本書紀

大伯皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――41続日本紀

天武天皇FGHIJKLMNOPQRS――――――――30―――――――――――43本稿予測

 

本稿の「天武天皇の年齢研究」では、この阿閇皇女と周囲の人々の関係を重視しました。女性は18歳から20歳の間で第一子を出産していることが多いこと、身分が同じもの同士の婚姻は同年齢であることが多いと考えました。参照:天武天皇の年齢研究−年齢を定める手法

 

ここで、一つ問題になるのが、阿閇皇女の生まれた場所です。

阿閇皇女が生まれた661斉明7年は、朝鮮に渡ることを視野において、九州筑紫に向かった年にあたります。3月6日に難波を数多くの船で出立し、8日、この時に天武妃大田皇女が大伯の海上で大伯皇女を出産しました。当時、大海人皇子(天武)は、少なくとも、大田皇女と鸕野皇女(持統)、額田王の3人の夫人を伴っているのです。古代の戦争形態、もしくは天皇行幸は家族総出であったのかもしれません。

阿閇皇女はこの大伯皇女と同年齢です。阿閇皇女の母は、大田皇女と鸕野皇女の母、遠智娘と同じ蘇我の父を持つ異母妹、姪娘です。同年代の年齢と思われ、彼女も夫天智天皇に同行した可能性が高いと思います。実際、播磨国加古郡住吉郷の海岸に阿閇津という同名の湊があるのです。ここで生まれたと考えてみました。

 

後に、15歳になる阿閇皇女と十市皇女が伊勢~宮に参詣しています。伊勢にいる同じ年の大伯皇女を訪ねたのです。大伯皇女は13歳で斎王となり、14歳で伊勢に渡った少女です。2年目の幼い斎王を同年の少女が見舞ったはずです。伊勢参詣のもう一人、十市皇女も同年齢ぐらい(一つ年上として計算)と思いました。万葉集に、そのときの十市皇女を讃える清楚な歌があります。このとき十市皇女が懐風藻による一児の母30歳弱とは、とても思えないのです。天武天皇の年齢研究−十市皇女 参照

 

播磨(兵庫)加古郡阿閇=「今本庄、古宮、(ふる)()等を合同して()()村と云う。是は古(播磨)風土記に『大帯日子天皇(景行天皇)、知印南別嬢在、於()()()島、即欲度到於阿閇津、供進御食(みあへ)、故号阿閇村、又捕江魚為御坏物、故号御坏江(みつきのえ)』とあるを典拠とす。中世に阿閇村と称したるは別府村をも総べたり。風土記の阿閇津の江と云ふは、別府の細江を指すごとし。今も小江湾あり。補【阿閇津】加古郡○播磨風土記。阿閇村復興す。本荘宮の辺なり。」吉田東伍「増補大日本地名辞典」より

この播磨風土記には、景行天皇が九州に向かう途中、阿閉津で食事をされたことが書かれています。

 

その他の阿閇の地

阿閇嶋=仲哀天皇紀8年1月4日、御料の魚や塩をとる区域を仲哀天皇に献上した地名の一つとして、阿閇嶋(山口県六連島の北西、藍島)があります。

阿閇島=「摂津国に在りし島。今摂津国東成郡天王寺村大字阿部野の地にして、西なる今の街道は『古は海辺なりしが、故に島といいしならん』といふ。」太田為三郎編「帝国地名辞典」

孝徳天皇の難波宮近くとも考えられるところです。

伊賀(三重)阿拝郡=あべ、あはい、伊賀国阿閇郡(現在、上野市)

天武紀元年9月10日、壬辰の乱に勝利し、飛鳥に戻る道筋に、鈴鹿と名張の間に阿閇の地があり、ここに泊まったことが書かれています。新選姓氏録には河内国皇別冒頭に「阿閇朝臣」を載せています。「孝元天皇の皇子、大彦命後」とあり、阿倍朝臣と同祖とされました。壬申の乱の功臣で、天武13年に臣から朝臣姓になります。「阿閇朝臣の古里にして(あべの)(くに)の称あり。」

 

 

元明天皇即位の実態

元明天皇の即位は、拒み続けた末の急なものでした。慶雲3年11月、病に陥る息子、文武天皇の譲位依頼に対し、母元明は頑なに固辞していたとあります。

慶雲三年十一月、豊祖父天皇不予したまひて、始めて位を(ゆづ)志有り。天皇(阿閇皇女のこと)()り譲り、固辞不受。四年六月(15日)、豊祖父天皇崩。

 

とうとう慶雲4年6月15日に文武天皇は崩御されました。このことは、続日本紀の文武紀といえる第3巻でも第4巻の元明紀前段でも同じ書き方です。この時、譲位を受けたとは書かれていません。

 

6月24日、やっと文武天皇の遺詔を受けると承諾しました。全員を集め、すべての政務をとると宣言したのです。

天皇、東桜に(おは)しまして詔して、八省卿の五衛督率らとを召して、()るに遺詔に依り万機の状を(もち)てしたまふ。

 

7月17日に元明天皇は即位しましたが、宣命には、6月15日の文武崩御時に直接譲位を受けたと、語ったのです。

去今年六月十五日、「詔命(おほみこと)は受け賜ふ」と(まう)しながら、この重位に継ぎ坐す事をなも天地の心を労しみ重しみ、畏み坐さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。

 

現代の学者達、岩波版も、文武天皇崩御時の6月15日を譲位受理として、6月24日の詔は文武天皇が自分の死後、葬儀の方法を語った遺詔「挙哀三日、凶服1月とせよ」を指すといっています。中世の扶桑略記には、このあと、はっきり天皇位を引き継いだと書かれていることを理由にしています。

死は予測不能です。文武崩御の直前に譲位を受けるとは考えにくいのです。文武天皇も、あれだけ拒んだ母に対し、いつまでも願い続けてはいなかったと思います。むしろ、崩御されてしまい、拒み続けた自分を責めたのは母、元明の方だったのではないでしょうか。

 

706慶雲3年11月、文武天皇不予に際して、禅位を元明は固辞

707慶雲4年6月15日 文武天皇崩御

707慶雲4年6月23日 大地震【興福寺略年代記、神皇正統録等、如是院年代記】

707慶雲4年6月24日 文武天皇の遺詔を受け、全ての政務をとる旨を告げられた。

707慶雲4年7月17日 元明天皇即位

708和銅1年1月11日 和銅に改元

708和銅1年3月13日 石上朝臣麻呂を左大臣、藤原朝臣不比等を右大臣に任じた

 

大地震による即位

なぜか、続日本紀には記録されていませんが、元明即位前に大地震が起こっています。

●【興福寺略年代記 慶雲四年】

六月廿三日、大地震。諸国樹木僵仆。禁中講仁王經。木皆々如故。鬼神悉逃去。

長八丈横一丈二尺。一頭三面鬼來。(原文は朱書き部分)

●【神皇正統録 第四十二代文武天皇】

慶雲四年丁未六月二十二日、大地震。又長八丈横一丈二尺而頭一ツニ、面三ツ在鬼來。

●【如是院年代記 第四十二代文武 慶雲四年丁未】 

六月十五日、(文武)天皇崩。長八丈横一丈二尺一頭三面鬼出。

六月廿三日、大地震動。諸国樹木皆僵仆。禁中講仁王經、木皆如故。鬼神悉逃散。

 

文武天皇の崩御以降、空位が続きました。そこへ神の怒りともいえる大地震が京の邑を襲ったのです。頭に顔が三面ある大鬼まで現れたと、流言飛語まで飛び交ったのです。地震(6月23日)の翌日、これを切掛けに、元明天皇は即位意思をはっきり示したのです。息子の死を嘆き悲しむどころではなかったでしょう。天皇は天変地異に対しても全責任があるのです。参照:天武天皇の年齢研究−天武大地震

ただし、3つの地震の文献記事はどれも皆ほぼ同文で、一つの古文書からの転用と思われます。大地震の信憑性に若干の不安が残りますが、切掛けが何にしろ、元明天皇即位はまぬがれぬ事だったと思われます。

それにしても、即位が15日後と慌ただしく、その頃、当たり前になっていた即位に伴う改元は翌年1月11日と遅いものになってしまいました。

 

 

()(かい)(じょう)(てん)(かわるまじきつねののり)

この天智天皇の言葉は、あまりに有名ですが、天智本人の記録にはなく、天智天皇の孫、元明天皇の口から初めて出された言葉です。天智天皇の語り継がれた言葉なら、崩御時11歳だった元明天皇の36年後の言葉になります。2回も使っています。

 

「是は(かけま)くも(かしこ)き近江大津宮御宇大倭根子天皇の、天地と共に長く日月と共に遠く、不改常典と立て(たま)()(たま)へる(のり)を、受け賜り坐して行賜う事と(もろもろ)受け賜りて」

「又、天地と共に長く遠く不改常典を立て賜へる食国法も、傾く事なく、動く事なく、渡りかむとのも(おもほ)し行さく」

 

不改常典の内容は不明です。法規であるようです。それなら、皆に内容を示さなければ意味がありません。どうもこれは、元明天皇に必要な後ろ盾の一つだったのではないかと思います。尊敬する義姉の持統天皇には夫、天武天皇がいました。自分には、25歳で亡くなった文武天皇しかいません。そこで、父、天智天皇を引っ張り出したのではないでしょうか。その天智天皇が定めた、改めてはならない偉大な法、不改常典。つまりは、それを引き継ぐ、私、元明の言葉に従えと言っているのです。孫の首皇子(後聖武天皇)の中継ぎだといっても何の意味も無い実力の世界なのです。むろん、中臣不比等をはじめ、いろいろな献策がなされたでしょう。元明天皇はこの不改常典を選んだのです。

後に、不改常典は、天武天皇を排斥し、天智天皇の血統を重視する言葉に変貌していくとは、当時、元明天皇は思ってもみなかったことでしょう。

 

政治的実力

ここでは女性天皇を定義するような、巫女王、中継ぎ天皇論には立ち入りません。天皇となった一人の人として取り扱います。古代中国的男系世襲に影響を受けた日本書紀や近年まで続く武士社会の男女を区別する立場をとりません。道具として、祭祀や血脈、氏族間の力学バランスを利用し、難しい立場を駆け抜けた女性天皇の一人として扱います。

この時代は律令体制が充実していた時期に当たります。藤原不比等達の功績といえますが、トップとして天皇の役割も大変だったと思います。

即位当初は実力者、藤原不比等の言いなりだったようです。翌年正月、最初に改めた「和銅」も不比等の貨幣経済導入に沿った現実的名称でした。この後、元明天皇は偉大な名君として成長を遂げます。藤原不比等との協調と水面下の戦いがずっと続くのです。まるで、推古天皇と蘇我馬子の関係のようです。馬子の死は推古崩御の2年前です。不比等の死も元明崩御の1年前です。推古も息子の死後、即位した天皇でした。墓を華美にするなと命じた点も似ています。

 

708和銅1年1月11日 和銅に改元 5月、和銅開珎を施行

709和銅2年3月 東国蝦夷の乱を鎮定

710和銅3年3月 平城京に遷都。造都の役民の逃亡が多いため兵庫の警備を厳重にした。

711和銅4年7月 律令施行 10月禄法、11月出挙(すいこ)令、12月山野占拠の禁止

       他日、授刀舎人寮設置、各省司らの増員、郡司らの補任の制定も多い。

712和銅5年1月 古事記撰上

       5月郡司の職務規程、巡察史による国郡司の非違を検察、

       10月以降諸国運脚関連制定

713和銅6年2月度量・調庸・義倉などの5箇条制定

       5月 風土記撰上

      10月 諸寺の制限以上の占有を収公

714和銅7年2月 諸国の産業の興隆・儲備を国郡里長に督励

          日本紀を撰せるよう、紀清人、三宅藤麻呂に詔。

715和銅8年1月 土断法、輸調・義倉法の制定

720養老4年5月 日本書紀を舎人親王、元正天皇に奏上される。

その他、「元亨釈書」には仏教上の事績が数々載せられているといいます。

 

 

譲位の謎

697文武1年8月 1日 文武天皇15歳即位、       時に氷高内親王18歳

707慶雲4年6月15日 文武天皇25歳崩御、元明天皇即位、時に氷高内親王28歳

714和銅7年6月25日 首皇子元服14歳、同時に立太子、 時に氷高内親王35歳

715和銅8年7月 1日 地震

       7月27日 知太政官事で一品の穂積親王薨去

715和銅8年9月 2日 元明天皇、氷高内親王に譲位、   元正天皇即位 36歳

715霊亀1年9月 2日 霊亀に改元

717霊亀3年3月 3日 左大臣石上麻呂薨去(以降、長屋王まで空位)

718養老2年1月 5日 舎人親王を一品

718養老2年12月7日 元明太上天皇身体的不調 大赦

719養老3年10月17日 一品舎人親王、新田部親王が皇太子首皇子を補佐する

720養老4年8月 3日 右大臣藤原不比等薨去62歳    

       8月 4日 舎人親王を知太上官事、新田部親王を知五衛、授刀舎人人事に任じる。

721養老5年1月 5日 従二位、右大臣(後、左大臣)長屋王による皇親政権を樹立

      12月 7日 元明太上天皇崩御

 

譲位した元正天皇は元明天皇の娘(長女)です。この年、皇太子となった(おびと)皇子(後の聖武天皇)は15歳、当然、義父である藤原不比等は首皇子を天皇に推戴し、イコール元明天皇には退位を迫ったはずです。これを受けて、元明天皇は首皇太子に位を譲らず、異例といもいえる娘に譲位したのです。同時に、改元し、また元の道教的な、神仙思想名「霊亀」になります。完全に地に足がついた行動です。舎人親王を一品とし舎人親王と新田部親王に、首皇太子を補佐させ、藤原氏中心の世界にくさびを打ち込みます。さらに、舎人親王を知太上官事、新田部親王を知五衛、授刀舎人人事に任じ、従二位、右大臣(後、左大臣)長屋王にして、着々と皇親政権を取り戻そうとしたのです。

 

 

元明太上天皇崩御の謎

721養老5年 5月 3日 太上天皇不予。

       10月13日、自らの埋葬形態を指示。

         同16日、追加指示

721養老5年12月 4日、扶桑略記、一代要記が元明崩御日と記載

721養老5年12月 7日、平城宮中安殿にて崩御

721養老5年12月13日、太上天皇大倭国添上郡(なら)(やま)陵に葬

なぜ扶桑略記と一代要記が崩御日12月4日とあり、7日でない理由はわかりません。

 

自分の崩御に対する周到な準備が語られています。埋葬指示の内容は以下のとおりです。

 

【続日本紀721養老5年10月13日、16日条】

丁亥。太上天皇、右大臣従二位長屋王、参議従三位藤原朝臣房前を召し入れ、詔して曰く、

「朕は聞く『万物の生、死ぬること有らずということなし』と。これ天地の理にして、(なに)哀み悲しむべけん。葬を厚くし業を破り、服を重ねて生を損なうこと、朕、甚だ取らず。朕崩の後は、大和国添上郡蔵宝山の雍良岑(よらのみね)に竈を造り火葬せよ。他処に改むることなかれ。謚号は、「其国其郡朝庭馭宇(あめのしたしらしめしし)天皇」と称して後世に伝うべし。又、皇帝、万機を()り断ること一に平日と同じくせよ。王侯・卿相と文武百官は、(たやす)職掌を離れて、喪車に追従すること得ざれ。各本司を守り、事を視ること(つね)の如くせよ。その近侍官、併せて五衛府は、務めて厳警を加え、周衛伺候して、不虞に備えよ。」

 

3日後、再度、念押しまでして徹底を指示しています。

〜庚寅。太上天皇、また詔して曰く

「喪事にもちいる所は一事以上、前の勅に(なずら)()れ。闕失(けつしつ)を致すこと(なか)れ。その轜車・霊駕の具、金玉を(きざ)(ちりば)め、丹青を(えが)飾ること得ざれ。(しろ)薄をこれ用い、卑謙にこれ(したが)へ。(より)て丘の(かたち)(うが)こと無く、山に就きて(かまど)を作り、棘を()り場を開き、(すなわ)ち喪処とせよ。又、その地には皆、常葉之樹を植え、即ち刻字之碑を立てよ。」

 

【続日本紀721養老5年12月7、8、13日条】

己卯。平城宮の中安殿に崩りましぬ。時に春秋六十一。使を遣して三関を固く守らしむ。」

「庚辰。従二位長屋王、従三位藤原朝臣武智麻呂ら、御装束の事を行ふ。

従三位大伴宿禰旅人、陵(つく)事に(つかへまつ)る。」

「乙酉。太上天皇を大倭国添上郡椎山陵に葬る。喪の儀を用いず。遺詔に()なり。

 

崩御から埋葬まで7日で葬られたことになります。

殯宮設営から諸僧尼發哭(みね)(みけ)(しのびごと)、そして埋葬まですべてが、6日間で執り行われました。

火葬、薄葬、これらは持統天皇の継承と言われます。初代平城京当主として、明日香にある夫、草壁皇子墓、息子文武天皇陵への合葬は許されません。平城京に一人、徹底した薄葬といえます。

その後、山が崩落したためか、瑪瑙(めのう)石の陵碑は「佐保神石」として恐れられ、松永久秀の城郭を築く際にもまぬがれたようです。結局、江戸時代、奈良坂春日社の一角に祭られていたのが発見されました。「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵」(要録・続古京遺文)と刻まれていたといいます。高3尺許、巾1尺許、厚2尺許(約60cm×30cm×90cmH)碑文は7行×8区の方眼に45文字。実際は碑の上部に書かれているようです。図は奈良坂村旧記(福山敏男「元明天皇陵碑」)よりコピーしたものです。すべて、伝承記事になります。

現在この墓碑は、国が定めた元明天皇陵の中に人知れず安置されて、誰も見ることができません。今、文字は消え、ただの石塊と化しているのではないかと、残念でなりません。そうなれば宮内省の責任です。あとは時間との闘いです。

 

遺詔諡号   :  其国 其郡  朝庭馭宇    天皇

墓碑諡号   : 大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇

続日本紀諡号 :  日本根子天津御代豊国成姫   天皇

これだけで見ると、諡号とは続日本紀も日本書紀と同じで、案外、書物内で創作され統一された和風諡号なのかもしれません。

現在の画一された大きな元明天皇陵の位置はこの辺りと大きく区画したものにすぎず、薄葬を命じた天皇の遺詔を尊重していない現在の天皇陵といえます。

 

万葉集 巻第一 雑歌

@35 690持統4年紀伊行幸時の歌、前年夫草壁皇子薨去。30歳

越 勢能山 時、阿閇皇女 御作歌

此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山

これやこの やまとにしては あがこふる きぢにありとふ なにおふせのやま

これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀伊道にありといふ 名に負ふ背の山

 

@76 元明即位2年目708和銅1年11月大嘗祭時の歌と言われる。

和銅元年戊申

天皇御製

大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母

ますらをの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも

ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣 楯立つらしも

 

@77 阿閇皇女の同母姉。上歌に和したもの

御名部皇女、奉和御歌

吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓

わごおほきみ ものなおもほし すめかみの つぎてたまへる われなけなくに

我が大君 物な思ほし すめ神の 継ぎ賜へる 我がなけなくに

物部(左大臣石上朝臣麻呂)の軍団に怯えた天皇を守護すると右大臣藤原不比等も同様に詠い、天皇を喜ばせたことだろう。

 

@78 710和銅3年2月15日平城京(奈良)へ遷都途上での歌

和銅三年庚戌春二月、従 藤原宮遷 于寧樂宮 時、御輿停 長屋原、廻望古郷作歌

一書云、太上天皇御製

飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武

            一云  君之當乎 不見而香毛安良牟

とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ

                     きみがあたりを みずてかもあらむ

飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君のあたりは 見えずかもあらむ

              一云  君のあたりを 見ずてかもあらむ

上田氏も言うように、奈良京遷都は、元明天皇の本意ではなかったと思う。

 

参考文献

上田正昭『古代日本の女帝』講談学術文庫1996

岸俊男「元明太上天皇の崩御」『日本古代政治史研究』所収 塙書房 1966

福山敏男「元明天皇陵碑」『史迹と美術』41−7 1971/8

 

 

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