天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
国史編纂 こくしへんさん First update 2013/08/30
Last update 2013/10/10 天武天皇の業績の中で、古事記、日本書紀編纂についてはよく知られています。 この話題は奥が深く、ここでは古事記と日本書紀成立の関係史について扱います。 天武天皇が国史編纂を命じたという証しは、古事記はその序文に、日本書紀は天武10年の詔に、はっきり書かれています。その結果、後に「記紀」と総称される古事記と日本書紀が次々生まれました。 狭い同じ宮廷内で、たかだか8年の差で次々発表された古事記と日本書紀です。それなのに、二書は違った経緯で作られたものだとか、古事記が先に出来たが、不満足なものなので天武天皇が命じて大がかりな編纂事業を立ち上げたと考えたり、最近では、それぞれが物語としてストーリーをもつ独立した作品だとして、二書を混同させ、項目ごとに比較し、取捨選択、融合したりするのは間違いだと教えられます。この二書だけで「帝紀」の実態を透かし見ることは不可能で、形成論として限界があり、その結果、現在の研究の流れは構造論に変わってきたといいます。 記紀二書の関連に疑問を持たず、考えるべきでないというのは、何か納得がいきません。研究者たちが無駄な作業とあきらめたことを、ここで改めて問題にしてみました。 1.古事記とは 幼い頃より次のような間違った知識を持っていました。 天武天皇の時代のこと、稗田阿礼は目が見えず、あらゆる故事を諳んじており、それを太安万侶が聞き取り、長い年月をかけ古事記を作り上げ、当時の天皇に捧げた、というものです。 しかし、実際に古事記の序文の文章を読むだけで、その印象はまるで違うことがわかります。 1−1.天武天皇の詔 【古事記 序文@】
「ここに(天武)天皇詔りたまひしく、『朕聞きたまへらく、諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚僞を加ふ、といへり。今の時に当たりて、その失を改めずは、未だ幾年をも経ずして、その旨滅びなむとす。これすなわち、邦家の経緯(国家組織の原理)、王化の鴻基(王制政治の根本)なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(訪ね調べ)して、僞りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ』とのたまひき。」 一般に「帝紀」は天皇系譜、「本辞」、「旧辞」は物語、出来事のこととあります。 天武天皇は各氏族が保有する「歴代天皇の記録」や「神話、伝承」に、統一性がないことを聞き、日本の歴史を一本化する必要を感じておられました。このことは「国家組織の原理、王制政治の根本である」と言います。天皇は自らも古代中国史書「史記」や「漢書」を見聞きしていたはずです。作成に当たっては、後に出来た「日本書紀」以上に精度の高い、紀伝体形式の中国正史をイメージしていたはずです。 1−2.太安万侶が描く稗田阿礼像 【古事記 序文A】
「時に舍人ありき。姓は稗田、名は阿礼、年に二十八。人と爲り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒しき。すなわち、阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしめたまひき。然れども運移り世異りて、未だその事を行ないたまはざりき。」 稗田阿礼は、頭脳明晰な人物で天武天皇のそば近くに仕えていました。目が見えないわけではありません。難解な文字をすらすら読んだとあり、記憶力が優れていたことが強調されています。読めるわけですから自ら文章を書けるはずです。聞き学び、自ら諸家の文書を読みあさる阿礼の姿が浮かんできます。 稗田阿礼の仕事は、天皇の系図や旧い事績を読み習うだけではなく、すでにある多数の諸家の書物を比較研究し、正すことです。しかし、天皇がお亡くなりになったことで阿礼は完成できなかったと書かれています。 1−3.太安万侶が元明天皇から請けた詔の真相 【古事記 序B】
「ここに、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、(元明天皇は) 711和銅4年9月18日をもちて、臣安万侶に詔りす。『稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して 献上せしむ』といへれば、謹みて詔旨の隨に、子細に採り摭ひぬ。」 【国史編纂関連系譜】
天武天皇が崩御された25年後、これを憂えた元明天皇(持統の異母妹)は、太安麻侶を呼び、「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞」を撰録し献上するように命じました。安万侶は阿礼の旧辞を詳細に取り拾ったとありますから、自身は天武天皇から直接、序文冒頭の詔を聞いた訳ではありません。また、前から阿礼と面識があったわけでもありません。時の元明天皇に命じられとおりに対応したのです。 その作業は文章作成に難航したような文面です。以下、意訳ですが、 上古の時は、言と意と並朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於いて即ち難しい。 「古代の素朴な内容を、文章詞句に書きあらわすことは難しい。」 已に訓によりて述べたるは、詞こころに逮ばず。 「漢字の訓だけを用いて書き表しても、漢字の意味と古い言葉の意味が一致しない。」 全く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。 「漢字の音だけを用いて書き表してみたが、記述がさらに長くなってしまう。」 よって、 「一句の中に音と訓を混用したり、一つの事をすべて訓で記した。 意味のわからないものは注を加えた。意味のわかるものは、特に記さない。 例えば、氏「日下」をクサカと読み、名「帯」をタラシと読むなどは改めない。 天地開闢から推古天皇まで、合計3巻に別けて記し、 712和銅5年1月28日、太朝臣安万侶は元明天皇に謹んで献上致します。」(一部省略) ここに書かれた苦労話は、漢文、和文、古文に関する文章作成上の事ばかりです。諸家の旧辞との違いをどう折り合いをつけたかという一番大切で最も難しい話は一切ありません。 しかも、711和銅4年9月に命じられてから完成した序文の日付、和銅5年1月まで、たった4ヶ月です。一人こんな短時間で「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(訪ね調べ)して、僞りを削り実を定める」という、天皇系譜や各氏族の旧辞を整理統合するなど不可能です。阿礼ができなかったことを安万侶自身が完成させたと自画自賛したように見えますが、どういう意味なのでしょう。 それを解く鍵は太安万侶に命じられた、天皇の言葉「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せよ」の「勅語の旧辞」にあると思います。彼は天皇の言葉に従って文書を仕上げ献上したのです。 「勅語の旧辞」とは何でしょう。 次田真幸氏(講談社学術文庫)の訳では「天武天皇の勅命によって誦み習った旧辞」とあり、 倉野憲司氏(岩波書店)の注には「天武天皇が勅命された帝皇日継と先代旧辞の意で、文を省いたと見るべき」とあります。 津田左右吉氏は「『勅語旧辞』の語はどうも意味をなさぬようである。もし強いて解釈すれば、旧辞の種々の異本のうちで、『阿礼に誦めと勅命せられた旧辞』という意とでも見るのであるが、甚だ穏かで無い」 とあり、どの解釈も意味不明です。 ここは沢山の旧辞記録のことではなく、素直に「天武天皇が語った旧辞」を指すのではないでしょうか。当時、阿礼が常々誦んでいたのは天武天皇の考えが盛り込まれた、すでに修正され、まとめられた旧辞だったと思います。当時から沢山の旧辞は文書としてあったはずです。元明天皇はこれらを読みまとめよ、と安万侶に命じればいいのに、わざわざ阿礼の旧辞を撰録するように命じたのです。 また「阿礼の誦む」とは、「阿礼が誦んだ」という過去形であり、「稗田阿礼がかつて誦みまとめた天武天皇らが残した旧辞を(急ぎ)忠実に翻訳せよ」、たぶん短い期限付きで命じられたものと思われます。だから太安万侶は「謹みて詔旨の隨に、子細に採り摭ひぬ」と答えたのです。安万侶は元明天皇の命令とおりに、子細漏らさず、一句一句を拾い出したのです。 その結果提出された古事記序文を見ると、安万侶の文書作業は非常に律儀というか官僚的です。中国美文を模倣した美文で始まり、形式的な上表文のように締め括られた、まじめで忠実な文章です。 確かに安万侶が言うように、古事記は未完成な部分があります。仁賢から推古の章は系譜の記述だけであり、その後の欽明から天武時代までの記述は一切ありません。 つまり、安万侶のいう撰録という作業は翻訳のようなものです。天武天皇らが行った帝紀や旧辞の撰録された記録は、誰が見ても未完成な部分を含め、何の修正加筆をしていません。旧い言葉で綴られた阿礼流の万葉仮名のような大和言葉を当世の漢文体に、不明点やわかりにくい点は注を付けながら、誰もが読めるようにしたのです。その原文注は安万侶の意見ですから、小さな字でそれとわかるよう区別しており、勅語の旧辞を正確に忠実に記録したといえます。 ここで、稗田阿礼と太安麻侶の関係が問題になります。 このとき、阿礼は天武10年が28歳の天才児なら、編纂を始める711和銅4年は生きていれば58歳の爺です。安麻呂はそれより若かったでしょう。 なぜなら、この後に示しますが、編纂開始当時の681天武10年メンバーと714和銅7年の新メンバーを見る限り、世代交代が進み、ほとんどが一新されているからです。 安万侶は阿礼と面識もなかったかもしれません。阿礼が残した文書を天皇から渡されたか、面識があったとしても老齢な稗田阿礼が持っていた当時の研究記録書類を二人で読み合わせをしたのでしょう。 だから、元明天皇は、当時の天武天皇らの業績が伝えることなく忘れられ、阿礼ノートが古く解読困難になるのを恐れていたのです。 2.日本書紀とは ところで、一方で多くの人たちが投入された日本書紀編纂はどう位置づけられるのでしょう。 【日本書紀 天武10年3月】
「丙戌(17日)に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連子首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまう。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。」 2−1.日本書紀と古事記の目的は同じ 日本書紀でも、古事記と同様に同じ目的が明確に書かれていました。古事記と日本書紀が出来たのは、天武天皇崩御後のことであり、最初から天武の目的は、一つの国史編纂であったはずです。
国史編纂事業のメンバーは明確で、12名です。 特に執筆に携わったものは中臣連大嶋と平群臣子首です。大嶋はこの頃まだ正六位相当ですが、後に藤原姓になるなど、時代的には鎌足と不比等の間に君臨した中臣氏の実力者です。子首の正体はわかりません。 メンバー全体をみると、広範囲で旧い皇族と氏族のもの達が集められました。しかも、身分も高くありません。つまり、相対的に若いメンバーであることがわかります。当時身分制度があり、わかりにくいのですが、王族と氏族の比較は別として、同氏族内は比較的に年功序列です。 人物不詳の王族が多いということは、古い王族の血筋をもつ若者なのかもしれません。一方、氏族は、幅広く各地から集められた古くからの有力氏族の若者たちだと思われます。 よく見かける説に、天武10年からはじまった天武天皇等の作業は、「とりあえず、帝紀と旧辞を正しく記定してみようと始めた」ものとか、「代々進めて行くうちに、おのずから書紀のような史書が構想せられて」いったとか、「天武10年の事業は日本書紀の資料整備」の段階などというものがあります。 こんなのんびりした中途半端なものではあったとは思えません。強い理念と具体的目標がなければ、天武天皇崩御後に今に残るすぐれた日本書紀が完成できるはずがありません。「資料整備」は高い目標を目指すなかで、後から、どうしても必要となるもので、持統時代の墓標の提出、元明天皇の風土記の蒐集がそれでした。 ほぼ1ヶ月前、律令編纂事業が立ち上がっています。国史編纂より多い、親王・諸王・諸臣が呼ばれ、さらに大がかりな事業です。関係ない偶然とは思えません。 2−2.日本書紀メンバーの強い絆 【日本書紀 691持統紀5年8月】
「八月の己亥の朔辛亥(13日)に、十八の氏、【大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇】に詔して、其の祖等の墓記を上進らしむ。」 持統天皇は夫、天武天皇の後を引き継ぎ、持統4年にまず、飛鳥浄御原律令を施行させています。次がこの国史編纂事業です。 ここでいう「墓記」とは「墓誌銘のようなもの」とあります。そうであるなら、少なくとも亡くなったもの達の氏名と住所、身分、卒年月を蒐集したことになります。系図などのような想像を含む曖昧なものでなく、かなり具体的事実を露骨に各氏族に対し要求したことになります。「政府で行う帝紀旧辞の記定に対し、新しい資料を追加蒐集しようとする試み」と考えられます。 この18氏族名は天武10年の編纂参加した12氏族名を含むと思われます。上毛野、平群、安曇氏の同名氏族は無論ですが、藤原は中臣、大伴は忌部に関わりが深く、阿部は難波連(大草香部吉士大形に難波連姓が与えられ、阿倍氏と同祖)となる同系氏族です。 天武10年でのメンバーの中心人物は、実務者中臣大嶋でしたが、天武天皇が没したため、政治の中心に押し上げられた後、693持統7年位に没したと思われます。忍壁皇子も律令編纂の方に廻され、帝紀編纂再開前の705慶雲2年に没しています。川嶋皇子は若く691持統5年に薨去され、以下、広瀬王(722養老6年)・竹田王(715和銅8年)・桑田王(729天平1年)・三野王(708和銅1年)・大錦下上毛野君三千(681天武10年)・小錦中忌部連子首(719養老3年)・小錦下阿曇連稻敷(筑紫、生没不詳)・難波連大形(摂津、生没不詳)・大山下平群臣子首(生没不詳)となります。 編纂事業の本格的な再スタートとなる714和銅7年に生存していたのは、広瀬王(722年)と桑田王(729年)、忌部連子首(719年)だけです。生没不詳者は難波連大形と平群臣子首の二人いますが、大杉は壬申の乱の功労者で、平群子首同様、生きていてもかなりの高齢者です。 明らかな世代交代といえ、特に、天武10年のメンバーが故意に外されたわけではありません。 2−3.「風土記」撰述の目的 【続日本紀 713和銅6年5月条】
「五月甲子(2日)、畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。 その郡内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の沃塉、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。」 これは、古事記が完成して、元明天皇に捧げられた翌年に当たります。 一般に諸国に風土記撰述の命を下したとされる記述です。具体的な「風土記」の名はありませんが、地名、産物、古老の伝聞などの蒐集記事は現在断片的に残る「風土記」と考えていいようです。日本書紀制作を控えた本格的な情報収集といえます。 これも「政府で行う帝紀旧辞の記定に対し、新しい資料を追加蒐集しようとする試み」と考えられます。 2−4.日本書紀編纂再スタート 【続日本紀 714和銅7年2月】
「戊戌(10日)、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂、国史を撰せしめたまふ。」 天武10年に始まった国史編纂事業の再スタートです。これだけの書物です。編纂事業にはもっと担当者がいたはずです。天皇の性格なのか代表格の二人しか書かれていません。編纂実行者とみていいでしょう。そのトップ二人も地位は高くありません。三宅藤麻呂はわかりませんが、紀清人は学者として相当の実力者であったその後の実績が残っています。753年歿なので、やはり二人とも当時は若かったと推測できます。しかし、やはり、中心人物が紀清人ではもの足りません。ここに藤原不比等の名を掲げるのは考えすぎでしょうか。 次ぎに、ここでは欽明時代の記述をさかのぼって示しますが、これは紀清人ら、日本書紀編集陣の意気込みがわかる文章として重要です。 【541欽明紀 2年3月条 原文注】
「帝王本紀に、多くの古字があり、撰び集むる人、しばしば遷りかわるることを経たり。後の人習い読むとき、意を以て刊り改む。伝え写すこと既に多にして、遂に舛雜(入り乱れる)を致す。前後次を失い、兄弟參差(ふぞろい)なり。今則ち古今を孝え覆りて(調べて)、その眞正に帰す。一往識り難きをば、且く一つに依りて選びて、その異なることを注詳す。他も皆これに效へ。」 「帝王本紀」と名付けた文書とは何を指すのか昔から議論が多いところです。 それより、ここでは太安万侶が書かなかった、これこそ幾多の文献を比較する苦労がにじみ出ている文章です。日本書紀執筆陣の腕の見せ所です。 それにしても最後の「他皆效此」(他も皆これに效へ)とは何でしょう。何とも言えぬ、上から目線の、この文章は日本書紀の原文注によく見かけるものです。誰が書いたのでしょう。現代語訳で宇治谷孟氏は「他のところもこれを同じである」と穏便に訳されています。この訳には不満です。 2−5.日本書紀の完成 【続日本紀 720養老4年5月21日条】
「癸酉(21日)。〜先是、一品舍人親王、勅を奉けたまはりて、日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀卅巻、系図一巻(現在伝わらない)なり。」 日本書紀の再スタートされた作成作業は6年を必要としました。 このとき天武天皇の息子でまだ健在な皇子は、この舎人親王と末子と思われる新田部皇子の二人でした。 完成した年の2ヶ月後、8月3日に右大臣正二位藤原朝臣不比等が没しています。予定されていたかのように翌日、舍人親王が知太政官事、新田部親王が知五衛及授刀舍人事となります。 翌年が辛酉721養老5年です。日本書紀の完成献上行為を神武天皇即位元年と同じ辛酉年にする予定が、不比等の発病により、発表が前年に繰り上げられた気がしています。 そして、甲子724神亀1年待望の男子直系、聖武天皇が即位するのです。外戚として藤原不比等の孫になります。元明天皇の生前譲位により実現しました。讖緯に基づくシナリオ通りの皇位継承といえます。 【国史編纂関連系譜】
3.古事記と日本書紀の年代推移から見える両者の緊密な役割 以下に、一連の流れを年表化してみます。 【古事記と日本書紀、編纂の推移】
こうしてこの経緯を眺めると、はっきりと古事記から日本書紀編纂へと推移した事情がわかってきます。 天武天皇が国史編纂を指示した時点では、古事記と日本書紀の区別はありません。 岩波版の小島憲之氏の解説文によれば、「(日本書紀の記述は)公的な政府事業としか考えられないが、(古事記の記述は)天皇がひとりの舎人に誦み習わせたのは、私的なささやかな事業ではないか」という意見です。 天武天皇が別々に歴史編纂を指示したとは思えません。現代の巨大組織があれば、一つの目的の為に別々二つのグループを作り、競い争わせることもできたことでしょう。公とは別に、私的な諮問機関を設け稗田阿礼を自分のそばに置くこともできたでしょう。しかし、古代にあって、皆で共同作業すること自体、画期的なことでした。日本書紀は、時代を区分して、担当分けまでしているのです。中国では作家は一人で、もしくは親子2代で編纂されたものです。 古事記にしか現れない稗田阿礼は大和郡山市稗田出身といわれています。これはあくまで想像ですが、平群氏の生駒郡南と近く、大山下(従六位下相当)平群臣子首が阿礼ではないかとも空想しています。 舎人の阿礼を身分が低いものと見下すのは危険です。壬申の乱で天武天皇に味方した舎人の中には連や臣姓の氏族もいました。古事記序文の末尾に名を連ねなかったのは、出自が低いことが関係するという説もありますが、そんなことはありません。太安万侶は文中でも充分に彼を讃えています。たぶん、没していたと思います。 稗田氏は「西宮記」裏書や「弘仁私記」序などの記載によって、天鈿女命を祖とする猿女君(公)氏の一族であるとか、女性説まであります。すべて興味本位な説でそのこと自体に大きな意味があるとは思えません。 確かに私的に天武天皇の側近くに稗田阿礼がいたのでしょうが、天武10年の公的メンバーにも共にとけ込んでいたはずです。少なくとも、編纂事業の状況をつぶさに見聞きしていたのです。 701大宝1年、大宝律令が完成することで国の形が整い、改めて、国の歴史書の必要性が問われることになったのです。 20年後、元明天皇がこの国史再編修に踏み切らせます。元明天皇は持統天皇の母違いの妹で思想的な継承者と言えます。そこに、太安万侶が呼ばれます。 1年後に、完成された古事記を見て、年代記述のない、その不完全な国史をみて、本腰をいれ、日本書紀の編纂に着手したものと思われます。本来の目的は律令編纂と同じ、海外に見せても遜色ない国史編纂です。むしろ、太安万侶の作業は織り込み済みで、本格的編纂事業の前哨戦だったかもしれません。不完全な古事記ですが、天武天皇の思想を含むゆえに、まずは国史編纂の基本だったはずです。 太安万侶自身も、この新たな714年日本書紀への編纂国家事業に最初は参加したはずです。「弘仁私記」にその名があるといい通りです。もしそうならば、当時従五位下ですから、従六位上以下の紀清人等より位が高く、編纂責任者です。 ところが、安万侶は編纂再スタートしてすぐ翌年には715霊亀1年1月従四位下に叙されがことで、同時に民部卿になったと推測されます。つまり、すぐに体よく編纂事業から外されたのです。さらに翌年には氏長(太氏、多氏などの族長)になることができましたから、対面は保てた形です。723養老7年7月7日民部卿・従四位下のままで卒。 再稼働した日本書紀を紀朝臣清人らは自由に主導できたはずです。後に753天平勝宝5年7月11日従四位下にて卒。太朝臣安万侶より30年は長生きし、同じ位を得ています。 古事記の存在は日本書紀や続日本紀の国書に一切、記されませんでした。社会的に古事記は抹殺されたのです。ところが現在では日本書紀に並ぶ地位を得ています。古事記は日本書紀より原点に近い重要な書物と感じる後継者が後を絶たないからです。 二書の構成はほとんど同じです。 国造り神話にはじまり、神武天皇東征、欠史八代の簡略な記述、崇神天皇から続く一代ごとの天皇の歴史です。武烈天皇まで続きます。 それ以降が古事記は最後の推古朝まで系譜のみの記述ですが、日本書紀は持統天皇まで天皇の記録が続けられます。新たに情報が次々と追加されていきます。「百済記」「百済新撰」「百済本記」などの天智朝の亡命百済人たちから得た新しい資料は重要な文献の一つです。国際関係の追加記録、詳細な政治上の出来事がふんだんに引用されています。 むしろ、古事記の記事に対しては、細部の修正が入りました。反逆ともとれる書き換えも行われています。特に、年代表記の違いは重要です。正しいかどうかは別にして、ことごとく古事記に付加された原文注の干支年は書き換えられてしまいます。干支年のぶれない厳格さは日本書紀に記されたとおりです。ただ、大陸の歴史にむりやり合わせたがため、年齢と在位年の時間軸が大きく食い違うものになってしまいました。 拙書「継体大王の年齢研究」でわかったのですが、日本書紀の年齢と年代記録は、違うようにみえて、実は古事記の数字を忠実に再現し、それを独自の企画に基づき組み立て直している姿が浮き彫りになったことです。日本書紀は古事記の記述に基づき、再編成されたものだったのです。 その他、見えない改作も多々あるのかもしれません。その一つに、神々の神話がかなり変更され、氏族名の追加が行われたと津田左右吉氏が言うとおりです。いくつもの名を持つ氏族の神々が追加され、一つ一つ氏族の崇める神々が系図に書き加えられたのです。古事記でもあったことかもしれませんが、日本書紀ではそれが露骨に行われていきました。特に、蘇我氏の記録は抹殺され、中臣らに置き換えられたのではないでしょうか。 4.歴史の底辺に流れる、帝皇日継と先代旧辞の同一性 こうして見ると帝皇日継と先代旧辞とは何だったのでしょう。天武天皇ら国史編纂者は本当に無数にある諸家の旧辞を横一列に並べ比較し、正しい歴史を探し出す作業を続けたのでしょうか。 たぶん、一つの基軸となる歴史書があり、それを主軸として、他の氏族伝承と比較し、名前の統合や一部変更、追加をしたのではないでしょうか。その方が早く仕上げられます。 4−1.推古朝の国史編纂の規模と実態 【日本書紀 620推古28年】
「是歳、皇太子(聖徳太子)・嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び国記、臣・連・伴造・國造・百八十部、并て公民等の本記を録す。」 この部分の岩波版の注には「天皇記・国記は一応草稿は出来たが完成するに至らず、蘇我氏の私邸にとどめられていた。蘇我氏誅滅のとき焼かれて、僅かに国記の一部が取り出されたことなどが知られる」とありますが、聖徳太子と蘇我馬子の作った本記が未完成で、蘇我氏の私邸にとどめられていたことなどとは何処にも書かれていません。 聖徳太子は翌29年2月5日に突然に薨去されています。たぶん、はじめから蘇我氏の私邸で国史編纂が進められていたと思います。天皇記・国記は完成し、天皇に奉納する時期を待つ段階にあったと思います。5年後には蘇我馬子も亡くなってしまいます。 ここでいう、天皇記、国記は180部と膨大なものであり、いわゆる「公民等の本記」でした。 「その名称から見ると、古代中国正史の体裁を学んで作られたものらしく、国記以下は世家列伝等に当たる」ようにも思えます。 推古朝の天皇記を推古朝だけに限ったものとする説もありますが、推古朝の「天皇記及び国記」に対し、天武朝の「帝皇日繼」、「帝紀」とどちらも同じことを言っているのです。どちらも古代中国史書を意識し目指していたのです。推古朝から始まる、国史編纂は、決してばらばらに書かれたものではなく、律令編纂と同様、一つの方向性を持ち、密接に絡み合い、訂正を繰り返し、成長し続けたものなのです。 太安万侶が翻訳に苦しんだ本当の理由は、90年前の古い聖徳太子の時代言語を含む、天武天皇の訂正版だったからかもしれません。古事記の元資料は推古朝に書かれたものです。これが古事記には推古朝以降の記録がない理由です。 4−2.蘇我氏の記録を故意に隠蔽した理由 【日本書紀 皇極4年6月】
「己酉(13日)、蘇我臣蝦夷等誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史惠尺、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献る。」 天皇記・国記・珍宝のうち、国記の一部が焼かれずに取り出されたとありますが、ほとんど焼かれていないと思います。焼かれたとすることで、蘇我氏の業績を抹殺し、今に残ることになる国史編纂は天武天皇から始められたものとしたかったのではないでしょうか。 日本書紀のなかで蘇我氏は武内宿禰の後裔と書かれていますが、継体天皇死後から突然現れた氏族のようにも書かれ矛盾しているように見えます。蘇我氏に対する露骨な悪口は推古朝あたりから始まります。 推古朝の古記録はたぶん蘇我氏繁栄を描いた国史だったはずです。聖徳太子がどのような位置関係に描かれていたのかわかりません。古事記ではきわめて冷静な聖徳太子評価ですが、日本書紀は、一変して蘇我氏の聖徳太子だけを神のように尊敬する人間として書かれています。よほど、日本書紀の記述に貢献した記録が残っていたのでしょう。日本書紀には、天武天皇が採用しなかった、聖徳太子らの旧辞を再採用したものが多くあるのかもしれません。 5.まとめ 古事記と日本書紀問題にはあまりに多くの事象が含まれています。 なかでも帝紀と旧辞の扱いは大きな話題の一つです。記紀ともにこれを追求した書物です。 太安万侶が古事記序文で書いた帝紀や旧辞の意味は曖昧でした。本来、3つの時期にわけて考えるべきでした。 一つ目は推古朝の頃、蘇我私邸で聖徳太子や蘇我馬子が中心に作製された帝紀と旧辞です。内容は明らかではありません。 二つ目が天武天皇が中心となり上記の記述に基づき、蘇我氏のものではない、どの氏族も納得する統一した日本の歴史です。残念ながら、天武天皇の崩御に伴い、未完成。これが、稗田阿礼が天武天皇らの意見を書き直した修正帝紀と旧辞のことであり、朗読などして皆の承認を得たものが残されていたのです。 三つ目が太安万侶がまとめた古事記でした。太安万侶はこの序文で推古朝の一つ目と修正した天武朝の二つ目の帝紀と旧辞を混同して記したのです。 しかし、安万侶の古事記は幸いなことに原文注を除くと、二つ目の天武天皇が途中まで仕上げたものとほぼ同じ考えられます。すなわち、推古朝にまとめられた帝紀、旧辞を底本として天武天皇らによって改作されたものです。太安万侶は推古朝以降、天武朝までの系譜を追加記入することもせず、ひたすら忠実に翻訳といえる作業に専念したと考えられます。参考として記した下記表によれば安万侶の独自性(原文注)のほとんどが文字の変換と音読漢字変換にあったことがわかります。 【古事記 原文注の数】
注:神野志隆光「古事記の達成」より、音訓注の項目を集約して記した。 四つ目が三つ目の太安万侶がまとめた古事記に、未完成部分を加筆作業された、これが紀清人、三宅藤麻呂らが仕上げた日本書紀です。ただし、古事記の天皇系譜や旧辞の物語は大筋踏襲したものの、太安万侶が書いたと思われる原文注はことごとく改訂してしまいます。音の読みは同じでも漢字表記が全面的に変わり、天皇崩年干支などはさらに著しいものとなったのです。 (20140127追記) 日本書記への改訂項目については、別途詳細な研究が必要です。固有名詞の大幅な変更、出雲神話の削除、武烈天皇への歌垣記事移動など、本稿で取り扱った以外でも多数あります。同じ場所で修正されたという目でもう一度見直すべきと考えます。 また、編纂者が後に別途残した記録も重要だと思っています。「多氏古事記」、「古語拾遺」、また「先代旧事本紀」もそんな分類に属するかもしれません。 結局、出来上がった「日本書紀」とは、天武天皇らが目指した「漢書」や「後漢書」のような中国正史「書」の体裁「本紀」「表」「志」「世家」「列伝」を整えた紀伝体形式までには至りません。天皇を中心とした年代順記述となる編年体形式に留まったのです。 「本紀」だけを描いた「日本書」の「紀」として公表されたという神田喜一郎氏の「日本書紀」書名説に賛同します。 国史編纂は積み上げの歴史で、律令の歴史と同じす。 律令は、推古朝の17条憲法という試作に始まり、大化改新を経て、近江律令、飛鳥浄御原律令、大宝律令、養老律令格式と発達したものです。 国史編纂も、推古朝、天武朝の古事記、そして日本書紀と積み上げられた歴史をもつ編纂事業なのです。 決して、時代時代個々に作り上げられた書物でも、同時代独自に執筆されたものでもありません。 律令と同様、日本書紀は一つ一つの改訂と言える変遷を繰り返し、大きく深く成長した国史なのです。 参考文献 津田左右吉「古事記及び日本書紀の新研究」岩波書店1966 梅沢伊勢三「記紀批判:古事記及び日本書紀の成立に関する研究」創元社1962 山田英雄「日本書紀」『歴史新書19』教育社 1979 神野志隆光「古事記の達成−その論理と方法」 東京大学出版会 1983 小島憲之「解説一書名・成立・資料」『日本書紀上、日本古典文学大系新装版」岩波書店1995 金井清一「書名の謎―日本書紀か日本書か日本紀か」『歴史読本』 工藤浩「出典・資料・史料の謎@―帝紀・旧辞・天皇記・国記」『歴史読本』 瀧口泰行「出典・資料・史料の謎A―諸氏の伝承をどのように利用したのか」『歴史読本』 中村啓信「古写本の研究と現代」『歴史読本』 呉哲男「なぜ、二つの歴史書が同時期に成立したのか」『歴史読本』2012/4月 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |