天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
八色の姓 やくさのかばね First update
2009/01/07 Last update 2011/03/01 684天武13年、後世に「八色の姓」といわれる制度を発表します。 新たな身分制度の構築が目的です。 これ以前は、君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、造(みやつこ)、首(おびと)がありました。また、官職を主体とした、国造、県主、稲置、別、神主があったといいます。 これらを一本化した包括的な氏姓改革です。 そして、その後の緻密で計画的なタイムスケジュールは天武天皇の性格ともいえるものです。 9月、10月、11月、12月、そして14年1月と順序正しく進みます。 このことは天武天皇そのものをよく表現しています。 彼はいつも相手の自主的な行動を引き出そうとしています。 この八色の姓はまず、準備段階として、 【681天武10年9月8日】
さらに一年後、さらに具体的に天武11年12月3日の詔がありました。 【天武紀 682天武11年】
まことに、細々と指示しています。 しかし、その後の結果を公表しますが、その順は気になるところです。 天武12年 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、 10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。 天武13年10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、 真人姓を13氏に賜る。 天武13年11月 1日、朝臣姓を52氏に賜る 天武13年12月 2日、宿禰姓を50氏に賜る。 天武14年 1月21日、官位を改正する。 天武14年 6月20日、忌寸姓を11氏に賜ります。 天武12年9月の連姓の授与は乱発といえる合計52氏にもあたるものです。その前から賜姓は行われていたようで、682天武11年5月27日、倭漢直等が男女共に参上し、連(むらじ)姓を賜ったことを喜び、天皇を拝した、とあります。それもそのはず、連姓とは大臣ともなれば大連(おおむらじ)と呼ばれるほどの氏姓で、大陸からの移住者たちにとって国政参加を約束されたようなものだからです。正式に日本人となれたのです。むろん他の一生変わることのない直姓、造姓のもの達が一挙に連姓となり、保証されたのです。 しかし、その後に新しい氏姓の名前を公表するとはいかにも計画的です。1.眞人(まひと)、2.朝臣(あそみ・あそん)、3.宿禰(すくね)4.忌寸(いみき)、5.道師(みちのし)、6.臣(おみ)、7.連(むらじ)、8.稻置(いなき)です。順番号までふられています。今までが、氏姓の順は君、臣、連、と以下に続く名称でしたから、八色の姓ではその上に真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師とさらに多重構造の制度になり、連姓は3番目から7番目の低い位に落とされてしまいました。 その為か、旧連姓のうち50姓が選ばれ、第3位といえる宿禰姓になりました。意見をどんどん入れ変更を加えていっているのです。 また、かつて新たに第7位の連姓になったものが、すぐ11氏が再選され第4位の忌寸姓を賜わりました。繊細にして敏感な反応を示し、変更と追加を繰り返していきます。 こうした変更を制度誕生の苦しみのときと捉え不安定な時期と考えるむきがありますが、天武天皇はこうした変更、追加、削除を自由にずっと続けていこうと考えていたと思うのです。 真人姓は天皇の血を受け継ぐもの、朝臣姓は遠く古代天皇の祖先のものと位置づける書物もあります。しかし天武天皇自身はどう考えていたのでしょうか。 中央の古くからの豪族はむろんですが、地方の大豪族をも含み、壬申の乱の功労者、大化の改新や白村江大戦の遺族達、はたまた、天武天皇の夫人の家族に与えられ、良い意味では低い身分のものもどんどん引き上げられたものです。しかし、それらは天武天皇の個人的識別の強い氏姓決定、極めて個性的なものでした。 【天武紀 天武13年10月】
普通、真人とは天皇家の末裔とされる家系のものと規定されています。しかし、この13氏を調べると、決して天皇家の家系に連なるとは言えそうもないものが多いことがわかるのです。むしろ、彼らは「壬申年之功」のもの達そのものなのです。例えば、その中で、天武天皇の生前に亡くなったものが3氏ありますが、「壬申年之功」として感情的ともいえる弔いの言葉で讃えられているのです。さらに、他の公達も同様であったことがわかります。特に壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えてしまうのです。 このことはある意味ですごいことです。自ら定めた天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなかったのです。 まさに、日本書紀の原文が明らかにしたように、作八色之姓、以混天下萬姓。(八色の姓を作り、天下の萬姓を混(まろか)す)ことだったのです。古いたくさんの姓という秩序を壊し、かき混ぜたのです。古い秩序の解体が目的だったと思われます。教科書に記された古い氏姓を制度化し正したもの、ではなかったと思います。 忌寸姓の発表は5ヶ月も後になり、氏族数も少なく中途の感をぬぐえません。おそらくは病をえたせいと思われますが、その後、道師、臣、稲置はとうとう定まりませんでした。 天武天皇自身、おのれの人生設計をどう考えていたのでしょう。 ここにも、彼の若さゆえの計画の頓挫があったと思うのです。当時の平均余命を超えた老人指導者の大制度改革着手とも思えません。真の指導者ならば、若い後進指導とともに計画を実施していたはずです。彼は一人この大きな制度改革に取り組みます。まさか自分の死がこんなに早くくるとは思っていなかった証拠です。 以下にこの詳細の氏族について語ります。しかし、ここですべての説明することは困難です。本稿内で追跡した氏族については、若干なりも知識を持ち合わせています。そのことだけを述べます。教科書的に羅列の説明は避けます。しかし、それゆえにかなり偏向的なものになってしまいました。 【天武紀 天武13年条】
この八色の姓で真人姓を受けた13氏は壬申の乱で天武天皇を勝利に導いた豪族だと考えられます。 13氏のうち、上位7氏です。天武天皇に当初から随行したか、支援したグループに属するようです。 守山公・もりやまのきみ 敏達天皇の難波皇子の後。 「七大寺巡礼記」にのる大宅寺を別名、難波皇子寺というと伝わります。 延喜式神名帳の伊勢国多気郡条に守山神社があります。 伊勢神宮への入口ともいえる土地です。あまり詳細には不明の氏族ですが、ここが真人姓を得た守山公の住んでいた場所なのです。 路公・ みちのきみ 守山公と同祖。 本貫は明らかでないが大倭国添上郡の可能性大といいます。 壬申の乱の折、三重郡家に立ち寄ったおり、鈴鹿関に着いた山部王、石川王を 天皇の指示により路直益人(みちのあたえますひと)が迎えに行ったと記録されています。 実は、鈴鹿関の一行は大津皇子一行であったものです。 路直益人は当初からの天武天皇に付き従った従者の一人と思われます。 高橋公・たかはしのきみ 新撰姓氏録にありません。 奈良県天理市櫟本(添上郡高橋)の地名にもとづくといわれる。 膳臣と同祖で食事を掌る氏です。後に高橋朝臣氏と安曇宿禰氏とが内膳奉膳で争うことで有名です。 三國公・みくにのきみ 継体天皇の椀子皇子を祖とする。古事記の記述と矛盾あり。 越前国坂井郡三国(福井県坂井郡三国町)に本拠を置く豪族です。 650白雉1年三国公麻呂が猪名公高見らと雉を輿に執って殿前も進んだとあり、 二人は親しかったことがわかります。 當麻公・たぎまのきみ 用明天皇の当麻皇子(麿古王)を祖とする。 大和国葛下郡当麻郷(北葛城郡当麻町・香芝町一帯) 壬申の乱では吉備国守、当麻公広嶋は欺かれ殺されます。日本書紀は、当麻公広嶋と筑紫大宰栗隈王が元から大皇弟(天武天皇)についていた、と敵に語らせています。壬申の乱のとき、すでに吉備国と筑紫国は天武天皇の味方だったのです。 天武14年5月19日「直大參、當麻眞人廣麻呂卒。以壬申年之功贈直大壹位。」 麿古王が当麻寺を創建したという。 茨城公・うばらきのきみ 茨木とも書くが新撰姓氏録にありません。 摂津国嶋下郡茨木(大阪府茨木市)の豪族か 未定雑姓、和泉国に茨木造がいます。 和泉国皇別に崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔とあるが不明です。 新撰姓氏録にも載せられていない者が真人姓となっているのです。 丹比公・たじひのきみ 多治、多治比とも書く。宣化天皇の皇子、賀美恵波王の後 河内国丹比郡(羽曳野市西部、同松原市、同堺市東部、同南河内郡美原町・同登美丘町一帯)の地名によるものです。 日本書紀の宣化天皇紀では丹比公、猪名公両者を賀美恵波王の子と同じく位置付けます。 以下は不破の地で活躍したと思われる6氏を掲げています。天武天皇は彼らのおかげでこの難局の壬申の乱に勝利できたと考えたのです。 猪名公・いなのきみ 宣化天皇の皇子、火焔王の後、と新撰姓氏録にあります。 為奈、為名、韋那とも書きます。以下5氏の筆頭になります。 摂津国河辺郡為名郷(兵庫県尼崎市東北部)の地名に属するといいます。 壬申の乱の6月、大友皇子の命により勅使として猪名公磐鍬、書直薬、忍坂直大摩侶が東国に遣わされました。ところが、不破の地に入った途端に潜んでいた天武天皇の高市軍に書直薬、忍坂直大摩侶の二人が捕まってしまいます。日本書紀には猪名公磐鋤(いわすき)だけは伏兵があることを疑って二人から遅れたので助かり近江に逃げ帰ることができた、といっています。磐鋤(いわすき)だけが高市軍がすでに関ヶ原の地にいたことを知っていたような文面です。 日本書紀の記述によると、壬申の乱では猪名公らは近江軍側の人間だったはずです。しかし、後年、天武天皇は壬申の功労者の一人として猪名公に真人姓を与えているのです。これは猪名氏らが実は天武側とはじめから内通していたようにも思えるものです。 またこの文章から、6月のこの頃までには、天武天皇らは関ヶ原だけではなく琵琶湖に通じる街道をすべて押さえていたことがわかるのです。高市軍は関ヶ原盆地内だけに息を潜める、どころか、地方豪族の協力を得られたことで、のびのびと軍事訓練を行うことができる環境を整えていたことがわかります。 宣化天皇四世に猪名鏡公と呼ばれた高見なる人物がいます。 650白雉1年三国公麻呂、猪名公高見らと雉を輿に執って殿前に進んだとあり、二人は親しい関係にあったことがわかります。 本稿ではこの猪名鏡公高見を額田王の父の鏡王としました。本稿「鏡女王」を参照。 日本書紀は、天武元年12月「是月、大紫韋那公高見薨」と伊奈鏡公高見が亡くなる記事をこの日本書紀最大のテーマである「壬申の乱」を締め括る最後の言葉として選んだのです。 猪名鏡公高見がどう死を迎えたのかは書かれていません。 内通者であることが露見し殺されたのか、内通者としての不名誉を自ら恥じ自殺したのか、単に戦死したものかはわかりません。 坂田公・さかたのきみ 継体の皇子、仲王の後、と新撰姓氏録にあります。 近江国坂田郡(滋賀県坂田郡)の地名にもとづく地方豪族です。天武5年9月「坂田公雷卒。以壬申年功、贈大紫位」とあります。現在の米原市あたりですから、つまり、天武天皇は関ヶ原から琵琶湖へ抜ける街道を押さえていたことになるのです。 羽田公・はたのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣王より出づ、と新撰姓氏録にあります。 近江国栗本郡羽田庄(滋賀県八日市市羽田)琵琶湖を南下した地域の豪族です。息長氏と同族のようです。 日本書紀によれば、この頃まで近江の將軍であった羽田公矢国とその子、大人等は7月2日に天武側に寝返ったとあります。これに対し天武天皇はすぐにも彼らに印綬を与え、自軍の将軍に任じたのです。これは戦国時代の常識です。敵の将軍だったものを歓迎し、すぐさま自分の将軍として抜擢したのです。そして7月17日には出雲臣狛合と共に琵琶湖北部の三尾城を下したと羽田氏の活躍を伝えています。 天武15年3月25日、羽田真人八国は亡くなりました。「以壬申年之功贈直大壹位」とあります。 息長公・おきながのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後、と新撰姓氏録にあります。新撰姓氏録ではこの息長公を書物の冒頭に載せる氏族名です。 近江国坂田郡上丹郷(滋賀県坂田郡米原町上丹生)を中心とした関ヶ原の西北部を支配していた古くからの大豪族で、多くの子女を天皇家に送ったことのある実績ある家系です。 天武天皇はこの地の息長氏と実は手を組むことに成功していたのだと思います。だからこそ、関ヶ原の盆地で自由な軍事訓練ができたのです。 酒人公・さかひとのきみ 継体天皇の皇子、兎王の後 大和国の人で、朝廷の酒を扱う氏といわれています、その正体はよくわかりません。 ただ、後に酒人内親王と呼ばれた桓武天皇の妃がおりますが、818弘仁9年3月に美濃国厚見郡厚見荘・越前国加賀郡横江荘・越後国古志郡土井荘などを東大寺に施入したとありますから、次の山道公と関連ある氏族かもしれません。逆にいえば、こうした者が、真人姓を与えられたのです。 山道公、やまじのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後、と新撰姓氏録にあります。 越前国足羽郡(福井県足羽郡、福井市)あたりにあった地名に基づく豪族で息長氏とは親戚関係のようです。 少ない検証ですが、ここで現れてくる時評は自分の血族と自分を支援した氏族のみを引き上げたように思えます。公平な雰囲気をもつ天武天皇ですが、意外と自分中心の組織作りだったと感じてしまうのです。
注:由来不詳とは新撰姓氏録で朝臣名がないものを指します。 推測は現在の研究成果からある程度可能です。 次に朝臣姓52氏の羅列で重要なことは、この氏姓制度のはじめから氏名収集の詔でも明らかなように、大氏族の解体が目的でもあったと思われることです。天武天皇とその一族が日本全土を掌握しようとするとき、大きな障害の一つに日本古来から続く大豪族の存在があったのです。特に、大和周辺の氏族は大きく、天皇がそれらを従わせる上で重要なことはその氏族をバラバラにすることだったと思うのです。近年の財閥解体令に似ています。 其眷族多在者、則分各定氏上。 その族多く在る者は、分けて各氏上を定めよ。 その詔は簡潔で事務的ですが、大きな意味が隠されていたはずです。その結果、52氏の名前の配列は同族のもの達を列記することをあえてせず、わざとバラバラにして発表されたのです。 その代表格に和珥氏がいます。 日本書紀 孝昭紀では、孝安天皇となる皇太子とその兄、天足彦國押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を紹介し、和珥氏らの祖先としています。 天足彦國押人命、此、和珥臣等始祖也 古事記の孝安天皇の項において、さらに具体的に16氏を挙げています。 兄、天押帶日子命者。春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。 さらに、新撰姓氏録では38氏におよび、大豪族だったことがわかります。 その和珥氏は雄略天皇の頃から春日和珥氏と名乗るようになります。 それを天武天皇は大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣の5氏だけに朝臣姓を与え、しかも分離してしまいました。2番目、12番目、13番目、22番目、25番目になります。和珥氏の本宗家の春日氏はその違いを示すかのように大春日氏と自ら名乗ったようですが、大豪族和珥氏の存在は打ち消されたようにみえます。 和珥部臣君手は壬申の乱の功臣であり、別に特記するに価する人物もおりますが、真の目的は大豪族の解体にあったと考えます。 この大豪族解体の例は他にもあります。 古事記によれば、孝元天皇の皇子は5人います。その5番目、建内宿禰の子にそれぞれ、中央の大豪族名を貼り付けているのです。しかし、新撰姓氏録によれば、これらはすべて石川朝臣同祖となり、同系巨大氏族、蘇我氏であったことがわかるのです。 此、建内宿禰之子、并九。【男七、女二。】 波多八代宿禰者【波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。】 次、許勢小柄宿禰者【許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。】 次、蘇賀石河宿禰者【蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。】次、平群都久宿禰者【平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。】 次、木角宿禰者、 【木臣、都奴臣、坂本臣之祖也。】 次、久米能摩伊刀比賣。 次、怒能伊呂比賣。 次、葛城長江曾都毘古者、【玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。】 又、若子宿禰、 【江野財臣之祖也。】 それとは逆に地方の大豪族を次々と朝臣に引き上げたのです。 九州の宗方臣、吉備国の吉備臣、関東の上野国などです。 しかし、地方の豪族であってもその解体の基本スタンスは代わりません。吉備臣の主流は下道臣、上道臣、香屋臣、三野臣、笠臣、苑臣があったが、笠、下道のみが朝臣となります。 また九州の胸形氏が大神朝臣に組み入れられています。このへんの事情はよくわかりません。 まとめ 八色の姓は教科書的には、「古来より存在した氏族を、新たな官人支配の秩序の中に編み込むこと」です。 しかし、天武天皇の目指す八色の姓はそんな封建体制の制度確立ではなかったと思います。 1.それは、旧秩序の解体そのものでした。多くの古い氏族らを「混(まろか)す」まさにかき混ぜ、一つにしようとしたのです。 2.新たに真人姓を設けますが、これは壬申の乱の功臣を自分と同じ天皇家の地位と同格に引き上げてしまう大胆なものでした。 3.また、上位の朝臣氏姓には旧大豪族自体を細かく分化しています。近年の財閥解体に匹敵する大規模な氏族そのものの解体政策が含まれていたのです。国家を揺るがすような肥大した旧氏族の存在は自由な競争を阻害してしまいます。 4.本来の天武天皇が描いた計画は個人としての官位制度、氏族としての氏姓制度、これを二つに軸として各個人、各氏族の努力次第で上位へ上れる可変的制度にしたかったのではないでしょうか。世襲制という古代の考え方のなかにあって、同じ職制をもつ氏族同士を対峙させ切磋琢磨させたのです。 古来の大和政権が日本を統一するに相応しい強大なパワーを得た秘密が一つここにあるように思います。武力管理としての物部氏と大伴氏、その後の大伴氏と佐伯氏、膳部としての高橋氏と安曇氏、祭祀を司る中臣氏と忌部氏など幾多の例を挙げることができます。 青木和夫氏は「古代豪族」のなかで、「律令制度の基本的理念は個人の人柄や才能や努力を尊重し、生まれつきは問わないはずだったのだから」といいます。律令制度の代表的推進者の一人、天武天皇がこれを無視していたとは思えません。個人主義に生きる現代では、家という単位を見過ごしがちです。これをマイナスイメージの束縛などと単純に捉えることはできません。彼らは家名に大きな誇りをもっていたのです。 八色の姓は天武天皇の崩御で挫折します。残念ながら、その後この八色の姓は厳格な身分制度として形骸化し固定化されていくのです。この結果だけを見て、八色の姓を考えることがあってはならないと思います。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |