天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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飛鳥浄御原律令 あすかきよみはらりつりょう

First update 2013/08/10 Last update 2013/08/10

 

本稿では、現在、通説化された「飛鳥浄御原」と呼称せず、日本書紀が記す「飛鳥浄御原」とします。「近江令」や「浄御原令」には「律」がなかったとする説に従わないものです。なかには、「浄御原令」そのものもなかったという説さえあります。日本書紀にはそれぞれ「律令」とあり、少なくとも当時、本格的な律令編纂、改訂、施行が行われたことは間違いないのです。何を以て律令もしくは律の完成とするか別の問題です。古代中国の律令のように形を備えることが完成ではないはずです。どこでもいつの時代でも法典とは改訂し続けるものだからです。

 

律令とは

ここで扱う「律令」は、日本古代における法の制定史です。さらに、内容は飛鳥浄御原律令に的を絞りましたが、予定外に近江律令から養老律令までの四法典を一望しなければならなくなりました。さらには「律令」自体の意味や古代中国まで視野を広げました。考えれば当たり前のことだったのです。

一般に、「令」は民に示す法令。令を犯すものを刑する規定を「律」といいます。

養老律令までに確立した「律令格式」とは、「律」は刑罰を記した書、罪人を罰する規定。「令」は一般に公布する法令。「格」は令・式・律・の臨時の改定増補、又は執行の命令。「式」は官吏の職務に関する事務規定、となります。(「律令」大漢和辞典より 大修館書店)

 

古代中国でいう律令の基本思想は、儒家と法家の思想といわれます。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義となります。国家や社会秩序を維持する規範に、「礼、楽、刑、兵」がありました。(Wiki)古くは戦国時代に始まったとされ,隋唐時代には「律令」法典の最盛期を迎えました。この戦争状態の中で、刑の成文法として「律」が「おきて」法令の総称として早くから発達したようです。時代が下がるほどに、刑法の「律」と別れて「令」が発達し、行政法、民法的なものを指すようになります。法令の総括として「律令」は「律」だけでなく「令」とも略しても呼ばれています。

「律令格式」は唐の時代に確立しました。具体的な細則として「格・式」が進化してきたのです。唐の四刑書です。「令」は尊卑貴賤の等数、国家の制度。「格」は百官有司の常に行うべき事、「式」はその常に守る所の法、「律」は以上三者に触れる者、及び他の罪戻を犯す者を断ずる規定を記した書と説明されています。最初に示した日本流「律令法典」とは微妙に違っているようです。

 

古代日本の法体系の歴史

本稿は専門書ではありませんが、少なくとも欽明天皇以降の流れは確認しておく必要があります。

 

603推古11年 12階冠位施行 

604推古12年 憲法17条制定 上記の冠位制定ともに法整備上の断片的な試みと捉えられる

645大化 2年 大化改新    中央集権的な国政改革の基点とされる

668天智10年 近江律令    施行 法典整備の観点から「律令」の起点

681天武10年 飛鳥浄御原律令 編纂開始 「律令」の制定作業が本格化した時期 

689持統 3年 飛鳥浄御原律令 発布 諸国に配布が確認された確実な記録(22巻)

700文武 4年 大宝律令    編纂開始。飛鳥浄御原律令に基づく。

701大宝 1年 大宝律令    完成 「藤原朝臣不比等奉」(弘仁格式序)

702大宝 2年 大宝律令    律施行(勅撰 律6巻、令11巻、)

718養老 2年 養老律令    編纂 「不比等奉」(弘仁格式序)続日本紀に記述なし

757天平宝字1年養老律令    施行 律10巻13編、令10巻30編。

769神護景雲3年養老律令    修正・追加を目的に刪定律令(全24条)編纂。791施行

797延暦16年 養老律令    刪定令格(さんていりょうかく)全45条が編纂、同年施行

820弘仁11年 弘仁格式    完成。830年施行、840年改訂施行

869貞観11年 貞観格式    格の施行。式の施行は871年

907延長 5年 延喜格式    格の施行。927養老律令細則「式」完成。967改訂施行。

 

近江、浄御原、大宝、養老の各律令は厳密の意味で、すべて現存しません。

現存する主な史料は次の通りです。

(りょうの)()()」833天長10年に勅により撰集された令の解説書。大宝令・養老令の一部引用あり。

(りょうの)(しゅう)()」868貞観10年頃に編纂された養老令の私撰注釈書。36巻/全50巻が現存

「類聚三代格」平安時代、弘仁格・貞観格・延喜格を項目別に分類まとめたもの。約20巻/全30巻

(えん)()(しき)」905延喜5年に、醍醐天皇の命により編纂開始。927延長5年に完成。その後改訂を重ね、967康保4年施行。養老律令の施行細則として現存する唯一の古代法典。50巻。

 

近江律令と飛鳥浄御原律令

まず、本件の主題である、飛鳥浄御原律令から述べます。

 

【681天武10年2月25日 天武紀】編纂開始

二月庚子朔甲子、天皇・皇后、共居于大極殿、以喚、親王・諸王及諸臣、詔之曰、

朕、今、欲、定律令法式。

「二月の庚子の朔甲子に、天皇・皇后、共に大極殿に(おは)しまして、親王・諸王及び諸臣を()して、

詔して曰はく、「朕、今より(また)(のりの)(ふみ)を定め、()()改めむと欲ふ。」

 

天武天皇は飛鳥浄御原令の編纂事業を天武10年に着手しますが、ここに、はっきりと「再度」、「律令」を定め、今までの(近江令)を「改訂する」と言っているのです。つまり、天武天皇は、天智天皇の御代に、大海人皇子として近江令編纂に関わっていたことになります。

こう考えると、近江律令施行時の記事に思い当たる記事が出てきました。

 

天智紀10年1月6日条】 近江律令の発布

甲辰、東宮太皇弟奉宣、【或本云、大友皇子宣命。】施行冠位法度之事。大赦天下。

【法度冠位之名、具載於新律令也。】  【】は原文注

「甲辰(6日)に、東宮太皇弟奉宣(みことのり)して、【或本に云はく、大友皇子宣命(みことのり)す。】冠位・法度の事を施行したまふ。天下に大赦す。【法度・冠位の名は、(つぶさ)に新しき律令載せたり。】」

 

668天智10年1月2日、天皇は息子、大友皇子を太政大臣にしました。その4日後、当時、東宮太皇弟である大海人皇子が近江令施行を発表「奉宣(みことのり)」したのです。しかし、大友皇子が太政大臣になったため、実際上の近江令施行宣言は形として大友皇子でしょう。

冠位の具体的内容は以下の天智3年2月9日の記事にもあります。天智3年とは天智天皇が即位した天智7年の3年目の意味であり、天智10年のことです。この二つの記事は重複記事と考えられるのです。

 

天智紀3年2月9日条

天皇命大皇弟、宣増換冠位階名、及氏上・民部・家部等事。其冠有廿六階。

「天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を(のたま)

その冠は二十六階あり。」

たとえ、大友皇子に表舞台にでる役を奪われたにしろ、近江令の中心には大海人皇子は欠かせない存在だったはずです。

 

しかし、これを藤氏家伝では、近江律令は藤原鎌足が中心に天智7年以前に作られたと書かれています。

【藤氏家伝 鎌足伝】

七年秋九月、〜

先此、帝、令大臣撰述礼儀、刊定律令

通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、為条例。〜

「七年秋九月に、〜

(これ)より先(みかど)、大臣に礼儀を撰述せしめ、律令を刊定せしめたまふ。

天・人の(さが)に通して、朝廷の(をしえ)を作る。大臣と時の賢人と、旧章を(おとし)(くは)へ、(ほぼ)条例を(つく)る。〜」

 

このことから、通説では668天智7年天智天皇即位年に日本最初の令、近江令が制定されたとされ、後年、天智即位年(天智7年)が律令発布年となってしまいました。(下記、弘仁格式序)しかし、この文章の意味は、律令制作は天智7年9月以前から、天智天皇の命により律令策定を始めた、となるはずです。しかも、これらはみな曖昧で、誰かわからぬ賢人と共に策定を進められ、しかも、「(ほぼ)条例を(つく)る」であり、完成したとは書かれていません。この藤氏家伝を作成した藤原仲麻呂は自信がないのです。「続日本紀」は天平宝字元年閏8月条でも藤原仲麻呂の証言として、鎌足が「制度を考え正し、(しょう)(てい)(つく)」ることと、天智天皇から(こう)(でん)を賜った理由を一つにして、近江令を完成させたことにしてしまったのです。

 

あくまで、ここは藤原氏に都合の良い史料として見る必要があります。鎌足一人だけでは不可能な膨大な法制化作業です。大海人皇子など天皇皇族などの応援がなければできなかったはずです。しかも、この時期、鎌足は朝鮮での白村江戦後処理を含め、猛烈に忙しい。そして、鎌足は意外にも大海人皇子と仲がいいのです。鎌足も大海人皇子を頼りにする存在だったと思います。その鎌足は翌年8年10月には亡くなってしまいます。大海人皇子自ら、鎌足邸を訪ねた親密さからも理解できます。「大臣と時の賢人」の中に若い大海人皇子もいたでしょう。実際は、天智より命じられたにしろ、実務の中心にいたのは、鎌足死後は大海人皇太子であり、完成と発布は上記のとおり、天智10年大海人皇子ではなかったでしょうか。

 

類聚三代格の弘仁格式序に、律令の沿革を述べるなかで、近江として次のように書かれています。

「降至、天智天皇元年、制廿二巻、世人(いわ)(ゆる)、近江朝廷之也。」

滝川政次郎・坂本太カらは、このことから、近江令22巻が完成したとしています。

しかも、ここに「令」とあるから、「律」のない近江令ではないかとする説があらわれます。しかし、中国でも「唐令」とはこの「令は律と併せ称せられる国制を規定する基本法典」として使われています。「令」とある言葉だけで「律」がない証拠にはなりません。

さらに「廿二巻」とは、持統天皇が発布した浄御原律令と同じ「廿二巻」です。天智天皇元年に近江令が出来たとするのは、この文章を作り撰上した藤原冬嗣たち藤原一門の上記、藤氏家伝の鎌足伝の記述を盲信した言葉である可能性があると思います。「律令編纂を命じられた」ことが「ほぼ律令をつくる」そして「近江令を完成した」とどんどん拡大解釈されたのです。最後には、浄御原律令が無視され、廿二巻が近江令にすり替えられたのです。

 

日本書紀 天智9年2月条「戸籍を造る。盗賊と浮浪とを断む」の記述は(こう)()(ねん)(じゃく)の施行を指し、おそらくは近江令の戸令に相当するという指摘があります。断行された地域は全国に及ばなかったものの、高い精度で施行されたようです。

 

671天智10年12月3日に天皇が崩御されました。

そして、翌年、大海人皇子は、壬申の乱を起こし、自ら即位します。

 

673天武2年12月27日僧官増設。佐官の二人増やし、四佐官とする。

675天武4年2月部局の停廃。天智3年2月、諸氏の民部、家部を定めています。

(これも天智10年の事かもしれません。)

675天武4年4月、公出挙制の実施。農民に官稲を貸し、収穫時に利息付で返納させる。

676天武5年4月官吏登庸法の改正。庶民といえども、才能勝れたればもちいる。

このように、近江律令を引き継ぐ形で、早い段階から改訂を繰り返しているではありませんか。

天武天皇は自ら実務に携わる天皇でした。

 

681天武10年の詔の続きです。飛鳥浄御原律令の開始です。

朕、今、欲、定律令改法式。故、倶修是事。

然頓就是務、公事有闕。分人應行。

是日、立草壁皇子尊、爲皇太子。因以令攝萬機。

「朕、今より(また)(のりの)(ふみ)を定め、()()改めむと欲ふ。故、(とも)に是の事を修めよ。

(しか)(にはか)に是のみを(まつりごと)()さば、公事()くこと有らむ。人を分けて行ふべし」とのたまふ。

この日、草壁皇子尊を立てて、皇太子とす。より(よろづの)(まつりごと)(ふさねおさ)たまう。」

 

天武天皇らしい采配です。こうしろ、ああしろ、と命令せずに、今の業務に差し障ることなく、分担して、事に当たれと命じています。現代流にいえば、外部委託や増員することなく、現状のメンバー内でプロジェクトチームを組み、通常業務をこなしながら、分担して事に当たれと命じています。一人一人の仕事量がさらに加わったことになります。「造法令殿」(11年8月条)なる専用の建物があったようで、今までにない大規模なプロジェクトだったはずです。

同時に、草壁皇子を皇太子にします。このことから、草壁皇太子は浄御原令の策定プロジェクトの総責任者であったと思います。このときは天皇も皇后も皇太子に期待したことでしょう。すでに条文の土台があり、新しい考えは天武の詔を加えるだけでいい、各国の実例条文も豊富にあったようです。

現在、浄御原律令に関するさまざまな論文を詳細に検討した結果、この律令には、唐令にないもっと古い様々な国々の令が盛り込まれているという論文もあります。

木簡などの記載様式が朝鮮諸国ないし中国南北朝のものとの一致、西魏の計帳様文書との近似、造籍関連の諸規定も北朝の影響が想定でき、晋朝の戸調式との類似性、朝鮮を媒介とした南朝の影響、隋唐皇令にはない宮田規定が北朝にあることなど、中国南北朝期、西魏、北朝の影響、晋朝、隋開皇令と様々、当時の考え得る幅広い蒐集といえる作物です。(榎本淳一)

 

【天武4年4月17日条】

庚寅、詔諸國曰、自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以後、九月卅日以前莫置、比滿沙伎理・梁。且莫食、牛・馬・犬・猿・鶏之宍。以外、不在禁例。若、有犯者罪之

「庚寅(17日)に、諸国に詔して曰く、『今より以後、諸漁獵者を(いさめ)めて、檻穽を造り、機槍等の類を施くこと(まな)。亦四月の朔より以後、九月卅日より以前に、()滿()()()()(やな)を置くこと(まな)。以外は禁の例に在らず。()、犯すこと有ら罪せむ』とのたまふ。」

近江律令や飛鳥浄御原律令には刑法にあたる律がないという説があります。

675天武4年4月の「(また)、牛・馬・犬・猿・鶏の(しし)を食うこと(まな)。」は「恐らくはわが固有刑法思想を伝えたもの」という説もあり、この後に、印旛や伊豆島、血鹿島(長崎五島列島)に流すという刑罰実刑を実例として紹介しています。

持統紀7年4月22日

但し、贓者は(まま)()()れよ。「但し、盗んだものはに従って徴収せよ。」

692持統7年4月22日、「(ぬすみ)(もの)」という言葉は「律」に用いられた特別な用語だといいます。

これこそ、浄御原律令に律と令を別けた表現はないものの、罰則規定=律、の存在を示す例といえます。

これ以外でも示されています。律がないなどとは否定できないのです。

 

さらに、時代は下りますが、持統6年7月2日などの「十悪」は古代中国使われたものをそのまま使用したと思われる記述です。隋唐令というより、北朝の北斉律には「重罪十条」という規定がすでに設けられていたといいます。こちらの影響かもしれません。後に大宝・養老律では2つ減らし、八虐と名付け、日本の独自性が示されたと書かれていますが、隋の大業律は十悪の中を削って八つに削ったという先例もあるようです。

唐令「永徽律疏」の「十悪」の内容は謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱です。八虐では不睦内乱がありません。しかし、「悪逆」とは祖父母や父母を殺すこと、「内乱」は近親相姦を指したとありますから、日本の感覚からはなじめない言葉が相変わらず使われていたのです。

 

天武14年1月21日条

丁卯、更改爵位之號。仍増加階級。明位二階、淨位四階、毎階有大廣。并十二階。以前諸王已上之位。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、毎階有大廣。并卌八階。以前諸臣之位。

丁卯(21日)に、更に爵位の号を改む(なほ)、階級を増し加ふ。明位二階、淨位四階、階(ごと)に大廣有り。并て十二階。以前は諸王より已上の位なり。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、階(ごと)に大廣有り。并て八階。以前は諸臣の位なり。

この新冠位も、近江律令の改訂なのです。

 

【天武14年7月26日条】

庚午、勅定明位已下、進位已上之朝服色。

淨位已上、並著朱花。【朱花、此云波泥孺。】

正位深紫、直位淺紫、勤位深緑、務位淺緑、追位深蒲萄、進位淺蒲萄。

庚午(26日)に、勅して明位より已下、進位より已上の朝服の色を定む。

淨位より已上は、並に朱花を着る。【朱花、此を()()()と云ふ。】

正位は深紫、直位は淺紫、勤位は深緑、務位は淺緑、追位は深蒲萄、進位は淺蒲萄。

この後の大宝律令の服制、衣服令とほぼ同じです。階級により色違いを指定したものです。この勅は持統4年4月14日に更に改正されています。

 

こうして、

686年朱鳥元年9月9日天武天皇は崩御されました。

688持統2年11月、やっと、天武天皇を大内陵に葬ることができました。2年にも及ぶ政治空白が続いていたのです。そんな矢先に、

689持統3年4月13日草壁皇太子が28歳の若さで薨去されてしまいます。

689持統3年6月29日そのなかで、飛鳥浄御原令を施行させています。この鸕野皇后はまだ、天皇になっていません。

690持統4年1月1日、持統天皇即位。

 

想像に過ぎませんが、母、持統天皇は息子のやり残したこの飛鳥浄御原律令原稿、すなわち、近江律令には、亡き夫、天武天皇の書き込みが多くあったはずです。これを清書して全国に配布したのだと想像します。これが、飛鳥浄御原律令であり、持統天皇にとって、これからの政治指針を示す大切な天武天皇語録といえる要素をもつものだったと思います。

 

【持統3年6月29日条】

庚戌、班賜、諸司、令一部廿二卷。

庚戌(29日)に、(つかさ)(つかさ)に、(のりのふみ)一部廿二卷、(わか)(たま)ふ。

これが、飛鳥浄御原律令の施行記事です。まだ、天皇でないものが、律令施行する詔とは書けないのです。「諸司に(はん)()=頒布・制定された」のです

1部22巻とは、かつての近江律令と同巻数であるため、これ自体を近江律令の施行とみる説があります。天武天皇は生前の天武10年もはっきり近江律令を改訂するといっているのです。近江令の施行は天智10年でその範囲は限定的であったにしろ行われていました。

この浄御原律令は先駆的な律令法でした。しかし、律と令を区分した2部構成ではなく、渾然一体とした1部構成の律令22巻だったと思います。

天智天皇のやり方と違い、天武天皇の方針からみても、当時の日本の習慣からも令を無視した罰則規定は本来そぐわないものです。律がないとはいいませんが、あっても簡単な記述だったと思います。

 

【持統4年4月14日条】

四等以上者、依考仕令、以其善最功能、氏姓大小、量授冠位。

四等より以上の者は、(かう)()(りゃう)(まま)に、其の善最・功能、氏姓の大小を以て、(はか)冠位を授けむ。

 

ここから、持統天皇は飛鳥浄御原律令の条文に寄り添った行動が多くみられるようになります。

上記は編目の一つ「考仕令」官人の考課に関する規定です。この年の記述は浄御原令の条文をそのまま、読み聞かせたようにも見える文章です。以下「考仕令」、「選任令」や「官員令」は字句を含め、日本独特のものとも言われています。養老令にも見られないものとした解説があります。

 

【持統4年7月条】

秋七月丙子朔(1日)、公卿・百寮人等、始めて新しき朝服着る。

庚辰(3日)、皇子高市を以て、太政大臣とす。

      正廣參を以て、丹比嶋眞人に授けて、右大臣とす。并て八省・百寮、皆遷任()けたまふ。

辛巳(6日)に、大宰・國司、皆遷任()けたまふ。

壬午(7日)、詔して、「公卿百寮をして、凡そ位有る者、今より以後、

      家の内にして朝服を着て、未だ門開けざらむ以前に参上しめよ」とのたまう。

甲申(9日)、詔して曰はく、「凡そ朝堂の座の上にして、親王を見ときには常の如くせよ。

      大臣と王には、起ちて堂の前に立て。二王以下は、座より下りて(ひざまず)け。」

己丑(15日)、詔して曰はく、「朝堂の座の上にして、大臣を見ときには、坐を動きて(ひざまず)け。」

 

すべて浄御原律令の官員令、該当条文の施行と思われる記述です。持統天皇は形見となる浄御原律令を忠実に実行していきます。

5日には高市皇子を太政大臣にするとともに、上記の記述は新たに中官と宮内官が組織され、(令制の八省が揃い)大異動が行われたとする説もあります。6日は地方官の大移動があったのかも知れません。

 

【持統紀4年9月1日条】

九月乙亥朔、詔諸國等曰、凡造戸籍者、依戸令也。

九月の乙亥の朔、諸國等に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、(への)(ふみた)()れ。」

 いわゆる(こう)(いん)(ねん)(じゃく)の実施です。この造籍には、わざわざ、浄御原律令の「戸令によれ」と記しています。天智時代の近江律令に基づく(こう)()(ねん)(じゃく)に次ぐものです。その後20年間、定期造籍が行われず、作り方も不統一だったものです。しかし、この近江律令による理想は、ここに至りより現実味を帯びることになります。戸籍作成は、何重もの管理体制が確立しなければできない、高度な改革に属するものです。

前年、持統3年8月10日にも「諸國司に詔して曰はく、今冬に、戸籍を造るべし。」と命じています。

しかし、再度「戸令に依れ」と、どう具体的になったかわかりませんが、中央の真剣度を示しています。翌々年完了したとも言われます。よって、持統3年己丑年でなく、この持統4年の詔が庚寅年籍とよばれ、奈良時代には庚午年籍に次いで尊重されたといいます。6年ごとに作成するとなっていたようです。

 

また692持統6年にはこれに基づく口分田の班給が、畿内で開始されました。同時に全国に対しても、班田収授法が施行されたと推定されています。ここで詳しく述べませんが、「公地公民制」の実現時期を、飛鳥浄御原律令・大宝律令から墾田永年私財法までの半世紀間と見る考え方もあるようですが、班田制研究や条里制研究の進展により批判されているようです。よくわかりません。

 

697持統11年8月1日、持統天皇は15歳の皇太子に譲位しました。この年が、文武1年です。

702大宝2年12月23日 持統太上天皇が崩御されました。天武天皇の残した浄御原律令の全国的な実稼働はさぞ大変だったであろうと思います。

 

大宝律令と養老律令、さらに養老律令格式へ

飛鳥浄御原律令は持統3年に施行配布され、その後、幾多の追加法令、改訂が繰り返されていきました。当初の配布原本はその都度、その配布先での修正方法は、各国で対応がさまざまであったと推測します。当然、段々ばらばらになってきたのです。また中国の唐律の知識を得るなかで、条文に混在する律と令を分離する必要性が持ち上がったことでしょう。特に、日本の国情に適合させる改訂は大きな課題としていつまでも残りました。

こうして、立ち上がった新たなる律令編纂事業が行われたことは当然のことだったでしょう。

 

【続日本紀 文武4年3月15日条

甲子、詔諸王臣、読習令文、又撰成律条。

甲子(15日)、諸王臣に詔して、(りょう)の文を読み習はしめたまふ。又、(りつ)の条を撰び成さしむ。

700文武4年3月15日、諸王臣に「令文を読習し、又、律条を撰成せよ」と詔があった。大宝律令はこのように、当初は飛鳥浄御原律令の改訂として着手されました。新律令の制定ではないのです。

持統天皇は健在ですが、文武天皇はもう18歳になっていました。彼なりの自立意識もあったと思います。

また「(りつ)の条を撰び成さしむ」によって、飛鳥浄御原令として、律がない証拠の一つとされていますが、「律を起こせ」ではなく、「律を選び、抽出せよ」だと解釈しました。浄御原律令は条文に律と令が混在している証拠だと思います。後には、新資料の唐令からも大量に注入されていくことになります。

 

【続日本紀 大宝元年年8月3日条】

癸卯、遣三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等、撰定律令、於是始成。大略、以浄御原朝庭為准正。仍、賜禄有差。

癸卯(3日)、三品(おさか)()親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養らをして律令を撰び定めしむこと、是に始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正(基本)とす。(より)て、禄賜こと差有り。

701大宝1年に大宝律令として完成しました。実に短い経過時間です。浄御原律令の修正が主な作業であったかがわかります。あくまで「大略、浄御原朝庭を以て准正(基本)と」したものなのです。

上記のように、現代の論文をみても、日本の律令政治支配機構の大網が作られたのは、大宝律令の基となった飛鳥浄御原律令においてであったと考えられます。「律」はほぼ唐律をそのまま導入しているといいます。現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されたようです。ここで、はじめて、律と令が分離したのです。

大宝はこの年の3月21日に「対馬嶋」が金を産出した報告から、大宝と元号をたてました。同日、新令に基づき、官名と位号制を改正しました。後に金の報は対馬独特の嘘であることが発覚しています。

 

ここに、忍壁皇子と藤原不比等が登場しています。このとき、不比等は通説43歳。刑部親王(40歳ぐらい)に次いで第二位ですが、皇室を除くと筆頭になります。

天武の息子、刑部親王は忍壁とも書き、当時、律令研究の第一人者だと思います。天武14年には官位改定に伴い、天智皇子の川島皇子とともに浄大参位を受けています。川島皇子といえば、681天武10年二人はともに帝紀及び上古諸事の記定事業に参加していました。川島皇子は持統5年に薨去されていますから、皇族として一人、大宝律令策定に関わったことになります。忍壁も刑部とあだ名だと思います。刑部と書かれるほど、刑部親王は律令の律に関して大きな貢献をしているはずです。皇室だから筆頭に書かれただけでなく、実際、実績もあったと思われますが、文武天皇の外戚でもあった藤原不比等に業績を奪われた形に後々なっていきます。推測ですが、忍壁という表記も長い間、草壁皇子の影のような存在であったからではないかと思っています。

 

【藤氏家伝 武智麻呂伝 大宝二年条】

大宝元年、已前為法外、已巳後為法内  大宝元年より()()は法の外とし、()()()は法の内とす。

藤原武智麻呂は大宝二年正月に刑部省の中判事に任じられました。その中に、上記の文章があります。

この文章の解釈が、大宝律令では律がはじめてであることを言っている、といいますがどうでしょう。

ここでの「法」とは律令全体を指しますから、単に、飛鳥浄御原律令を批判した、大宝律令制定前後における法の整備状況の格差を強調した表現にすぎません。

このずっと後、弘仁刑部式補足に、大宝二年制後、依法科断 とあるそうです。しかし、これは上記藤氏家伝の拡大解釈から導き出された推論にすぎません。ここでの「律」とは「律令」のことです。藤氏家伝と同じで、大宝2年に大宝律令制定により法に依る秩序が定まった、となります。特に律だけを強調しているわけではありません。その他、

707慶雲4年に没した威奈真人大村の墓碑=以大宝元年、律令初定

830天長7年10月丁未の藤原三守奏言=文武天皇大宝元年、甫制律令

840承和7年4月23日太政官府=律令之興、蓋始大宝

すべて、同じですが、こちらのほうが、わかりやすい。時代が下るに従い、はじめて大宝律令により法が定まった、と考えるようになっていたのです。これは、浄御原律令を第一とする日本書紀の解釈とだいぶ違います。どちらが正しいのでしょう。

 

【続日本紀 757天平宝字元年5月20日条】

又勅曰。頃年。選人依結階。人人位高、不便任官。自今以後。宜依新令

去養老年中。朕外祖故太政大臣。奉勅刊脩律令。宜告所司早使施行。

「又、(みことのり)して()はく『(とし)(ころ)(せん)(にん)()(かい)(むす)ぶ。人々、(くらい)高くして、任官に便(たより)あらず。今より()()新令に依るべし。()ぬる養老年中に、()(がい)()(なき)の太政大臣、勅を()けたまはり律令(さだめ)(いだ)せり。(しょ)()に告げて、早く施行しむべし』とおたまふ。」

「また次のように勅した。『この頃、官人を選考して、位階を定めるのに、(706慶雲3年2月25日に出た)に依拠して進級する階数を定めているが、その結果人々の位階が高くなり、適当な官職に置かれることが難しくなった。そこで今後は新令に依ることにせよ。この令は朕の外祖父故太政大臣の藤原不比等が勅命をうけて編修した律令である。これを諸司に布告して早く施行するようにせよ。』」(宇治谷孟訳)

原文ではわかりにくいので、宇治谷孟氏の訳に頼りました。つまり、格(律令の改定増補)を前大宝の令のままに適用したらうまくいかないので、早く新しい養老律令を施行して、適合するようにせよ、ということでしょう。

下記、弘仁格式序によれば、718養老2年養老律令は藤原不比等により編纂され、律令が各10巻完成されたような記述になっていますが、続日本紀にはその記録はありません。現在では、施行はだいぶ遅れて、この文章の757天平宝字1年の時であるとされています。結果、律10巻13編、令10巻30編になりました。720養老4年に当事者の藤原不比等が没しているため、中断されたとの解釈が普通です。確かに、仲麻呂の乱などもありましたが、上記の文章に見えるように養老律令格式の新企画も始められているのです。そんな簡単なものではなかったはずです。

実はその前の大宝律令の施行が702大宝2年ですから、短い16年後には、次の養老律令ができたことになります。不比等が養老2年に天皇に願い出たぐらいの意味ではないでしょうか。天平宝字元年はそれから天皇も元正、聖武、孝謙天皇と3代目です。曖昧になるはずです。律令各10巻とは、後の施行に合わせて養老2年の記事として記述したのではないかと思っています。こう考えると、藤原不比等は大宝律令と養老律令の主役にみえますが、実際に施行されたタイミングは現実にそぐわず、彼が奉じた大宝1年も養老2年も、未完成品を献じた、もしくは律令編纂を宣言したに過ぎない可能性もあるのです。

 

820弘仁11年に藤原冬嗣を代表として撰上された弘仁格式序文(類聚三代格)で顕著に表されています。この影響も大きいのではないでしょうか。

【弘仁格式序】

古者世質時素、法令未彰。無為而化。

曁于推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七条。国家制法自茲始焉。

降至天智天皇元年、制令廿二巻。世人所謂近江朝之令也。

爰逮文武天皇大宝元年、贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻・令十一巻。

養老二年、復同大臣不比等奉勅更撰律令、各為十巻。今行於世律令是也。

 

この文章は、律令の小歴を示しているようにみえます。しかし、聖徳太子は置くとしても、近江―浄御原―大宝―養老と続かなければならないのに、浄御原律令がありません。しかも、これでは、近江令を藤原鎌足が、大宝律令と養老律令を藤原不比等が策定したような文章であり、不比等、不比等と2度も強調したいわくありげな文章になっています。藤原鎌足、不比等は一族にとって神に近い存在でした。現代、これを同じ感覚で「まさに権威ある律令制定史」などと持ち上げていいものなのでしょうか。

むろん藤原不比等の功績は無視できませんが、天武天皇の功績を極端に無視し排除するやり方には賛成できません。また、忍壁(刑部)皇子の貢献が無視されたのです。刑部と書かれるくらいこの皇子は浄御原と大宝の律令編纂に力を尽くしているはずです。

弘仁格式序が養老律令完成とする養老2年の2年後、720養老4年には不比等は没しています。事実、養老律令制定はまだ始まったばかりだったのです。

本当は、757天平宝字1年養老律令が施行されました。律10巻12編、令10巻30編とあります。その後も、養老律令に基づく「格式」(「格」は律令の改定増補、「式」は官吏の事務規定)の導入という大きな課題に向かって突き進んでいるのです。律令の規定だけでは現実社会と乖離しやすく、律令を補うこうした「格式」が必要不可欠になっていたのです。

現在でも、藤原氏の力を過信して、鎌足が没したため、近江律令は完成しなかったとか、養老律令も不比等が没して、それ以降の律令編纂が停滞したなどとする推測する説が現れています。いずれにしろ、浄御原律令を削除するという一門の藤原冬嗣が書いた弘仁格式序は間違いだらけです。

また、時代が下るほどに律令への熱が冷めていったような文章が多くみられますが、熱が冷めたのは藤原氏だけで、法整備の観点からは、多くの方々の努力により、近江から浄御原、大宝を経て、大規模な改正が行われ、養老律令として「律令格式」がそろい完成したのです。

 

各律令の考え方の現状

岩波版「続日本紀1」補注には、「今日では法典としての浄御原の存在を否定して、唐律が参考にされていたとみる考えが有力であり、近江令についても果たして体系的な法典か、それとも単行法令の集積か否かが依然として問題となっている」とあります。

各説を分類し整理します。

1.近江令否定説の根拠は、藤氏家伝や弘仁格式は8世紀以降の新しい記録で、日本書紀には一切記載がないため、近江令はなかった。

2.近江令は弘仁格式序に「令一部廿二巻」とあり、浄御原令のそれと同じであるため、この二つは同じもので、近江朝で編修が始まったが、完成は持統3年でこれが日本最初の令法典だとするもの。

3.青木和夫氏はこれを浄御原令として、近江令がない、とする。

4.石尾芳久氏は近江令、浄御原令の罰則例が唐律とつながらないとして律の存在を否定。

5.利光三津夫氏は、浄御原の律は編纂されず、唐律がそのまま適用されていた、とした。

 

本稿は四つの律令を次のように関連づけ考えました。

●律令の律と令の分離

現在、近江令、飛鳥浄御原令には律がなく、大宝律令にいたって、制定・施行されて律と令が完備したとするのが通例です。しかし、近江、浄御原に律があったことは日本書紀などの文例からも確かです。たぶん、最初の日本律令としては、一つの条文で律と令が混在していたと思われます。一つの規定と罰則は対のものでした。それが大宝律令で唐律に合わせ、律と令が明確に分離されたのですが、令の内容は浄御原令とあまり差がなかったとする説に賛成です。もともと律とは古代中国の社会規範と長い戦争状態の中で発達したものです。日本では社会規範を無視して、単独の律を整えることは考えにくかったのでしょう。あえて、詳細な罰則規定を独立させた律だけを整えると、かえって中国の模倣に過ぎないものになったのではないでしょうか。

 

●四つの個々の律令史から一つの日本律令史へ

各学説は昔から、近江、浄御原、大宝、養老を対立的な独立した律令として捉え、分類精査しておられます。しかし、大陸の古代の国家の一つ一つ試行錯誤の末に作られたものです。むろんそれぞれの間で影響も考慮すべきですが、日本国内のいわば、養老格式を除いて、100年の間にすぎない期間で造られた律令です。各律令の比較論でもお馴染みの言葉ですが、それほど大きな差がある独創的な四つの律令であったとは思えません。期待する方がおかしいと思います。むしろ、日本の一つの律令が、17条憲法や冠位制など部分的試みから、いろいろな経緯を経て、成長し、養老律令格式として結実したと考えるべきだと思います。編纂者の顔ぶれも、近江―浄御原は天武天皇、浄御原―大宝は刑部皇子、大宝―養老は藤原不比等などその他いろいろな官僚が重複して関わっているのです。

さらに、近江律令に対し、浄御原律令は「また、律令を定め、法式を改めむ」とあり、次の大宝律令も「大略、浄御原朝庭を以て准正(基本)とす」と、それぞれ自覚しており、次の養老律令も大宝律令を刊修したもので大差ないとされています。

養老律令の全文が残っていないのは残念ですが、それ以前の律令が残らなかったのも、こう考えれば、修正につぐ修正の末、養老律令格式として完成したとして、理解はできるのです。すべてを同じ法典と考えたほうがわかりやすい。日本における律令編纂作業は未完成だったと考える必要はありません。個々の不完全さを指摘すればきりがなく、養老律令以前はみな不完全だったのです。そして、すべての法典があまりに類似していたのです。こうして一列に積み重ねられた日本の総合法典がここに完成たのです。

 

まとめ

飛鳥浄御原律令は、天武11年8月1日、天武天皇により制定され、持統3年6月29日に、まず令が施行された法令体系。令1部22巻。古代日本政府による最初の律令法典と位置づけられます。原本は現存しません。通説の近江令が最初ではありません。これは想像ですが、この後の大宝律令が令11巻であることから、施行された令とは法文に律が混在していたものと思われます。

1.近江令の策定に、大海人皇子(後の天武天皇)が大きく関わっていましたが、施行は部分的。

2.天武天皇は近江令の改訂を始めます。そのやり方は各部署による分担作業による膨大な人力によるもので、資料も隋唐令より以前の南北朝、朝鮮からの広い知識を輸入したものです。

3.刑部と綽名された忍壁皇子も浄御原及び大宝律令の中心的人物であったこと。

4.刑罰としての律と一般法令の令との区分けでは飛鳥浄御原律令は制定されたが、施行は令のみに留まった。

5.理由は天武天皇崩御による中断、草壁皇子の死、持統天皇による強引な施行。

6.持統天皇は、天武天皇語録と言うべき飛鳥浄御原律令に基づき方針を立て、国制を邁進させた。

7.文武天皇は大宝律令を唐律に合わせ、律と令を分離独立させ、再構成して発表。

8.養老律令ではさらに「格式」を導入し、江戸時代まで続く法令として確立させた。

 

天武天皇に始まった、律令の整備は、唯一現存する『延喜式』やその解説書『令義解』『令集解』を見る限り、その精度の高さは群を抜いていると思います。今以て、これらの書物を見るとその知識の集積力には驚かされます。残念ながら、これ以上の精度は明治まで待たなければなりません。それぐらいこの律令法典は日本書紀と共に世界に誇れるものだと自負してもよいのではないでしょうか。

 

何度もいいますが、近江令、飛鳥浄御原律令、大宝律令、養老律令を区別するべきではなく、近江、浄御原、大宝、養老の時代に一つ一つが、改訂し成長し続け、最後一つの「日本の律令格式」を作り上げたと考えるべきなのではないでしょうか。それを独立にした律令と考えるから、大きな改訂はなかったなどと疑問を呈するのです。日本書紀も続日本紀も、律令、令、新令、改訂という言葉です。現代人の我々が勝手に命名しているだけです。かつて、「天武律令」と呼んだ論文を「天武」ではなく「浄御原」と呼ぶべき、とする別論文を見ますが、言葉の統一を意識してのことだと思いますが、あまり意味がありません。そもそも、近江令、浄御原律令、大宝律令、養老律令と正式に語られた史料はないのです。単に、その時代に出来た律令の表した言葉に過ぎないのです。

改訂につぐ改訂だからこそ、原稿扱いにされた古い律令は破棄されていったのです。これも、個々に独立した律令ではない証拠です。全体が一つの日本律令の発展史だったのです。

なお、マックス・ウエーバーの目的主義的な編纂と西洋風の理想秩序に基づく法の構築との比較論は知識が乏しいため保留しますが、ボタンの掛け違いを思わせる論点のズレを感じています。

 

 

参考文献

滝川政次郎「律令の研究」刀江書院 1966

青木和夫「日本律令国家論攷」岩波書店 1992

利光三津夫『律の研究』持統、文武紀にある「十悪」は唐の赦文を不用意に写したため

石尾芳久「日本古代法の研究」法律文化社1959

榎本淳一「養老律令試論」『日本律令制論集上巻』吉川弘文館 1993

榎本淳一「『東アジア世界』における日本律令制」『律令制研究入門』名著刊行会2011

榎本淳一「唐代法制史の『不動の定説』に挑む」『東方』3852013/3東方書店

類聚三代格内、弘仁格式序 早稲田大学 学術情報検索システム

 

 

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