天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
吉野会盟 よしのかいめい First update 2009/02/06
Last update 2011/03/01 679天武8年5月5日、天武天皇は皇后以下6皇子とともに吉野に行幸され、そこで盟約を結ばれました。 この吉野会盟とは何なのでしょうか。 一般には、直木孝次郎氏が言うように「吉野会盟の目的は後継者問題、複雑な皇室内部の勢力関係に悩んだ天武天皇が主だった皇子達を集め、結束を固めることであった」と考えられています。「日本の歴史2古代国家の成立」 本稿では天武天皇の年齢を若返らせることで、全然違った天武天皇の本意が見えてきました。人生の終わりに近づいた49歳の指導者の疲れ切った姿などではなかったはずです。戦国時代、豊臣秀吉のように死の直前に見せた部下になんども誓約書を書かせたという醜態でもあり得ません。天武天皇はこのとき36歳でしかないのです。 吉野会盟の参加者は次の系図のとおりです。 遠智娘(蘇我山田石川麻呂の娘) ├――――鸕野皇后 | ├―――――草壁皇子 ├――――大田皇女 | ├―――――大津皇子 | 天武天皇 | | ├―――高市皇子 | | 尼子娘(胸形君徳善の娘) 天智天皇 ├―――――忍壁皇子 | | 穀媛娘(宍人臣大麻呂の娘) | ├―――――――――川島皇子 | 色夫古娘(忍海造小竜の娘) ├―――――――――――施基皇子 越道君郎女 「 」が吉野会盟参加者 日本書紀原文(句読点は岩波書店版による)
上記を意訳せず、経緯を忠実に時間軸に沿って述べます。 天武8年5月5日、天武天皇らは吉野に行幸されました。 同行したのは鸕野皇后、そして天武皇子として草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子の四人、天智皇子として河嶋皇子、芝基皇子の二人です。身内のものばかりです。 「天武朝」で北山茂夫氏がいうように、「天皇と肉親だけの誓盟なので、〜、臣僚のなんらかの介入をゆるさない排他性を持していた」と思われます。 また、日本書紀の皇子の名前記述順に特異なものがあります。草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子と天智皇子の河嶋皇子を高市皇子と忍壁皇子の間に記述したのです。なぜなのでしょう。 草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子 また、なぜ天武8年でなければならなかったのでしょう。さらに、なぜ、皇后を含めたこの皇子7名だけなのかということです。 吉野到着の翌日、5月6日。さっそく天皇はこの7名を前にして「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」と問い、皆の賛同を得たといいます。宇治谷孟氏の訳に代表される一般的な解釈です
しかし、「継承の争いを起こすこと」などという言葉はどこにも見当たりません。ここは「無事」を「問題が無いこと」と訳すべきではないでしょうか。 「自分は今日汝等とここで盟約し、千年後まで変事がないようにしたいがどうか」 天武天皇が第一に欲したことは、千年の後まで争いがない平和な世を築きたい、という大望を抱いた前向きの気持ちです。天武天皇は皆の前で、これから行う自分の国作りのビジョンを明確に示したのだと思います。そのためにまず、血縁者のお前達の協力が必要なのだ、と言ったのです。 つまり、吉野会盟とは、天武天皇と皇子らとの結束の場であったのです。 この若い天武天皇36歳が目指すこれから始まる国作りをどう構築していくかを示す重要な場であったのです。 その指針は次の3つに集約されます。 1.1000年の後まで続く、争いのない国を構築すること。 2.その為に、ここに集う8人を主体として連携していくこと。 3.その目的のため、同じ兄弟であろうとも序列を定め指示命令系統を明確にすること。 肉親同士が争ってはならぬ、という内輪話をするために吉野まで来たのではありません。 現代だからこそ天武天皇の死後に起こる争いを我々は知っています。天武天皇は自分の死後のことを予感できたすぐれた指導者と思うあまり、このような継承問題を危惧したしていたと言われるのかも知れません。 このときの天武天皇は、まず自分のビジョンを示し、そのために共に皆で力を合わせて難局を乗り切って行こうとの前向きな決意表明だったのだと思います。 則草壁皇子尊、先進盟曰 そこで、まず草壁皇子が皆の前に進み出で、次なる誓いの言葉を述べています。 天~地祗及天皇證也。 吾兄弟長幼、并十餘王、各出于異腹。 然不別同異、倶随天皇勅、而相扶無忤。 若自今以後、不如此盟者、身命亡之、子孫絶之。 「天神地祇及び天皇に誓います。併せて十余王は異腹より生まれました。しかし同じであろうが異なろうが共に天皇の勅(お言葉)に従い、助け合い反対など致しません。もし今後この誓いに背いた場合には命を落とし子孫も絶えるでしょう。」 「忘れず失いません。」 非忘非失。 他の五人の皇子も順にさきのように誓われた。 五皇子、以次相盟如先。 「併せて十余王」とは、この時までに生まれている天武皇子9名(末子新田部皇子はまだ生まれていません)と天智皇子2名を指すと思われます。 このときの誓い文はすでに紙に書かれていたものを各皇子が読み上げたものだと思われます。 その理由は次の三点から推測可能です。 第一に、同じ言葉を5名の皇子が一人ずつ述べたこと。続いて、このあと天武天皇と皇后も同様の内容を言ったことです、 第二に、草壁皇子の言葉の最後に「非忘非失」とあり、失わないとは、この誓約書を大切にしますといっているのだと思われること。 第三にまず初めに草壁皇子が誓ったということです。このとき18歳の草壁皇子ですが最初にここまで言える器量はなかったと思っています。また、最後に誓った芝基皇子は14歳ぐらいと思われるからなおさらです。 ですから、日本書紀の記述は、皇子達が自分の意志で次々と誓ったように表現されていますが、実際は天皇の強い意志に圧され、その誓約順番も意識的に指名され誓約したものです。その順番とは先に示した草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子の順です。 そうしたのち天皇は言われました。 「わが子等は各異なる腹より生まれた。しかし今は同じ母から産まれように思われ愛おしい。」 こういって、襟を開き6人の皇子を次々に抱かれました。そして誓われて「もしこの盟を違えれば、私の命はない」とも言ったのです。しかも皇后にも同じ誓いをさせています。 この天皇は子らと共に自分も同じだと言ってのけます。 そしてそれを見た皇后も同じ誓約をしたのです。 何度もいうようですが、ここでも継承問題に悩む天武天皇の姿はどこにもありません。自分も含むこの8名一丸となって取り組んでいこうと誓ったのです。 5月7日に天皇らは宮に帰りました。 5月10日、6人の皇子は揃って大殿の前で天皇に拝礼されました。 このことは世間に大きなセンセーショナルな波紋を呼んだはずです。天皇一族だけで吉野でなにやら会合を開き、帰ってきたと思ったら人々の前で天皇のいる大殿の前に仰々しくも並んでみせたのです。それは壮麗なパフォーマンスでした。 それぞれの6名の皇子達にはそれぞれの優秀な舎人達が従った儀式であったはずです。こうした一団が整然と大殿に並んだのです。そして我々皇子が天皇を支えると宣言したのです。 これこそが吉野会盟の真の意味だったのです。「身内で継承の争いはしない」との後ろ向きの秘密会合だったのではありません。この6名で天皇と共にこの世を統治し戦争のない平和な国をつくると宣言したのです。 瀧川政次氏は「人物新日本史」明治書院S28のなかで次のように語っています。「実際家であられた天武天皇は国を治めることは人を納めることであるということをよく認識して居られたと思う。天皇の行われた政治を観察してみると、官史の登庸、栄典の授与、地方官史の監察というような、人事行政に関することが大部分であって、官制の改革というようなことは一度も行われていない。天皇は組織より人に重点を置かれた。」P163。すなわち、皇子、舎人を重用したのです。 なぜこのとき吉野での会盟なのでしょうか。天武天皇は計画性に富む計算高い優秀な指導者と思います。血族が参集して和気藹々と皆での誓い合っただけで、これからの日本国の運営を乗り切れると天武天皇は思っていません。もっと冷静な計算があったはずです。それは前後の天武天皇の詔を見ればよくわかります。 吉野会盟前年の長女、十市皇女の薨去が直接のきっかけとなったのかもしれません。 5月の会盟のまえ、1月5日に「諸王は母であっても王の姓の者でなければ拝礼してはならぬ。諸王もまた自分より出自の低い母を拝礼してはならぬ」という詔を発していました。これは年長者でもある壬申の乱で活躍した高市皇子を牽制したものに見えます。高市皇子に照準をあわせたものです。本稿の試算ではこの吉野会盟のとき高市皇子は19歳です。名だたる天武天皇の皇子たちの先頭をきって、はじめて節目の20歳を迎える前年の吉野行きだったわけです。 この2年後の天武10年、ちょうど20歳になった草壁皇子を皇太子に任命したことを公表します。 またこの同じ年、河嶋皇子と忍壁皇子に帝紀編纂の指示をしています。 さらに2年後の天武12年、21歳に大津皇子に将来の太政大臣を彷彿とされるように朝政へ参加させています。 さらに2年後の天武14年、官位を制定します。それはこの吉野会盟の名前順とまるで同じ上下関係を具体的に公表したのです。 草壁皇子 浄広一位 大津皇子 浄大二位 高市皇子 浄広二位 川嶋皇子 浄大三位 忍壁皇子 浄大三位 芝基皇子はこのとき官位を与えられていません。 たぶんこのとき成人の20歳に満たなかったと思われます。 2年ごとのこのステップアップは皇子達の年齢に沿ったもので非常に計画的です。現代の私たちにはゆっくりしたものに見えますが雄大です。吉野会盟は天武8年でなければならなかったのです。 つまり、吉野会盟は、はじめて皇子らの上下を明らかにしたものでもあります。 そのやり方は巧妙です。おそらく誓約書を神々と天皇と皆の前で読むよう、まず草壁皇子の名が呼ばれたのです。そして、次に大津皇子、そして高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子の順です。この順による宣誓が重要な意味があったのです。皇子等もそれがどういう意味をもつものかすぐにわかったはずです。 もしかしたら、日本書紀の吉野会盟で草壁皇子を草壁皇子尊として記述していることから、内々に草壁皇子を皇太子にすることを天皇はこのとき皆に打ち明けていたのかもしれません。 この序列をもってこの時代を乗り切ると宣言したのです。決してただ単に一致団結しようなどという気合いだけのいい加減なものではなかったのです。 そしてもう一つ、ここでの主題でもある年齢研究の成果のひとつですが、これら6名の皇子らの年齢はみな同様の年齢だったのではないでしょうか。 岩波版日本書紀の注では、「ここでの皇子の序列は草壁・大津両皇子を別格におき、高市皇子以下は長幼の順序によったものと思われ」る、と記載されています。その意味はわかりますが大きな誤解を招きます。この序列こそは天武天皇が定めたもの、吉野会盟で必要だったのであり、けっして日本書紀の編纂者によって配列され記述されたものではないのです。 ところで、この有名な皇子たちのこの時(天武8年)の年齢はだいたいわかっています。 高市皇子 26歳 扶桑略記より算出 川嶋皇子 23歳 懐風藻より算出 忍壁皇子 20歳 直木孝次郎、伊藤博氏の研究より 草壁皇子 18歳 日本書紀より算出 大津皇子 17歳 日本書紀より算出 芝基皇子 14歳 直木孝次郎氏の研究より しかし本稿では次のように考えています。 川嶋皇子 23歳 上記に同じ 高市皇子 19歳 草壁皇子 18歳 上記に同じ 忍壁皇子 18歳 大津皇子 17歳 上記に同じ 芝基皇子 14歳 上記に同じ 天武天皇が天武8年に吉野に向かったのは高市皇子が来年20歳になってしまうという思いがあったからとも考えられそうです。皇太子は草壁皇子と宣言したのです。高市皇子ではないことをはっきりさせたのです。そしてここにいるすべての者に順番に宣誓させることで皇子の序列を意識させたのです。 じつはこれ以外の天武天皇の皇子たちは、5歳以上の年差のある弟妹のはずです。12歳以下となるのです。 じつはこの「無事」について天武天皇は後年に再度語っています。 これが天武天皇の最後の年頭の御言葉となるものです。 吉野会盟から7年後の686朱鳥元年9月9日、天武天皇は崩御されました。 ここから、時間を巻き戻します。 この朱鳥の年は2ヶ月前7月20日に改元されたものです。 この年、5月24日には天武天皇の病気が深刻であることを伝えています。 その前、4月27日には伊勢神宮へ多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わしています。 そしてこの同じ年のはじめ、686年天武15年1月2日、天武天皇は大極殿にお出ましになり、宴を諸王たちに賜りました。これが天武天皇の諸侯の前に現す最後の姿となりました。 「自分が王卿に無端事(あとなしこと)(なぞなぞのようなことか)を尋ねよう。答えて当たっていたら必ず賜物をしよう」といわれた。―宇治谷孟訳「日本書紀」より― まず、高市皇子に問い、正しく答えたので過分な褒美を与えています。 1月16日にも、天皇は大安殿において、群臣に無端事(あとなしこと)を問われ、正しい答えに対し褒美を与えたのです。 これが、天武天皇の人生最後に直接皆の前に示した御言葉です。
天皇は自分の死を予感していたはずです。なぜなら、発病は前年の9月24日です。それからはずっとお寺の誦経や全国からの妙薬の調達の記録が続きます。4ヶ月もの間、ずっと気分がすぐれないのです。体力が急激に落ちていく自分がわかっていたことでしょう。 そして、その翌年春、年頭の大事な顔合わせのとき、日本書紀にとってもこの重要な天武天皇の御言葉を後世の学者たちは「なぞなぞ」遊びと言ったのです。 岩波版「日本書紀」では、「無端事」を未詳、としています。 「釈日本紀」の兼方の按には、「今世何何歟」とあって、なぞなぞのこととしました。 「日本書紀集解」は考課令にいう方略のことで、多聞博覧を試みるために種々の問を発することとあります。 無端の端緒の無いの意。とりとめもないこと、何ということもない意。俗語的用法か。 「考課令集解古記」に「多聞博覧之士、知無端、故試以尢端大事也」などとある、と諸説を紹介しています。 天武天皇は死に直面して、本当に皆となぞなぞをして楽しんだのでしょうか。 本稿の答えはもうすでに述べました。 天武天皇は天武8年での吉野の会盟において語っていたのです。これを自分のビジョンを自分の死に際し、このことだけは伝えねばと、再度皆の前に示し問うたのです。吉野での御言葉は次のとおりです。
1000年の後まで、「無事」争い事のない世にすること。そして、死を間近にひかえ語った「無端事」とは、日本の端々まで(争い)事がない、こととなります。 これが、彼の遺言となったのです。 「朕が今日まで唱えてきた無端事とはどういう意味か。貴方はこれをどのように成すべきと考えるか。」 天武天皇の偉大さを感じます。相手に対し、互いに争うな、仲良くせよ、などと一方的に命令していません。相手に考えさせたのです。答えは「なぞなぞ」のように一つではありません。 天武天皇はまず25歳の高市皇子にこれを質問したのです。草壁皇子でも大津皇子でもありません。なぜ高市皇子でなければならなかったのでしょうか。 このとき、高市皇子は職を持たされず、卑母をもつ身分の低い存在としてあまんじていました。 草壁皇子はこの年24歳になり天皇位を引き継ぐ皇太子として、23歳の大津皇子は朝政に参加しており、忍壁皇子は帝紀編纂事業に従事とみな責任ある立場にいます。他の皇子たちはまだ成人にも達していません。官位を賜ったものは高市皇子以下この4人だけです。 また、長女の十市皇女はもうこの世にいません。大伯皇女は26歳で伊勢齋王として役目を果たしています。おそらく17歳になる泊瀬部皇女は川島皇子との婚姻が成立したころでしょう。他の皇女はまだ14歳にも到っていません。 10人いた天武天皇の后妃は、3人がすでにいません。大田皇女と氷上娘は亡くなり、額田王は天武天皇のもとを離れ戻ることはなかったようです。 このとき、天武天皇が一番気に掛けておられたのが高市皇子だったのだと思います。 もしかしたら、天武天皇は壬申の乱で存在感を示した高市皇子の後ろ盾となる宗像氏に象徴される九州勢力をいまだに懸念していたのかもしれません。天武天皇自ら課した高市皇子へのきびしい処遇に弱気になっていたのかもしれません。 しかし、高市皇子の回答はすばらしいものだったようです。天武天皇は非常に満足されました。どのような答えだったのか知るよしもありませんが、日本書紀はそれを贈り物の多さで表現しています。 天武天皇の死後、高市皇子は生涯この答えを自ら実践していきます。皇子のなかでも年長者でありながら決して偉ぶらず、朝廷を中心とした日本という国に直向きに取り組んだ一生を全うすることになります。草壁皇子は早世し、大津皇子は謀反の罪で殺され、忍壁皇子は職を追われることになるのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |