天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
天武天皇の万葉歌 First update 2009/02/14
Last update 2011/03/01 天武天皇の歌を万葉集は5首残しています。一方、皇后が見た天武天皇への挽歌は4首です。 その人となりを勉強するつもりで時を重ねてきました。しかし、未だにこの天皇の歌には不可解ともいえる疑問が自分のなかに残り渦巻いています。不完全ではありますが、本稿全体で書き散らした天武天皇の歌をここにとりあえず集約してみました。 まず、天武天皇の愛の歌です。 天武天皇が最初の妻と思われる額田王への歌があります。 はじめ、天武天皇はこの額田王と結ばれ一子、十市皇女を授かりました。しかし、母、斉明天皇の発議した出兵に随行した天武天皇は結果として九州の地に5年もの間、責任者の一人として残り防衛戦略に従事することのなったのです。 一方皆と先に大和に戻った天智天皇は額田王を自分のものにしてしまいます。 以下の歌は、その後即位した天智天皇が大津宮に遷都した後668天智7年5月5日に宮廷人を従え、近江の蒲生野に狩りにおもむいた折の歌です。 本稿の予測では天武天皇はその前年に九州から大和の地に戻ったばかりのはずです。 この経緯の詳細は別に白村江の戦いの項で述べました。 万葉集 巻第一 雑歌
本稿では額田王は26歳であり、すでに天智天皇の宮人です。天武天皇こと大海人皇子は25歳と設定しています。 斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。「この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、媚態をも感じ得るのである。」 天智天皇の狩り場の中で、額田王は周囲に気にも留めずに自分に向かって袖を振る天武天皇の大胆なお姿をみて、かつての妻として彼の身を心配しており、そこには思いやりが感じられます。また、もうあなたの妻ではないのだからと自分の立場をあきらかにし、自分に戒め言い聞かせているようにもみえます。 この歌を宴席で歌ったのです。この二人の心の強さに感銘します。二人の仲はうわさの種になっていたことでしょう。それを見事に打ち消して見せます。わしはもうあなたの妻ではないのです。人が見て怪しむ行為はどうぞお止めください。額田王は心を鬼にして、きっぱりと大海人皇子を退けたのです。 その返歌、 蒲生野遊猟時の額田王に対する恋歌、有名な天武天皇の額田王への恋の返歌です。 額田王の歌に対し、真率な表現で堂々と燃えるような恋情を訴えています。あなたは人の妻となって、紫の色の美しく匂う花のようにますます美しくなった、と額田王を讃えたのです。 天智天皇もこの二人の歌を聴いていたはずです。弟、天武天皇の歌を通して、なるほど確かに額田王は自分のところへ来てさらに美しくなったと思いを新たにしたに違いありません。この歌のすごいところは額田王に向かって歌いながらも、男として天智天皇を無視していないのです。天武天皇の頭の良さが冴え渡る場面です。かつての妻に影でこそこそと振る舞うことはせず、堂々と皆に向かい元の妻の美しさを賞賛してみせたのです。 ここでは、本稿の主旨でもある大海人皇子25歳、額田王26歳として鑑賞したいものです。若い大海人皇子の歌とすれば自然なのです。通説では40歳頃の歌とされています。この情熱的な歌を、宴席で披露された40歳近い中年男女の掛け合いの歌とか、秘められた不倫歌だと水をさす必要はありません。むりに年取らせた解釈は無用です。 北山茂夫氏はその著書「天武朝」のなかで大海人皇子と額田王の歌を称して次のように言っておられます。(中公新書1978年度版P177) 「問答歌の内容は明らかに相聞であるが、巻一の編者が、雑歌の部に編み入れている。天皇の蒲生野への遊猟を契機としてこの問答歌が制作されたからである。それは妥当だとおもう。」また、「狩猟は、七世紀とその前後の、貴人たちの好む野外の集団スポーツである。その昂奮のさなかで、大海人は、王に向かって、大胆にも衆人のなかで、袖をうち振って、恋の感情を示した。王は、それをたしなめる形で美しい歌を贈った。その返歌も艶にうるわしい。消えやらぬ二人の恋心の再燃である。〜。民俗誌家がもっともらしい口調で説く、宴遊の席のざれ歌論などではありえない。いきいきとしたその躍動のリズムを深く味わうといい。文学論以前の論議は、黙殺するがよい。」(下線は本稿) そのとおりだと思います。しかし、北山茂夫氏はこの歌をすばらしいと認めながらも、天武天皇40歳の歌であるとする通説に対しては「黙殺」したのです。 多くの万葉ファンがこのときの天武天皇と額田王の年齢が40歳に近いと知らされると驚きを隠せないでいるのです。この疑問に答えてくれません。 もう一つ、万葉集には天武天皇と夫人五百重娘(いおえのいらつめ)の歌が残されています。 この五百重娘は中臣鎌足の娘です。年はまだ若く、この歌を残した数年後、天武天皇の末子となる新田部皇子を出産しています。 677天武6年頃の歌です。天武天皇はこの頃34歳と思われます。たぶん、五百重娘は天武天皇の妻のなかでも一番若く、まだ20歳にもなっていないはずです。 この五百重娘は天武天皇崩御の後、中臣不比等と結ばれ藤原四兄弟の一人藤原麿を出産します。尊卑分脈には「不倫」と書かれてしまいます。本稿では天武天皇生前より五百重娘は中臣不比等と関係があったのではないかと疑っています。五百重娘が産んだ新田部皇子は天武天皇の子ではないのかもしれません。 こうして見ると、万葉集は天武天皇の並み居る后妃のなかでの最初と最後の妻への歌だけを提示したことになります。 万葉集 巻第二 相聞
天武天皇と五百重娘との愛情を吐露した歌として知られています。 この日は、日本書紀に記録されるほどの天災ともいえる大雪だったはずです。 俺のいる明日香に大雪が降った。おまえの大原の地にもそのうちたくさん降るだろう、大丈夫ですね、と天武天皇は新妻に心配して歌で便りをしたものです。ところが、この若い娘は返歌していうには、この雪はわたしが神様にお願いしてこの大原に降らせていただいたものです。その欠片がそちらにも降ってしまったのでしょうと、雪の災害を希望という愛の言葉に替えて返歌して見せています。 何の変哲もない男女間の相聞歌のように見えますが、なんとも可愛いものです。 この歌で重要なことはこれから新田部皇子が生まれる頃、二人が同居していないとわかることです。この頃はまだ特異なことではありません。藤原夫人こと五百重娘は天武天皇の宮に入ることなく、大原の里(高市郡明日香村小原)の藤原邸に住んでいたことがこの歌からわかります。晩年、大原大刀自といわれる所以です。当然、異母兄の藤原不比等も出入り自由だったはずです。 この歌から見えてくる五百重娘の性向ですが、年差のある夫、天武天皇の歌に負けていません。あなたの言っていることは違いますと、歌を返しています。大雪の降った天武6年の歌とすると、新田部皇子を産む4年前になります。相手が天下の天皇だからと躊躇していません。姉の氷上娘と違い、若く闊達で勝ち気な女性のようです。 天武天皇には吉野に関する歌が3首残っています。 壬申の乱のつらい思い出の歌とその類歌、及び天皇になってから吉野にあらためて訪れたおりの歌です。 万葉集 巻第一 雑歌
他にも類歌としてL3260,3293の歌などがあり、伝承歌謡としてこれを元歌とする説があります。のちに持統天皇らが吉野を訪れるたびにこの歌が披露されたのでしょう。何度も何度もいろいろな人に歌われるたびに、少しずつ形が変化していったのだと思います。万葉集自身にも二つの類歌が書かれるほど並び称された幾多の類歌が存在していたと思われるのです。 壬申の乱の後、679天武8年5月5日に天武天皇は再度6人に皇子と吉野の地に赴きます。吉野会盟といわれるものです。本稿でも別にこのときの天武天皇の思いを吉野会盟としてまとめました。以下の歌はそのときに歌われたものとして万葉集に記述されたものです。 万葉集 巻第一 雑歌
「よし」を繰り返しながら王朝の未来を呪祝しようとして詠まれたとみられる短歌と、わかったようなわかりにくい解釈を見かけます。 これは天武天皇の帝王哲学であり政治と部下の管理手法をまとめたものだと思います。 賢人がよいというものをよく見て共感することだ。吉野の地をよく見なさい、良き人と言われるその場、その人をよく見なさい。 よいものをより多く見て自分のものとし、現実の物事をよく見聞きして比較しよい判断をしなさい。 この歌の本意は皇后の持統天皇にも受け継がれました。実は挽歌に天武天皇の日常の思い出として歌にしているからです。吉野の「よし」のわかりにくい意味は以下の挽歌に答えがありました。 妻からみた夫、天武天皇 万葉集に残る持統天皇の歌6首のうち4首は挽歌で夫天武天皇を思う以下の歌です。持統天皇の天武天皇への思いは本物です。 万葉集 巻第二 挽歌
崩御された天武天皇への皇后の挽歌ですが、この歌を解釈しようとするとき思うことは、この天武天皇の繊細で敏感で高度な気配りを持つ指導者としての性向を感じるのです。 生前の天武天皇は朝から晩まで一日中、あらゆる人を招き、次から次とわき上がる疑問を来訪者に問いただしています。毎日毎日、万物を見聞きし、あらゆる人と接し、そばに控える妻にも絶え間なく問い続け、周囲の人を困らせ続けているようです。前歌、吉野での「よきひと」の歌に通じる思いです。多くの人とよく接し、疑問はどんなことでも質問し、よい人と多く接し、よいと思うことを実践したのです。 私の個人的な上司体験を通してもこんな指導者の部下になったら、さぞ疲れるだろうなとふと感じてしまいます。 そんな夫を突然失ったとき、妻である皇后はさぞひどい寂寥感に襲われたことでしょう。毎日あれこれ問いただされた煩わしくうるさいほどの御言葉が、突然ここで沈黙してしまったのですから。 万葉集 巻第二 挽歌
「智男雲」の訓が定まらないと言われます。ここは折口信夫氏の表現を借りました。自分という妻から離れていく夫の魂を引き留められないでいる狂おしい歌です。 万葉集 巻第二 挽歌
9月9日は天武天皇の命日にあたり、没後8年のことです。この年の3ヶ月後の12月に持統天皇らは思い出深い明日香の地を離れ、藤原宮に移ります。最大限に気を遣う遷都のときです。夫の生前からの意思でもあったこんなのときこそ、夫にそばに居てほしいと願わないではいられなかったようす。 直木孝次郎氏は、このときの持統天皇が亡き天武天皇を幻ではなく夢を見たという表現に注目しておられます。この意味をまだ正確には理解していないのですが、夢として捉えた点は重要だと思えるポイントです。持統天皇が歌う天武天皇の姿にはもう動きが感じらなくなっていました。亡き天皇の写真を見ているような、天武天皇が考えた思いではなく、あくまで持統天皇の自らの現在の気持ちを優先した歌と感じます。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |