天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
天智紀の重出記事 First update 2014/10/31
Last update 2014/11/03 近江律令を考えるとき、天智紀には重出記事が多いという事実を抜きにしては語れません。近江律令の重要な項目が重出記事の一部に入っているからです。よってこれを先に調べることにしました。 重出記事の多さは編纂担当者の「用意のなさ」とは思いません。また、異なった暦年を使用した文献が多数あった為とも思えません。この天智紀だけに重出記事が多いのは納得できないのです。 本稿の結論は、天武紀編纂者もしくは日本書紀全体からの視点による加筆修正が後から加わった結果だと考えました。だからといって、後からの記事が正しいとは一概に言えないようです。主観的ですが検討を試みます。 その前に、天智紀の特徴を捉えておく必要があります。 天武紀と天智紀の違い―重要な記事表現の不一致 以下の通り、天武紀と天智紀の表記が重要な記事において一致していません。 天智天皇在位期間 日本書紀の天智紀では、661年に斉明天皇が崩御されるとすぐに中大兄皇子は称制され、翌662年を天智1年とし、その後、668天智7年にようやく即位、後671天智10年崩御となります。 ところが、天武紀では、天智在位を称制時代と即位以降に別けています。662年は称制1年であって、即位する668年が天智1年となり、671天智4年崩御と数えています。 これは、天智紀が特殊なのではなく、天武紀だけの特徴です。持統紀では天智紀と同様に、在位を天智10年として表記しています。 大海人皇子に対する呼び名「皇弟」の変化 天武紀では即位前紀に「天命開別天皇、元年、立爲東宮」と、天智天皇の弟、大海人皇子は天智元年(天智紀では天智7年)に東宮(皇太子)に立たれたのですが、天智紀では皇弟に対する立太子の記事がありません。しかも、7年に立太子されたはずなのに、翌天智8年5月5日までは「大皇弟」と書かかれています。「東宮」と表記されるのは同年8月15日、藤原鎌足の病気見舞いの記事以降です。 中臣内臣と藤原内大臣 中臣鎌足も当初は「内臣」で、正式な役職を持っていませんでした。しかし、病重く亡くなる寸前、8年10月15日に訪ねた東宮大皇弟(大海人皇子)から大織冠を授かり、「大臣」位を受けています。 ところが「大臣」の記述は、その前、8年5月5日や同年8月10日10日条で、すでに「藤原内大臣」と呼ばれています。 天智紀では、天武紀の天智7年立太子の記事を無視しているように見えるのです。藤原鎌足大臣表記の件も、後から、大臣授与の記事が書き加えられたと考えるとつじつまが合います。 大友皇子が宣命について 天武紀には載せられていませんが、天智紀では天智天皇が大海人皇子に命じて、冠位のことなどを宣言させたとなっています。ところが、原文注としてある本に、これは大友皇子が宣命したものがあることも紹介しています。これは当時としては、かなり大胆な発言といえるものです。これを見ても天智紀は異質で、他の天武紀などとはかけ離れた独立性の高い章なのです。 天智紀の全体の特徴 天智紀は50%以上が外交関連記事で満たされています。また、それに伴う白村江戦を中心に来日した渡来人の活躍が生々しく数多く記録されていることです。天武紀とは趣を異にしています。 推測ですが、天智紀の当初の原稿は、近江律令と同様に百済系の編纂者が大きく関与していたと思われるのです。これらを考慮して重出記事を調べてみると、天智紀はまるで別の編纂者によっていくつかの記事が後に挿入された、と考えた方が容易なのではないかと考えました。 天智紀の重出記事 よく取り扱われている天智紀の重出記事は次の7件です。なお、すべて日本書紀の記述は正しいとする意見も根強くあります。同様の表記は二度にわたり、あったとする意見です。ここではすべて、重出として考えています。 1.斑鳩寺(法隆寺)火災 8年8月是月 と 9年 4月30日 2.栗前(隈)王の筑紫率任命 7年7月条 と10年 6月是月条 3.郭務悰等2,000人を伴う来朝 8年是歳条 と10年11月10日条 4.鬼室集斯の叙位と転居 4年2月是月条と10年 正月是月条 5.長門・筑紫と築城 4年8月条 と 9年 2月条 6.倭の高安城の修築 8年是冬 と 9年 2月条 7.冠位記事 3年2月9日 と10年 1月6日 7.の記事については、別稿でまとめます。「天武天皇の年齢研究−近江律令と大皇弟」 1.斑鳩寺(法隆寺)火災
同じ寺名が旧名「斑鳩寺」と新名「法隆寺」で表記されています。天智紀内では他は「斑鳩寺」が使われていますから、9年「法隆寺」の記事が挿入したと考えられます。 「聖徳太子伝補闕記」は寺名を「斑鳩寺」とし表記しながら、火災は天智9年4月30日夜半とあります。9年の挿入記事が正しいようです。なお、現在の法隆寺はこれを再建させたものです、 2.栗前(隈)王の筑紫率任命
7年が「栗前王」、10年が「栗隈王」ですが同名です。橘朝臣諸兄の祖父にあたる人です。再任とする説もあります。天武紀で再登場する名は10年の「栗隈王」と「隈」の文字をあてています。長官を意味する「筑紫率」が「筑紫帥」になり、違います。推古朝では「率」文字が見え、古いようです。「帥」は新しい大宝律令用語です。よって、10年が挿入されたようです。 天智8年1月9日に蘇我赤兄臣は筑紫率になります。栗前王が筑紫率に任命されてから、5ヶ月後に過ぎません。赤兄が筑紫に向かうのは10月以降で、1年後には戻ってきます。対唐関連の外交急務と考えられます。そのあとの栗隈王、筑紫率の拝命記事ですから、ここは7年の記事が重出で間違いとした方が穏やかです。 その後の壬申の乱で、栗隈王は、大友皇子の命に従わず、兵を出しませんでした。結果的に天武天皇側に就いたことになりましたが、九州の地に詳しい当時の大海人皇子と面識があったからかも知れません。そう考えると7年7月の筑紫行きは、なおさら考えにくくなります。7年説では大海人皇子との接点がほとんどなくなるからです。 3.郭務悰等2,000人を伴う来朝記事
郭務悰等2,000人を伴う来朝記事は、8年の記事と比較して10年の記事の方が詳細な記述になっているので、これが正しいとされています。本稿も異存ありませんが、根拠としては不十分です。 671天智10年11月に来て、672天武1年5月に帰ったとすれば、滞在期間は6ヶ月。その前は、天智3年5月から12月ですから7ヶ月となり、滞在期間が順当な記録といえます。天智8年に来朝では3年も日本滞在となり不自然です。 また、この天智8年是歳条で、唐を「唐國」ではなく、「大唐」と表記していますが、4年に来朝した公式の使節、劉徳高に対して、「唐國」としています。天智紀では10回ほど、「大唐」の表記もありますが、これらの「大唐」の表記は、日本から見た大陸を表現したものです。具体的な唐からの使者に対する場合には「唐國」と書かれているのです。 「唐國」という大陸情報に詳しい天智紀らしい記録です。天智8年の「大唐」記事が挿入されたようですが、かえって正しくありません。 4.鬼室集斯の叙位と転移
天智4年の鬼室集斯一人の授位記録と10年の詳細な叙位記録では、これも「詳細さ」が評価され、10年の記事が正しいとされています。その通りと思いますが、本稿が追加記事とした根拠として、4年の「百姓」と「本位」という言葉に注目しました。 「百姓」とは天武紀以降頻繁に使われる言葉ですが、天智紀ではここの他1例しか使われていません。また、原文注にある「本位」という言葉は日本書紀全体で3例しかない珍しい用法です。しかも3例ともに原文注で使われています。他の2例は持統紀9年で使用されます。読み下し文では「その本の位は達率なり」で3例とも昇進前の位を示すものです。達率は百済16官位の2位で、筆頭が佐平です。この例では、佐平である父?鬼室福信による百済白村江の功績で、達率から佐平になっていた鬼室集斯が近江朝の冠位小錦下を授けられた、となります。その後も佐平で表記され文脈に矛盾ありません。一般に指摘されるとおり、一人だけ授位されるのはおかしいと思います。本来は10年のように、百済の仲間と共に授位されたと思われるからです。 一方、4年の記事には百済に人たちの近江に住んだ記事がありますが、これも、8年の近江に転居した記事もダブっているのではないかと考えています。このままだと、渡来した百済の人たちは二度も住所を移さられたことになります。しかも、近江國~前郡と近江國蒲生郡は隣村です。これはどう見ても同一の文章です。 近江國~前郡は滋賀県東南部、現在東近江市。 近江國蒲生郡は滋賀県東南部、現在東近江市。~前郡の西南隣になります。 つまり、4年2月是月条全体が追加記事であり、本来は、8年と10年の記事が別々にあったと考えられるのです。 なお、坂本太郎氏は10年の記事が4年に書かれたのは、天智10年を天智即位4年と考え、天智称制4年に持ってきたとする面白い考えた方で解決しようとしました。そうかも知れませんが、8年の記事が説明できません。 5.長門・筑紫の築城の重出記事 ここは原文のままだとわかりにくいので、一部読み下し文にします。
天智2年白村江惨敗後、百済の貴族等が日本に逃げてきます。このあとの急務として、防衛の為に日本各地に城を築きます。重出記事として9年にする訳がないので、4年の記事が正しいのでしょう。 他に6年の築城記事があります。これらは長門國・筑紫國、倭國と「國」と表現しており、対になっている記事であることは明白です。そのなかで、高安城築城は6年があります。 続日本紀の中に天智5年築城の記事が原文注の形で書かれています。 文武2年8月20日「修理高安城【天智天皇五年築城也】」 たぶん、天智5年が近江遷都の年なので、混乱した記事とも思われますが、続日本紀の記事からも、9年に長門に一つ、筑紫に二つの城を築くのはあり得ません。これらは百済系の詳細な記録です。9年のアバウトな記録は挿入記事と思います。 6.倭の高安城の修築 上記と一部だぶりますが、高安城築造の後、修築の記事があり混乱しています。
高安城修復の記事は8年と9年で同一内容の記事があります。「畿内の田税を収む」と「穀と塩を積む」は同じ意味だからです。先ほどの9年の後半の記事「長門城一、筑紫城二を築く」が挿入記事なので、全体を重出記事と考えて除くと3つが一挙に解決するのですが、ここで9年の「穀と塩を積む」方は生きるようです。なぜなら、8年の記事では8月に修築を思いとどまる記事を載せながら、その冬に修築し課税までするのは不自然です。また、「畿内」という言葉は欽明紀でも使われていますが、実際には天武朝以降の比較邸新しい言葉です。「田税」も同様です。9年の「穀と塩を積む」は庶民的な直接的表現で、天智紀本来の記述に見えます。よって、高安城の修築は8年を挿入記事とし、間違いと考えました。 蛇足ですが、天智天皇の母、斉明天皇紀にも重出記事があるとする説があります。
蓮沼氏は斉明4,5年も暦法の違いによる重出記事だといい、本居宣長は6年の記事も同じ記事だとしています。確かに毎年の月や蝦夷への侵攻記事が同文に見えますが、これは毎年夏だけに行われた北国における同じ軍団行動であり、その都度、結果が異なっています。一歩一歩の軍事成果と考えたい意見に賛成です。毎年同じ軍団が同規模で北伐に向かったのです。 その後、天智紀に入っても、 斉明7年8月、前軍に阿曇比邏夫連・河邊百枝臣等、後軍に阿倍引田比邏夫臣・物部連熊・守君大石等を遣して百濟を救わしむ。【或本にこの末に続ぎて云く、別の大山下狹井連・檳榔小山下秦造・田來津守を遣して百濟を守護せしむ】 天智2年3月、前軍に上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢~前臣譯語・三輪君根麻呂、後軍に阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わして、二萬七千人を率いて新羅を打たしむ。 これも連続の行軍記録で重出などではあり得ません。 天智紀では、かなりの追記が成されたようです。これだけ、重出が多いと、担当者のケアレスミスとも思えません。故意に残したと想像します。幸いと言って良いのかわかりませんが、重出されることはあっても、一方を削除しなかったようです。後世の我々に課題として残したとも考えられます。 実際に、日本書紀にはそうした文章が、数カ所に残されているからです。
まとめ 以下に重出記事を主要な出来事とともに年表にまとめました。7の冠位記事は別に推敲した結果です。すべて、本稿の推論で、上記に理由を述べてきました。 その結果を見ると、いくつかの特徴が見られます。 重出記事は時期的な偏りがあります。天智3〜4年月に2件、7年7月から5件と重複した間違いが集中しています。 挿入記事の方がすべて正しいのかと思いきや間違いが5カ所もありました。正しい挿入記事は9年10年の二つの記事だけです。 何故なのでしょう。はじめ、すべて後に加筆したのではないかと考えましたが違うようです。 もしかしたら、逆に、一部ラフ案が事前に天智執筆者に渡されていたのかもしれません。それを基準にして編纂者が天智紀を完成させたようにも見えます。 いずれにしても、これだけ多い重出記事です。見落としとは考えにくいものです。 なぜ、年号がずれ、それを削除しなかったのか。天智紀の編纂時期が意外と古く、天武10年編纂開始の早い時期に、また、追記された時期は元明天皇の頃と離れていたのかもしれません。 好意的に解釈すると、双方ともに、書かれた記事を尊重し残したとも思えるのです。 重出記事関連年表(○は事実、×は重出記事。黄色は挿入記事)
参考資料 蓮沼啓介「近江令の制定者は誰か」神戸法学雑誌56-3 2006 押部佳周「辛未の宣」『日本律令成立の研究』塙書房 S56 坂本太郎「天智紀の史料批判」『日本古代史の基礎的研究上文献篇』東京大学出版会1966 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |