天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
「倭」から「日本」へ 「やまと」から「やまと」へ First update 2013/06/01
Last update 2013/07/05 いつ「日本」と宣言したのか 古代中国では古くからこの遠方にある島国を「倭」と表現してきました。それが「日本」と書き改められたのは、旧唐書からです。以降すべて、「日本」と書かれています。 その「旧唐書」に書かれた部分は、「列伝 東夷」の章のなかで、「高麗 百済 新羅 倭國 日本」とタイトルされた箇所にあります。タイトルを見る限り「東夷」とは高麗、百済、新羅、倭国、日本の五カ国を指し示しています。倭国と日本を別々に分けたのです。中身の原文表記は、この五カ国を時系列に切れ目無く順序立てて記されています。国の境は文が改行されているだけです。 注:「四部叢刊、史部」旧唐書巻199上、列伝第149の影印を国会図書館で確認。 以下に、旧唐書と新唐書の東夷各国の書き出し部分を抽出してみました。こうしてみると、旧唐書では日本と倭国を別物と考えていたようです。ただ、後で示しますが、「これを疑う」と否定もしています。新唐書はそれが一本化され、倭から日本に名称が変わったことがわかります。 新旧唐書「列伝 東夷」の書き出し部分
注:隋書以前は「高句麗」ですが、新旧唐書だけ「高麗」とする。訳文では高〔句〕麗と記す。 旧字は略しました 〔〕は訳書挿入部分です 「旧唐書」の時系列記録 旧唐書の「倭国 日本」の最初の記述は、「倭国は古の倭奴国である」という記述で始まります。そのあと唐からの距離などの記述が続き、具体的な唐時代の記述に移ります。 「貞観5年(631舒明3年)、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。」 この文章は経緯がわからないと難しいのですが、調べると極めて面白い内容を含んでいます。 唐の太宗は倭からの使者をねぎらい、あらためて高表仁を倭に派遣しました。ところが、倭の皇太子はこの高表仁と礼節を争い、喧嘩してしまい、唐皇帝の命を倭国に伝えないまま、任務を果たせず帰国した、と伝えています。このときの皇太子は誰か不明ですが、聖徳太子の子、山背大兄王の可能性があります。これに対し、唐皇帝のとった態度は、使者を追い返した倭に対し怒るのではなく、高表仁のほうが職務を全うできなかった無能者としたことです。他国の例では、唐からの使者を上位に敬う場合が多いのですが、今回のように、自国上位のまま唐の使者を迎える場合もあるといいます。唐は対面にこだわらず、職務遂行を優先させていたのです。 「(貞観)22年(648孝徳大化4年)に至り、また新羅の使に附して表(君主や官府に奉る書)を奉じ、起居(動静・挙止)を通ず。」 その後、貞観22年に日本の上表文を唐に届けてくれた新羅人がいました。その名は金春秋といいます。この前年647大化3年、新羅から金春秋が人質として来日していました。金春秋は後に新羅の武烈王となりますが、素晴らしい人物だったようです。日本書紀も旧唐書も絶賛しています。「春秋は容色美しく快活に談笑した」(日本書紀孝徳天皇)、「たいへん礼にかなった秀れたものであると称賛された。」(旧唐書新羅伝) 倭に来る前は、高句麗の人質で、密かに逃げ帰ったばかりでした。今度は日本に来て、人質のはずなのですが、翌年には新羅の代表として親子で唐に入り、預かった日本からの手紙も唐に届ける役まで買って出ているのです。そのおかげで、倭は唐とまた誼を通じることができ、653白雉4年から唐への遣使が再開できたのです。金春秋の計り知れぬ器の大きさ、行動の広さを感じさせる逸話です。 次に、文章が改行され、「倭」が「日本」に変わります。 通常「旧唐書日本國伝」とされる書き出し部分 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名を雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(ほこる)、実を以て対えず。故に中国焉れを疑う。またいう、この国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国(蝦夷・アイヌ)なりと。」 さらに、次の文章は 「長安3年(703大宝3年)、その大臣朝臣真人(粟田真人)が来て方物を貢した。〜」 このとき、中国は一時的に周でした。則天武后が使用したこの国号は684年から704年まで使用されました。翌年、中宗が復位、国号も唐に復されました。唐は混乱期に入ります。則天武后の近親者は皆、粛正されていきます。 日本側の記録では「続日本紀」文武天皇704慶雲元年7月1日条に、 「正四位下の粟田朝臣真人が、唐から帰った。初め唐に着いた時、人がやってきて『何処からの使人か』と尋ねた。そこで『日本国の使者である』と答えた」とあります。ここでの原文は「答曰、日本国使」です。 現在の一般定説では、この粟田朝臣真人が初めての日本国宣言の使者であると断定しています。この浜辺で会った人に「日本国使」と伝え、逆に唐国名が周に改まったと教えられます。この事さえ粟田真人は知らなかったようです。続日本紀の記録によれば、この粟田朝臣真人は民部尚書(民政担当大臣)で701大宝元年に遣唐使に任命され、翌年筑紫を出発、704慶雲元年に帰朝しています。 以上、旧唐書は「新訂 旧唐書倭国日本伝 石原道博訳 岩波文庫」から引用しました。 以下、新唐書は「東アジア民族史2正史東夷伝」井上秀雄他訳注 平凡社」を使用しますが、何故、岩波版には新唐書がないのでしょう。 旧唐書日本の書き出し「日本国は倭国の別種なり」は、誰かの発言記事を引用した文章です。703長安3年(大宝3年)粟田朝臣真人の遣使記事の前に書かれているので、その前に唐を訪れた日本国使を名乗る誰かがいたのではないでしょうか。 旧唐書によれば、「日本」宣言は648貞観22年(孝徳大化4年)と703長安3年(大宝3年)の55年の間に遣唐使がいた、もしくは遣唐使と中国側が認めない「日本」を名乗るもの達がいたといえます。 幸いにも、「新唐書日本伝」を新たに執筆してくれたおかげで、それが誰かがわかります。しかも、このことは日本書紀や、朝鮮古代史の三国史記にも記載され裏付けられていたのです。 新唐書日本伝 新唐書も旧唐書の倭国の書き出しと同様に始まりますが、「日本は古の倭奴〔国〕である」とはっきり、倭國が日本に名称が変わったとわかる文章になっています。その後、旧唐書と同様、唐からの距離などの記述が続き、具体的な記述に入ります。 「〔高宗の〕咸亨元年(670天智9年)、〔日本は〕使を遣わして高〔句〕麗平定を奉慶した。その後、〔日本人は〕少しく夏音(中国の言葉)を習い、「倭」名という名〔のよくないことを知ったので、それ〕を嫌い、〔国号を〕更めて「日本」と号した。〔これについて日本の〕使者は、国が日(太陽)の昇るところに近いので、〔日本を国の〕名としたのです、と、みずから説明をした。或いは、日本は〔もとは〕小国であって、倭〔国〕に併〔合〕されたが、〔倭国は〕その〔国〕号を借りたのである。ともいう。 使者は実情〔を述べ〕なかったので、〔中国側では〕疑わしくおもっている。また〔日本〕国都は数千里四方であると、誇大に偽っている。〔日本の境域の〕南と西は海に達し、東と北は大きな山が〔外部との〕境になっており、その〔山の〕外側には毛人〔がいる〕といっている。」 このように、「日本」を唐に説明したこの使者の目的は、唐が高句麗を滅ぼした事実を祝福することでした。 日本に対する内容はほとんど、旧唐書の記述と同じですが、詳細に比較するとその重要な違いがわかります。 【旧唐書 日本】
【新唐書 日本】
この新旧二つの唐書を比較すると、 旧唐書にあり、新唐書にない記述はこの部分ではありません。 それに対し、新唐書だけに記されたのは 「咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、〜使者自言」です。 1.咸亨元年(670天智9年)のことであること 2.この遣唐使の目的は、唐が高句麗を平定したことを祝すことであったこと 3.夏音(中国の言葉)を習熟するなかで、「倭」の意味を知り嫌ったこと 4.この使者が自ら語ったと、書かれていることです。 なお、井上秀雄他訳では、「後」を「その後」と訳されていますが、誤解を招きやすい訳です。これではこの遣使が来た後に唐の言葉を習い、「倭」の悪い意味を知り、「日本」に変更したように見えます。ここはこの使者の発言の連続の会話であり、日本と名乗った理由が列記されているのです。 「日本国」の代表と名乗ったはずで、このことで唐側から質問が集中したのは当然です。国名が変わったと理解できる文章になったのです。 ここで「遣使賀平高麗」とは、 北朝鮮の高句麗は、2年前668天智7年、唐により消滅しました。百済はその前660斉明6年頃までに半島は新羅一国のものになりましたが、手放し喜べなかったことはいろいろな書物が証明済みです。この頃から唐との関係が悪化し、新羅は日本に対し急接近してきます。これからの新羅の苦難は三国史記を読むとよくわかります。 一方の倭は661斉明7年、白村江戦で唐新羅連合軍に敗れ、九州で水城や大野城などの防衛を固め、667天智6年には近江に遷都したばかりでした。 その中で日本は高句麗平定を祝す使者を翌年669天智8年に唐に向け派遣したのです。唐の動向を警戒しながら、唐に赴き、高句麗平定を喜び祝うのですから、日本の使者も大変です。しかも、このタイミングで唐が名付けた「倭」を自ら捨て「日本」を名乗ったのです。 一方、新旧唐書の内容を比較すると、8番目を除き、これらはすべて「日本」の名の由来を述べたもので、次のように色分けされます。
項1 日本国≠倭国か、日本=倭国=いにしえの倭奴国か 旧唐書の日本の項には「日本國者、倭國之別種也」とありますが、 同書は元々倭の項には「倭國者古倭奴國也」とあり、 新唐書の日本の項には「日本 古倭奴 也」と倭と日本を入れ替え、同じとしているのです。 最初にも述べましたが、旧唐書は日本国を倭とは別種としましたが、新唐書では、はっきり倭国が日本に国名を変更したと考えたのです。これは、後に日本書紀などの歴史書が唐に持ち込まれ、「別種」と断定する明確な証拠が記されていなかったからです。 項2「日本」の意味 旧唐書では、日辺にあるので、新唐書では、日が昇るところに近いので、国名としたとあります。 この件はさらに後で細説します。 項3「倭」の意味 記事は単純に「倭は悪名」ですが、実は視点によって変わってきます。 中国側が使う「倭」、朝鮮側が使う「倭」、日本側が使う「倭」です。 中国側では、中華思想で周辺国を蔑称で呼び、「倭」もその一つですが、周辺国すべてにいろいろな蔑称を使用していますから、決まり事として一概に蔑称と決めつけられません。字書によると、「倭」には「廻って遠い」という意味があるといいます。(岸俊男) 古朝鮮全体では「日本」という使い方はあまりされていません。あくまで「倭」と中国の使用に則し呼び習わしています。その中でも新羅では「倭人」は海賊など敵対した用法、「倭国」は外交と大まかですが分けて使用され、百済側では比較的友好な使用例もありますが、全体的には中国以上に良い印象では使用していないように思います。 日本側では、「倭」は自然に使用していたようです。古事記では天皇の和風諡号にも「大倭」などと平気で使っています。白村江戦降、朝鮮から逃れてきた渡来人などに悪い言葉だと教えられ、自国の名を模索し出したといえそうです。 項4「倭」と「日本」の関係 文章分析上、旧唐書は日本が倭を併合したと解釈でき、逆に新唐書は倭が日本を併合した、と「倭」と「日本」を別物として捉え、倭と日本が別に存在し、対立関係を強調する大和岩雄氏などの説があります。 この新旧唐書の書き方に矛盾があるとする考え方は、倭と日本を別物と決めつけているからです。倭と日本は同じものと考えれば、旧倭から見れば日本が大きくなったのであり、日本から見れば、倭が大きくなり日本と名乗った意味になります。また、前後の文脈からも「倭」と「日本」が別物とする材料はあり得ません。 項5〜7領土の過大な大きさ 領土が数千里四方、南と西が海で東と北が山で隔てられている国です。中国側では日本を島国とはっきり認識していましたから、この発言を疑ったとしても当然でしょう。これでは、日本が朝鮮と陸続きの大国になってしまいます。応神時代辺りの知識、もしくは、河内直鯨(下記参照)が渡来系ゆえに日本全体の曖昧な知識だったからなのでしょうか。それとも、日本が新羅を領土として含む判断からでしょうか。 問題は、項8で、中国ではこの日本を称する遣唐使があまりに大げさなので、当初信じなかったようです。文書ではなく口頭での会話ですから、話が曖昧で大きくなったのも当然かもしれません。 これが誰かはわかっています。 【日本書紀 天智紀】 669天智8年「この年、小錦中河内直鯨らを大唐に遣わした。」 河内直は百済渡来系氏族で、名は河内国、地名に基づいています。後に天武天皇は、河内直姓を河内連姓へ昇進させています。河内寺創建は、この河内直一族の興隆期にあたります。鯨がいつ日本に帰国したのか書かれていません。帰る予定となる次の遣唐使は702大宝2年と33年後になってしまうからです。旧祖国百済はもうありません。そのまま唐で没した可能性が出てきます。唐に居続けた彼は、職務からも「日本」を宣伝し続けていたかもしれません。だからいろいろな日本の姿がだんだんと拡大され語られたのでしょう。「日本」のために職務を全うした、河内直鯨だと思います。 極めつけは、朝鮮側資料で、はっきり記載されているということです。 【三国史記 新羅本紀第六】670文武10年咸亨元年庚午(天智9年) 「倭国は国号を日本と改めた。〔彼らは〕自ら日の出る所に近いといって、〔それを国〕名とした。」 「三国史記1」金富軾 井上秀雄訳注 東洋文庫283 平凡社1981 三国史記には、はっきり、倭国が670年に日本と改めた、と書かれています。 ところが残念なことに、日本の多くの学者たちはこれを認めていません。 「この日本改称の年次は『唐書東夷日本伝』を誤り伝えた記事である。この記事は670咸亭元年の倭国使節来朝記事と703長安3年の記事とを混同してこの年のこととしたのである。」 これは、三国史記の本の訳注です。このように簡単に誤りと捨てていいのでしょうか。 吉田孝氏も、朝鮮の『三国史記』670年に倭から日本へ改めたと記すのは、『新唐書』日本伝の記事の誤解による、と退けています。 三国史記は確かに中国史書の内容の焼き直しの多い本で、その完成も1143年と遅く、日本書紀720養老4年とよく対比されます。しかし、仮にも当時朝鮮の国書であり、内容はすぐれたものです。三国史記より新旧唐書の方がより詳細な記述にはなっていますから、文書的には新旧唐書のほうがオリジナルのようにも見えます。 しかし、上記のように中国新唐書も670年だと言っているのです。三国史記は間違いで、その元史料の新旧唐書日本伝は正しいとする論理がわかりません。 日本の学者たちは中国の書物をも差別化しておられます。旧唐書に重きを置き、新唐書を使用しない傾向があります。現在の岩波版も同様で旧唐書は採用しても新唐書は除外しています。新唐書は旧唐書より誤りが多く、その後に書かれた資治通鑑も旧唐書の内容を吉として、新唐書を使用しなかったとあります。 本来新唐書が出来た経緯は、旧唐書には唐末戦乱の実録に欠落が多く、史料不足による不備が大きかったので、それを新出の史料により補ったものと言われています。これが書かれた宋代は中華思想の時代にあり、新唐書の復古的儒教思想は客観性を損なうと退けられたようです(WiKi)。 確かに注意深く読み進める必要はありますが、簡単に退けるようでは無知蒙昧の誹りを受けます。 ついでにいえば、倭の五王の重要な史料に宋書があります。一方、その後の南斉書や梁書を信用せず、倭武王の記述を無視しています。この二書を肯定すると、倭王武=雄略天皇とする説が危うくなるからです。宋滅亡後立った南斉も502年に滅ぼされ、梁国が建国されます。その際、倭王武を征東将軍とした502年は武烈4年です。雄略天皇は479年崩御と言われていますから、日本書紀では23年後に雄略が生存していたことになってしまうのです。 自己宣伝になりますが、これは継体紀年を変えることで矛盾なく説明できると考えましました。 天武天皇と「日本」の関わり 天智8年に出発した河内直鯨の外交は失敗だったといえます。あまりに力み、かえって中国側の信用を勝ち取れませんでした。 2年後、天智10年に天智天皇は崩御されてしまいます。そして壬申の乱。天武天皇はこれに勝利し、天武2年即位します。この時、天武天皇がこの「日本」という新しい名を利用しないはずがありません。いろいろの日本にきた使節に対し、新しい「日本国天皇」を名乗ったはずです。 日本書紀に天武2年8月25日「天皇は天下を平定し、初めて即位したので、祝賀使以外は会っておられない。それはお前たちもみているであろう。この頃寒さに向かい海も荒れており、長く逗留すると気がかりも多かろうから、なるべく早く帰国するように」(宇治谷孟訳)という記事があります。前天智天皇への喪の使いを慇懃といえる態度で丁重に帰国させ、天武天皇への祝賀使のみを歓待していたのです。 あの天智8年の遣唐使を送り出し、日本国名を名乗らせたのは、天智天皇の勅だったのでしょうか。ここは何の根拠もない憶測ですが、大海人皇子(後の天武天皇)が大きく関与していたと思っています。この頃、天智天皇の弟として、彼はすでに深く政治参加をしていたはずです。天智10年には天智天皇と次期天皇や体制への助言とも取れる大きな提案をしているからです。天智8年には知恵者、内臣藤原鎌足は亡くなって、いないのです。この頃、大海人皇子はまだ皇太子として政治の頂きにいました。後に壬申の乱として争う天智の息子、大友皇子が太政大臣になるのは2年後の天智10年1月になってからです。 もしかしたら、河内直鯨に知恵をつけたのも大海人皇子だったかもしれません。結果、天武2年、日本国天皇として即位したのが天武天皇です。これを期に、内外に広く知らしめたと思います。このことが、間接的に新羅などから中国にも伝わったのだと思います。中国では天智8年の遣唐使河内直鯨の言葉に嘘がなかったと知るのです。 天武持統朝は最後まで遣唐使を派遣していません。よって、旧唐書には名前さえなく、新唐書も、扱いは軽く、「〜天智死。子天武立。死。子揔持立。」と簡単でしかも間違いだらけです。「子天武」ではなく「弟天武」、「子揔持」は「后持統」の誤り。しかも「天武立、死」と実のない表現となっています。何とも冷たい扱いです。孫の文武天皇になり、遣唐使が再開されます。そのためか文武天皇の扱いは、即位から崩御までが正確に新唐書は記されています。この落差は何なのでしょう。新唐書が書かれる宋代までには「日本書紀」と名付けられた国書が中国に伝えられたはずです。名称や事象の精度が格段に上がるからです。新唐書には誤字脱字が多く信用できないとか、天武持統の記述をわざと間違えたとは言いませんが、遣唐使を派遣しなかった天武持統に関しては、過去の文献をたしかめ検証していないことがわかる扱いが雑な書き方です。だからといって、新唐書は信用できないと退けていいのでしょうか。 文字としての「倭」と「日本」、そして音としての「ヤマト」 表題にも書きましたが、日本書紀では「倭」も「日本」も「ヤマト」と読ませます。倭や日本はどちらも対外的な文字であったことがわかります。ヤマトこそ、国内で発音され我が国を指しています。いろいろな場所、時代でその扱いは異なっています。古事記には「日本」という表記はありません。万葉集は「ヒノモト」です。なお、「大和」も「ヤマト」で問題ですが、ここでは単純に、「大倭」の変形で「倭」と同じと考えました。 古代国名を語るとき、本来はこの三つを比較研究すべきだと思うのですが、「倭」と「日本」の対比論に終始して「ヤマト」が同じ土壌で扱われることはほとんどありません。 その理由も理解できます。「ヤマト」には、九州説と畿内説があり、邪馬台国論争に話が発展し、ややこしくなるからです。魏志倭人伝の「耶馬台」が一番古い記録で、素直な解釈では、大陸から筑紫に渡った記録として考えれば、九州筑後国山門郡の山門を指すといわれます。ところが、言語学的には、耶麻台のトはト乙類で、山門のトはト甲類で違います。万葉仮名のトの使用例がすべてト乙類だからとした畿内説もあります。邪馬台国論に立ち入ると長くなるので、本稿も多くを語れません。 伊弉諾尊が代表して語る通りです。日本は浦安(心安らぐ)の國、細戈(鋭い剣)の千足る(たくさんある)國、磯輪上の秀眞國(すぐれ整い具わる国)、といったのです。そこで「ヤマトは心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といった訳になるのですが、本来は「日本は浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國」です。日本書紀の無理な形容を重点に考える必要はありません。単なる固有名詞だと思います。本来の日本は、九州や近畿ではヤマトと呼ばれ、それ以外各地でも、ウラヤス、チダル、ホツマなどといろいろな名で呼ばれていたのです。 研究文献調査 一般通説 一般的にいうと、「日本」の国号は、701大宝1年の大宝令によって定められ、翌大宝2年の遣唐使を通して唐に公認された、と言われているようです。あるいは、天武持統朝の時までさかのぼり「日本」の国名が使用されたとするものも多くありますが、あいまいな記述で正確な年月がわかりません。 吉田孝「日本の誕生」岩波新書 天武天皇の大田皇女が斎王として日神、天進行が行われ、日神はこのときに始まる。太陽の神ではない、日の出の神であることに注意すべきとあり、卓見です。 日本国号の使用の上限は701大宝1年の遣唐使で、「日本」の国号を唐に対して用いたとあります。 下限は、「日本」の国号が正式に定められたのは、674天武3年以降だといいます。それは、 日本書紀674天武3年3月条、対馬国が産出した銀を献上した時、「凡そ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に出えたり」と記され、原史料に基づくものと思われる「倭国」という表記は、対馬側からみてもまだ日本ではなく倭国であった、からとあります。よって、674年〜701年の間のことといえ、結局、飛鳥浄御原令の689持統3年施行で「日本」が国号とされたのではないかと推測されました。 面白い指摘です。しかし、銀の発掘は古く、倭国の時代から出土されていない意味と解釈することも可能だと思います。簡単に、日本書紀が倭の使用を見落とし、日本に正さなかったなどと仮定しないほうがいいと思います。 以下、他説もご紹介しますが、日本の国号に関する本として古いほうですが、この吉田孝氏の趣旨に基づくものが多く見かけられました。本稿では、この説に批判的ですが、確かに精度は高いように思います。 吉村武彦「古代王権の展開」『日本の歴史B』集英社 日本書紀の神代で最初に生まれた、大日本豊秋津洲の「日本、此をば耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ」とあることを紹介し、中国の史書では「前漢書」から「隋書」まで倭人・倭・倭国と称したこと、「旧唐書」の記述が紹介されていますが、「新唐書」までに話が及んでいません。さらに「海外国記」を引き合いに664天智3年「日本鎮西筑紫大将軍牒」の記事を指摘しながら、この書の中に「天智天皇」とこの時代にはまだない漢風諡号が使用されていることなど、自ら指摘したこの記述を否定してしまいます。結局、7世紀後半成立と漠然としています。ただ、日本の国号意識を高め、政府支配者階級のこととはいえ、独自の律令国家形成へのエネルギーになった重要性を語っておられます。 三品彰英「日本国号考」、『聖徳太子研究』 6世紀中葉に百済聖明王のわが国に対する敬称的使用に始まり、大宝令にいたって正式の称号および庸字として系着し、主に対外的に用いられたとするのが妥当であろう、とする説があります。「令集解」公式令にこの用法があるとされていますが、本が見つからず未確認です。 井上秀雄「古代朝鮮」 旧唐書日本伝703長安3年年来朝の粟田朝臣真人たちが国号変更を申し出たときのこであろうと、憶測を述べています。この説話に類した記事が『続日本紀』704慶雲元年7月1日条に見られる帰国後の報告記事が理由のようです。しかし、ここで「日本国使」を初めて名乗ったとするなら、新旧唐書に書かれた「日本国は倭国の別種なり」など「日本」に対する質問記事はこの長安3年遣唐使の後に書かれるべきです。703長安3年にも日本国使と表明しても、問題にならなかったのはすでに、既成の事実であったからです。これを井上氏は周の「混乱期にあたっていたため、国号改変問題は深く追求されずにすんだ」のではないかと釈明されています。 また、「日本」という呼称が百済人によって付けられたと記されていますが、その根拠が日本書紀内の、百済新撰や百済本記などに頼るのはどうでしょう。百済新撰などは百済の亡命者達による書である可能性が高いものです。そうであるとすると、日本に帰順する記事になりやすく、内容はともかく、簡単に「日本」と書かれた文字は信用はできないのです。 遠山美都男「天皇と日本の起源」講談社現代新書 701年に思考された大宝律令において正式に採用されたとあります。ただ、それまでに、天皇号、飛鳥浄御原令、藤原京、庚寅年籍の積み上げた結果だとし、674年対馬国の銀発見における「倭」使用や、701年に任命された粟田真人を中心とした遣唐使の件も掲げ、幅広く事例を挙げておられます。 その他 「日本書紀私記」丁本(936承平6年)谷田部公望の日本書紀の講読のなかで、日本という文字が「晋の恵帝の時に見ゆと雖も、義理明かならず」とあるそうです。調べましたが記述を確認できませんでした。恵帝在位290〜306年の時代のことであり、神野志隆光氏のいうように、晋書そのものにも「日本」の文字が一切ないそうですから考えにくいものです。 まとめ 「日本」は推古天皇の時代に、聖徳太子らにより、大国中国を意識した対等のイメージを当時の支配階級に根付かせたものが、天智天皇の晩年に「日本」として具体化され、天武天皇によって対外的に活用利用され始めたものと考えます。 唐に対して、「日本」は670年の遣唐使、河内直鯨によって、口頭で告げられたものでした。そのため、「日本」に対するあらゆる質問の集中砲火を浴びています。河内直鯨は必死に説明したようですが、あまりに横行で、無知な有様から、疑われたようです。旧唐書は、これを「日本国は倭国の別種なり」と切り捨て、遣使の存在すら書いていません。 日本側からすると正式に「日本」として上表文を次の遣唐使で表名する、前工作であったかもしれません。 しかし、翌年、天智天皇は崩御されてしまいました。壬申の乱を経て、天武2年に天武天皇が即位し、いろいろな海外からの使節に対し、天智らの弔いを嫌い、慶賀使のみを歓待しました。このとき、日本国名を利用したと思います。 これを唐が、新羅などから間接に聞き、河内直鯨の言動を真実として、認識したのです。天武天皇がその後、遣唐使を派遣しなかった背景にこうした、「日本」「天皇」の僭称(勝手に自称すること)の自覚があったからかもしれません。 しかし、日本国号の容認と手放しに喜ばれません。日本は認めても、天皇号は認められた形跡はありません。天皇の和訓スメラミコトは中国では、その後も日本王の固有名詞に過ぎないのです。 聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という表現に始まり、次には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と変わり、最後には、上記のように「日出ずる所に近きを以て」として「西の中国」の表現を消し去ります(天皇表記は別稿で譲ります)。 いわゆる日中対等外交が、中国を中心に見立てた東の国という表現に変わり、中国におもねる表現になったとする説もありますが、そうは思いません。外交手段が少しずつ高まり、日本も成長してきた証拠です。日本側の姿勢には、どこにもおもねるところがありません。日出ずる国という軸はしっかり確保したまま、西の中国という表現を止めたという、外交折衝能力の高い成果だったと思います。 唐側は相変わらず、中心の中国に対し、東の果ての国「日本」と捉えたでしょうが、日本側では、あくまで、東の日本、西の唐と対等であるとする考え方に揺らぎは見られないのです。隋の煬帝を怒らせた言葉は「日没する処」ではなく自分と同じ「天子」を用いたところにあったようですが、日本の力点はあくまで「日出ずる処」にあり続けたわけです。 追記―いつ日本国号が中国側に認知されたのか 702大宝2年の遣唐使は「日本の使い」と名乗ったが、唐の地元役人から「海東に大倭国」と言われ、まだ、正式な称号になっていない。 713先天2月2日に埋葬された唐の官僚杜嗣先の墓誌に「日本来庭」(日本の使者が来朝した)と記されている。 734開元22年正月に中国で亡くなった日本の717養老元年の遣唐使の一人井真成の墓誌に「公、姓井、字真成、国号日本」と記されている。 このことから、702年大宝2年の遣唐使が、則天武后に承認され、それ以降「倭」は「日本」になった。 平川南「日本という国号」『全集 日本の歴史2 日本の原像』小学館2008 本稿関連外交史 607推古15年 大業3年 遣隋使「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(隋書) 608推古16年 大業4年 再遣隋使「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」(日本書紀) 631舒明3年 貞観5年 使を遣わして方物を献ず(旧唐書) 632舒明4年 高表仁を倭に遣わす。表仁、王子と礼を争い、朝命を述べずして還る(日本書紀) 647大化3年 新羅から金春秋が人質として来日 648大化4年 貞観22年 新羅の使に託して表を唐に送る(旧唐書東夷伝倭国日本、新羅) 653白雉4年 遣唐使 654白雉5年 帰国(日本書紀) 660斉明6年 百済滅亡(三国史記) 663天智2年 白村江戦敗北(三国史記) 667天智6年 高句麗滅亡(三国史記) 近江に遷都(日本書紀) 669天智8年 小錦中河内直鯨らを大唐に遣わした(天智紀) 670天智9年 咸亨元年 高句麗平定を奉慶(新唐書、三国史記) 674天武3年 3月、対馬国が産出した銀を「倭国」に献上した(日本書紀)、 689持統3年 飛鳥浄御原令施行(日本書紀) 702大宝2年 粟田朝臣真人らを出発(続日本紀) 703大宝3年 長安3年 遣唐使。方物を献上(旧唐書、新唐書) 704慶雲1年 粟田朝臣真人らが帰国(続日本紀) 参考文献 「新訂 旧唐書倭国日本伝」石原道博訳 岩波文庫 「東アジア民族史2正史東夷伝」井上秀雄他訳注 東洋文庫283 平凡社1981 「三国史記1」金富軾 井上秀雄訳注 東洋文庫372 平凡社1997 「日本の誕生」 吉田孝 岩波新書1997 「日本国号の歴史」『歴史ライブラリー303』小林敏男 吉川弘文館2010 「古代朝鮮」井上秀雄 講談社学術文庫 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |