天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
史料調査−年上論争経緯 First update 2009/12/24 Last update 2011/01/29 天武天皇に関わる、年齢の記録を日本書紀からスタートし、中世の文献を通して現在に至る学説、さらに異説を含め、以下にまとめてみました。 3.天武天皇年上論争の経緯 佐々克明氏 小林恵子氏 大和岩雄氏 井沢元彦氏 豊田有恒氏 関祐二氏 石渡信一郎氏 黒岩重吾氏 古田武彦氏 天武天皇年上説に基づく出自などの論争経緯 弟天武天皇が兄天智天皇より年上という議論およびそれに伴う天武天皇の出自疑惑が論議されてきたのは、きわめて近年の話です。今、これを振り返り原点に立ち返ることが必要と考えました。ここにまとめてみました。 1974昭和49年、佐々克明「天智・天武は兄弟だったか」『諸君8月号』 天武天皇年上説は、佐々克明氏が1974昭和49年「諸君8月号」に掲載された「天智・天武は兄弟だったか」により初めて疑問のかたちで提示されたのが始まりです。 佐々氏によると年齢疑問をもつにいたったきっかけは、小説家の彼が持統女帝について執筆調査をしていた過程においてでした。岩波書店刊「日本史年表」(歴史学研究会編)に載せられていた天智天皇と天武天皇の年齢がそれぞれ46歳と65歳とあったのです。「逆算すると兄の天智より弟の天武が4歳年長となる」ことに気が付いたのです。 しかし、その後よく調べてみると「学界はすでに周知であった」のです。川崎庸之氏の「天武天皇」(岩波新書)を読み、「私の断定が誤まりであることを知った」といいます。川崎氏によれば、天武が天智の弟と日本書紀に書かれているので、天武天皇の年齢が「もし65歳を56歳の倒錯とみることができれば、643年には13歳ということになって、中大兄との年齢のひらきも、またその間に間人(はしひと)皇女を数えなければならいことについても、そんなに不自然ではなくなってくるので、ここではしばらくその假程の下に考えてゆきたいと思う」とあります。これが受け入れられ、学界での通説となっていたのです。 しかし、川崎氏らの56歳説には充分な根拠があるはずですが、岩波版「日本史年表」の65歳説も多くの学者が今まで議論し到達したものです。佐々氏はここで「創作をこころがけるからには、天智・天武の年齢矛盾を含めて、幾多の疑問点を自分なりに堀り起していかなければならない次第にたちいった」として、筆をとったのです。 この兄弟逆転説により、二人は兄弟ではないのではないかと問題提起をされたのです。 白村江の戦いを見据えて、天智天皇の対応は「侵略的な軍事介入ではなく、結果的には救援軍であり、百済の敗戦処理であった」と考えました。多くの避難民ともいえる渡来人を受け入れ優遇したとして、天智天皇をいわゆる「百済系」と位置づけたのです。一方、天武天皇は「新羅派」としました。壬申の乱での吉野を含む逃避行は新羅系渡来人の居住地であり、新羅系の秦(はた)氏を優遇し、百済系とした東漢(やまとのあや)を名指しで非難したというのです。 また、婚姻関係でも、天武天皇と後の持統女帝とが「伯姪結婚などという近親婚が古代では通常に行われていたという」意見に、韓国などの例を挙げ疑問としたのです。 この文章が発表されると「予想外の波紋がひろがり」、驚かされたと述べておられます。 まず、達寿氏(作家)や鈴木武樹明大教授らが「検討に値する提言」として関心を寄せられたといいます。 一方、坂本太郎東大名誉教授が「天智天皇と天武天皇」においては、真っ向から否定される反論として提示されました。この「古代史の権威」は「日本書紀」と「中世につくられた史書」の間に矛盾がある場合には「日本書紀」の記述を優先させるのが研究上の常識であって、「本朝皇胤紹運録」などを創作された「中世の知恵」の産物とされたのです。よって「日本書紀」の記す天智天皇46歳と、天智・天武は皇極天皇を母とする兄弟ということは、ともに動かせないから、「本朝皇胤紹運録」などの天武崩御65歳説は誤りと断定できるとしたのです。 1975昭和50年、佐々克明「古代史の史実と真実」『東アジアの古代文化 早春号』にて、「坂本太郎氏に答える――天智天武非兄弟説をめぐって――」として再批判を加えられました。坂本太郎氏の手法は旧来から行われていた「きわめて『書紀』第一主義のオーソドックスなもの」としました。 「要するに坂本氏に代表される古代史研究のやり方は、『書紀』を優先させるといいながら、ご都合主義に陥っていて、つじつまが合わなくなると『書紀』の記事でも恣意的に改変して解釈することが多く、この年齢矛盾のケースはそのシンボリックなあらわれである」と「権威」を恐れず指摘されたのです。 1975昭和50年、水野祐、「天智・天武両天皇の『年齢矛盾説』について」 『東アジアの古代文化 爽秋号』 こんなおり、佐々氏が評した「早大教授の理解ある批判論文」が、論戦の場とかした大和書房の季刊誌『東アジアの古代文化』の壇上に上がったのです。 水野氏は天智・天武の年齢倒置はないとした上で、天武天皇は65歳だが、天智天皇の年齢は46歳ではなく58歳だったとされたものでした。この58歳説は新しいものではなく、結果的には古い「本朝皇胤紹運録」の記述に天智・天武両天皇の年齢を戻すものでした。 その理由は独創的です。原典における舒明天皇の崩御記事「是時、開別皇子、年十六而立東宮」は本来、「舒明紀」春元年正月4日の条に見える「即日、即天皇位」のすぐ後に続けて記されるべきものだったと考えたのです。なぜなら、「開別皇子」は天智天皇の和風諡号であるから、この部分は本来なら後に追記されたはずで、「16歳と記したのは、実は誄をした時の年ではなく、葛城皇子(中大兄皇子)が、舒明天皇即位にと共に皇太子に任ぜられたという記事であったのを誄の記事に置きかえて記述してしまったのではあるまいかという推測を可能ならしめるのである」としたのです。 1978昭和53年、佐々克明「天智・天武は兄弟ではない」『歴史と旅1月号』 佐々氏は上記の水野氏の論文に対しても、『東アジアの古代文化』の誌面できめ細かく対応されたようです。しかし、佐々氏の興味はすでに天武天皇の年齢確定論議よりその出自に興味は移っていたようです。 「学界の内部では〜天武65歳没は56歳没の誤記として処理してきたようで、〜むろん誤記であるという明白な史料はなにもない。したがって年齢矛盾の件はいっこうに解決しない。そんなことから7世紀を追求した結果、後述するように、年齢がどちらが上であろうとなかろうと、そもそも両者は“非兄弟”なのではないか、という推論に達したのであった。小著『騎馬民族の落日』−産業能大出版局刊参照。」 ここで、当初の「疑問」としてではなく、はっきり兄弟ではないと否定され、「大海人皇子は百済系を主流とする日本の朝廷に『人質』として派遣された新羅系王族、金多遂(きんたすい)だった」と斬新的な提案をされたのでした。 理由1.非兄弟説を天智・天武に限ったことと考えてはいけない。 日本人のルーツはアジア全体として大陸からの流入になかで考える。 継体天皇の渡来王朝、欽明と宣化などの非兄弟など例は多数ある。 2.オジ天武36歳に対するメイ鸕野皇后13歳という不自然な婚姻。 3.天武の記述が突然、壬申の乱で登場する。 それまで、皇弟、東宮など5種類の表現で使い分けられる不自然さ。 4.新羅から金春秋が人質として来日後、 入れ替わり来日した金多遂の帰国記事がなく「蒸発してしまっている」。 5.日本の朝廷の主流は百済系、しかし天武は新羅系。 6.天智は天武に4人の娘を送り、藤原鎌足も2人を差し出す。 1978昭和53年、小林恵子「天武天皇の年齢と出自について」 『東アジアの古代文化夏号』 そこに、小林恵子氏の1978昭和53年「東アジアの古代文化」において「天武天皇の年齢と出自について」という小論文が登場しました。すぐれた内容でかなり具体的な仮説でした。副題も雄大で――大化の改新から壬申の乱にいたる常識的歴史観への疑問――とあります。この具体的の実例はその後、各種の本やインタネットの記事で多用されることになります。 日本書紀の宝皇女(後の皇極天皇)が舒明天皇に嫁ぐ前に向王との間に漢皇子を得ていたとあることから、漢皇子=大海人皇子とされました。つまり、向王が天武天皇の父とされたのです。さらに、その向王とは、遣唐使の向漢人玄理だと主張されたのです。 まず、小林氏は天武天皇の年齢と出自を知るには、「天武天皇自身の個人的特性を知らなければならない」と考えます。「天武天皇みずから、漢皇祖を以って任ずると共に、その継承者及び皇族、家臣すべてに、当時、明確な認識があったと考える」としました。 その上で、まず、天智天皇と天武天皇の年齢を確定させています。その方法は佐々氏らが論戦された文章を丹念に読み解いたようです。細かいことですが、天智天皇の年齢が日本書紀では46歳、法王定説では、47歳と1歳違うことに対しても推古天皇崩御時の扱い方が違うことで解釈できるとして丹念に検証されています。 天武天皇が年上であるとして、次に出自に向き合っていきます。ます、兄弟でない証拠集めから始めています。 1. 日本書紀では天智天皇は舒明天皇の皇太子で母は宝皇女(後の皇極天皇)とあるが、天武天皇には天智天皇の同母弟とだけ書かれる。 2. 神皇正統記の北畠親房は「天智は正当にして、ましましき」と明記している。 3. 続日本紀によれば、桓武天皇以降、山稜の奉幣は天智から、すぐ光仁に連なり、天武朝の諸天皇の奉幣の記事は、平安以降全くみられない。 4. 天皇家の菩提寺泉湧寺において、天智からすぐ光仁、桓武と続き、天武系諸天皇は除外されている。 5. 朱鳥元年、天皇の病は三種の神器のひとつである草薙が祟っているという卜定により熱田神宮に移した。 6. 大海人皇子が天智3年、43歳の時、始めて皇弟として日本書紀に出てくるのは遅すぎる。 7. なぜ、漢皇祖のような下層の遊民にして王朝の始祖たる者に自らを擬し、後継者もそれを認めているのか。 8. 漢皇祖も同様であるが、正当でない故に自らを神として神秘化する必要があったのではないか。 こうした検証のうえに、具体的に天武天皇の母、皇極天皇の前夫、高向王に注目します。彼との間に漢皇子をもうけたことが斉明紀に書かれているからです。この漢皇子の名が、天武の漢高祖指向からして天武天皇ふさわしいとしたのです。また、高向王が用明天皇の孫と書かれているがその証拠が見つからないとして、渡来系高向村主に着目します。さらに、斉明天皇の同時期に活躍した人物に高向玄理がおり、これを漢皇子=天武天皇の父としたのです。しかし天武天皇が生まれたとき、玄理は遣唐使として渡航中のはずでしたから、別の高向宇摩という名がみえるとして一度帰国していたと考えます。また、最後に帝王編年紀に残る玄理の奇怪な詩から玄理が国外追放されたと考えました。斉明天皇にまつわる鬼の記述の多さから、この鬼も玄理を示すとしたのです。 なお、これに触発されて、小石房子氏は論文に即した「巫女王 斉明」作品社を執筆されています。 小林氏が調べた高向氏の系譜についてまとめておきます。 1.日本書紀がいう、高向王は用明天皇の系譜にない。 2.新撰姓氏録の 右京皇別に「高向朝臣、石川同氏、武内宿禰六世ノ孫、猪子臣之後也。」 右京諸蕃下「高向村主、出魏武帝太子文帝之後也。」 和泉国諸蕃「高向村主(多加無古)継体天皇之御母振媛之御所在也。」 越前高向の高向神社には、継体の母方祖父、乎波智君が祀られている。 この阿智王は誉田天皇(応神)御世に帰化し、「佐野仁応によれば、 振媛や乎波智の名は安羅、新羅系と解しているが、大体高向氏は、 漢人系でであり、継体生母の一族と理解される。」 3.常陸風土記に孝徳天皇白雉4年、惣領高向大夫と中臣幡織田大夫が行方郡を分設、 大化5年には惣領高向大夫が香島郡を設置したとある。 この3の惣領高向大夫は高向玄理が孝徳天皇の勅で常陸に遣わされていることから同一人物と考えられています。 その後、小林氏は天武天皇の正体を高句麗の宰相、淵蓋蘇文(せんがいそぶん)だ、と発展させていくのです。 これ以降、天武天皇の出自が問題の主流として議論されるようになります。 天武天皇の正体――父は誰、出自の諸説 まず、よく知られる方々の代表的な論説を以下にまとめました。 主張者 天武の父 天武天皇の正体 1.佐々克明 金多遂(新羅の王族) 2.小林恵子、季寧熙 高向王=高向玄理 淵蓋蘇文(高句麗高官)=漢皇子 3.大和岩雄 高向王(用明天皇の孫) 4.豊田有恒 高向王(東国惣領) 百済系阿智王の子孫 5.井沢元彦 新羅人又は新羅系渡来人と親しい有力氏族の長 6.黒岩重吾 舒明天皇 天武天皇 7.石渡信一郎 舒明天皇 天武天皇=古人大兄皇子 8.古田武彦 九州王 九州の出来事を大和とねつ造した。 9.関裕二 蘇我入鹿=聖徳太子 天武天皇=漢皇子=古人大兄皇子 佐々克明 金多遂は新羅の王族であり、来日後、天武天皇となる。 1979昭和54年「天武天皇と金多遂」東アジアの古代文化18号 新羅王は沙喙部沙飡金多遂を日本へ遣わしました。これは前年来日した新羅王の息子、金春秋(のちの太宗武烈王)に交代したものです。佐々氏は金多遂を金春秋の弟と推理しています。また、日本書紀には「人質」としていますが、自由な行動から「特命全権大使」ではないかとします。この金多遂の帰国記事がなく、金多遂のその後の消息もなく、朝鮮の史書にもその名がないことから、このまま日本にとどまり着々と勢力を拡張し、壬申の乱により天下を取ったというのです。 その結果、日本書紀は「大海人皇子」を創作したとしました。 小林恵子 漢皇子=天武天皇=淵蓋蘇文、高向漢人玄理を父とする 1990平成2年「天武と持統」季寧熙 文藝春秋社 1990平成2年「白村江の戦いと壬申の乱」現代思潮社 1990平成2年「天武は高句麗から来た」 別冊文藝春秋夏号 日本書紀の宝皇女(後の皇極天皇)が舒明天皇に嫁ぐ前に向王との間に漢皇子を得たとあることから、漢皇子=大海人皇子とされました。つまり、向王が天武天皇の父とされたのです。さらに、その向王とは、遣唐使の向漢人玄理だと主張されたのです。 さらに季寧熙氏の古代朝鮮語の分析から天武天皇=淵蓋蘇文とした説に同意します。 まず、天武天皇の最初の子とした大伯皇女が生まれたのは39歳のときと遅いこと示唆しています。また、新羅系との位置付けの枠を広げ、高句麗派であったとしています。 また日本書紀の記述からも、日本は百済ばかりでなく高句麗救済も視野に入れていたといいます。 父とする高向は高のつく姓で高句麗は高辛氏の裔とされると示唆した。 同時に、斉明と高向王の子漢皇子は大海人皇子であるが、斉明の子でもないとする。 よって、天武天皇は高句麗からやってきたとします。また、玄理自身が高句麗に本拠を持っていたらしい。その後、日本にきたと思われると考えたのです。 ここで、淵蓋蘇文が適者としています。 1.淵蓋蘇文と天武天皇は年齢が近い。 2.「高句麗本紀」に登場しなくなる頃、「書紀」に大海人が登場する。 3.朝鮮語で大莫離支は海人を意味する。 4.天武も淵蓋蘇文も諡名は水に関係する。 5.両人ともに仏教、儒教より道教に傾倒した。 6.共に偉丈夫で武勇の人であった。 7.大陸の歴史書にない淵蓋蘇文の死亡年月やその遺言を日本書紀は記している。 三国史記よれば、666年に亡くなった高句麗末期の宰相です。日本書紀には642皇極1年2月6日に伊梨柯須弥として高句麗の国情を紹介しています。また、664天智3年には、蓋金という最高位で亡くなった記事を載せています。兄弟仲良くし、爵位を争ってはならない。そうでなければ隣人に笑われる、と詳細に遺言まで紹介しています。 これを、他国の大臣の遺言をここまで紹介する不自然さを指摘されています。 さらに、天武天皇は徹底した親高句麗派の人であったとし、天武天皇は天文と遁甲に通じ、淵蓋蘇文も銅鏡と方術に長けていたと似ているとしています。 「大莫離支」という高句麗の官職名と「大海人」の天武天皇の名前と同じといいます。 大和岩雄 高向王(日本書紀にある用明天皇の孫)を父とする漢皇子=天武天皇 1987昭和62年「天武天皇出生の謎」六興出版 1987昭和62年「天武天皇論一、二」大和書房 2009平成21年「東アジアの古代文化 最終号」大和書房 天武天皇の年齢論争の場となった「東アジアの古代文化」の編集責任者であられた大和岩雄氏も当然これらの経緯を注目していました。彼が語るところでは、「1979年刊行の『古事記と天武天皇の謎』(六興出版)で、『古事記』の最終成立時期について論じ、天武は天智の異父兄ではないかと書いた」とありますから、佐々氏や小林氏などの論議をまとめ、自説を展開していったようです。実は私も彼の大著「天武天皇論」(大和書房)で天武天皇の年上説を始めて知ったのです。 高向王は蘇我系の高向臣に養育された王で、日本書紀が示したとおり用明天皇の孫であり、皇極天皇の最初の子、漢皇子が天武天皇と考えました。用明天皇の後裔、当麻真人の重用など用明天皇の孫、向王が天武の父であったとみた方が、渡来人とするよりスムーズな説明が容易だと大和氏はいいます。 さらに、大海氏を天武天皇の養育係とし、その素性に尾張大海姫に求めました。崇神天皇即位前紀にある崇神天皇妃の一人です。尾張氏と大海氏は血縁関係があるとし、壬申の乱でも尾張を経由して援軍を得ていることが重要だとしたのです。 豊田有恒 常陸国風土記に登場する東国惣領の高向王を父とする渡来人。 1990平成2年「英雄・天武天皇」祥伝社 1994平成6年「大友の皇子東下り」講談社文庫 天武天皇が年上とし、漢皇子が天武とします。漢(あや)は朝鮮半島南部の安耶地方のことで、百済系阿智王の子孫です。東漢直、檜前の忌寸、甲賀の村主など同属だといいます。漢皇子の父、高向王は渡来人で「常陸国風土記」に載る向臣とし、皇族とはみていません。 「遁甲(とんこう)」を極めた天武天皇は術者、甲賀忍者云々は挑発的です。ちなみに壬申の乱の対極者、大友皇子の母は伊賀の出身者です。 井沢元彦 新羅系渡来人と親しい有力氏族の長もしくは新羅人 1990平成2年「隠された帝」祥伝社 1994平成6年「逆説の日本史2」小学館 まず、天智天皇が殺害されたとしました。 1.日本書紀の天皇履歴で、天智天皇だけがその陵墓が書かれていない。 2.各歴史書でも大友皇子天皇即位を伝えている。 3.大友皇子は卑母伊賀娘の子ではなく、正統な大友氏の子である。 4.天智天皇の息子、大友皇子は天皇に即位したが日本書紀から抹殺された。 5.扶桑略記が天皇の遺体がないことを伝えている。 6.万葉集も倭姫や額田王の歌から天皇の遺体がないことを示唆している。 これらから、天智天皇の殺害したのはその利益を一番に得た天武天皇だとしたのです。 また、天武天皇が天智天皇と血のつながりがないとします。その理由はこれまでの各種出自論をわかりやすくよくまとめられたのです。ここに多くの読者の支持を得た理由があるようです。 1.死亡年齢から天智より天武の方が年上になるとする年齢矛盾がある。 2.天智天皇の実の娘が4人も天武天皇に嫁いでいる。 3.大海人皇子が政治の舞台に登場するのが43歳では非常に遅い。 4.皇室の祭祀には天武系天皇は除外されている。天武系は今でも無縁仏である。 5.天武自ら、出自の卑しい漢の高祖に擬す。 6.天武に対し、三種の神器の一つ、草薙剣が祟った。 7.天智は百済派、天武は新羅派である。 以上から、天智は殺され天武が兄弟ではない、皇族とはちがう階級の出身者としたのです。 黒岩重吾 蘇我入鹿=高向王 天武は従来とおり、舒明天皇と皇極天皇の子 1985昭和60年「落日の王子―蘇我入鹿(上下)」文春文庫 日本書紀の記述に忠実です。天武天皇はあくまで天智天皇の弟です。ですから高向王と皇極天皇との間に生まれた漢皇子と大海人皇子が同一人物とは見なしていません。しかし、蘇我入鹿が皇極天皇と関係したとして、漢皇子の父としています。こうして蘇我本宗家が皇極天皇を我がものとし、政治を支配したのです。 この本ではありませんが、史実に対し鋭い指摘を各所でしていきます。天武天皇の冷静な性格からして、天武天皇の槍事件はありえないとし、藤氏家伝の創作であるとします。白村江海戦での九州での大津皇子の出産は亡き母斉明天皇とともに飛鳥に戻ったはずだからありえないともいいます。 石渡信一郎 舒明天皇は天武の父ではるが、天武天皇=古人大兄皇子 1992平成4年「日本書紀の秘密」三一書房 1996平成8年「蘇我王朝と天武天皇」三一書房 蘇我王朝が存在していたことを日本書紀が隠すため古人大兄皇子を作り出したとしました。そして、乙巳の変後による古人大兄皇子の吉野隠棲と天智天皇崩御直前における大海人皇子の吉野への行動はその内容を含めよく似ているとして、古人大兄皇子=天武天皇であり、舒明天皇の正統な後継者とするものです。また、日本書紀に抹殺された蘇我王朝、蘇我馬子の孫としました。 詳細な系譜調査から、天武天皇は真人氏族を占める継体系だとし、用明天皇系は当麻氏だけであり天武天皇とは親族関係にあるとしています。 古田武彦 九州王朝説 九州の出来事を近畿王朝のこととして改ざんした。 1973昭和48年「失われた九州王朝」朝日新聞社 2001平成13年「壬申大乱」東洋書林 古くからある九州王朝の歴史を新しい「大和朝廷(近畿天皇家)」が改竄し利用したというものです。 万葉集も近畿飛鳥ではなく九州朝倉を示す言葉が散見され、壬申の乱も九州での出来事でありその地名も九州のほうが矛盾なく説明ができるとしたのです。 1.有名な国見歌、竈の煙は温泉の湯煙である。 2.盆地での歌に、なぜかもめ、海鳥が飛ぶのか 3.全国にある吉野川のなかでも大和の吉野川は貧弱すぎる。 4.壬申の乱の天武天皇の吉野からの経路にはむりな距離設定がある。 などかぎりなく、その視点の輝きはますばかりです。 「筑紫君薩夜麻」は対唐・新羅交戦の陣頭にたち、「敗戦の混乱」の中で「捕因」となったのであり、日本の英雄の姿がその後の近畿王朝に利用されたとしたのです。 関裕二 天武天皇の父は蘇我入鹿=聖徳太子、よって 天武=漢皇子=古人 1991平成3年「天武天皇 隠された正体」ワニ文庫 関裕二氏は、この頃の日本を九州王朝と出雲王朝に分け分析されています。九州王朝が出雲王朝を抹殺する筋書きです。つまり、九州王朝の舒明、天智が出雲王朝の蘇我氏、聖徳太子を殺し、皇極を奪ったとするものです。つまり、蘇我入鹿は蘇我馬子の孫ではなく子とし、聖徳太子だとも仮定しました。つまり、 聖徳太子=蘇我入鹿=高向王 漢皇子=古人大兄皇子=天武天皇 という系図が正しいとしました。 壬申の乱は天智系九州王朝と天武系出雲王朝の戦いであったとしたのです。 天武天皇が渡来人などではなく、後に九州王朝の天智系一族が日本書紀を作ったというわけです。 以上に代表されるように天武天皇の出自に関して、いろいろな方々が独自の論陣を張ることとなったのでした。多くの人達たちが佐々氏の天武天皇の年上説に支持し、小林氏の提唱した漢皇子=天武天皇に賛同し、その出自に独自の解釈を加えていきます。また、出自を隠すために日本書紀が書かれたとされてきました。私見ですが、佐々氏が考えた「新羅系」、「百済系」という派閥論にも、蘇我王朝、九州王朝、出雲王朝などの存在説が結びついていったようにも思えます。 天武天皇が兄、天智天皇より年とする説は、突き詰めると、天智天皇は「日本書紀」から58歳と計算され天武天皇は「一代要記」や「本朝皇胤紹昌運録」などの書物が65歳としているからということだけなのです。 それは、非兄弟説に結びついていくのですが、上記に示す以外にはその根拠なども味付けが加わる程度で上記以外の論説からは特に新しいものは見当たりません。天武天皇が誰か、どこから来たかについてばかりが百家争鳴となっていくのです。 当初掲げたように佐々氏はいいます。「古代史研究のやり方は、『書紀』を優先させるといいながら、ご都合主義に陥っていて、つじつまが合わなくなると『書紀』の記事でも恣意的に改変して解釈することが多く、この年齢矛盾のケースはそのシンボリックなあらわれである」と「権威」を恐れず指摘されたのです。 しかし、このことはブーメランのように最近の自分たちの論争を非難しているようにも見えてきます。 残念なことに歴史学者は最初に論戦に参加しましたが、以後沈黙します。 まるで一般史家による論戦のつぶし合いをじっと見ているようです。 本稿は日本書紀の記述にできるだけ忠実に、天武天皇の年齢を通説とは異なったものに設定して考察を重ねてきました。正直年齢を違えるだけで、こんなにもその人となりがまるで違って見えてくることに驚き、怖くなることさえあります。 天武天皇の出自の仮説はかぎりなくありますが、本稿の興味はその結論や推理ではなく、その最初の疑問にあります。日本書紀の記述内容への疑問、通常の解釈では理解できない事象、すべてがなるほどと思わせる何らかの核心を突いているからです。 論文、書籍やインナーネットで新しい疑問を見つけるといつもわくわくさせられてきました。 もちろん、その結果、いろいろな推論や仮説を目にすることになるのですが、これを単に批判するものではありません。いわゆる対戦ゲームで終わっていいものではないのです。一つ一つが蓄積されより正しい高みへと導いてくれるものと信じています。 今日もまた新しい発見を求めて、ページを開こうと思います。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |