天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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史料調査−歴史的文献 

First update 2009/12/23 Last update 2015/03/07

 

天武天皇に関わる、年齢の記録を日本書紀からスタートし、中世の文献を通して現在に至る学説、さらに異説を含め、以下にまとめてみました。

 

1.歴史的文献史料

   古事記    日本書紀     続日本紀     藤氏家伝

   懐風藻    扶桑略記     水鏡       愚管抄

   皇代記    仁寿鏡      興福寺略年代記  神皇正統記

   一代要記   本朝皇胤紹運録  尊卑分脈     帝王編年記

   まとめ

2.近年の学術研究

3.天武天皇年上論争経緯

 

古事記(追記2013/11/1

711和銅4年9月 元明天皇は(おおの)(やす)()()を呼び、「(ひえ)(だの)()()誦む所の勅語の旧辞」を撰録するように命じました。安万侶は阿礼の旧辞を詳細に取り拾ったとあります。4ヶ月後、

712和銅5年1月 完成した古事記を太朝臣安万侶は元明天皇に献上されました。

上(序文、神代)中(神武〜応神)下(仁徳〜推古)三巻の構成です。漢文で書かれた歴史書として文学的な価値も高く評価されています。

古事記の完成は天武天皇が崩御されて、25年が経っていました。本稿では、このあまりに短時間の作業から、すでに、天武天皇等が行っていた国史編纂事業の稗田阿礼のところに集約されており、太安万侶はこれを基本的には、漢字表記など忠実に統一しただけだと考えました。(「国史編纂」記事を参照)

 

日本書紀(一部加筆2013/11/01)

本稿の基本とする文献資料です。当時の政府公文書です。それゆえに一方的な記述があり隠され歪められた歴史書とする見解がありますが、本稿はあくまで日本書紀の記述を尊重しました。決して一方的とは思えない記述も多く見られるのです。

本稿の結論はこれを裏切ることになりましたが、それは日本書紀の記述を積み上げた一つの結果として捉えていただければさいわいです。日本書紀の解釈の歴史は奥の深いもので、とても浅学な本稿の語るところではありません。しかし、それ故にできるかぎり原文の漢字表記を尊重しました。読み方によって違う解釈が幾多も存在するからです。なお原文にはない句読点や段落などは岩波版を基本としました。

 

日本書紀編纂事業は、686天武天皇10年3月の詔により「帝紀および上古の諸事を記し校定させられた」ことからスタートしました。完成は720養老4年5月、舎人親王により元正天皇に奏上されました。時間軸に沿った編年体形式で書かれた漢文で30巻に及びました。基本理念の一つに上古の大王たちの推移を記録に残すことがあります。なかでも、歴代天皇の在位期間とその年代は克明にもれなく記録されました。しかし、天皇崩御時の年齢は、初代神武天皇からほぼキチンと記載されながら、欽明天皇以降は年齢が記述されなくなります。誰かの年齢を隠しているのではと疑りたくなるのが自然です。以下に欽明天皇以降の年齢の記載内容を箇条書きにしてみました。

 

欽明天皇 「時念若干」と記述されています。

敏達天皇  表記なし

用明天皇  表記なし

崇峻天皇  表記なし

推古天皇  (1)「癸丑。天皇崩之。時年七十五 即殯於南庭」75歳で崩御された。

舒明天皇  表記なし

孝徳天皇  表記なし

斉明(皇極)表記なし

天智天皇  (2)「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之

          舒明13年10月、舒明天皇崩御のとき16歳。

弘文天皇  表記なし

天武天皇  表記なし

持統天皇  表記なし

 

その他、天皇以外の年齢を少しですが記録しています。

 

(3)斉明4年5月、斉明天皇の孫、建王が8歳で身罷られた。

  五月、皇孫建王、年八歳薨

(4)斉明4年11月11日、19歳の「未成人」の孝徳天皇の子、有間皇子を絞首した。

  庚寅、遣丹比小澤連國襲、絞有間皇子於藤白坂。」

  「或人諫曰、不可為。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未及成人

(5)斉明7年1月6日、天武天皇の妃、太田皇女が女子を出産された。(大伯皇女1歳)

  「甲辰、御船至干大伯海。時大田姫皇女、産女焉

(6)天智元年に天武天皇の皇后、後の持統皇后が大津宮で出産された。(草壁皇子1歳)

  「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮

(7)朱鳥元年10月3日、大津皇子死を賜る。時24歳。

  「庚午、賜死皇子大津於譯語田舎。時年廿四。」

(8)天智8年10月16日、藤原内大臣(鎌足)死去。

   日本世記の言として、50歳にして亡くなったが、碑文には56歳と記載された。

  「日本世記曰、内大臣、春秋五十、薨干私第。遷嬪於山南

   天何不淑、不憖遣耆。嗚呼哀哉。碑曰、春秋五十有六而薨

 

このように日本書紀の年齢記述は少ないのですが、少ないがゆえに記述された一つ一つの記事に大きな意味をもっているように思えます。年齢に関わる記憶に残る特異な事柄だったからこそ、記事になるのです。

一つずつ見ていきましょう。

 

(1)推古天皇75歳はその頃にはめずらしい高齢寿命だったからこそ記録に残されたのです。

没年の知れている推古天皇と同じ欽明天皇を父にもつ皇子達はもちろん、孫にあたる用明天皇の二人の皇子らを拾い出し比較してみると、推古天皇の長寿を超えられなかったことがよくわかります。

 

500 66777778888899999000001111122222 年

  年 68024680246802468024680246802468 齢

欽明天皇――-

 敏達天皇――――――――-

 用明天皇―――――――――-

  聖徳太子  生―――――――――――――――――――――――没    49

  来目皇子   ?生―――――――――――-

 穴穂部皇子――――――――-

 崇峻天皇――――――――――――没

 推古天皇MOQS――――――――――――――――――――――――――没 75

 

(2)中大兄皇子は、舒明天皇崩御時に誄を読まれるその年齢が16歳と早熟さを示していたからなのかもしれません。むしろ義兄の古人大兄皇子を差し置いて現在の喪主の挨拶に匹敵する誄を大勢の前で読んだからなのかもしれません。古人大兄皇子については「5.父母、兄弟の年齢」で詳細に推理していきます。

 

   舒明天皇の妻子 宝皇女 (後の皇極天皇)―――中大兄皇子(開別皇子)

                       ―――間人皇女

                       ―――大海人皇子

           法提郎媛(蘇我馬子の娘)―――大兄皇子 (古人皇子)

           姉子娘 (吉備国采女) ―――蚊屋皇子

   日本書紀記載順。

 

(3)建皇子は651白雉2年に生まれたことになります。この2年前、建皇子の母遠智娘の父が夫、中大兄皇子の命令で殺されています。この時の様子を日本書紀は生々しく描写しています。妻子はもちろん部下達も殺されました。遠智娘は父を切った「塩」という名をひどく嫌い憎んだといいます。塩漬けにされた父の首を見たのかもしれません。こうした母体をもとに建皇子は不具者として生を受け、その遠智娘は亡くなりました。「唖不能語」「皇孫有順、而器重之」言葉が不自由で、心が美しかった、と言われました。それ故か、斉明天皇の悲しみは大きく、自分が死んだら建皇子を一緒に葬るよう指示しています。

 

      舒明天皇

        ―――中大兄皇子

      斉明天皇    ―――大田皇女

              ―――鵜野皇女

 蘇我倉山田石川麻呂    ―――建皇子

        ――――遠智娘

        妻

 

(4)有間皇子の殺害は、日本書紀に記述によると、どのような理由があるにしろ、未成人19歳を殺すことにその頃の世情慣習では許せないような口ぶりです。

 

       舒明天皇

         ――――中大兄皇子

         ――――大海人皇子

  茅渟王    ――――間人皇后

    ――斉明天皇    |

    ―――――――――孝徳天皇

  吉備姫王         ――――有間皇子

       阿倍内麻呂――小足媛

 

(5)中大兄皇子の子大田皇女が大伯皇女を出産した記事は、朝鮮出陣の船の中で驚きをもって迎えられたのでしょう。日本書紀の記述は、中大兄皇子の母、斉明天皇の非常な喜びようを伝えています。

 

            遠智娘

     舒明天皇    ―――大田皇女

       ―――中大兄皇子   ―――大伯皇女

       ―――――――――大海人皇子

     斉明天皇

 

(6,7)草壁皇子と大津皇子の年齢が明らかにされた理由は、草壁皇子が大津皇子より1歳年長であることを強調したいがゆえです。強調しなくてはならぬほど、大津皇子のほうが草壁皇子より資質がすぐれていると当時の誰もが感じていたのだと思います。およそ100年の後に「懐風藻」はこの日本書紀の奇妙な力説を敏感に感じ取り大津皇子が長子だったと主張する始末です。日本書紀から草壁皇子を天皇にしたいと思う母、持統天皇の叫びが聞こえてくるようです。現在この辺の事情は存外クールで、長子は高市皇子、その次が草壁皇子、大津皇子と続くことは周知の通りです。万葉集にも一人の女性をめぐる草壁皇子と大津皇子の恋の駆け引きを通して二人の人格があからさまに描かれています。

 

 天智天皇

   ―――大田皇女(姉)

   |     ―――大伯皇女(661斉明7年生まれ)

   |     ―――大津皇子(663天智2年生まれ)

   |   天武天皇

   |     ―――草壁皇子(662天智1年生まれ)

   ―――鸕野皇女(妹)

 遠智娘   (後、持統天皇)

 

(8)中臣鎌足

  620推古28年生〜669天智8年薨去  50歳 日本世記 本節主張

  614推古22年生〜669天智8年薨去  56歳 藤原家伝、他文書一般説

 

中臣鎌足の年齢は56歳であることが定説ですが、あえて私は日本書紀のもう一つの記述、50歳が正しいと考えています。鎌足56歳説では、長男貞慧や次男不比等の生まれたときの中臣鎌足の年齢があまりに高齢になるからです。それぞれ鎌足30歳、45歳の時の子になってしまいます。ここは24歳、39歳の時の子とすべきです。また、天智天皇とタッグを組んだ一心同体の内臣鎌足が天智天皇とそれほど年齢が離れていたとは思えません。56歳説では天智天皇より12歳も離れた老臣ということになります。中臣鎌足自身の年齢詐称は策略家として、十分考えられることです。藤原家伝書、墓碑銘、各歴史書がどれも56歳と書こうが、私は50歳説の「日本世紀」の記述を信じます。

 

日本世記曰、内大臣、春秋五十、薨干私第。〜。碑曰、春秋五十有六而薨。」

「日本世記に言う。内大臣は五十歳で自宅でなくなった。〜。碑文には春秋五十六にして薨ずとある。」宇治谷孟訳

 

この文章を「日本世記が言うように、中臣鎌足は50歳でなくなったのだが、墓碑には56歳と刻銘された」と解釈します。「日本世記曰く」と日本書紀は他説を引用する形で間接表現していますが、日本書紀が編纂される頃ら藤原家の権威がいかに強かったかをよく示す事例と感じます。井上光貞氏は「飛鳥の朝廷」講談社学術文庫で「日本書紀」に引用されている「百済本記」や「百済新撰」などの記述が最近、正しいことが証明されだし、「記事は無視できないもの」になりつつあると指摘されています。「日本世記」も「日本書紀」が採用した海外の引用文献のひとつです。「日本世記」の著者は高句麗僧道顕(どうけん)であると岩波版日本書紀の補注にあります。しかしながらこの岩波版では日本世記の記述を「五十歳で亡くなった」と拡大解釈しているのです。これでは50歳代と56歳では同じことになり矛盾の回避策としてはわかりますが、やはりここは50歳説と56歳説があるとした宇治谷孟氏などの素直な訳出が正しいと思います。

 

600 44444444455555555556666666666

年   12345678901234567890123456789

中臣鎌足 ―30―――――――――40――――――――50――――56  藤原家伝等

中臣鎌足 ―24―――――30―――――――――40―――――――――50  日本世記

中臣貞慧  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――23      藤原家伝書

中臣不比等                @ABCDEFGHIJKLM―63補任

 

尚、蛇足になりますが、貞慧と不比等の間に少なくとも耳面刀自、氷上娘など女の子が次々生まれています。不比等誕生は鎌足にとって待望の男の子だったのです。

鎌足については、このあとの藤原家伝の解釈のところで再度触れます。

 

続日本紀

元明天皇以降、また天皇宝算が記述されるようになります。初めの持統天皇と文武天皇は記載されません。しかし、日本書紀や続日本紀の文脈から年齢はほぼ確定されています。

 

持統天皇 702大宝 2年12月22日没、年齢表記なし。

文武天皇 707慶雲 4年 6月15日没 年齢表記なし

元明天皇 721養老 5年12月 7日没   61歳

元正天皇 748天平20年 4月21日没   69歳

聖武天皇 756天平勝宝8年5月 2日没 大宝元年12月27日生(56歳)

 

藤氏家伝

藤原氏の家伝書といわれます。ここでは通称に従い藤原家伝と表記します。鎌足伝、貞慧伝、武智麻呂伝の三点が現在、伝わっています。藤原仲麻呂(恵美押勝)によって主導されたものとされます。760年前後に作られたようです。日本書紀の内容に等しい箇所が随所に見られます。日本書紀編纂の40年後にこれを見て執筆されたことになります。日本書紀に見られぬエピソードもあり、その審議はともかく重要な文献資料です。扶桑略記をはじめ、その後の歴史書に多大な影響を与えているからです。現在でも藤原家伝書を重要視するあまりこの家伝書の古原書が存在したものとして、日本書紀編纂に利用された、という説があるくらいです。

藤原鎌足56歳、鎌足の長男、貞慧は23歳。

 

ここではさらに鎌足の年齢を考察します。

まず生まれた年。藤原家伝によれば、中臣鎌足大臣は豊御食炊屋姫天皇こと推古天皇34年、甲戌の年に藤原の地で生まれました。「大臣以、豊御炊天皇卅四年、歳次甲戌、生於藤原之第。

そして死亡記事。鎌足は天智天皇即位2年目すなわち、669天智8年10月16日藤原の地で薨じました。時に56歳。「即位二年冬十月、・・・十六日辛酉、薨干淡海之第。時年五十有六。」

薨去年月日は日本書紀と同一669天智8年です。ここでの矛盾は、56歳とすれば生まれた年は614推古22年「甲戌」でなければならないのですが、藤原家伝書の記述は「推古卅四年」で「甲戌」と書かれていることです。ですから一般には、生まれの記述を「推古廿二年」とするべきところ「推古卅四年」と誤記したものと云われています。

ところがそう素直に割り切れないのが、この誤記とされる「推古卅四年」なのです。626推古34年は天智天皇が生まれた年にあたるからです。じつは家伝書は天智天皇の年齢を意識しているのです。つまり、誤記だとして612推古22年の生まれの間違いだったとすると、鎌足は天智天皇と年差がちょうど12歳で干支の十二支一巡分の年差があったことになります。もしかしたら、鎌足は自身で、自分は天智天皇と同じ年だと言っていた時期があったのかもしれません。天智天皇の年を基準にした、中臣鎌足の年齢へのこだわりが見えてきます。忠臣といわれる武内宿禰は成務天皇と同年同日の生まれ、その息子も仁徳天皇誕生と同日に生まれたという伝説があります。中臣鎌足はよほど天智天皇に身も心も捧げきっていたものと思われます。

このことがその後、中世の歴史書に天智天皇が中臣鎌足と同年齢である仮説につながっていきます。その思いは中世になると藤原家の権威が強まり、鎌足56歳が基準となり、逆に天智天皇の崩御年齢を引き上げることになっていくのです。

 

懐風藻

懐風藻は751天平勝宝3年11月日付の序文からこのころに発表された日本に残る最古の漢詩集です。現在まで古代を探る貴重な文献の一つとなっています。作者は不詳、淡海三船(おうみのみふね)作と考えられていますが、厳密には不明のままです。他の候補に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)葛井廣成等がいます。高官吏で、学問があり、天平前後に生存したものに該当すると言われます。懐風藻の意味は序文作者に言わせれば、「先哲の遺風を忘れざらんとするため名付けた」とあるとおり64名、約120編の漢詩集です。私には詩集の善し悪しはわかりませんが、その内容は「稚拙な日本初期の漢文模倣詩集」と言われます。そのほとんどが「上流階級の酒宴での戯れ歌で構成されている。友や上司部下と酒を酌み交わし自然を愛で、酒席から見える池や小川を中国の大湖や大河に例え讃え歌っている」内容のものです。ただ、ここに掲載された名前は、歴史に名を連ねた有名人がずらりと並びます。しかも壬申の乱後、敗北した天智天皇派を真正面から扱っており、またその頃の古代資料が乏しいことからも涎ものといえます。特に懐風藻に登場する最初の5名には漢詩集作者の略歴が書かれており、懐風藻の序文を書いた同一人物の作といわれ貴重といえます。

 

大友皇子、25歳没。天智天皇の長男。壬申の乱において天武側に破れ、自殺。

河島皇子、35歳没。天智天皇の次男。壬申の乱で生き残り、大津皇子の乱において、友であった大津皇子を裏切り、密告。大津皇子を廃摘に追い込む。

大津皇子、24歳没。天武天皇の長男(日本書紀では第三子)。天武天皇の崩御後、謀反を企んだとして殺される。

葛野王、37歳没。 天智天皇の長男、大友皇子の長子。母は天武天皇と額田王との間に生まれた長女十市皇女。

その他、略歴は載せられておりませんが挿入句の形で、文武天皇23歳(持統天皇の直孫)、大神朝臣高市麻呂50歳(壬申乱の功臣)、長屋王54歳(天武天皇長子、高市皇子の子)などが記載されています。

 

本書では、今後この懐風藻の小伝記録などに載る年齢を徹底的に疑っていくことになります。

 

扶桑略記 

平安後期、1094寛治8年以降に成立した私撰歴史書です。延暦寺天台僧皇円著といわれています。仏教に力点を置きながら略述したもの。皇円は藤原氏出身で天台僧。法然の天台における師に当たります。独特の視線が、以降の歴史家に影響を与えたと思われます。また扶桑略記は懐風藻の影響を色濃く反映しています。懐風藻の編者と言われる淡海三船も元は延暦寺の僧です。同様の文献研究がなされ、皇円は懐風藻をも知っていたはずです。

いわば、天武天皇時代の人の年齢への関心はこれ以降になっておこったといえそうです。この扶桑略記から歴代天皇の年齢が少しずつ具体的になります。

舒明天皇49歳、中臣鎌足56歳、巨勢徳太古66歳、中臣連子54歳、大友皇子25歳、蘇我赤兄50歳、大津皇子24歳、高市皇子43歳、長屋王46歳などこれ以降人物の年齢が細かく表示されるようになるのです。なかでも舒明天皇49歳説はここから始まります。本文に37歳で即位したと書かれて、統治13年間にして百済宮で崩御し、時に49歳と丹念に記述さえています。

 

水鏡 

中山忠親著といわれるが不明です。鎌倉時代、1185〜1199年(文治から建久年間)頃に著された神武天皇から歴代天皇を記した史書です。当時、読み物としてベストセラーで、かなりもてはやされたようです。後世に多大な影響を与えたと思われる節があります。底本には扶桑略記を用いられていることが知られています。

「水鏡」は同時代に書かれた、「大鏡」が55代文徳天皇からのちの天皇の世を書き始めています。「水鏡」はこの55代天皇以前を、初代神武天皇より改めて記載しなおした物語であるといえます。

年齢表示は斉明天皇68歳、中臣鎌足56歳 などです。

栗原薫氏は「日本歴史1977年12月355号」吉川弘文館の中で、天智天皇の宝算について触れ、「水鏡は扶桑略記の鎌足が56歳で死んだという記事を天智天皇の御心をおしはかる文章の中に入れているので、・・水鏡だけ独立してよむと、56は天智天皇の(そのときの)御年とも読み取れる。」ゆえに、その2年後に崩御された天智天皇の宝算は58となると誤解され、以後の文献に利用されたといいます。「中世の年代記九種が天智天皇の宝年を58にしており」これらは皆、水鏡以降の作品だという。思いつきのような文章ですが内容は重要です。58歳説は一概に水鏡のせいとばかりはいえないと思います。前に述べたとおり、藤原家伝書にすでに、あいまいな表記が存在していることがさらに中世の年代記を混乱させたものと思われます。

さらに、斉明天皇68歳説はここから始まることに特に注意すべきです。現在までこの68歳がまかり通っています。夫舒明天皇より1歳年下となります。水鏡自身はこの舒明天皇の年を明記していませんが、扶桑略記を底本とした作者にはわかっていたはずです。もっとも、水鏡自身のその後の写本すべてが68歳と写しているわけではなく、最も古い完本、専修寺本を底本とした「校注水鏡」新典社では68歳の記述はありません。国史大系版では68歳とありますが、注として「拠、専本尾本、補」と書かれています。しかし、本書ではこれをも疑いました。当時、舒明天皇の1歳年下の皇后、天智天皇58歳説より、皇極天皇21歳時の子供として妥当なものでした。現在、天智天皇は46歳説となり、すると33歳時の子供となり矛盾が出てきます。詳細は別で述べます。

 

愚管抄 

慈円著。鎌倉時代1220承久2年、当時の公家対武家(承久の乱)という状況について歴史を背景に論評した書。慈円は関白九条忠通の子、関白九条兼実の弟。天台座主。「愚管」とは「自説、自分の意見」という意味だそうです。このころの歴史書の考え方がわかります。史実に忠実ということが、自分の意見を主体に考えられているように見えます。

舒明天皇49歳、中臣鎌足56歳、文武天皇25歳

 

一代要記 

作者不詳。鎌倉時代1278〜86年(弘安年中)後宇多天皇の頃、歴代天皇の略歴と、その時代の出来事を記した歴史書です。水戸藩の修史事業中に再発見された。元寇という国際環境にさらされた時代の書といわれます。この書を皮切りに一気に歴代天皇の年齢が明らかになっていきます。ここで初めて天武天皇の年齢も明らかになります。この書が最初です。ここでは天武天皇は天智天皇の3歳年下の弟として年齢が明記されます。この天智天皇53歳説は後に採用されることはありませんでしたが、天武天皇の65歳説は採用され続け、次の神皇正統記の73歳説と双璧をなしていきます。ある意味、現在までこの65歳説が生きているともいえます。現在、通説の56歳説はこの65歳説を基準として56の転機ミスによるものとしたものです。

 

尚、この一代要記により、斉明天皇の年68歳の内容記述は細部を極め、確定的になります。48歳で皇極天皇として即位、62歳で斉明天皇として復位、68歳で崩御と書かれます。

舒明天皇49歳,斉明天皇68歳、天智天皇53歳、天武天皇65歳、持統天皇58歳など。

 

600 1111111122222222223333333333444 年

年 2345678901234567890123456789012 齢

<一代要記>

舒明天皇S―――――――――30―――――――――40――――――――49

皇極天皇RS―――――26――29――――――――――40――――――――――68

天智天皇       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――53

天武天皇          @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――65

中臣鎌足  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――56

 

皇代記

平田俊春氏の「日本古典の成立の研究」によれば、皇代記が天智天皇58歳として初めて登場したことになります。中世の58歳説の始まりです。この書の設立年代は後宇多天皇の御代(1274〜87年)と云われるそうですから、上記一代要記と同時代の書ということになります。しかし、私の不勉強で塙保己一編「群書類従」では記述はなく確認が取れません。

 

仁寿鏡

この書の設立年代は後二条天皇の御代(1301〜08年)といわれます。私の確認したところでは、「天智天皇 年五十八」とはっきり書かれます。つまり、ここで天智天皇58歳説が初めて確定的になったものと思われます。天武天皇の記述ははっきりしません。以下に説明します。

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仁寿鏡一巻以智積院恵岳僧正本書写 文化14年2月24日 検校保己一 以塙氏所蔵本影写

 

上記は国会図書館所蔵の仁寿鏡の写しの天皇冒頭の切り抜き抜粋です。

左から順に天皇の年齢について

皇極天皇 「  年六十八  」とあります。

孝徳天皇 「  年     」とあり、「不詳」と記せず、空欄にしてあります。

天智天皇 「年五十八    」とあります。

天武天皇 「  年」とあり、空欄ですが左下に小さく「七十三」とあります。

仁寿鏡の年齢記述方法の基準は

1.「年六十八」、「年五十八」とあるように、はっきり連続的に表記します。

2.年齢不詳の場合は「   年  」と上又は下に空欄を作ります。

そんな中にあって天武天皇にかぎり、年齢表記が特殊なのです。

「七十三」は明らかに後で挿入したと思われる書き方です。

「年」のすぐ下には朱書の「・恵能大師」と書かれています。朱書きの部分は僧侶関連記載事項のようですから、墨色の脇に書かれた小さな「七十三」は天武天皇を指すものですが、連続的な記述ではありません。

 

仁寿鏡と「七十三」とはじめて唱えた神皇正統記の制作年代は仁寿鏡のほうが少し早いだけです。写しの段階で権威ある北畠親房の神皇正統記の記述に影響され追加加筆されたものと考えています。よって仁寿鏡では天武天皇の年齢は不詳とするべきと思います。

 

大和岩雄氏はその著作「天武天皇」のなかで、「(神皇正統記の著者)親房が天智五八歳、天武六五歳説を知りながら、「仁寿鏡」の天武七三歳説をとったのは、「天武が年長という伝承」を知っていたためと考えられる」としていますが、上記のとおり、仁寿鏡の記述を100%信頼することはできません。大和岩雄氏のこの根拠は平田俊春氏の「日本古典成立の研究」に載せた「年代記宝算対比表」によるもののようですが、この「対比表」は神皇正統記の研究書であり正統記を中心に他の年代記と比較対比したものです。勝手な思い込みなのかもしれませんが、宝年記述が違っているものが少なからず見られます。たぶん写本の関係だと思いますが、単純にこの表を利用するのは危険です。たとえば、この比較表で「日本書紀」に舒明天皇の年齢を「49」としていますが、日本書紀には49歳とする記述はありません。「天武が年長という伝承」などなかったと思います。

 

興福寺略年代記(2015/3/7修正加筆)

 

続群書類従第29輯下雑部版には、天智天皇が46歳(朱書きで58)、天武天皇は65歳とあります。神代から正親町天皇(在位1517−93)まで、1576天正4年の興福寺僧により書き継がれた年代記です。平田俊春「日本古典の成立の研究」S34によると、最初の成立年代は元弘年間(1331〜33年)後醍醐天皇の御代といわれます。

 

神皇正統記 

北畠親房著。室町時代、1339延元4年、いわゆる南北朝時代の産物で南朝正統派に立つ歴史論。

舒明天皇49歳,皇極天皇68歳、孝徳天皇50歳、天智天皇58歳、天武天皇73歳、持統天皇58歳など。

 

この書物で天武天皇が天智天皇の同母弟と明記しながら、天武天皇の73歳を逆算すると、天智天皇の生年と同一になってしまう結果が生じます。水野祐氏が言うように、「天智天皇が生まれた年を誤って、天武天皇の誕生とし、それを基にして天武天皇崩御の朱鳥元年(686)までを算定して、73歳としてしまったことによるものであって、その誤りであることは明白である。」(天智・天武両天皇の「年齢矛盾説」について)私も同意見です。机上での年齢推理の痕跡が認められ、天武天皇の宝年は年齢伝承記事とはいえません。

 

この73歳が以後の歴史書に影響を与え、転用されることのなるのもまた事実です。大和岩雄氏は、神皇正統記より早く書かれた仁寿鏡が73歳と書かれているとありますが、杉園蔵阿波文庫の写し(国立国会図書館所蔵)を見た限りでは、天武天皇の年齢は明記されていません。ただし、位置からずれてほんの小さく73と書かれてあるのは、後の挿入文と思われます。やはり73歳説は神皇正統記が始めと考えていいのではないでしょうか。

 

神統正統記の年齢考証には数字をまるめる癖ともとれる箇所が数カ所見つかります。

例えば、孝安天皇の年齢をあらゆる史書が127歳(又は137歳)としているなかで、神皇正統記だけが120歳としたり、雄略天皇(104歳又は93歳)、継体天皇(82歳)を混同?して同じ80歳としたり、推古天皇75歳(又は73歳)のところ、神皇正統記だけが70歳としたり、孝徳天皇59歳を50歳としたりしています。

 

こういう人はそのときの情熱のままに一気呵成に書き進めるタイプに多く見られます。数字のあいまいな記憶をそのままに後で調べるつもりで概算値を書き留めているのです。また、日本語特性で、例えば「五十九」と書くところ「五十」と一の位を省きやすいともいえます。

もっとも平田俊春氏の「日本古典の成立の研究」によると、神統正統記は孝徳天皇の年齢を59歳としていますが確認が取れていません。日本の名著(中央公論社)は50歳となっています。しかしこれは上記で述べたとおり59歳という写本があるのかもしれません。

 

孝徳天皇59歳説は姉皇極上皇の2歳年下の弟となります。以降、興福寺略年代記、如是院年代記などに採用されます。私も本節では不明の皇子の年齢設定を兄弟と2歳差あると仮定してよく利用しています。あまりに安易は設定方法だとは承知しています。信頼あるその後の本朝後胤紹運録では59歳説を知っていたはずですが採用せず年齢表記をしていません。

 

<神皇正統記>

600  1111111122222222223333333333444 年

年  2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇 S―――――――――30―――――――――40――――――――49

皇極天皇 RS―――――――――30―――――――――40――――――――― 68

孝徳天皇 PQRS―――――――――30―――――――――40――――――― 59

天智天皇   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 58

天武天皇   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 73

中臣鎌足   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 56

 

これらから考えられることは、天武天皇の年齢はそれほど闇に葬られたものだという予測です。後世の歴史文献は苦労し天武天皇の年齢をあらゆる角度から推定してきたことがわかります。

 

本朝皇胤紹運録 

室町時代、後小松天皇の勅を受けて洞院満季らが1416応永23年に撰進したもの。永年間(1394〜1428)、神代以降の各家の系図、注釈と細かい説明がある。「薩戒記」(中山定親日記)によれば元は「帝王御系図」という名だったとみられる。この後小松天皇といえば、4代将軍足利義満と三条厳子との不義の子とうわさのある天皇である。(「逆説の日本史7井沢元彦」)しかし、歴史書としての信頼はあついようです。上記の各書を整理統合され下記に示した年齢として落ち着いたといえそうです。

舒明天皇49歳,皇極天皇68歳、天智天皇58歳、天武天皇65歳、持統天皇58歳

 

<皇胤紹運録>

600 1111111122222222223333333333444 年

年 2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇S―22―――――――30―――――――――40――――――――49

皇極天皇RS21―――――――29――――――――――40――――――――― 68

天智天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 58

天武天皇          @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS― 65

中臣鎌足  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 56

 

尊卑分脈 

室町時代 洞院公定、同満季編として1300年代後半、藤原氏を始めとした諸家の系図をまとめた一大系図書。本書でも藤原家の系図作成に利用しています。

 

帝王編年記 

永祐著といわれる。1364〜80頃か。日本、中国、インドにわたる広い視野にたつ歴史書。また仏教に関する記事と人物の略歴紹介が特徴的といわれます。現存は27巻。

皇極61歳。あまり人物の年齢を現さないですが、その独特の逸聞は注目されています。ここでも皇極天皇だけが61歳と明記されたことが気になり、掲載しておきます。

 

 

        舒明天皇 斉明天皇 孝徳天皇 天智天皇 天武天皇 中臣鎌足

日本書紀                   (46        50 

藤原家伝                              56 

扶桑略記     49                       56 

水鏡            68                  56 

愚管抄      49                       56 

皇代記      48                          

一代要記     49   68        53   65   56 

仁寿鏡      49   68        58  (73)  56 

神皇正統記    49   68  (59)  58   73   56 

神皇正統録    49   68   59   58   65   56 

皇年代略記    49   68        58  (64     

如是院年代記   49   68   59   58   73   55 

本朝皇胤紹運録  49   68        58   65      

帝王編年記         61                  56 

注(数字 は途中年齢表記から没年を算出したもの          単位:歳

 (数字)は不明、確定できず

 

現代から見た中世の書物の分析にあたって、次の三点に注意しました。

1.現在伝わる文献以外にも失われた文献遺産が多くあったにちがいないという空想論を排除しました。今ある文献だけに限定して、そこから導き出せる仮説を検討しました。

2.だれがその人物の年齢をはじめに言い始めたのか。その責任追及をしています。ただこれが正しいのかの判断はここではしていません。本論4.5.に譲ります。

3.年齢構成をその文献内での家族全体像からも確認しました。その人物の年齢だけ取り上げ他の幾多の文献と比較してもその一つの文献が表現しようとしたものが見えてきません。その書物内での矛盾も見えてきません。

 

これは現代にも通じることですが、これはと思う各文献から拾い集めた人物の年齢を寄せ集めた奇妙な年齢の人物の集まりがこの中世の文献が著した天武天皇時代なのです。その中世の集大成が本朝後胤紹運録であり、残念ながらそれを現代も多少修正して利用しているにすぎません。

 

中世はようやく日本書紀の呪縛から解放された時代です。扶桑略記を底本とした水鏡には、扶桑略記から推理した独自の年齢を提唱しているところがあると聞きます。周囲の年齢から逆算して年齢を組み立て提唱したものが、その後の学者により律儀に取り入れ、定説としてしまった時代と考えています。引用なのか、伝承なのか、自分の意見値なのかが不明確な時代の書です。

 

天智、天武時代の年齢考証のなかで、意外と普遍的なのが天武天皇の父に当たる舒明天皇の年齢です。また、水鏡以降の斉明天皇の年齢も帝王編年記を除き一定しています。しかし、舒明天皇の1歳年下の妻という無難な作為的なものを感じます。また、神皇正統記の孝徳天皇の年齢も姉、皇極上皇の2歳年下とはいかにもといった感じです。

 

ここで一つまとめて置きたいことは、この頃の天智天皇の年齢です。栗原薫氏は扶桑略記を底本とした水鏡の表現から、中臣鎌足の年齢を天智天皇の年齢と間違えて解釈され、年齢が引き上げられたといいますが、むしろ当時、二人の年齢は同じと考えられていたと思われます。当時、中臣鎌足と天智天皇は同年齢であるという藤原家伝などから伝承があったと思われます。藤原家伝には、生年は推古34年と記されています。これは、日本書紀に記載されている天智天皇誕生年と同一です。しかし原文に甲戊年とあるところから、その推古22年甲戊に中臣鎌足は生まれたとされましたが、同時に天智天皇の年齢も同じ中臣鎌足の年齢から逆算され、58歳とされた可能性があるのです。

 

中世歴史書の天智天皇、天武天皇の58歳、65歳説定着への推移

1.日本書紀は日本世記の記事から、中臣鎌足の年齢を50歳と紹介した。

2.また、日本書紀は同時に中臣鎌足の墓石には56歳と刻銘されたとも記述している。この年は天智天皇との年齢差がちょうど12年であり、一巡した同じ十二支の干支の生まれとなる。

3.中臣鎌足と天智天皇は同年齢という伝承があったと考えたい。中臣鎌足自身も天皇様と同じ年齢と言ったことがあったのかもしれません。主君と同年同月同日生まれであることは、その頃の忠臣のステータスであったはずです。たとえば、成務天皇と武内宿禰などの同年齢が挙げられます。

4.藤原家伝書は中臣鎌足の年齢を56歳としたが、天智天皇と同年齢である44歳ともとれるあいまいな記述を残している。

5.当時のベストセラー水鏡には中臣鎌足の年齢56歳を天智天皇の年齢だと勘違いしやすい表現が見られた。これは、底本となる扶桑略記にそうした表現があり安易に同様な記述を踏襲したためと考えられる。栗原薫「天智天皇の宝年」日本の歴史1977吉川弘文館

6.一代要記は、中臣鎌足が56歳で亡くなったとしたが、鎌足と天智の年齢差は5,6歳であったという伝承に基づき、その2年後に崩御した天智天皇は53歳であったとした。確かに本稿の支持する日本世記の記述に従えば、天智天皇と中臣鎌足の年齢差は6歳である。天智天皇の皇弟である天武天皇の年齢は3歳ちがいとした。

7.神皇正統記は天智天皇と中臣鎌足を同年齢とし、藤原家伝書などに中臣鎌足が56歳で亡くなったとあるので、その2年後に崩御した天智天皇の年齢は58歳であったとした。又そのほうが、以前から確定している父母である舒明天皇、斉明天皇の年齢と辻褄が合いやすい。

8.その際、天武天皇の年齢までも天智天皇生年と同一にして計算を間違え、天武天皇の宝年を73歳としてしまう。その年齢だけが、後世に一人歩きし始める。

9.その後、本朝後胤紹運録は幾多の文献を調べ上げ、天武天皇の年齢を修正し、一代要記説の65歳に戻した。

 

 

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