天武天皇の年齢研究

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 史料調査 

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 天武天皇の年齢 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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史料調査−近年の学術研究 

First update 2009/12/23 Last update 2011/01/15

 

天武天皇に関わる、年齢の記録を日本書紀からスタートし、中世の文献を通して現在に至る学説、さらに異説を含め、以下にまとめてみました。

 

1.歴史的文献史料

2.近年の学術研究

  川崎庸之氏

   近年の異説概要

   天武天皇子女の年齢序列

    青木和夫氏「日本書紀考証三題」

    直木孝次郎氏「飛鳥奈良時代の研究、忍壁皇子」

    伊藤博氏「萬葉集釋注、別巻」

3.天武天皇年上論争経

 

現在、天智天皇の年齢は日本書紀の表現から、多くが46歳だとしています。

 

一部、水野祐氏のような58歳説に固執している方もいるにはいます。彼によれば、日本書紀の16歳時の舒明天皇崩御の誄の記事は、「実は誄をした時の年ではなく、葛城皇子(中大兄皇子)が、舒明天皇即位と共に皇太子に任ぜられたという記事であったのを誄の記事に置きかえて記述してしまったのではあるまいか」という。だから、天智天皇は58歳だというのだ。そして、それに付随して天武天皇も本朝後胤紹運録のとおり、65歳だといっておられます。

 

一方、川崎庸之氏は、天智天皇の年齢を日本書紀の記述を尊重して、46歳だとした上で、天武天皇の年齢を、「本朝皇胤紹運録を中心とした65歳説は、同腹の兄を超えてしまうことになるので、もし65歳を56歳に写し間違えたとみることができれば、中大兄皇子との年齢差は5歳となり、中大兄との年齢のひらきも、また、その間に間人皇女を数えなければならないことについても、そんなに不自然ではなくなってくるので、ここでは、しばらく、この仮説の下に考えてゆきたい」、としました。それを、直木孝次郎氏も認めたことで、それ以降、56歳が定説として「決して間違いとはいえない暫定値」として定着したのです。

 

「中世の知恵」と位置づけられた中世の本朝後胤紹運録などへの批判は、現在5歳年下の弟とした「学会公認の知恵」として息づいているともいえるものです。

代表的表現として例を挙げれば、北山茂夫氏は「大海人皇子の生年は、明らかではない。中大兄皇子より二歳ないし四歳年下ではなかったろうか」となります。

 

600 222222333333333344444444445555555 年

  年 456789012345678901234567890123456 齢

舒明天皇―――――――39―――――――――49

皇極天皇―――――――38――――――――――――――――――――――――― 68

天智天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――― 46

間人皇后     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――― 

天武天皇       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――― 56

十市皇女(伊藤博説)                  @ABCDEFGH 31

高市皇子(扶桑略記)                        @AB 43

注)ここでは、間人皇女の年齢を単純に天智天皇と天武天皇の中間にしました。

 

しかし、本朝勝運後胤録を修正し天智天皇、天武天皇兄弟の年齢だけを大きく引き下げることで、その父母との年齢格差に矛盾が露わになってはいないでしょうか。皇極天皇は二人の息子を33歳、38歳で出産したことにされたのです。現在でもかなりの高齢出産です。

 

最近の異説の意味

 

小林恵子氏をはじめとして大和岩雄氏、伊沢元彦氏らは、日本書紀が、天武天皇の出自ゆえに年齢を故意に隠したと考えました。時代が下り、中世のこの頃、日本書紀記載の呪縛が取り除かれ、言い継がれていた伝承に従い、ようやくそれを公表し表明した、との予測を立て、天武天皇65歳説のみを抽出しました。その上で、天智天皇の年齢は46歳とし、かさ上げされたものとされたのです。あくまで天武天皇が天智天皇の弟とする説を、中世の知恵と位置づけ、天智天皇の年齢は作られたものとしました。

その結果として、日本書紀の天智天皇の年齢が正しいとする46歳にもどし、天武天皇は65歳とすることで、天武天皇のほうが年上であるという仮説が成立しました。

出自について、小林恵子氏ははじめ、天武を天智の兄として、漢皇子=大海人皇子とし、父を高向王=高向玄理としました。そこから、いろいろな説が各氏により展開されることになります。

 

概要でも申しましたが、本書ではこの天武天皇年上説を採用しません。「皇弟」という表現はあらゆる文献からもゆるぎない史実と考えるからです。また、天武天皇の皇子達を得る年齢がかなり高齢からの出産となり、「大海人皇子は日本にそのころいなかった」など仮説を上塗りしていかないと説明が難しくなるのです。

しかし、小林恵子氏らの考察には多大な影響を受けました。本書もそんな産物といえるかもしれません。

 

600 2222222223333333333444444444455555 年

  年 1234567890123456789012345678901234 齢

舒明天皇―30――――――――39―――――――――49

皇極天皇―29――――――――38――――――――――――――――――――――― 68

天智天皇     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 46

間人皇女        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――― 

天武天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27―――――― 65

十市皇女(伊藤博説)                     @ABCDEF 31

高市皇子(扶桑略記)                           @ 43

 

もっとも、天武天皇年上説を唱える諸氏はその父母や子女の関係にはあまり触れていません。もしかしたら私の不勉強で、研究のほうは進んでいるのかもしれませんが、ここでは、定説に則して上記のように父母や子供と比較した年齢表を作成しました。

ここでも皇極天皇の出産年齢が29歳と高齢であること、なによりも初めての子供である十市皇女を授かるのが27歳にもなってからということになります。また末子の新田部皇子にいたっては60歳と時の子となります。

 

現在の学説による天武天皇子女の年齢序列

 

そこで、子供達の年齢が本当に正しいのだろうかと考えました。

日本書紀には、天武天皇の妻子を次ぎの順番で表記しています。

 

語句  位等  名称     父       子

立正妃 皇后  菟野皇女   天智天皇    草壁皇子

先納  妃   大田皇女   天智天皇    大伯皇女、大津皇子

次   妃   大江皇女   天智天皇    長皇子 、弓削皇子

次   妃   新田部皇女  天智天皇    舎人皇子

又   夫人  氷上娘    藤原鎌足    但馬皇女

次   夫人  五百重娘   藤原鎌足    新田部皇子

次   夫人  太蕤郎女   蘇我赤兄    穂積皇子、紀皇女、田形皇女

初娶      額田王    鏡王      十市皇女

次納      尼子娘    胸形君徳前   高市皇子

次       穀媛娘    宍人臣大麻呂  忍壁皇子、磯城皇子、

                       泊瀬部皇女、託基皇女

 

これが、日本書紀で知られる天武天皇の妻たち10名、子供たち17名(皇子10名、皇女7名)です。

本書の年齢考証では、日本書紀に述べられている何気ない表現から年齢を推測するうえで、以下の論文に大きな知恵をさずかりました。それゆえ、ここに特に別にまとめておきます。

 

青木和夫氏「日本書紀考証三題」

 

まず、青木和夫氏「日本書紀考証三題」によれば、日本書紀の記述法則を整理し、皇子の長幼の序列をまとめておられます。

1.子女がおのおのの母なる后妃ごとに括られている。

2.同腹の子女は、性別に関係なく長幼の順に列記される。

3.后妃の身分順による列記されている。

4.続日本紀の第何子という表現は身分を加味した年齢順になる。

その証拠の一つが同母をもつ長皇子(第四子)と弓皇子(第六子)との間に母を異にする穂積皇子(第五子)を数えていることによる。その結果、日本書紀の記載順は后妃を内命婦以上とそれ以外の2種類に分け、その中では長幼順に記載したというものです。

5.同様の理由から、天武8年5月紀の「草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子」という記事は、后妃の身分から大津皇子以前と高市皇子以降の2種類の皇子に分け、それぞれが長幼の順で列挙している。

以上の理由から皇子の長幼の順序を定めた。

草壁→大津舎人→長→穂積→弓削→新田部

高市→忍壁→磯城

6.さらに、日本書紀の記述「高市・草壁」「大津・忍壁」から

高市→草壁→大津→忍壁→磯城舎人→長→穂積→弓削→新田部

が得られたとしたものです。

 

 

青木和夫氏の説を図式化すると、

600   555555666666666677777777778888888年

年     456789012345678901234567890123456齢

(1)高市 生――――――――――――――――――――――――――――――――43

(2)草壁         生――――――――――――――――――――――――28

(3)大津          生―――――――――――――――――――――――24

(4)忍壁         (63――――生―――72)―――――――――――――

(5)磯城         (63――――――生―――――76)―――――――――

(6)舎人                       生――――――――――60

(7)長                       (76――――生――――86

(8)穂積                      (76――――生――――86

(9)弓削                      (76――――生――――86

10)新田部                     (76――――生――――86

 

 

直木孝次郎氏「飛鳥奈良時代の研究、忍壁皇子」

 

直木孝次郎氏は「飛鳥奈良時代の研究、忍壁皇子」で青木和夫氏の前説を詳細に独自の分析を加えた上で、長幼の順序を修正されました。

    高市→忍壁→草壁→大津→磯城

    穂積→長→弓削→舎人→新田部

1.日本書紀の記載の順序は皇后、妃、夫人と身分の高下にしたがって序列されており、年齢順や入内順によって記されたものとは考えられない。

2・天武3年8月条に石上神宮への奉納記事が、青木氏推定に即して類推するに忍壁皇子は11歳となり、若すぎておかしい。

3.天智天皇皇子川嶋と常に同列にある忍壁皇子。その川嶋皇子は懐風藻に持統5年35歳で亡くなっているところから壬申乱のとき16歳である。忍壁皇子は青木説によれば7,8歳となり、この二人の大きな年齢差に不自然さがある。

この二つなどから、忍壁皇子は高市皇子に次ぐ高年齢者と判断する。

4.忍壁皇子は672年の壬申の乱が初出、689持統3年4月草壁皇子死去に伴う天皇継承問題等で14年間失脚、磯城皇子は皇位剥奪された。

 

600   555555666666666677777777778888888年

年     456789012345678901234567890123456齢

(1)高市 生――――――――――――――――――――――――――――――――43

(4)忍壁      生生――――――――――――――――――――――――――46,7

(2)草壁         生――――――――――――――――――――――――28

(3)大津          生―――――――――――――――――――――――24

(5)磯城             生生―――――――――――――――――――?

(8)穂積             (生)――――――――――――――――――

(7)長                     〜生――――――――――――

(9)弓削                     生――――――――――――

(6)舎人                       生――――――――――60

10)新田部                          (生)――――

注)穂積と新田部は「忍壁皇子」の本文では年齢を述べられておられません。前後の文意から判断したものです。

 

さらに、伊藤博氏は万葉歌人の年齢を次のように図式にしています。

600 4455555555556666666666777777777788年

年   8901234567890123456789012345678901齢

 十市 生―――――――――――――――――――――――――――――31   

 高市       生―――――――――――――――――――――――――――43

 忍壁            生――――――――――――――――――――――47

 大伯              生――――――――――――――――――――41

 草壁               生―――――――――――――――――――28

 大津                生――――――――――――――――――24

 長                    生―――――――――――――――50

 穂積                    生――――――――――――――49

 弓削                       生―――――――――――30

 舎人                             生―――――60

 新田部                                 生55

「萬葉集釋注11別巻『万葉歌人の年齢』」より

 

この特徴は、現在の学説を取り込みながら十市皇女などの皇女をも年齢表現しようとしているところです。額田王を夫となる通説に基づく天武天皇の年齢と同じとし、十市皇女も懐風藻に示された夫となる大友皇子の年齢と同等として表現しました。

 

ここで気がつくことは、他の皇子達と比較して十市皇女と高市皇子が特出して早く生まれていることです。また、皇子達の年齢分布のばらつきが大きく、末子の新田部皇子も遅く生まれているように見えます。

 

 

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