天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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近江律令と大皇弟 おうみりつりょう と ひつぎのみこ

First update 2014/11/15 Last update 2014/11/19

 

「近江律令」は日本最古の律令法典です。ここから日本の法律が始まりました。

本稿では現在常識とされる「近江令」とは言わず、「近江律令」と呼称します。確かに「律」のない「令」だけの法典だったかもしれませんが、仮説に過ぎない以上、日本書紀に書かれた通り、天智天皇が命じた「律令」として取り扱います。

 

国史大辞典には、

近江令――通説では日本最初の体系的法典。しかしその完成施行を否定し、法典としては『浄御原令』が最初とする説がある。江戸時代まで古代の個々の律令すなわち法典は一般に識別されていなかったが、明治以降は法制史学の発達に伴い、個々の編纂、施行過程が詳しく論じられるようになった。〜戦後筆者(青木和夫)は律令制形成過程における天武持統朝の意義を重視して、いわゆる『近江令』の完成や施行を『浄御原令』のそれとともに否定し、『浄御原令』を最初の体系的法典と主張した。〜説のいずれにも決定的な証拠はなく、〜なお『近江令』の内容についても、さまざまな推測があるが、確実なことは不明である。」

全文は長くなるので紹介しませんが、いろいろな角度からまとめられて面白いものです。本稿は天智3年と同10年の冠位記事に特化して検討していきます。

 

まず、物議を醸した問題の文章を掲げます。本稿で強調したいことは、はっきり東宮太皇弟(大海人皇子、後の天武天皇)の関わりを示しているのに関わらず、これを論じる文献がほとんど見当たらないことです。それぞれに重要なことがらですが、違うことばかりが論じられてきたのです。

 

日本書紀 671天智10年1月6日条

東宮太皇弟。【或本云、大友皇子宣命。】施行冠位法度之事。大赦天下。

【法度冠位之名、具載於新律令也。】

甲辰(6日)に、東宮太皇弟奉宣(みことのり)して、【或本に云はく、大友皇子宣命(みことのり)す。】

冠位・法度の事を施行ひたまふ。天下に大赦す。

【法度・冠位の名は、(つぶさ)に新しき律令に載せたり。】

 

1.この天智10年の冠位記事は天智3年2月にも、同様の記事があり、重複している。

2.そもそも、天智紀は重出記事が多すぎる。

3.「法度」とは何か。冠位、戸籍以外に具体的な記述がなく、法整備はされなかったのではないか。

4.「律令」としての体裁を備えていたのか。「律」(刑法)はなく「令」(行政法)のみではないか。

5.原文注の「新律令」とはどの律令を指すのか。近江(おうみ)(きよ)御原(みはら)大宝(たいほう)律令など諸説あり。

6.「法度・冠位の名は、(つぶさ)新しき律令に載せたり」と、ここで具体的な名称を記さないのは異例。

 

他にも、いろいろな解釈がありますが、大海人皇子の姿はこの近江律令では影も形もなく、次のように切り捨てられています。

1.大海人皇子は天智天皇に命じられ奉宣しただけで、関与はない。

2.原文注の大友皇子が宣命したとする別伝が正しく、大海人皇子は関係ない。

 

現在、四つの律令変遷には、5つの考え方がありますが曖昧になったままです。

 

従来通説 1.近江律令→浄御原律令→大宝律令→養老律令

平安以降 2.近江令 →     →大宝律令→養老律令

坂本など説3.     浄御原律令→大宝律令→養老律令

青木など説4.     浄御原令 →大宝律令→養老律令

     5.           大宝律令→養老律令

青木和夫等の4説やこれを引き継ぐ5説が最も有力な学説です。本当にこれでいいのでしょうか。

 

本稿の結論

本稿では、天武天皇は後の浄御原律令だけでなく、近江律令を当時から関与し、学んでいたと考えています。

天智紀に載る重出記事の原因は、天武紀編纂者(もしくは、日本書紀全体を把握する担当者)によって、後に追加加筆されたものです。重出記事は、天武天皇の年齢研究−天智紀と重出記事 参照

近江律令の一部とされるこの天智3年と10年の記事は重出であり、天智10年の記事が書かれた編纂段階では、天智3年の冠位の具体的記述はなかったと考えています。3年の記事は追記されたもので、本来の奉宣時期は10年が正しいと考えます。

 

 

甲子年(天智3年)の冠位名称記事

まず、重出記事について述べます。比較するために、3年の記事も示します。

10年の記事同様、天智天皇が大海人皇子に命じて、冠位のことなどを宣言させたという記事です。

 

日本書紀 甲子664天智3年2月9日条

天皇命大皇弟、宣、増換、冠位階名、及氏上・民部・家部等事。

其冠有廿六階。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、是爲廿六階。改前花曰錦。從錦至乙加十階。又、加換前初位一階、爲大建・小建、二階。以此爲異。餘並依前。

其大氏之氏上賜大刀。小氏之氏上賜小刀。其伴造等之氏上賜干楯・弓矢。亦定其民部・家部。

注:黄色マーカーは別の事象で、重出ではありませんが、重要なので原文のまま略さず載せました。この件は後で論じます。これをさらに、以下で冠位記事を「書き下し文」にして抜き出しました。

 

天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し()ふることを宣ふ。その冠は二十六階あり。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、これを二十六階とす。前の花を改め錦という。錦より乙まで十階を加す。又、前の初位一階を加し換へて、大建・小建、二階にす。これを以て異なりとす。(のこり)は並に前のままなり。

 

天智3年の奉宣が早すぎるわけ

これが「甲子の宣」と後にいわれる冠位階名を具体的に示した改定記事です。原文にもある通り、これは大化5年2月に制定された冠位19階の階数を増やしたものだと判ります。つまり、大化改新のメンバーの作と考えて差し支えないでしょう。

 

とは言っても15年の歳月を経て、改新の詔からの生き残りは内臣(うちつおみ)中臣鎌足だけです。それまでの主要メンバーは母(さい)(めい)天皇、伯父(こう)(とく)天皇、左大臣()()(うち)()()臣、右大臣()(がの)(くら)(やま)()(いし)(かわの)()()臣、そして国博士、沙門(みん)法師と(たか)(むくの)(ふひと)(げん)()ですが、もういません。南淵請安(みなぶちのしょうあん)も同様でしょう。高齢で亡くなるか、殺されるか、歴史が語る通りで、後には()(がの)(あか)()など天智に忠実なイエスマンしか残っていません。そこに登場するのが、大海人皇子と百済滅亡により日本に帰化した渡来系の秀才達、()(たく)(じょう)(みょう)(法官大輔、天武2年卒)、()(そち)()等です。このなかでの行われた白村江の戦役は天智2年8月です。翌年天智3年の甲子の宣では早すぎるのです。

 

当時天智3年、大皇弟大海人皇子の周辺も騒がしすぎて、天皇が命じて、冠位の階名を増し変更を告げることは出来ないと考えています。

大海人皇子の子供、大伯(おおく)皇女、草壁皇子、大津皇子は九州で生まれました。それぞれ斉明7年、天智1年、天智2年です。白村江戦が天智2年8月に敗北し、9月に大量の引き上げて来たときに、あわせて戻ったとしても、翌3年正月の奉宣は急すぎます。無論、大友皇子はその頃はまだ17歳で無理です。

最近発見された、大伯皇女と大津皇子を生んだ大田皇女の墓は、日本書紀の記述通り、斉明天皇陵の前にありました。出来上がっていた斉明陵の一部を改築した構造でしたから、斉明合葬陵の築造の時期に間に合わなかったと思われます。

孝徳皇后が天智4年2月に薨去され、天智6年2月に斉明とその娘孝徳皇后の合葬葬儀が執り行われ、大海人皇女妃大田皇女も同日にすぐ脇に埋葬されました。

よって、大海人皇子の愛妃大田皇女が薨去されたのは、大津皇子を九州筑紫で出産した天智2年から、大和に戻り、葬儀の前天智5年の間と思われます。ですから、大海人皇子が九州から戻って、すぐの冠位宣下は考えにくいのです。

 

一説に大海人皇子が天智天皇と共に天智1年10月に大和に戻っており、よって草壁、大津が九州ではなく大和で生まれたと、日本書紀の解釈をねじ曲げるような説には賛同できません。大海人皇子は九州に残ったと思います。この時、大和に戻ったのは斉明天皇の棺と共に、天智天皇とそのブレーン、そして斉明の御言持歌人といわれる額田王だったと思います。この時以降、額田王は大海人皇子と袂を分かつのです。

 

天智10年と3年の冠位記事の比較

本稿では、天智称制3年の冠位記事は10年からの移動されたものではなく、追記と考えています。

しかし、二つの記事を一緒にしようと努力する論文も多く見かけます。10年から3年に、もしくは逆に、実際に移動させてみると、理屈に合わないことがいろいろあるのです。

 

1.「天皇」と「大皇弟」

天智と大海人皇子の呼称について天智称制3年の記事は「天皇」、「大皇弟」としています。即位していない天智を「天皇」とは呼べず、本来は「太子」としなければなりません。この記事を10年に移動しようとするなら、大海人皇子の方を「大皇弟」ではなく「東宮太皇弟」としなければならないのです。どちらにしても3年の記事は矛盾します。

天智3年の天皇と大皇弟の不合理な使用例は天武紀や持統紀にも見られる間違いとして、簡単に許していいかわかりませんが、無理に集約するより、後から3年の記事が追加されたと考えた方無理ありません。

 

2.中途半端な文章移動

10年の記事を分割して3年に、もしくは逆に移動したとするならば、本来は全文を残さずすべて移動したでしょう。中途半端に記録を残したとは考えにくいのです。

 

3.原文注【法度・冠位の名は、(つぶさ)新しき律令に載せたり

天智10年全体の記述順は一連の流れが完結しています。まず主要な官職を太政大臣、左右大臣などを定め、天皇を奉じて大皇弟が、冠位・法度の事を奉宣し、同時に施行。そして、大赦と続きます

そして、後ろにこの原文注があります。

この原文注の意味は、法度と冠位の具体的な名は新律令に載せてある(だから、そちらを見ろ)と書いてあるのです。それなのに3年に冠位名の紹介記事があるのは、それ自体が矛盾です。

 

4.冠位名称を書かないという異例

日本書紀全体からみると、天智紀だけ冠位・法度の内容を記さないのは異例なことだといわれています。確かに日本書紀全体を掌握する我々がみると、冠位名の紹介がない天智紀の記事は特殊な事例となります。同様に、そのことが判る立場の編纂者が追記したとは考えられないでしょうか。どの時代でも具体的に冠位名が紹介されています。この天智紀には後から冠位名の紹介記事を具体的に書き加えられたと考えられるのです。

 

歴史順に@〜Eと6回、冠位が紹介され、天智10年のDだけ、その名称がありません。

だから、CとDは同じ記事だと言いたいのでしょう。

 

@603推古11年12月5日 始めて冠位(12階)を行う。大徳・小徳・大仁・小仁〜

A647大化 3年是歳条   7種類13階の冠位を制定。第一を織冠大小二階、〜

B649大化 5年2月    19の冠位を制定。一曰く大織、二曰く小織、三曰く〜

C664天智 3年2月 9日 冠は26階あり。大織・小織・大縫〜・大建・小建、〜

D671天智10年1月 6日 東宮太皇弟奉宣(みことのり)して、冠位・法度の事を施行する。

E685天武14年1月 2日 爵位の号を改め、階級を増やした。明位二階、淨位四階、〜

 

その書き出しを原文で見ると、

@始行冠位。大徳・小徳・大仁・小仁・〜大義・小義・大智・小智、并十二階。

A制七色一十三階之冠。一曰織冠、有大小二階。〜。二曰繍冠、有大小二階。

B制冠十九階。一曰大織、二曰小織、三曰大繍、四曰小繍、〜十八曰小乙下、十九曰立身。

C天皇命大皇弟宣、増換冠位階名其冠有廿六階。大織・小織・大縫・〜是爲廿六階。

D東宮太皇弟奉宣。施行冠位法度之事。〜【度冠位之名、具載於新律令也】

E更改爵位之號。仍増加階級。明位二階・淨位四階、毎階有大廣并十二階。〜并册八階。

 

 【「日本書紀・下」付表 岩波書店】

ひいき目かもしれませんが、Dの天智3年「冠位の階名を増し()ふる」とFの天武14年「爵位の()を改め、階級を増し加ふ」の書き方が似ていると思います。

また、D天智10年の「施行、冠位法度」、E天武10年の「定、律令。改、法式」。これらも、突き詰めると類似しているのです。

ただ、E天武14年の改定は、いままでの@〜Dまでの改訂とは意味合いが違います。ここから氏姓制度が大きく替わるからです。よく見ると「冠位の階名」は「爵位の号」になり、これを改め増やされたのです。新しく固定された氏姓制度(身分)と流動的位階制度(職制)の分離です。CDの延長のような書き方は、今までの名称変更、増加という控え目な言い方は、ある意味、大きな目的が隠されているようにも見えます。

 

5.3年の記事には二つ内容がある

天智3年の記事には「冠位」の名称の他、「氏上・民部・(やか)()等」の記事が同時に書かれています。「冠位」記事が10年から移動、もしくは追加したとすると、3年の記事は、この冠位記事だけを単独にまとめればいいのに、「氏上」の記事の主語と動詞に「冠位」記事を共有させ、割り込ませた記述になっています。

文法的に間違いではありませんが、「天皇命大皇弟、宣、」+「氏上・民部・家部等事。」+「其大氏之氏上賜大刀。小氏之氏上賜小刀。其伴造等之氏上賜干楯・弓矢。亦定其民部・家部」の文章の間に「冠位」の記事が、割り込んでいるのです。冠位記事を移動させたと考えるには不自然です。

 

この「氏上・民部・(やか)()等」」の施行は、「氏上」を除き、天武4年2月15日に廃止されました。天武天皇は甲子年(天智3年)の事と断ったうえで「諸氏に給へりし部曲は今より以降、皆、除めよ」とあります。つまり、「氏上・民部・(やか)()等」の記事は天武紀から見れば、天智3年に奉宣された間違いない記述なのです。

むしろ、天智紀には「氏上」の記事も元から無かったと考えます。天武紀編纂者は天智3年の「氏上」の件を知っており、天智紀にその記述が無かったため、「冠位」の記事も含めて追記したと考えた方がいいように思います。

 

6.宣命は大海人皇子か大友皇子か

天智10年の記事において、太子がいるのに臨時職の太政大臣に大友皇子が就くのは異例ですが、政務担当者は太政大臣のはずで、施行は太政大臣が行って当然です。穏当な表現にしたければ、天皇の命で、東宮大海人皇子が冠位・法度の事を奉宣、太政大臣大友皇子が冠位・法度の事を施行、とすべきでしょう。しかし、日本書紀は大友皇子を原文注扱いにして、別伝として紹介しました。このことによって、却って大海人皇子と大友皇子の対立関係が鮮明になったことになります。どちらが正しいのではなく、こう描くほうが効果的だったのです。

 

7.3年前後と10年前後の新旧冠位名の人が混在すること

●664天智3年冠位制定とするなら、それ以前に新冠位名は使われないはずですが書かれています。

647大化3年是歳「小山中中臣連押熊」

654白雉5年2月「大錦上高向史玄」或本云、大華下高向玄理、「小錦下河邊臣麻呂」

659斉明5年7月「小錦下坂合部連」

662天智1年5月「大錦中阿曇比邏夫連」

 

●671天智10年1月6日の冠位制定なら、それ以前にこの新冠位名はないはずです。

665天智4年是歳に「小錦守君大石」、(これは「上」「下」の記入漏れかもしれません)

669天智8年是歳に「小錦中河内直鯨」

671天智10年1月2日に「大錦上蘇我赤兄臣」「大錦下巨勢人臣」

671天智10年1月5日に「大錦上中臣金連」

日本書紀以外でも664天智3年4月「大山中采女、大山中津守連吉、大乙中伊岐史博徳」とあるそうです。

 

●また、天武時代も664天智3年の冠位を天武14年に改めるまで使用しますが、大宝律令の冠位が現れます。

672天武1年3月18日 「遣、内小七位阿曇連稻敷、於筑紫」

675天武4年3月16日 「諸王四位栗隈王、爲兵政官長」

675天武4年4月18日 「三位麻續王、有罪流于因播」

679天武8年3月 7日 「天皇聞之、大哀則降、大恩云々、贈諸王二位

680天武9年7月25日 「納言兼宮内卿、五位舎人王、病之臨死」

 

これが、天智10年に新たに改訂された新しい冠位だとする、ユニークな学説もありますが、天武時世では天智冠位を引き続いて用いていますから、本稿はこの説をとりません。

 

なぜこのようにいろいろ混在するのでしょう。杜撰な編集、誤記などと片付ける訳にはいきません。この頃の冠位は、後に天武天皇が八色の姓で身分階級と職務等級を別けるまで、混同して使われていました。その名残で、大方はその年度の等級を示すものではなく、最終昇格等級もしくは後に追贈されたものを示したものと思われます。

現代では、時系列に正しく表記するのは当然です。当時は日本書紀編纂当時の官職や最終官位、執筆当時の官位に換算した官位で示すのが、至極当たり前だったと思われます。続日本紀になると、昇進記事が多数書かれるようになりますが、間違いも多いのです。

しかし、平安中期源氏物語の時代になると、逆利用され、個人を名前ではなく、官職だけで語られるので、読む側では昇進していく主人公が一瞬誰なのか判らず苦労させられます。

 

 

以上、3年と10年の冠位記事関連を見てきましたが、そのほかでも天智紀では不思議な表記が沢山あります。

 

重出しない追記も当然ある

単独での挿入記事もいろいろあったと疑わざる得ません。

例えば、戸籍の記事で、持統3年閏8月に戸籍を造り、盗賊と浮浪者を取り締まる、という記事があります。これが、天智9年にも、戸籍を造り、浮浪者を取り締まったという、まるで二つの事象が一緒に現れる記事があることです。実際に行われたことかもしれませんが、日本書紀全体を掌握する編纂者は2つの戸籍の記事を意識していたことは間違いないと思います。

天智9年 2月      造戸籍。斷、盜賊與浮浪。     (庚午年籍)

持統3年閏8月10日今冬 戸籍。宜限九月、糺捉浮浪。  (庚寅年籍)

 

また、役所の表記には、天智10年1月是月条では、「法官」「理官」とあるのに関わらず、すぐ後には10年11月24日、「近江宮に災けり。大藏省の第三倉より出でたり」と後の大宝律令に使われる「省」が唐突に使われています。ここも追記の可能性があるのです。

 

天智10年1月5日の大臣指名記事の原文注

蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣を以て御史(ぎょし)大夫(だゆう)とす。【御史は蓋し今の大納言(だいなごん)か】」

ここでの原文注はどういうことなのでしょう。これは、日本書紀編纂時代の「大納言」と天智紀時代の「御史」という日本の官職がわからない者が書いた表現です。空想じみた発想ですが、日本人離れした疑問と解釈すれば、天智紀の編纂に深く関わった百済系学者の表現なのかもしれません。

 

 

なぜ、冠位記事は天智3年に書き加えられたのか。

合理的に解釈する方法があります。

 

 斉    甲     丁     天崩

 明    子     卯     智御

天智紀の年号

天武紀の年号

天智紀原文注

に基づく年号

     2  4 5 6  8 9 10

     2  4 5   2 3 

   2 3 4 5 6  8 9 10 11

        └―――――――――――――┘ 

日本書紀全体は天皇が崩御する翌年を次天皇元年とする「越年称元法」で統一していますが、原文注が示す天智紀では、古事記や現在のように、崩御年=次天皇即位元年とする「当年称元法」で数えていたと考えられるのです。

天智7年正月の即位記事に、天智天皇は「或本に云く、六年歳次丁卯の三月に即位した」と書かれています。この記事も同様で、天智紀編纂段階の状態を残したものと考えられます。

母斉明天皇が崩御されたとき、すぐ天智天皇は称制しています。天智天皇らしい素早い行動だと思います。この年を天智1年と考えると甲子年は天智4年になり、天智天皇即位後の同じ4年の記述が移動したのではないかと説明できるのです。

全体を掌握する編纂者の問題点は暦法に拘る傾向がみられることです。甲子年に拘ったことが間違いにつながる原因と思われます。日本書紀完成の4年後、計画的に甲子年に合わせ聖武天皇が即位しました。甲子年に重みを付けたかったと思います。聖徳太子の記事の順番も意識していたように思えます。

 

603推古11年12月5日 「始めて冠位(12階)を行う。」

604推古12年 1月1日 「始めて冠位を諸臣に賜う。」(甲子年

      同年 4月3日 「皇太子、(みづか)(はじ)めて憲法十七條作りたまふ。」

664天智 3年 2月9日 「天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し()へ宣ふ。」(甲子年

 

 

天武天皇の存在意義、近江律令との関わり

1.日本書紀には、大海人皇子が冠位に関することを奉宣したと、はっきり書かれています。一歩退いて天智天皇の命を代弁したに過ぎないにしろ、代弁するなりの勉強はしていたはずです。天皇に即位してからも、近江律令を継承しています。天武10年に、自ら浄御原律令編纂を命じ、死するまでこの事に身を置いているのです。冠位なども天武14年までそのまま使用し続け、改訂していません。当時から、律令に関心が深かったと考えるべきだと思います。

 

日本書紀編纂時の立場から「新しき律令」とは浄御原律令や大宝律令を指しているという指摘もありますが、これを近江律令と考えるのが当然でしょう。現に、かなり限定的な法典とはいいながら、天武天皇は浄御原律令で改訂するまで、この近江律令の冠位を使用しているのです。

 

2.670天智9年の(こう)()(ねん)(じゃく)は天武天皇の策定した氏族政策(八色の姓)の淵源がこの年籍にあると井上光貞氏は言います。「庚午年籍と対氏族策」

庚午年籍は一般には戸籍と解釈されますが、井上氏は同時に氏姓の根本台帳でもあったとしました。年籍施行の目的は造籍であり、定姓はその結果とする考え方は、概念を混同しており、造籍と定姓は別もので、戸籍を定めただけでは、氏姓を固定させることはできないといいます。当初から年籍施行には造籍と定姓の二つの目的があったことを証明しています。「天智天皇こそ始めて、定姓の基礎が開かれた」とまで言っています。

天智天皇のブレーン、中臣鎌足らの貢献はもちろんですが、そこに大海人皇子も関与していたと思います。天武天皇に御代になっても、近江律令を退けず、大いに活用しているからです。そんな経験から、天武10年になって浄御原律令編纂が始まり、天武14年に具体的な氏姓改革、八色の姓が完成し、持統3年6月29日に令1部22巻が諸官司に分け下され、閏8月に戸籍を造るよう国司に命じられました。持統天皇はこうした亡夫のやり残した事業を完成させたのち、持統4年にようやく即位したのです。

 

 

近江律令があり、浄御原律令が存在しないとする平安時代の理論根拠

「飛鳥浄御原律令考」で坂本太郎氏は、天武天皇の不等な過小評価をする時代があったことを指摘しています。「平安時代の初めは強く前代の奈良時代を否定し、天武天皇およびその一流の功業をことさらに過小に見なす風が政府内部にあったと思われる。」「その裏に延暦の政治が天智天皇に直結し、天武天皇を疎外したという精神が働いていたのであろう」「天皇の血統が奈良時代は天武天皇の流れであったが、その終りの光仁天皇から天智天皇の流にかえり、以降はすべて天智天皇流である。」「天武天皇流の末が仏教に溺れ、律令政治から逸脱したことに対して、きびしい反省」「礼記の古き捨てて新しきを諱むという精神に則って、親尽の祖をすてたものである。」

この実例が、「弘仁格式序に国家制法の沿革を述べて浄御原律令のことを挙げていない」、「延暦10年3月、積もりに積もった16にも及んだ国忌を半数に整理した」、「天武天皇の子孫の国忌はみな廃止せられた」、「新選姓氏録は公的な書物でありながら八姓の制定を以て特筆しなければならぬ天武朝について一言も記していない」などを記しています。

日本書紀に続く、続日本紀も天武天皇の業績はほとんど示されません。天智天皇が言ったとされる、「不改常典」が元明天皇によって語られ、天智天皇の直系血筋が優先すると、語られているようにも見えます。天武の子供達の紹介記事には天武天皇の名が書かれていますが、あとは文武天皇、元正天皇、長屋王、淳仁天皇が天武天皇の孫とあるだけです。時代が下がるほどに天武天皇の影はどんどん薄くなっていき、逆に天智天皇がクローズアップされるのです。

 

そこで思うことは、天武天皇の出自疑惑も、こうした天武天皇の系譜排除の兆しが見られることを理由に、天武天皇の出自が日本書紀通りのものではないとした証拠として用いられてきました。ここで出自問題はここで繰り返しませんが、天武天皇に対する不等な歪められた評価だけはしてもらいたくない、そんな思いもこのホームページ「天武天皇の年齢研究」には込められています。

 

追記

その後の天武天皇の扱い

鎌倉時代になると、天武天皇の名が現れますが、大友皇子も天皇と認めた文献も現れだし、天武天皇は前天皇を退け皇位に就いた、いわゆる簒奪者として扱われます。さらに、近代、明治になると天皇位の簒奪という行為は禁句となり、また、天武天皇は無視されます。国定教科書は天智天皇の次は聖武天皇になっています。現在でも、まだ、天武天皇は天平の礎を整えた計画者ぐらいの存在でしかないような扱いです。(2014/11/19

 

 

平安時代以降、天武天皇が無視された訳

小林恵子氏は次のような理由から天武天皇の出自を疑っておられました。一部、ここで関連する案件だけを紹介します。「天武天皇の年齢研究−年上論争経緯」参照

「続日本紀によれば桓武天皇以降、山稜の奉幣は天智から、すぐ光仁に連なり、天武朝の諸天皇の奉幣の記事は、平安以降全くみられない。更に現在でも、天皇家の菩提寺、泉湧寺において、天智からすぐ光仁、桓武と続き、天武系諸天皇は除外されている。」

実際、法典研究の場でも、今まで述べてきたように天武天皇は疎外されていました。

 

平安時代に建立されたこの泉湧寺は実際には天皇家の菩提寺ではありませんが、訪ねてみると確かに、天皇の多くの墓が巨大な敷地内に埋葬されていることに驚かされます。

奈良時代以降は仏教全盛の時代です。天武天皇はどちらかというと道教的思想の持ち主でしたから、この事でも疎外される要因の一つだったかもしれません。

位牌伝来は鎌倉時代なので、ここの天智、光仁、桓武と続く位牌は後から置かれたものです。

また、平安時代の天智系という考え方が天智と光仁の間の位牌を省いたことにつながったとも考えられます。

天武天皇の崩御後、持統天皇により、浄御原律令が施行されます。実際には、忍壁皇子(刑部皇子、とも書きます)が主導したはずです。一度、政界を退いたように見えますが、カンバックし大宝律令編纂に藤原不比等とともに尽力したのが忍壁皇子でした。

 

真の意味の「新律令」とは「日本の律令」であり、「近江律令」でもなければ、「浄御原律令」でもありません。現代人の我々だけが、時代ごとに別個に独立した法典と過剰な意識の下に区別しているのです。

当時の法典制作者にとって、「大宝律令」や「養老律令」を含め、同じ日本の一つの律令完成を目指して改訂を続け、努力した結果なのです。

 

 

近江律令関連年表

603推古11年12月5日 始めて冠位(12階)を行う。

604推古12年 1月1日 始めて冠位を諸臣に賜う。(甲子年)

         4月3日 皇太子、自ら始めて憲法17条を造る。

646大化 2年 1月1日 改新の詔。

647大化 3年是歳    7種類13階の冠位を制定

649大化 5年 2月   19階の冠位を制定

661斉明 7年 1月 6日                    大海人の大伯皇女降誕

      同年 7月24日 斉明天皇崩御。天智称制。

      同年10月    天智天皇、斉明の遺骸と共に大和に帰国

662天智称制1年                         大海人の草壁皇子降誕

663天智称制2年8月   白村江戦敗退              大海人の大津皇子降誕

664天智称制3年2月   26階の冠位などを制定(甲子年)

665天智称制4年2月   孝徳皇后薨去      この頃、大海人皇子達、大和に戻ったか

666天智称制5年冬    近江遷都

667天智称制6年2月   斉明天皇、孝徳皇后を合葬。   大海人夫人大田皇女を陵前に葬

         3月  (ある本に6年3月天智天皇即位)

668天智 7年 1月 3日(天智1年) 天智天皇即位    大海人皇子東宮(天武紀)

669天智 8年10月16日(天智2年) 中臣鎌足薨去

670天智 9年12月 3日(天智3年) 戸籍を造る(庚午年籍)

671天智10年 1月 2日(天智4年) 太政大臣、左大臣、右大臣などを任命

         同月 6日       近江律令、冠位・法度の事を奉宣・施行

        12月          天智天皇崩御

672天武1年6〜7月    壬申の乱  大友皇子自殺

681天武10年 2月25日 天武天皇、律令編纂を指示

684天武13年10月 1日 八色の姓

685天武14年 1月 2日 爵位に名を改め、階級を増やす。

689持統 3年 6月29日 飛鳥浄御原律令発布

      同年閏8月10日 戸籍を造るように命じる。(庚寅年籍)

690持統 4年 1月 1日 持統天皇即位

701大宝 1年 8月 3日 大宝律令完成

720養老 4年 5月    日本書紀完成

724神亀 1年 2月 4日 聖武天皇即位(前、元正天皇の譲位による)(甲子年)

 

 

参考資料

「国史大辞典」吉川弘文館

滝川政次郎「近江律令」『律令の研究』復刻版 刀江書院1921

坂本太郎「飛鳥浄御原律令考」『坂本太郎著作集第七巻』吉川弘文館 S28

坂本太郎「天智紀の史料批判」『日本古代史の基礎的研究上文献篇』東京大学出版会1966

井上光貞「庚午年籍の本質」『日本古代史の諸問題』思索者1949

青木和夫「近江令と浄御原令」『日本律令国家論攷』岩波書店1992

押部佳周「辛未の宣」『日本律令成立の研究』塙書房 S56

蓮沼啓介「近江令の制定者は誰か」神戸法学雑誌56-3 2006

 

 

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