天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
白村江の戦い はくすきのえ First update 2009/03/08
Last update 2011/03/01 白村江とは「はくすきえ」または「はくすきのえ」と読ませます。中国語の「白=はく」と古代朝鮮語の「村=すき」と日本語の「江=え」の合成語と言われます。古代日本人のバランス感覚のすばらしさ、この頃の国際的視野の大きさがよくわかる一語です。 特に、一対一の外交と違い、中国と新羅の間で刻々と変化する関係状況を見据えながらの対中国、対新羅外交を展開しなければなりません。さらに、対百済、対高句麗と事態はさらに複雑だったはずです。 決して「ハクソンコウ」などと中国語気取りで読んではならないのです。 本稿は、「天武天皇の年齢研究」を通して知り得たこのときの天武天皇の行動を予測します。一般的に見て白村江の戦いを語るとき天武天皇は登場しません。史書には何も書かれず足跡を残していないからです。しかし、成人に達した天武天皇、当時の大海人皇子が、この日本の将来を担う大変大きな戦争に荷担しなかったとはとても思えないのです。はたして、天武天皇の役割が最近少しわかってきた気がします。 おそらく天武天皇は白村江戦に敗れる前後合計5年間は九州の地に居続けたのです。 本来、朝鮮出兵は斉明天皇が発議し、斉明天皇の死後、天智天皇が主導した戦いのはずです。しかし天智天皇は母斉明天皇が崩御され明日香に退いた後も近親者たちの相次ぐ死により、二度と九州の地には赴いていないと思われます。しかし天武天皇だけは九州の地に留まり、天智天皇の名代として対大唐外交処理にあたり中国の使者たちと直接渡り合ったと思うのです。 【天武天皇 白村江関連年表】年齢は本稿での天武天皇年齢仮説 661斉明7年 18歳 1月6日、斉明天皇ら船で西に向かって航路につく。 8日、大伯の海の船上で大田皇女が女の子を出産。 7月、斉明天皇が九州の朝倉宮で崩御されました。 9月、天智天皇は九州長津から百済王子を百済に送り出す。 10月、斉明天皇の亡骸とともに天智天皇ら大和に戻る。 11月7日、斉明天皇の亡骸を飛鳥川原に殯した。 662天智元年 19歳 百済救済のため、武器を整え船を準備し、兵糧を蓄えた。 鸕野皇女が草壁皇子を九州で出産。 663天智2年 20歳 8月、唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で日本軍が敗戦。 9月、百済国滅亡。 大量の百済避難民とともに日本軍解体、大和軍撤退。 大田皇女が九州、娜の大津で男の子を出産。 664天智3年 21歳 2月、大海人皇子に詔して、冠位改定と告げられた。 5月、唐の郭務宗ら来日。 5月、大紫蘇我連大臣が薨去(扶桑略記は薨去を3月54歳) 6月、天智天皇の父方の祖母、嶋皇祖母命が薨去された。 12月、郭務宗、中国へ帰国。 九州筑紫などに数年にかけ、のろし台、水城を築く。 665天智4年 22歳 2月、天智天皇の妹、間人孝徳大后が薨去。 9月、唐の高官劉徳高、郭務宗等と再来日、10月入京。 12月、郭務宗ら、中国へ帰国。 666天智5年 23歳 1月、高句麗からの使者来日。 3月、天智天皇自ら佐伯子麻呂の病を見舞う。 10月、高句麗で泉蓋蘇文が死去。 高句麗からの使者来日。 この頃、大海人皇子、大田皇女とともに大和に戻る。(本書) 667天智6年 24歳 2月、斉明、間人皇后合葬に伴い、墓前に大田皇女を葬る。 3月、近江大津に遷都。 11月、唐の使者、筑紫に来日。 668天智7年 25歳 1月、天智天皇即位。(又は前年3月とある) 7月、高句麗より使者来日するも難破。 10月、高句麗滅亡。 この年、穀媛が忍壁皇子の弟、磯城皇子を出産(本書) 本稿の試算では、天武天皇は一生の間毎年のように子供を作り続けた男でしたが、大津皇子を生んで次の磯城皇子を生むまで5年間だけ子供ができない空白期間がありました。これが白村江の海戦の時期に重なります。 上記年表で見るとおり661斉明7年1月6日、斉明天皇ら大和朝廷軍が船で西に向かって航路につきます。その2日後、大伯の海の船上で天武天皇の妻、大田皇女が女の子を出産しています。さらに翌年、今度は大田皇女の妹鸕野皇女が草壁皇子を九州で出産します。その翌年また大田皇女が九州、娜の大津で男の子を出産しているのです。これに前後してこの年8月、唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で日本軍が敗戦したのです。 じつは大海人皇子の名はこと白村江に関して少しも現れてこないのです。しかし、史実としては大海人皇子の2名の妻がこの九州の地で毎年一人ずつ子供を交互に出産しているのです。つまりこの期間は天武天皇がずっと九州にいたと考えられるのです。しかも、本稿では高市皇子と忍壁皇子もこの九州や四国で相次いで生まれたと考えています。 念のため、天智天皇や天武天皇が明日香と九州の地を何度も行き来したとして、当時の明日香と九州との距離間を検討してみます。 阿蘇端枝氏は愛媛県でのシンポジウムのなかで、「通常、難波と博多間は船で航行する場合、約一ヶ月かかると考えられていたらしいのですが、それはちょっと時代が下がりますけれど『延喜式』に、これは京都の淀津からですが、太宰府までの期間を三十日というふうに書いていることからわかります」と述べておられます。「熟田津論考」 また、同書は斉明天皇の遺体を17日で博多から難波の間を航行した記述も紹介しています。急いでいたことがわかります。 661斉明7年7月に母斉明天皇が九州の朝倉宮で崩御されました。この二ヶ月後の9月、天智天皇は九州長津(博多湾)から百済王子を百済に送り出しています。日本で育った百済王の息子を朝鮮の正式な百済王にするためです。これを見届けるとすぐ、天智天皇は急いで(博多から難波を17日間で)斉明天皇の亡骸を葬るべく亡骸と共に明日香に地へ戻っていきました。 天智天皇はこのとき、すぐに九州に戻る意志があったことがわかります。しかし、国家元首、斉明天皇の死とその引き継ぎはそんな簡単なものでなかったのも事実でした。それほど九州の地は遠かったのです。 黒岩重吾氏は、このとき、天武天皇も同行したと考え、その翌年に生まれる草壁皇子が九州で生まれるはずがないと推定されました。しかし本稿では、さらに翌年にも大津皇子が九州で生まれていることから、天武天皇はずっと九州の地にとどまったと考えています。 663天智2年、今度は天武天皇の妻、大田皇女が九州、娜の大津で男の子を出産します。大津皇子と名付けられました。 日本書紀はこの男子の人柄を「威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に文筆を愛されておられた。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。」(宇治谷孟訳)と絶賛しています。なぜ、大津皇子は「天武天皇」にではなく「天智天皇」に愛されたと書かれたのでしょう。 この天智2年、大津皇子が博多で生まれた年の8月、白村江の海戦で日本軍は大敗します。そして9月百済が滅亡したのです。このとき、百済からの亡命貴族ら九州に残っていた大和勢は九州の地を離れたと思われます。すでに天智天皇一行はもう明日香に戻っています。妻子らを送り出し天武天皇だけは九州に残ったのです。生まれたばかりのこの大津皇子と幼い姉大伯皇女の二人も大田皇女の妹、やはり天武妃の鵜野皇女に預け、天智天皇の元に送り出しました。母の大田皇女は出産によりかなり衰弱しており動かすことができなかったからと推察します。両親不在の孫の面倒をそれから4年間、天智天皇がみたのです。天智天皇にとって大津皇子はそれこそ眼に入れても痛くない孫です。天武天皇が明日香に戻ったと考えられる667天智6年、大津皇子が5歳になるまでは明らかに天智天皇だけの孫であったはずです。 想像ですが、一人とどまった天武天皇はこのとき身も凍り付くような厳しい敗戦の中を九州で生き抜いたと思われます。 折しも白村江敗戦の翌年、はじめて天智天皇より大皇弟として冠位改定の詔を受け代行します。まるで、お前はこのまま九州にいて朕の名代として政務を代行し大唐軍を追い散らせと言われているようです。 それを暗示するかのようにその年の5月、さらにその翌年と唐から郭務宗らが大挙して使節として来日し、彼は天皇名代として否応もなく外交の前面に押し出されたはずです。危険を感じ、妻や子供達を事前に明日香に戻し、単身九州の地の残って居たのです。そしてその時、彼の人生を決定づける九州出身の舎人達や貴重な九州高官の人脈を確保したのだと思われるのです。 若き天武天皇は、母、斉明天皇と最愛の妻、大田皇女を九州の地で失ったのです。 661斉明7年、天武天皇の母斉明天皇が亡くなり、667天智6年2月27日に間人皇女がその墓に合葬された葬式に伴いその陵の前に大田皇女を葬ったと日本書紀にあることから、24歳前に亡くなっていたことがわかります。 天武天皇は同行していた妻女をすべて明日香に戻したと考えられます。天武天皇は大田皇女の亡骸と共に九州の地に止まったのです。 それから5年後、667天智6年2月27日に明日香の地で斉明天皇と間人皇女が合葬され盛大な葬式が挙行されました。この挙式にあわせ、天武天皇は大田皇女の遺骨となった亡骸とともに明日香に戻ったのではないでしょうか。だからその遺骨は斉明天皇に合葬されず、斉明天皇墓の前に大田皇女の墓が新たに作られたのです。大田皇女が斉明天皇や間人皇女と相性が悪かったわけではありません。天智天皇が間人皇女への特別な思い入れが絡み、挙式そのものに間に合わなかったのかもしれません。 天武天皇は明日香に戻り妻子たちと再会をはたしました。そのなかにあって、この葬儀の翌年に生まれたのが、穀媛娘の生んだ磯城皇子だったのです。忍壁皇子の同母弟になる皇子です。その後、天智天皇からまたも彼の娘、大江皇女が与えられ、長皇子と弓削皇子を生み、天智天皇の重臣、蘇我赤兄から太蕤娘を納められ、その結果として穂積皇子、紀皇子、田形皇女を生んでいきます。 しかし、夫人たちとの別離の5年間はけっして短いものではありませんでした。天武天皇不在のこの間に夫人のひとり額田王が天智天皇に見初められたのです。 この額田王という女性は常に斉明天皇と行動を共にしていました。斉明天皇の代わりに歌を詠み、巫女としても斉明天皇に付き従っていたようです。斉明天皇にも可愛がられていたのでしょう。その斉明天皇が崩御され、明日香に戻ったとき、額田王も亡骸とともにあったと思われます。 万葉集の時系列配置が正しいとすれば、九州に向かう途中、熟田津の名歌(@8)を高らかに歌った後、明日香に戻りますが、天智天皇は紀伊の温泉に行幸しているようなのです。そこで、額田王は万葉集最大の難解歌とされる「厳橿が本」の歌(@9)を歌います。さらに「中皇命」という位高き謎の女性の歌(@10〜12)が続き、その後に天智天皇が「三山の歌」といわれる三角関係を暗示する歌(@13〜15)が載せられています。その後、天智天皇の庇護の元、並み居る群臣を前にして額田王自らが春秋の優劣を歌(@16)で裁定して見せるのです。そして、近江遷都(@17〜19)と続きます。 万葉集の作為を感じます。これらの歌を上記に基づいて額田王が辿ったこの頃の心の軌跡を解釈できるものなのか、不勉強の私には未だわかりませんが、少なくとも額田王が天武天皇の元を離れ、天智天皇に誘(いざな)われたのはこの時期しかないのです。 天武天皇の子作り中断の5年間は妻子と別れただけが原因ではないと思います。これは母、斉明天皇の死と愛妻、大田皇女の死により喪に服した時期でもありました。彼の最も愛した二人がこの時期に亡くなったのです。 中国儒教の教えでは3年、古代中国の晏子なども喪の期間が25ヶ月におよんでいます。 古代日本でも殯(もがり)の習慣がありました。一般的には中国ほど長いものではありませんが。 天武天皇はよほど落ち込んだ時期であったにちがいありません。また、この若い天武天皇の思いとは別に外交交渉はどんどん進んでいったはずです。 一方、天智天皇はこのときどうしていたのでしょう。 この頃、明日香でもいろいろな方々がお亡くなりになっておられます。 661斉明7年 7月に斉明天皇が九州の朝倉宮で崩御されました。 同年11月7日、天皇の亡骸を飛鳥川原に殯した。 664天智3年 5月に大紫蘇我連大臣が亡くなる。扶桑略記は3月54歳としている。 同年 6月に天智天皇の父方の祖母、嶋皇祖母命が薨去された。 665天智4年 2月に天智天皇の妹、間人孝徳大后が薨去。 666天武5年 3月に天智天皇自ら佐伯子麻呂の病を見舞う。 667天智6年 2月、斉明、間人皇后合葬に伴い、墓前に大田皇女を葬る。 母斉明天皇の亡骸を急ぎ17日間で明日香に送り届けた天智天皇は確かにすぐに九州に戻るつもりだったと思います。しかし、天皇の葬儀はそう簡単なものではありません。11月にやっと殯(もがり)の儀式までこぎつけます。天智天皇はやむを得ず明日香の地から命令を下すしかありません。というより、成り行きまかせになったのです。 遠山美都男氏はその著書「白村江」の総括として述べています。「白村江の戦い自体は、通説がいうのとは大きく異なり、唐の物量に対する単純な意味での倭国の「敗戦」ではありえなかった。戦場に結集しえた物量という点では、倭国のほうが唐を凌駕していた。倭国の擁する水軍の規模と戦力は開戦直前の斉明朝に急激にグレードアップしていたのである。白村江で倭国が敗れたのは、明確な戦略目標を喪失しながらも、全軍の意志を十分に統一しないまま、戦闘を敢行したからにほかならなかった。」つまり、斉明天皇はこの世におらず、天智天皇も遠い明日香の地に退いてしまっていたのです。天武天皇は未だ若く、どれほどの求心力があったかわかりません。 そして、8月白村江敗戦、百済滅亡とともに、多くの人々が九州の地の舞い戻ってきたのです。このとき、天智天皇は九州にいる者たちを明日香に戻すことを決断したのだと考えます。 その後も倭国内の防備に力を注ぎますが、つぎつぎと大切な近親者たちを亡くし、明日香の地を離れられない天智天皇は、天武天皇や中臣鎌足らに任せる結果となったのです。 白村江海戦以降、国際環境はめまぐるしく変化を続け、毎年のように倭国へ海外の使者が訪れています。 663天智2年 8月、唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で日本軍が敗戦。 9月、百済国滅亡。 664天智3年 5月、唐の郭務宗ら来日。 12月帰国。 665天智4年 9月、唐の郭務宗、高官劉徳高等とともに筑紫に再来日。12月帰国。 666天智5年10月、高句麗からの使者来日。 667天智6年 3月、近江大津に遷都。 11月、唐の使者、筑紫に来日。 668天智7年 7月、高句麗より使者来日するも難破。 10月、高句麗滅亡。 白村江開戦の翌年5月、唐の劉仁願の要請により郭務宗ら来日します。劉仁願は蘇定方の指揮下の百済占領軍司令官です。10月になってやっと中臣鎌足が沙門智を遣わして、饗宴し物を賜い12月に唐へおくりかえしています。海外国記によれば、「朝廷は彼らを国使と認めず、筑紫太宰で処理して上京を許さなかった」とあるようです。立派な態度です。5月に来日し10月まで待たせたのは天智天皇の祖母が亡くなられたためとでも説明したのでしょうか。 よって、翌年の9月、唐は最高武官でもある劉徳高を先頭に郭務宗等を再度送り込みます。総勢254人とあります。海外国記ではこのとき入京を果たしたようです。10月に宇治で唐使に示威するためといわれる閲兵式が行われています。11月に饗宴し物を賜い、12月に遣唐使としての使節とともに送り帰しました。懐風藻によれば、このとき天智天皇の長男、大友皇子の人相のすばらしさを劉徳高が褒めたと書かれています。このとき、大海人皇子はいません。中臣鎌足が中心となり接待一切を取り仕切ったと思われます。おそらく、大海人皇子は喪中と称し、同行しなかったと思われます。大田皇女の亡骸と唐使らと上京するとも思えません。 この翌年、今度は高句麗から使者が来日します。これまでの唐の朝鮮出兵の本来の目的は高句麗支配にあったはずです。しかし、この頃までに高句麗の指導者、泉蓋蘇文が亡くなっています。悲鳴に近い救援要請であったにちがいありません。藤氏家伝には中臣鎌足に宛てた亡くなられた高句麗王の「贈内公書」が残されています。美辞麗句を連ねた中臣鎌足への賛美で終始したものです。中臣鎌足の見え隠れする外交努力はつまりは天武天皇の存在もそこにあったのではないかと推察する次第です。 その後、671天智10年、天智天皇崩御の年、1月に李守真が劉仁願の使いとして来日します。「請う所の軍事」という「唐使から倭国に対し何らかの軍事的な要請があったことを示している」ものを示し7月に帰国しました。そして11月に2,000人という大規模な使節団が再度、郭務宗を先頭に送り込まれました。そのうち1,400人が白村江で敗れた倭国の捕虜でその返還だったと言われています。 その翌年、3月にもまた郭務宗が来日しています。5月に饗宴と物が賜れ、帰国したとあります。そして翌6月天武天皇により壬申の乱が勃発するのです。郭務宗が日本の状況に無知であったとは思えません。中国史書に残る使節からの詳細な各国の分析報告は驚くべきものがあります。天武天皇はこの郭務宗と顔見知りであったように見えます。そして、この時期、国を二分するこの壬申の乱は国際情勢のなかにあって絶妙なタイミングであったように思えるのです。郭務宗は静かに倭国を離れます。そして以降、唐はこの国を倭国を言わず日本国と呼ぶことになるのです。 これに呼応するように、壬申の乱を平定後の673天武2年8月、「天武天皇は近江朝を倒して即位した天皇であるから、新羅の前朝に対する弔喪使は召さず、賀騰極使のみを入京させたとのべ、耽羅の朝貢使に対しても筑紫から帰国すべきことを命じたのである」(岩波版日本書紀注記)と、耽羅の使いを通して、自らが新しい日本国の新天皇であることを内外に示したのです。 まとめ 天武天皇が5年間九州に滞在した根拠 1.政治的理由により誰かが九州に残らなければならなかった。 2.天武天皇の子作りには5年間のブランクがあった。 3.天智天皇は早い段階で明日香に戻ってしまった事実 4.大津皇子が天智天皇に可愛がられた理由のひとつ。 男の子が少ない。天武不在の5年間、大津皇子を独占できた。 5.大田皇女が九州で早世したらしい。斉明天皇の墓の前に墓が作られた事実。 6.九州で3人も皇子が産まれたこと。大伯皇女、草壁皇子、大津皇子 他に本稿では高市皇子や忍壁皇子も九州の地でないにしろ、遠征中での出産と考えられる。 7.天武天皇の政治的活動の大きな一つの防衛戦力の増強があげられる。 8.藤氏家伝による中臣鎌足の活動。―このとき親しくなる? 9.この頃の日本書紀の記載はダブっているとする、天智と天武は別々、両方に行われたこと。 10.鸕野皇女が九州で出産するはずないと黒岩重吾氏はいう。これは天武天皇が天智天皇に同行したとするものから推測したものと思われる。天武天皇が天智天皇の元を離れて考えること。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |