天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2013/08/20
Last update 2013/11/10 【681天武紀10年10月条】 庚寅、詔曰、大山位以下小建以上人等、各述意見。 庚寅(25日)に、詔して曰はく、「大山位より以下、小建より以上の人等、各意見を述せ」とのたまふ。
岩波版「日本書紀(下)付表」より ここでの対象は小建~大山ですが、これは、すでに発言権のある小錦以上はもちろん、ここで位のあるすべての者、昇殿した者に発言権を与えたものです。当時としては画期的な提案です。天武天皇は皇親政治です。自分が与えた冠位をもつ愛すべき部下すべてから意見を募ったのです。 ところがこの事を岩波版注釈では 「国政についての意見を上申すること。養老公式令の規定がある」とあります。本当に養老公式令がこれに当たるのでしょうか。「令集解」から抜き出すと 【令集解】
「凡そ事有りて意見を陳べて、封進(密封して上陳)せむと欲はば、即ち(そのまま)封上せよ。 少納言受け得て奏聞せよ。開き看るべからず。 若し、官人の害政、及び抑屈有るを告言せば、弾正受け推へ。 理に当れらば。奏聞せよ。理に当らずは弾せよ。」、<()内は本稿での注> 令集解はこれに加え、さらに詳しい解説があります。しかし、これでは、まるで江戸時代の目安箱と同等なもので、岩波版の注は適切な事例解説ではないと思います。 この令は、広く(実際は官位を有する者)から意見具申を募ったような記述ですが、天武天皇が目指したことは、昇殿した冠位を持つ者すべて、分け隔てすることなく、意見、進言を許したものです。 天武天皇の時代を含むそれ以前の天皇たちは皆自ら行動し働いていました。文武天皇以降のように籠の鳥になる前の白鳳が羽ばたく時代だったはずです。 以下、「公式令」と呼ばれるものです。上記の養老公式令は、天武の詔ではなく、下記の淳仁天皇の勅が元になっていると思います。天武天皇まで遡るべきではないと思います。 【続日本紀759天平宝字3年5月9日条】
淳仁天皇は「5月9日、天皇は次のように勅した。朕は惑いの多い愚かな身であり~ そのため博くよい建言を採り入れ、よい策略をあまねく問い、衆智によって国を益し、多数の賢人の力で、人々の利をはかろうと願っている。 そこで百官の五位以上と僧侶の師位以上の者は、すべてその意見を密封した上表文に書き、まっ向から直言し、隠したり忌みはばかったりしてはならない。 それを朕と宰相とでつまびらかに調べ、可否をきめる。偽って朕を聖徳の君と称したり、かりにも媚びて取り入ろうとして、表面ではあえて批判せず、かげで後からそしるようなことがあってはならぬ。このことを広く遠近に布告し、朕の気持ちを知らせるようにせよ。」宇治谷孟訳 淳仁天皇はこのように大きな志をもった天皇ですが、僕には宮廷内の周囲に味方のいない孤独な王様が宮廷の外から、あえて意見を求めたように見えるのです。いずれにしろ、養老公式令に定められた「陳意見の条」は淳仁天皇の発案であり、彼の功績といえます。 それより、天武天皇の日本書紀の意見具申の事例としては、以下に示した5年後の記事のほうが相応しいと思います。 【天武紀15年1月条】(朱鳥改元は正確には7月20日)
「朱鳥元年1月2日、大極殿におでましになり、宴を諸王たちに賜った。 この日、詔して、「自分が王卿に無端事(なぞなぞのようなことか)を尋ねよう。答えて当たっていたら必ず賜物をしよう」といわれた。 高市皇子は問われて正しく答え、蓁摺の御衣(ハンの木の実で摺って染めた衣)を三揃い・錦の袴二揃いと絁20匹・糸五十斤・綿百斤・布一百端を賜わった。 伊勢王も答えが当たり、皁(黒色)の御衣三揃い・紫の袴二揃い・絁七疋・絲廿斤・綿四十斤・布四十端を賜った。~ この日(16日)、天皇は群臣に無端事を問われ、答えが当たっていると絁・綿を賜った。」宇治谷孟訳 日本で始めて現代語訳をされた宇治谷孟氏には大きな感謝と言い尽くせぬ思いがあります。その上で、今まで、いろいろ翻訳の細部に批判を加えてきました。 ここで「無端事」とは何でしょう。昔から「なぞなぞ遊びをされた」と解釈されたそのままに、宇治谷孟氏もカッコ付きで注釈されています。 この件は天武8年5月吉野会盟「千歳之後、欲無事。」参照(吉野会盟)ですでに陳べました。この「無事」と同じです。「無事」とは、変わりないこと、事がない、変事がないことです。千年後まで無事(平和)であること、朱鳥元年では端々(隅々)まで無事(平和)、という意味だと思います。 「なぞなぞ遊び」などと、とんでもない解釈が現在に至っても、まだ、まかり通っているのです。 よって、引き続く文章の解釈も違ってきます。 読み下すと「仍りて對へて言すに實を得ば、必ず賜ぶこと有らむ」は「よって答えて言うことに誠があるなら、必ず賜物があろう」となります。 もう一つも、「當時に實を得ば、重ねて絁・綿を賜う」は、「そのときに誠を評価され、重ねて絁・綿を賜われた。」となります。「なぞなぞ」のような一問一答ではありません。答えは一つではありません。 天武天皇は間近に迫る死(同年9月9日)に際して、世の隅々まで永久に続く平安を得るにはどうすべきか、という人類普遍のテーマを大極殿において、宴(うたげ)に参加していた群臣全員に尋ねられていたのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |