天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
新城藤原京 にいきふじわらきょう First update 2013/05/09
Last update 2013/05/09
かつて、藤原京は持統天皇によって建てられたと言われていたものが、近年、天武天皇も生前より関与していたと言われるようになってきました。 本稿では、さらに踏み込んで、藤原京は天武天皇によって、即位して間もない頃より企画立案され、天武13年には測量などから具体的実行に移されていたと考えました。天武崩御により、持統天皇がこれを引き継ぎ、藤原京を完成させたのです。 このことは、決して目新しい主張ではありません。ただ、いろいろな書物がはっきり天武天皇の関与を否定しないだけに止まっておられるので、ここではっきり、藤原京は天武天皇の企画立案によって建てられたとしました。 最近の考古学発掘の進歩はめざましく、この藤原京も例外ではありません。かつて、左図の中で、南北に延びる中ツ道と下ツ道を挟む狭い地域に過ぎなかったものが、今や南北・東西に10条×10坊の条坊制の大きさを持つことがわかってきました。大和三山の畝傍山、耳成山、天香具山を含み、天武天皇の飛鳥浄御原宮さえも飲み込む巨大なものだったのです。平安、平城京をも凌ぐ大きさだったのです。 天武天皇が描いた「京」とは、過去の天皇たちが造ってきた「宮」と同じではありません。 今までの天皇が造営した宮殿がいかに壮大で華麗でも、それは単に、御殿の廻りに結果的に部下達が寄り集まった、自然発生的な村に過ぎません。 天武天皇は中国唐を規範とした、縦横に路が張り巡らされている計画的な配置に基づくもので、宮殿、寺社仏閣の配置、近親者から官僚まで、さらに一般庶民をも含む都市計画であったはずです。根本的に違っていたのです。 ●日本書紀に書かれた「新城」とは何か 文献学でも、日本書紀の読み方が変化してきました。今まで、日本書紀に書かれた「新城」とは、固有名詞として、地名と思われてきました。添下郡新木村(今、大和郡山市新木町)がそれで、通証、集解も同様のため、岩波版さえもそう解説されています。しかし、これが固有名詞ではなく、「新しい都」と形容された普通名詞と解釈され始めました。結果、天武天皇は即位後、すぐに新しい都造営を計画していたとする考え方が生まれたのです。 まず、日本書紀で5回使用されている「新城」を紹介します。そのうち3カ所が、天武天皇条に使われています。まずは、新城の紹介事例です。 【神武天皇即位前年2月20日条】
最初は、神武東征最後に描かれた戦いです。神武に敵対する三者の旧大和人の紹介記事です。場所と氏族名をセットにして語ります。 <場所、 +有+氏族名+者。> 層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。 和珥坂下、 有居勢祝者。 臍見長柄丘岬、 有猪祝者。 本来、新城戸畔とは、新しい屋敷を構えた女(首長)という意味のはずです。 「層富縣」とは大和は和名抄に曾布之加美(大和添上)、曾布之毛(大和添下)現在の平群郡と生駒郡で、「波哆丘岬」とは、添下郡赤膚山(唐招提寺の西)と言われます。新城の場所とされる添下郡新木村とは微妙な位置になります。 物語としてはこの後、土蜘蛛と表現されたこの三者は、皆殺しにされました。 【日本書紀 持統3年9月10日条】
「直広参石上朝臣麻呂・直広肆石川朝臣虫名らを筑紫に遣わし、位記(冠の代りに授与されることになったもの)を給付され、新城を監視させられた。」宇治谷孟訳 ここの新城は筑紫水城、大野城、椽城を指すと言われています。これらは白村江戦後に築かれて天智天皇の時代のもの、もしくはこれに替わる新しい城が出来ていたのかもしれません。更に 【続日本紀 769神護景雲3年10月1日条】
称コ「天皇は次のように詔した。天皇のお言葉として仰せられるには、口に出すのも畏れ多い新城の大宮(平城京)に天下を治められた中つ天皇(元正天皇)が、臣たちを召して、ご遺言として仰せられた。」(以上宣命体)宇治谷孟訳 称コ天皇の証言として、元正天皇のことを「新城の大宮(平城京)で天下を治められた天皇」と言われたのです。これも、固有の場所を示すものではなく、新しい都の意味で使われました。同様に 【続日本紀 774宝亀5年8月22日条】
光仁「天皇は新城宮(新しい宮の意か。場所は不詳)に行幸され、別当・従五位上の藤原朝臣諸姉に正五位下を、外従五位下の刑部直虫名の外正五位下を授けた。」宇治谷孟訳 ここでも、宇治谷孟訳も訳されるように、「新しい宮」という訳でいいのです。この時までに新城とされた添下郡新木村に宮はありませんから、新城は地名ではないのです。 これをふまえ、天武天皇条を見ていきます。 ●天武天皇は何時、新しい都造りを計画したのか 【日本書紀 676天武5年条】
「この年、新木(大和郡山市新木)に都を造ろうと思われた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されたかったので、たいへん荒廃した。しかしついに都は造られなかった。」宇治谷孟訳 ここでも宇治谷氏は固有名詞として訳されています。 天武天皇は676天武2年2月27日に飛鳥浄御原宮で即位しました。ここは、かつて母斉明天皇が治めた宮殿を増改築したものです。しかし、すぐに、狭すぎると気がつきます。ここでは天武天皇がイメージしていた中国並みの律令官僚機構は築けないと思ったはずです。 即位して3年後の早い段階から新しい都を造ろうとしていたことが書かれてあったのです。場所は書かれていませんが、具体的であり、後の藤原宮辺りに新しい都の候補地が選ばれていたと思われます。都市計画に基づき、住民の移動計画があった模様です。しかし、工事実行はしませんでした。何故なのでしょう。文章も「土地が荒れた」と批判的です。 できなかったと判断します。大変な不況の時代です。壬申の乱という戦後間のない頃で、気候が不安定で天変地異も多く、まずは民の平安が優先されたのだと思います。 天武の時代、推古、皇極の時代に現れる、飢え、疫病のたぐいの記事はそう多くありません。それだけ、善政が引かれ、自分の宮殿は後回しにしたのです。 【682天武11年3月1日条】
その後、天武11年になって三野王や及び官僚たちに命じて、新城に行かせ、地形を調べさせました。本格的な都造りを決意します。自らの足でも新城に赴いています。 止まっていた新都造営がやっとスタートしたのです。 その前年、天武天皇10年から、矢継ぎ早に他の重要な新計画が次々に実行に移されていきます。律令制定作業開始、草壁皇子を皇太子に任命、帝紀の編纂事業が開始されます。実は大病を患い、癒えたばかりの体です。この4年後、彼は崩御されます。何かに取り付かれたように膨大な仕事に熱中し出すのです。 【683天武12年7月条】
「18日、天皇は、京の中を巡行された。20日、広瀬・龍田の神を祭った。」宇治谷孟訳 「京師」を京の中と訳されています。漠然とした飛鳥浄御原宮周辺をイメージさせられますが、ここは、飛鳥浄御原宮を含む北の藤原の地を指すと思います。上記の地図で示したように、天武天皇の新城構想の藤原京は飛鳥浄御原宮さえ含むのです。大きな新都造営構想はすでに定まっていたのです。 彼の行動にブレはありません。ただ、この頃、壬申の乱の功労者が多く亡くなっています。大伴望多、鏡女王、大伴吹負などです。しかも相変わらず雨が降らず、大風が吹き荒れ、異常気象が続いています。 そんな中、八色の姓と後世に言われる、未完の氏姓改革にも取り組みはじめています。 【684天武13年2月28日条】
「淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及び判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣して、都を造るのに適当な所を視察し占わせた。」宇治谷孟訳 宇治谷氏は適当な場所と訳されましたが、原文は「令視占應都之地 都つくるべき地形を視しめたまふ」です。新都が藤原の地と決まっていると考えて見れば、陰陽師・工匠らを派遣したとは、すでに天武天皇の手を離れ、具体的な今でいう設計段階に入ったことを示していることがわかります。風水上の山河の地形から、宮殿などの正確な位置を決めさせたものです。もしくは、すでに決まっており、占いでの確認に行かせたのかもしれません。決して「適当な所」ではないのです。原文にもそんな文章はありません。 【日本書紀 684天武13年3月9日条】
「天皇は京内を巡幸されて、宮室に適当な場所を定められた。」宇治谷孟訳 「適当な場所」などという原文はありません。先ほど、言いましたように「京師」とは飛鳥を含む藤原の地一帯を指します。この中に宮殿の位置を決めたのです。上記の二週間後の話です。まさにこのとき、自ら赴き藤原宮建造が確定されたのです。持統天皇ではありません。 天武天皇により、過去に例を見ない、壮大な新しい都の建設がスタートしたのです。 ●新都藤原宮造営が遅れた原因――難波宮建造 【日本書紀 683天武12年12月17日条】
「また詔して、『都城・宮室は一カ所だけということなく、必ず二、三カ所あるべきである。それ故、まず難波に都を造ろうと思う。百寮の者はそれぞれ難波に行き、家地を賜わるように願え』と言われた。」 この4年前、天武8年11月に龍田山・大坂山に関所を設け、難波に羅城(都の四方を守る城壁)を築いています。それに続くこの難波宮に関する記事になります。 天武天皇の個性がよく表れている行動です。以前から2カ所で続いていた難波宮造営を、新都藤原造営より優先させたのです。若い頃の母皇極天皇のように同時に幾つもの造作物を建造する無理をしていません。自分の宮殿より、まず、一歩ずつ難波の宮から完成させていきます。 そこが、外海につながる外交の拠点だからでしょう。外敵の防御を優先したものかもしれません。 ●突然の信濃行宮の造営の理由 【日本書紀 684天武13年2月28日条】
「この日に、三野王・小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして、地形を視察させられた。この地に都を造ろうとされるのであろうか。」宇治谷孟訳 有名な謎めいた信濃遷都構想視察などと言われる記事です。日本書紀編者も天武天皇の本意がわからないと疑問符にする文章だから当然でしょう。 この突然ともいえる信濃への視察派遣は、その後の記事で、事情が少し明らかになります。 天武13年閏4月11日に三野王等が信濃国から戻り、ここの地図を天皇に奉ります。さらに、 【日本書紀 天武14年10月12日条】
「輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣わして、行宮つくりを命じられた。 おそらく、束間温湯(浅間温泉か)においでになろうとしたのであろうか。」宇治谷孟訳 この直前、9月24日に天武天皇は病に倒れます。その後、悪化の一途をたどり、翌年9月9日に崩御されました。よってこの頃、いろいろな人々が、各地に遣わされ、妙薬などが集められ、各地で加持祈祷が行われています。信濃行きは最後まで実施されることはありませんでした。たぶん、信濃行きは鸕野皇后、後の持統天皇の配慮であったのかもしれません。湯治ともいえる温泉で病を治す一つの選択肢であったと考えます。 ●持統天皇の藤原京との関わり 本稿でははじめ、持統天皇は夫が実行した、藤原京建造を、崩御後引き継ぎ完成させたに過ぎないと書きましたが、このこと自体大変な事であり、大事業の貫徹だったはずです。 「690持統4年10月29日、高市皇子は藤原宮地を視察され、公卿百官がお供した。」 旧説では、このとき高市皇子が先頭に立って藤原京造営が開始されたと言われましたが、上記に記したように造営開始は天武13年であり、ここは、天武崩御による中断した造営を再開したと解釈できます。 「天武天皇の墓、大内陵は持統1年10月には造営がはじまっているが、その位置はほぼ藤原京の中軸線の南延長上にあることが確認できる。」狩野久・木下正史「飛鳥藤原の都―古代日本を発掘する1」 これは大内陵に合わせて藤原京の中軸線を定めたと考えるより、藤原京は天武天皇崩御前からすでに造営が始まっており、大内陵が建築中の藤原宮の中軸線に合わせ造られたと考えたほうが合理的です。 「690持統4年12月19日、天皇は藤原に行き宮地をご覧になった。公卿百官がお供した。」 「691持統5年10月27日、使者を遣わして新益京に地鎮の祭をさせられた。」 岩波版によると、藤原京が浄御原宮の東北方に拡大された地域をしめるので、「新たに益された宮」と呼んだのであろう、とあります。「あらましのみやこ」と呼ばれます。 上記の天武12年7月条に「天皇巡行京師」とあり、「新益京」とは、飛鳥浄御原宮をさらに拡大、北部一体に造営した京、と呼んだことと一致した表現になっています。後の平城宮に劣らぬ巨大な都であったと想像できます。 「691持統5年12月8日 新益京での身分に応じた宅地分配がなされる。」 「692持統6年1月12日 天皇、新益京の大路をご覧になった。」 「692持統6年5月23日 浄広肆難波王を遣わして藤原宮地の地鎮祭をさせられた。」 「 同 26日 使者を遣わして伊勢、大倭、住江、紀伊4カ所の大神を奉った。」 これは藤原新宮のことを神に報告したものです。 「692持統6年6月30日 天皇は藤原宮地をご覧になった。」 「693持統7年2月10日 造京司、衣縫王らに詔して工事で掘り出された尸(お骨)を 他に埋葬させた。」多くの墳墓が移動を余儀なくされました。 「693持統7年8月 1日 藤原宮地に行幸された。」 「694持統8年1月21日 藤原宮に行幸。即日、宮に帰る。」 何度も訪れたのは、単に巨大さが物珍しかったのかもしれません。 そして、 「694持統8年12月6日 藤原宮に遷都された。9日、百官が(こぞって新宮に)拜朝した。」 ●まとめ 古来、日本書紀「新城」とは「大和郡山市新木町」という「地名」を指すものでしたが、近年「新都」と一般名詞を指すと考えられるようになりました。 このことは、天武天皇は即位して早い時期から、後の藤原の地を「宮」ではない大きな「京」、飛鳥浄御原宮をも包み込むような「都」構想を進めていたことがわかります。天武天皇崩御により、これを引き継ぎ持統天皇らによって完成され、藤原京が実現しました。 なお、信濃行宮は、天武天皇の保養地の一つとして企画造営されたものです。「新城」という曖昧な言葉に左右され、天皇がいろいろな候補地を考えておられた、と一つの見誤った判断によるものだと思います。 676天武 5年 、天武天皇は新城建設をスタート。 684天武13年 3月9日、藤原の地に都建造を本格化。 686朱鳥 1年 9月9日、天武天皇崩御 694持統 8年12月6日、藤原京遷都 710和銅 3年3月10日、平城京遷都 711和銅 4年 大官等寺並、藤原宮焼亡。(扶桑略記) しかし、藤原京は16年間であっけなくその幕を閉じてしまいました。ある意味、失敗であったともいえます。理由はいろいろあるでしょう。あまり言われませんが、ここでは、その一つの理由を掲げておきます。それは、あまりに巨大な真四角の藤原京は日本の中では馴染むことができなかったと思います。次に開かれた平城京も巨大と思われがちですが、当初は家庭的な小さなものでした。しかも、外戚藤原氏の住まいが巨大で、歪な形のまま補強され、そのまま巨大化していったようです。しかし、平城京も、いつしかかつての藤原京を意識しすぎ、またも空虚な空間が多い大きな都を造ってしまい、同じ失敗を繰り返すことになったと推察しています。 参考文献 「飛鳥藤原の都―古代日本を発掘する1」狩野久・木下正史 岩波書店1999 「地図で読む『古事記』『日本書紀』」武光誠 PHP文庫2012より、藤原宮場所図を借用 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |