天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
天皇宣言 First update 2013/07/15
Last update 2013/07/26 「天皇」号は天武天皇によって生まれました。これは、昔から抱いていた本稿の信仰に近い思いです。論理的根拠に乏しいものでしたが、天武天皇に違いないとずっと思い込んでいました。また「日本」国号もセットにして考えていました。今回、この文章を書くに当たり、あらためて調べると、現在では意外と天武天皇説が多く、ほぼ定説化しているようです。後追い作業になりましたが、それでも次々と面白い事実がわかってきました。以下、本稿なりの調査報告になります。 ●「天皇」号の成立はいつか 古事記や日本書紀などの編纂史料ではなく、現物として残る金石文(金属や石の仏像や墓碑などに記された文字史料)を詳細に検討した、東野治之氏の「天皇号の成立年代について」があります。それまでの幅広い仮説を正す決定的な論文として知られ、「天皇号」を語るときには必ず登場しています。 推古朝説 歴史学者の重鎮、津田左右吉氏が初めて、7世紀初頭の推古朝で「天皇」号が用いられていたと明言されたものです。その主張は当時として、日本書紀や古事記の記述にたよらないユニークなものでした。以下の仏像の光背などに年号(干支年)とともに「天皇」の名があるという決定的な理由となりました。 607推古15年法隆寺金堂薬師如来坐像銘に 「池辺大宮治天下天皇」や「小治田大宮治天下大王天皇」とある。 622推古30年以降、中宮寺天寿国繡帳銘に 「斯帰斯麻宮治天下天皇」、「斯帰斯麻天皇」や「畏天皇」、「天皇」とある。 623推古31年法隆寺金堂釈迦如来坐像銘に「上宮法皇」とある。 しかし、この法隆寺の年代に関して疑問説が出て、はっきりしなくなります。法隆寺の昭和資材帳調査によって、薬師如来坐像が釈迦三尊像より新しいことがわかり、現在ではこの薬師寺は天武・持統朝の製作ということが通説化しています。 また、繡帳に縫いつけられた内容には推古朝当時のものでない表記があり、天武・持統朝の法隆寺再建期に製作されたと言われるようになりました。具体的には、欽明天皇、推古天皇と書かれながら、敏達、用明には天皇号を用いていない、日付が推古朝で使われた元嘉暦と合わない、また「推古天皇作」となっている、などです。 天智説 666天智5年、野中寺弥勒菩薩像銘に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、〜詣中宮天皇〜」とある。 668天智7年、船首王後墓誌銘に 「乎娑陁宮治天下天皇」、「等由羅宮治天下天皇」、「阿須迦宮治天下天皇」とある。 これらの史料にも信憑性に疑問ありとされています。 野中寺像銘の場合、元嘉暦による暦日を「旧」と記し、儀鳳暦を採用していた690持統4年を基準にした頃の表現であり、666天智5年のものとはいえないものです。 船首王後墓誌銘は大阪府で出土した表裏に書かれた銅板のものです。戊辰(668天智7年)と言う年代が見え、最近まで年代の明らかな金石文では「天皇」の文字が見える最古の例などと言われていました。船史は新来漢人と呼ばれる6世紀に渡来した豪族の中の有力者です。王辰爾が、欽明天皇14年に船史の姓を与えられたのに始まるといわれています。王辰爾は高句麗の密書を読み解くなど、知恵者として活躍しました。その後、船氏の人々は文官として優秀な働きを見せています。天武朝では連の姓を与えられています。 しかし、天智時代の「冠位、爵、位」に対し、「官位」などの新しい語が含まれているため、天武朝も半ば以降の製作と推測されるようになりました。 天武朝説 677天武6年小野朝臣毛人墓誌銘に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とある。 677天武6年頃の木簡が飛鳥池遺跡から出土(注:□は不明文字)に「天皇聚□弘寅」 679天武8年薬師寺東塔摩檫盤銘に「清原宮馭宇天皇」とある。 681天武10年閏7月飛鳥京跡から同時出土された木簡から 「大津皇」「津皇」「皇子」「辛巳」「閏月」とある。 686朱鳥元年、698文武2年長谷寺銅板法華説相図銘に「飛鳥清御原大宮治天下天皇」 このように、天武朝の時代になると、天皇号の証拠が次々発見されます。 ただし、小野朝臣毛人の墓誌銘は、その墓誌の形状や、この頃はまだ「朝臣」という姓はなく、「臣」ですから、遅れた追納と考えるべきものです。なお、小野朝臣毛人は遣隋使、小野妹子の子です。 天武、持統朝説―飛鳥浄御原令説 さらに、年月を細かく規定する意見まであります。 飛鳥浄御原令は681天武10年2月25日に編纂が開始され、689持統3年6月に完成されたものです。全文が現存しないなかで、このとき皇后号が「大后」が「皇后」に変わったことがわかっています。天皇と皇后は対になるものですから、この浄御原令で定められたはずです。 さらに「日本」号も同時期ではないかとも言われています。 今、これが一番有力な説です。 熊谷公男氏は、天皇号は天武天皇をさす尊称として天武朝に誕生し、没後の持統朝において浄御原令の制定とともに君主号として法制化されたと考えました。 東野治之氏も、持統天皇の時代に天武を単に天皇とよんでいる。この時代では天皇とは天武を指す言葉であったといいます。 網野善彦氏や山尾幸久氏は「天皇」と「日本」は、同時代に、いわばセットで制定された称号と考えており、本稿もこの説に賛成ですが、飛鳥浄御原令よりもう少し早い段階からではないかと思います。 大宝律令説 大宝律令は701大宝1年8月3日に完成しました。このときに天皇号が定まったとする説があります。 君主の形容が「治天下」から「御宇」に変わるなど、注目すべき変化が見られる時期だからです。 和文体の詔である宣命などで使用される称号として「現神(明神)御宇天皇」が使われはじめます。古くから「しらす」も「おさむ」も統治するという意味があるといわれていましたが、近年では、「しらす」は「知る」の尊敬語で絶対的統治権を意味し、「おさむ」はお互いがギブアンドテイクの関係で統治する、と変わってきています。和訓だからと単純に旧いと考えるは危険で、意外と新しい考え方のようです。「御宇」とは、「天の下知らし召す」ですが、別に解釈が広がっていったのです。道教の影響となる天皇の呼称を借用したとしても、その後、太陽神としての天照大神などの神々を結びつけていったと思われます。 このとき、天皇が神となる、重要な時期でもあるのです。 ●その他、古くからある説 上記のような金石文により、ほぼ、天武朝期に「天皇」号が発信されたことがわかりました。 しかし、日本書紀や古事記の史料記述があるために、昔からいろいろな説がありました。 肝心の記紀の「天皇」号は、編纂時に称号として統一化された痕跡が多く見られ信用できません。まさか、日本書紀のように初代神武天皇の頃から「天皇」号があったとは誰も思わないでしょう。古事記でさえ和風諡号は景行、成務、仲哀、欽明、崇峻にだけ使われた「〜天皇」です。他はすべて「〜命」と書かれているのです。 欽明朝説 【日本書紀 欽明9年4月3日条】
「伏してお願いしたのは、賢き天皇〔西の蛮国(朝鮮諸国)は皆、日本の天皇を賢明なる天皇と奉り〕におかれましては何とぞよくお調べ願い奉ります。」(意訳) かつて、日本書紀の文章に基づき、当時の朝鮮諸国では、より早く天皇号を使っていた、とする説がありましした。【】は原文注で、海外文献などの引用記事です。そのため、日本の君主を尊重した「天皇」号は新羅や百済で早くから使用されていた、とされたのです。 しかし、日本書紀がよく引用する「百済新撰」、「百済本紀」、「百済記」などは、日本に逃れてきた亡命百済人が書いたものであることが最近はわかってきました。百済系の旧い記録をもとに成立していることは確かなのですが、ここでの文章も日本の天皇を高く持ち上げた表現になっています。 推古朝説 小野妹子ら遣唐隋使が隋の皇帝に渡した日本国国書の一部で中国側の記録です。 【隋書 607大業3年(推古15年】倭国伝】
【日本書紀 608推古16年9月条】
日本書紀の「天皇」や「日本」の表記は書き換え、潤飾が多いのです。どの時点から本来のこの形になったか、日本書紀からは確定できません。 ただ「天皇」が書き換えとしても、実際に日本では推古天皇を「天子」と表現していた可能性があります。さらには「天王」号があったのかもしれないのです。この頃から、前向きの考え方が芽生えていることは注意すべきです。 榎本淳一氏はいいます。推古天皇の時代を、対外的に随との対等外交を推進するためには、新たな君号が必要とされた。訓が「てんこう」ではなく「てんのう」であり、「天王」としても、新たな君主号の創始者として、画期的な存在であった。 『日本書紀』雄略5年7月、23年4月には天皇は亡命百済人による百済新撰による記事があります。
角林文雄氏は天皇号以前に「天王」が君主号として用いられたという説を唱えておられます。 しかし、これら日本書紀の写本によって差があり、「天王」ではなく「天皇」と書かれているものも多くあります。こうした天王と天皇の混用はしばしばみられることで、「書写の手間を省くために少角の字を混用したと解すべきである」といいます。(東野治之「大王」号の成立と「天皇」号) ●天皇の意味 天皇とは一体何 「天皇」の由来には大きくわけて、三つの方向性があるようです。二つが中国の表現の借用、一つが日本の独自発想とするものです。 一、太古の古代中国において宇宙の主催神とされる昊天上帝(天王)に由来するとする説 二、道教の宇宙の最高神である天皇大帝に基づくと見なす説(有力) 三、中国からの文字借用にすぎず、日本の思想と結びつき作られた独自説 紀元前、四、五千年前古代の中国、周では「天王」でしたが、その後、秦漢の時代になって「皇帝」、秦国が始皇帝と名のったことは有名です。王の中の王、唯一の絶対的存在、中華世界の最高君主というわけです。 その後、隋唐までには、皇帝号が定着しましたが、五胡十六国時代に入ると、また各国が皆、天王を自称したので、天王号が復活したといわれています。(宮崎市定) しかし、用法、規則性に問題あり、大王も混用されており、厳密な違いは見られません。 三世紀、中国六朝時代頃に盛んになった道教の教えでは「天皇大帝」とは北極星の神格化ですが、「天皇」と書き表された。日本の天皇と北極星の関わりは皆無といわれます。しかし、天武天皇の陵墓は南面に入口を持つ、真北に飛鳥浄御原宮、藤原京を見渡す、自身北向きに埋葬されています。北を意識していたと思います。 ●和訓「すめらみこと」の意味 「日本」は「やまと」と和訓されるように、「天皇」も「すめらみこと」とされています。 「天皇」という漢字は「日本」と同様に対外的使用を目的として編み出された言葉です。 現在、幸いにも「天皇」は「てんのう」として一貫していますが、「日本」は「にほん」なのか「にっぽん」なのか未だに判然としないのです。 戦前までは、「すめらみこと」の意味は「統ぶ」(統治する)すぶるみこと=統治者と解釈されていたようですが、言語的に成立しないとして今は退けられています。 一般に「すめらみこと」とは、「やすみしし」などと同じく、「すめら」は「澄む」に由来し、政治的・宗教的に聖別された神的超越性をあらわす特殊な尊称とされています。「すめら」最高の主権者+「みこと」行為者の敬語、として、公的に聖別された称号となります。 さらに言葉を分解すると、岩波版で「スメラミコト」とは、 「スメ」はスメガミ(皇神)、スメロキなどのスメで、皇にあたる。 「スメガミ」という語は、万葉集では、二上山・立山・山科の石田の守などを領する神を指すに限られるそうです。つまり、「スメ」は起源的には港や山などの土地を、本来的に領有支配することをいう語であったろうと考えられています。 「ラ」は、属性を現す接尾語。 「ミコト」の「ミ」は、神や天皇の事・物に冠する接頭語。 「コト」は、本来、時間的に展開する行為・事件をさします。 つまり、「ミコト」は熟合して尊敬すべき神及びその子孫をいう、とあります。 一方、儀制令の集解古記にある「須売弥麻之美己等」とは 「スメ」は同上にあるとおり、皇にあたる。 「ミマ」の「ミ」はミコトのミと同じ。「マ」は、生の語幹。ウマに同じで、ウマゴ(孫)のウマともおそらく同じであろう。「スメミウマ」も訳が「スメミマ」となるのです。 皇統の生れの意で、「スメミマノミコト」と熟合して、皇統に生まれた神たる人の意で、天皇の意となるものと思われる、と紹介しています。 万葉集 万葉集には「おおきみ」が天皇をさす語として頻用されているのに、「すめらみこと」は一度も用いられていないといいます。「おおきみ」が日常語であるのに対し、「すめらみこと」は特殊な新造語だといいます。(西郷信綱)和訓「すめらみこと」は一見、話し言葉ゆえ、日本古来の原語と誤解されやすいが、これは推古朝にもなかった、新しい言葉だったのです。 しかし、表題には、その面影はありません。本文の詩歌と区別される所以です。編纂した時期に当たりますから、古い天皇歌であっても表題は新しい「すめらみこと」が付加されたのです。 【万葉集の表題が示す呼び名】
すべて「御宇」の二字で「天の下知らしめす」と訓んじています。 王から天皇への歴史 はじめ、いろいろな呼び方があった 「王」、「大王」、「君」、「大君」、「大公主」、すべて「おおきみ」と読ませます。 「天皇」、「天王」、「帝王」は「すめらみこと」と読ませます。 「獲加多支鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣)は「大王」です。しかし、「王賜」とあることから倭国王自身は「王」と名のっていたようです。結局、「大王」は、王に封ぜられた君主をあくまでもその支配圏内で尊んだ尊称でしょう。「大王」=「天皇」ではありません。大王という独自の地位があるわけでもないのです。 熊谷公男氏は「日本人が好んで使う言葉の一つに『天下』という語がある。天下取り、天下分け目の合戦、天下人、天下一品、天下無双、天下御免、・・・等々」さらには、織田信長の天下布武を掲げながら、「列島の君主は、雄略天皇の時代から『治天下大王』と名のりはじめる」と話し始めます。「天の下を治めたまう」大王の意味ではじまった言葉が、本居宣長に代表される「天の下治しめす」と訓むように変化したことになります。 中国と日本の「天」の考え方の違い 中国人の「天」とは、宇宙を主宰する至上神であり、地上の運命を支配する意志をもった存在と考えられ、「天帝」とよばれました。天は地上でもっとも徳のある人(有徳者)に天命をくだして天子(皇帝)とし、天下の支配を委ね、新しい王朝が開かれるのです。この天子(皇帝)に徳がないと、天は別の有徳者を探し出し、天命がくだされます。これが易姓革命です。 一方、日本の「天」は八百万の天つ神。天上世界は「高天原」と呼ばれるところに、いろいろな個性をもった神々の住む世界です。 「すめらみこと」は「澄む」からきており、政治的・宗教的に聖別された「神聖なお方」という意味です。「現神御宇天皇」は「この世に現れた神として天下を統治される神聖なお方」となります。中国と異なり、天の神が使命をもって、この世にきて統治したものが「天皇」です。 ところが、日本古来の「治天下大王」は列島君主の「王中の王」「天下を治める大王」でした。そこから「現神御宇天皇」への称号の変化の背後には、「天下る神が治める」への飛躍があったと考えられているのです。 ●海外の文献より 『隋書』にみえるアメキミ(天王)、天子、さらに
この時(推古8年)、日本から使者は国書を持参しなかったため、かえって生々しい口頭での応答が見られます。 「当時の倭王はオホキミアメタリシヒコと名のったが、オホキミは大王、アメタリシヒコは『華言は天児なり』と注釈(『翰苑』)があることから、『天下られたお方』を意味するもので、天孫降臨の思想を背景に確立した称号であると推測されている。」平川南 【新唐書 東夷伝 日本】
新唐書の記事はあきらかに、中国側が日本の古事記と日本書紀を読んだ表現になっています。新唐書にある、天御中主とは、記紀に現れる「三柱神」の一人で、古事記では冒頭に「天之御中主」として登場し、日本書紀の冒頭の「三柱神」は国常立尊と国狹槌尊と豊斟渟尊と書かれたが、そのあとの一書(第四)に「高天原に所生れます~の名を天御中主尊と申す」とあります。また、彦瀲は、日本書紀の神武天皇の父、彦波瀲武鸕緊草葺不合尊の略称です。ちなみに古事記は日子波限建鵜葺草葺不合命です。 岩波版の解説には、古事記の記述に似るとあります。 古事記 : 於高天原、成神名、天之御中主神。 日本書紀: 高天原所生~名曰、天御中主尊。 さらに、天之御中主尊とは、天の中央にいる主の神の意味で、中国の天帝思想が反映されているといいます。すなわち、中国では天の神が地上の王に支配権を与えるが、日本では天の神の孫が地上に降り、支配権を行使するのです。 日本書紀を読めば「天皇」号は歴然としているのですが、「天皇」を号す、という紹介記事はあるのですが、初代「神武」の個人的使用のような表現に止まり、「日本」のような、分析、追求記事になることは一切ありませんでした。 古代中国にとっての日本の「天皇」とは天の姓を持ち、「すめらみこと」の名をもつ王に過ぎないのです。それを証拠に「天皇」という称号は以降一切使われていません。例えば、735天平7年に玄宗皇帝が遣唐使に授けた国書には「日本国王主明楽美御徳に勅す」とある通りです。「天皇」ではなく、あくまで「王」なのです。 中国皇帝が「天皇」号を使用した実例がある 「旧唐書」高宗本紀、674上元元年8月壬辰条に「皇帝、天皇と称し、皇后、天后と称す」とあるように、道教を信奉する唐の高宗(妃、後の則天武后の影響とも思える)が道教における最高の神格とされた「天皇大帝」から「天皇」号を採用したといわれます。ときに天武3年のことです。 中国唐の第3代高宗が皇帝から天皇へ、その皇后が天后となります。 天皇は皇帝の下に扱われていたので、日本の「天皇」表記に対し、皇帝となった則天武后は問題にしなかったという説があります。逆に、蛮国日本などが使う「天皇」号をあえて、中国が使うはずがないとして、日本ではまだ「天皇」号は使用されていなかったとする説などもあります。 どちらにしても同じ事です。天皇(天王)と皇帝との間に上下関係などはありません。中国にとって、個人名として扱われ続けることになる日本の「天皇」です。則天武后の性格から考えても、日本の「天皇」の表明聞いて、彼女は笑い飛ばしていたのではないでしょうか。 ●各種学説 津田左右吉説 津田左右吉氏は、天皇論を真正面から取り上げた先駆けとなる研究者です。推古朝の薬師像光背銘の例を引いて推古朝から天皇号が使われたとしています。それでも「いわば、一部人士の私案に止まっていたのではあるまいか。〜また独立国としてシナに対抗しようという考の生じてきた、この時代の思潮の所産として最もふさわしいものであった」として慎重です。 中国の伝説上の帝王たる天皇とは三皇の一つであったが、漢代には、天帝ないし北極星をさす思想がうまれ、六朝時代には道教や神仙思想と結びついて天皇は元始天王(盤古眞人)と太元生母の間に天皇(扶桑大帝東王公)と九光玄女(太眞西王母)と地皇人皇が順次生まれたともいいます。日本では、天皇の称が政治上の帝王であり、同時に、宗教的な意味をもつ点で、オホキミにふさわしいところから天皇という称号が用いられたのだとあります。結局、「天皇」という称号が中国の成語を採ったものと考えています。(津田左右吉「天皇考」) 森公章説 天皇が律令国家の君主号であることに基づき、律令に規定された天皇の性格を追求していきます。 君主号は大王から天皇へと変遷した。 その変化は、天智7年ないし、天武14年以降で大宝令以前であること 推古朝頃には「天孫」の自覚が形成されていた。7世紀中葉頃には他国も「天孫」と認めていた。 天武・持統朝頃には自国以外を「天孫」と認めない意識が成立した。 天皇号は中国の皇帝に対比される称号で、大王よりもはるかに優位な君主号であった。特に、この頃、朝鮮に対して「大王」では優位性を示せなくなったことが指摘される。 遠山美都男説 遠山美都男氏は「天皇」は個人的な称号、いわば一代限りの尊号と初代天武天皇を定義しました。その持統が「従来の大王に変わり今後世襲されていく政治的地位に作り換えようと企画したのである。」 よって、持統天皇を中心に、夫、天武を天皇として個人崇拝することに始まり、世襲として恒久的位置づけとして、「天皇」の正式な初代の天皇は文武天皇となる。よって、持統天皇を中心に、天武天皇を神として扱い、天皇号を正式に認めたのは文武天皇からといえるといいます。 熊谷公男 道教の影響は呼称の借用にとどまると考えています。基本的には固有の神話観念に裏打ちされた称号であって、天武の尊称として誕生した「天皇」はほぼ同一に成立した「日本」とともに、天武朝を高揚する天と日の王権イデオロギーの産物であった。「天皇」号とともに「日本」号が正式に制度化されるのも、飛鳥浄御原令においてであったと考えられる。列島の君主は決して太古の昔から「神」であったのではない、ということである。壬申の乱に勝利し、人々から「大王は神にしませば」とあがめられた強烈な神的権威の無知主であった天武こそが、原神「天皇」と「日本」の生みの親であった。 ●天武天皇の和風諡号 天渟中原瀛真人が天武天皇の和風諡号です。崩御時に讃えられた名前です。一方、漢風諡号は天武、持統などといわれる後世に代用される略称です。原則、和風諡号がその人なりを一番繁栄する名前ですが、古い名前ほど、当時諡号がなく、後から贈られることがあるので、単純に使用する比較することには注意が必要です。 「天」は尊称。「渟中原」は用例として「渟中倉」(敏達諡号)、「沼奈川」(万葉集3247)、「渟名田」、「渟名底」(渟名底仲津媛第3代安寧皇后)があります。 「渟」を沼と訳すこともあります。本来は、「瓊」であり、ヒスイに比定される神玉とあります。「渟中原」を「瓊を産出する原の奥」、「渟中倉」を「瓊でできた鞍」と訳されるのですが、妙に現物的な訳だと思います。単に「瓊(神々しい)の原」でいいのではないかと思います。 「瀛真人」は瀛州に澄む真人。「瀛」は水上のはるか彼方を指します。瀛州とは中国から見て東海にあり、仙人の住む海中の三神山の一つです。道教では、人の世と世界の根源的心理が道と言われる。その道の真理を体得した人間を真人という。貴人への尊称です。 天武天皇の和風諡号には道教思想の影響が深いことは確かです。道教は中国では、広く庶民にまで信仰され広まりましたが、日本への影響はその思想のみが受容されたようで、庶民的な観点から見れば、神仙思想や、不老不死などの神秘的な形で昇華していったようです。 ●まとめ 天武天皇は、 「伝統的な権威とは質的に異なった新しい神的権威を有する君主がここに誕生した」(西郷信綱) 「律令国家の建設を戦闘に立って推進するカリスマ的政治指導者」(安丸良夫) などと言われています。天武天皇の強い意志に基づき、「天皇」号が定められたと思います。 689持統3年、「天皇」号は飛鳥浄御原令で法制化されましたが、近年、677天武6年頃を示す木簡などが出土され、早い段階からの「天皇」使用を無視できません。本稿では、「日本」宣言は天武2年の即位儀礼の時と考えていますから、まず、自ら言葉として「すめらみこと」を宣言されたのが、この時と想像しています。 文字としての「天皇」号はやはり、直近の唐の高宗が675上元2年(天武4年)に「天皇」を称したことが大きく作用しました。この頃、いろいろな海外使節が訪れていますから、日本に届く情報は早かったと思います。すぐさま、天武天皇も「天皇」号を採用したと考えるべきでしょう。 「すめらみこと」の対外的な漢字が「天王」「天子」など推古聖徳の時代から、いろいろ模索されていたところに、実際に「天皇」が中国で使用されたのです。天武天皇は道教に精通し「天皇」の意味を知っていましたから、抵抗なく、日本でも運用に踏み切らせたということではないでしょうか。「天皇」はあくまで対外的な表現ですから、中国で通用しない言葉は使っても意味がないのです。中国の動向を注意深く観察していたことがわかります。天武・持統のときは、遣唐使を派遣していません。よって、「日本国天皇」と書かれた文書が中国に示されるのは則天武后の周の時代になってからです。しかし、中国側では「日本」を承認しながらも、「すめらみこと」を個人名として、この後ずっと「天皇」号は無視し続けることになるのです。 日本側でも、はっきり、日本流となる「天皇」の意味を意識し出したのは飛鳥浄御原令の編纂が開始された681天武10年以降だったでしょう。さらに、天皇自身が神となる天孫思想は、持統天皇以降の世界です。天武天皇自身は道教の「天子」をイメージしていたと思います。当初は、日本で「初めて天下を治めた」天皇(すめらみこと)、だったのです。「天皇」号は段階を踏んで成長していった言葉です。 歴史のなかで、「天皇」の文字や「すめらみこと」の言葉、その意味などがいっぺんに決められたものではなかったと思います。 参考文献 津田左右吉「天皇考」『日本上代史の研究』岩波書店S47 東野治之「天皇号の成立年代について」続日本紀研究144、145号S42 角林文雄「天皇号論」『ヒストリア第80号』大阪歴史学会S53/8月号 東野治之「『大王』号成立と『天皇』号」『ゼミナール日本古代史(下)』光文社1980 森公章「天皇号の成立とその意義」『古代史研究の最前線、第一巻』雄山閣1986 吉村武彦『古代王権の展開』日本の歴史B集英社1991 熊谷公男『日本の歴史03大王から天皇へ』講談社2001 平川南『全集日本の歴史二日本の現像』小学館2008 遠山美都男「『日本』『天皇』の成立」『日本の対外関係2』吉川弘文館2011 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |