天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
壬申の乱と高市皇子 じんしんのらん と たけちのみこ First update 2009/09/21
Last update 2011/03/01 672天武1年6月24日吉野脱出〜7月23日大友皇子自殺 天武天皇は自らの意志により壬申の乱を起こします。この大きな主題に対し、ここでは高市皇子に焦点を絞り、彼の役割は何であったのかを探ります。 なお、別に現地写真を添付しています、ご参照ください。 文芸春秋のエッセイ集「エッセイで楽しむ日本の歴史」になかで「壬申の乱、高市皇子の誤算」小林恵子氏の語る高市皇子への疑問は鋭いものです。 1.壬申の乱後の論功行賞は行ったものの、大海人と同様、戦いの最中、不破を一歩も出た様子のないのが不思議、といいます。 2.「大海人は、十九歳の高市がいながら、どうして自分には幼い子供しかいないと嘆いたのだろうか。」 3.(大海人追放時、大津皇子と違い、)「母方でも天智と全く血縁関係がない成人した高市が、どうして(殺されもせず)大津京に残っていられたのだろうか。」 4.「高市が大海人を励ました時、大海人は高市の背中を撫でて褒めたたえた」という不自然な表現はなにか。 5.「大伴吹負が、高市を騙って高市が来たと言わせたところ、近江軍が戦わないで引き上げた」。なぜ「高市」の名前に近江軍は怯えたのか。 6.「十市が死んだ時の高市の挽歌〜156の(万葉集の)歌は誰が見ても、恋人への挽歌である。」 「十市の重大な過ちとは、高市との関係以外に考えられないのである。」 総括として、「高市には不可解な事実が多い」とする。 その結果、小林恵子氏は大海人皇子を高句麗の大臣盖蘇文とし、高市皇子を天智天皇の子と位置づけ説明を試みているわけです。 本稿では、以前より天武天皇の年齢を引き下げることは高市皇子の年齢をも引き下げなければならないことを力説してきました。この小林恵子氏の小論の指摘は高市皇子が幼かったということですべて説明できることに気が付いたのです。高市皇子が天武天皇の子ではないなどと極論にする必要はないのです。また疑問6および7の十市皇女との関係もこの項では触れませんがやはり年齢で説明できます。 壬申の乱のメンバーの構図 近江朝廷+大友皇子 対 天武天皇
当時の高市皇子の年齢を19歳から12歳に引き下げることは、壬申の乱での高市皇子のイメージに水をさすものです。12歳の少年に務まるとはとても思えない行動記録が壬申の乱に残っているからです。その一つ一つを日本書紀の記録から紐解きます。よく読むとその記述から高市皇子の幼さが見えてくるからです。 まず、吉野を離れ、野上の地(関ヶ原)に着いた天武天皇を迎えた高市皇子が天武天皇に謁見するとき語られた、天武天皇の言葉が日本書紀に残されています。 日本書紀 天武天皇紀(上)
「近江朝廷には左右の大臣や智略すぐれた群臣がいて、共に謀ることができるが、自分には事を謀る人物がいない。ただ、幼い子供らがいるだけだ。」 と高市皇子に言われた言葉が残されています。「高市皇子を含めた幼い皇子たち」といったと解釈ができます。決して、高市皇子だけが19歳の高齢であったからの発言とは思えないのです。 それに対し、高市皇子は、
「私、高市が神々の霊に頼り、大海皇子の勅命を受け、諸将を率いて戦えば、負けることはありません。」と腕まくりして剣を握り締め、言ったといいます。 「皇子、攘臀、案劔、奏言。」 「皇子は臀をまくりあげ、剣をなでおさえ、奏上した。」直訳 これも若々しい幼い12歳前後の素直な子供らしい気負った態度とみえないでしょうか。 さらに、大海皇子は高市皇子のこの言葉を褒め、手を取り、背を撫でて「しっかりやれ」と言われたのです。 「爰天皇誉之、携手、撫背、曰、慎不可怠。」 この表現は、皇子がひざまずいたからではありません。高市皇子の背丈が低いと想像されます。小さな子供を抱きしめ、頭をなでるイメージを感じさせます。 小林恵子氏はこれを「儀式」と表現しました。大人同士の態度とは思えないからです。鋭い洞察力がこの日本書紀の不自然な表現を活写し指摘したものです。 日本書紀の編者は高市皇子をはっきり幼いものとして表現しているのです。幼い子供の言葉だからこそ、天武が感動したのです。幼い高市皇子が天武天皇とともに闘うと言ったからこそ意味があります。成人に達した高市皇子が語ったのではニュースにはなりません。幼い高市皇子がおもいもよらぬ言葉を述べたことに天武天皇は感動したのです。幼い子供でもこのくらいの言葉は親や高市皇子の重臣が教えれば、簡単に言える常套句です。 大海皇子はこの高市皇子の軍を次の日も次の日も訪問して、自らこと細かく指揮したとあります。高市皇子を独立した男とは扱っていない感じがするのです。それにしても、天武天皇にも40歳代とは思えない若々しい行動力を感じています。天武天皇はこのとき30歳と考える根拠の一つです さらに、高市皇子の側近として、最前線で活躍する三輪高市麿はこのとき16歳です。高市皇子は彼より若かったはずです。わたしはこのときの高市皇子を12歳と設定してもおかしくないと考えています。 日本書紀では、壬申の乱で一言も語られていない宗像氏の活躍が影のごとくつきまとっています。三輪氏は三輪山西麓に本拠を置く氏族といわれますが、後に大神氏を名乗ることとなる彼らが九州出身の氏族だったからと考えられます。また、天武天皇の舎人として活躍する大分恵尺も九州の出身です。12歳の高市皇子を支えた九州の宗像氏。一族ぐるみで、財力と人力を壬申の乱に投入したことは間違いないところです。吉野宮を出た天武天皇が、高市皇子と再会したときの喜びは、高市皇子に随行したバックの力を得た喜びの方が大きいといえるでしょう。 今少し、詳細に日本書紀にあらわれる高市皇子の壬申の乱での行動記録を検証していきます。 6月28日、前日野上で謁見され、和蹔(わざみ)に戻った高市皇子を今度は天武天皇が和蹔を訪れ、その軍隊の様子を検閲されています。さらに翌日も和蹔を訪れます。天武天皇のきめの細かい指示徹底がなされたわけですが、高市皇子へというよりその側近達への指示と感じます。野上で天武天皇→高市皇子→和蹔軍へとの指示系統を採らず、自ら和蹔に何度も赴き、天武天皇→和蹔軍への直接指示形態をとったと思えるのです。 北山茂夫氏も言っています。「当時の従軍舎人の日記によれば、このころ、前太子(天武天皇)は、前朝にこの地に土着させた唐人を出頭させて、当面の戦術について所見を徴したという。それだけでなく、すでに進攻部隊の編成、配置の準備が着々と行われた様子がよくうかがわれる。高市皇子らにそれを委ねたのではない。」 現在でいえば、野上と和蹔は車で10分程度の距離でしかありません。まさに軍団は天武天皇の手の内にあったといえるのです。しかし、自分の息子、高市皇子を立てることを忘れません。
高市皇子に命じて、軍衆に号令させています。 私ごとですが、幼い頃、学校の生徒会長の代理で朝礼を仕切ったことがあります。後ろで先生がうるさいほど「ああしろ、こう言え」という言葉をオウム返しに壇上のマイクに向かって号令した経験があります。できないことではありません。 また、大人の軍衆がこの幼い長の号令に不安に感じるどころか、自分たちがこの幼い長の号令に従うことに、感動し団結力を深める効果があったのではないかと思うのです。むろん高市皇子の隣に立つ頼もしい天武天皇の存在も目撃できたでしょう。 話は唐突ですが、この地、不破関は天下の要害の地として現在は関ヶ原の地名としてご存じの方も多いと思います。1600年の関ヶ原の戦いのとき、石田三成らは西軍の総大将として、豊臣秀頼を引きだそうとしたことがあります。しかし、母、淀君の反対にあい戦場に秀頼が出陣することはありませんでした。このとき秀頼は9歳です。一方、本節の高市皇子は12歳です。天武天皇の名代として天武軍の旗頭になったとしても不思議ではありません。 一方、大伴連吹負は計略をめぐらし、自ら高市皇子になりすまし数十騎で敵軍をよこぎり、高市軍の大軍がきたぞと叫ばします。その言葉に敵軍はちりぢりに逃げ去ったとあります。 なぜ、天武天皇ではなく高市皇子になりすましたのでしょう。 この行動にも2つのことが考えられます。一つは敵軍も九州宗像氏を代表する高市軍団の勇猛さを知っていたということです。だから高市軍の大軍来襲の叫びに恐れおののいたのです。また高市皇子になりすますということは、遠くから望む高市皇子は誰が見てもわかる身体的特徴、また服装に特徴があったということです。つまり背が低いのです。おそらく大伴連吹負も背が低かったのではないでしょうか。また、九州の海の男の姿、褌に法被姿の格好だったのかもしれません。 その後の戦渦のなか、天武天皇は野上で指揮し、高市皇子も和蹔から動いていません。19歳の高市皇子なら天皇を野上に据え、自ら最前線に飛び出していったと思います。マケドニアのアレキサンダー大王は20歳で世界を駆けめぐりました。後世の物語でも高市皇子の武勇を語るものが表れています。しかし、実際には12歳の高市皇子は天武天皇のもとを離れることはなかったのです。 8月25日、壬申の乱も終結し、天武天皇は高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表させます。こうして、天武天皇らは9月12日に大和に無事に戻ることができたのです。 天武天皇は持てる力をすべて出し切った戦いでした。 事前の周到な準備、神経質にみえる繊細で、緻密、素早く大胆な行動力。妻たち氏族たちの人脈を120%活用し、自分の舎人たちに超人的といえる無理を強い遂行させ、奇跡的天運にも恵まれ勝ちをもぎ取ったものだと考えます。 672天武1年、天武天皇の壬申の乱、行軍の出発地点となる和蹔(わざみ)は周知の通り、関ヶ原といいます。1600慶長5年、徳川家康が西軍の石田三成らを打ち負かした関ヶ原の戦いの場所でもあるのです。この地を訪れてみて、あらためて徳川家康の関ヶ原の戦いの仕方を目前にしたとき、この二人の陣形には思わぬ共通点があることに気が付いたのです。
徳川家康の最初に陣を定めた場所は桃配山の麓で、関ヶ原盆地の入り口に当たります。この桃配山とはかつて天武天皇が自分の兵に桃をふるまったと伝えられていた場所です。東軍の主軸は関ヶ原盆地の中央にあり、これに対して笹尾山を背に、石田三成をはじめとした西軍、島左近、小西行長、宇喜多秀家らが対峙しており、側面の松尾山からは小早川秀秋軍、さらに南宮山からは毛利秀元らが徳川家康の後ろから取り囲み、外国の名だたる戦術家から絶対西軍有利の陣形とされていた布陣だったのです。ちなみに天武天皇の行宮の地とされた野上には、徳川東軍の後陣として山内一豊がおりました。 最終的に徳川家康は関ヶ原盆地の中央にまで、軍を推し進め勝ちを収めたのです。 たしかに天武天皇の壬申の乱では、近江軍とこの地で相まみえ戦闘になることはありませんでした。しかしながら、こんな狭い盆地に大量の兵を集結させていたことは、天武天皇も徳川家康と同じだったのです。もし、近江軍に囲まれでもしたら大軍もひとたまりもないと思えるこの場所をあえて選んだ理由があるはずです。 しかし、天武天皇自らは、和蹔の自軍と共にあるということはありませんでした。高市皇子らに任せ、自分は関ヶ原盆地から離れた野上の地に行宮を定め、面倒でも毎日のように和蹔の高市軍のもとに通っています。それはまるで寄せ集めといえる自軍の結束を高めるために、自軍を狭い関ヶ原盆地に閉じこめているように見えます。地方各地から参集したもの達です。天武天皇の野上の地は彼らの故郷の方向、言葉は悪いですが和蹔盆地を出口にあたり逃げ道を塞いだ位置に当たるのです。 また、多くの軍勢を潜めるために、関ヶ原盆地に集めたのでしょうか。 それにしても、敵軍に周囲の山から、囲まれ攻め込まれたら勝ち目などあるとはとても思えません。 徳川家康も同じだったのではないでしょうか。東軍の各地から集まった武者らを関ヶ原盆地に集結させ、結束力を高めた徳川家康の知謀があったように思えます。家康自身は関ヶ原盆地の自軍の退路を塞いでいるような陣形です。関ヶ原内の東軍は対峙する前方の石田三成らの西軍に立ち向かうしか生きる道は残されていなかったのです。これが、現在の世界の軍事評論家たちから無謀と指摘された家康の陣形です。 そして、関ヶ原の戦いで、一番の重要な勝因となったのは内通者、傍観者の存在でした。 西軍の石田三成の油断、近江佐和山の城主、地元での地理を知り尽くした完璧な布陣のはずでした。 それが、家康と密約を取り交わしていた小早川秀秋の裏切り、そしてどちらに味方するか未だに決めかね状況を傍観した赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治らの存在、さらに西軍の脇役のような位置に布陣させられ、ふて腐れた西国の大将、毛利秀元を中心とした吉川広家、伊予の安国寺恵瓊の一団が結果として西軍をばらばらにしてしまいました。 徳川家康の面目躍如たる戦いでしたが、情報戦と言われるこの戦いをこの1000年前に天武天皇も行っていたのではないでしょうか。 話は飛びますが、壬申の乱の後、天武天皇は684天武13年の八色の姓(やくさのかばね)を定めます。その最高位としての「真人」に13氏が姓を賜ったのです。普通、真人とは天皇家の末裔とされる家系のものと規定されています。しかし、この13氏を調べると、決して天皇家の家系に連なるとは言えそうもないものが多いことがわかるのです。むしろ、彼らは「壬申年之功」のもの達そのものなのです。例えば、その中で、天武天皇の生前に亡くなったものが3氏ありますが、「壬申年之功」として感情的ともいえる弔いの言葉で讃えられているのです。さらに、他の公達も同様であったことがわかります。特に壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えてしまうのです。 このことはある意味ですごいことです。天武天皇にとって、自ら定めた「真人」姓とは何だったのでしょう。真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなかったのです。 ここでは、八色の姓の最高位「真人」姓を得た、13氏のうち不破の地で活躍したと思われる5氏を紹介します。天武天皇は彼らのおかげでこの難局の壬申の乱に勝利できたと考えたのです。 息長公・おきながのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後、と新撰姓氏録にあります。 近江国坂田郡上丹郷(滋賀県坂田郡米原町上丹生)を中心とした関ヶ原の西北部を支配していた古くからの豪族で、多くの子女を天皇家に送った家系です。 天武天皇はこの地の息長氏と実は手を組むことに成功していたのだと思います。だからこそ、関ヶ原の盆地で自由な軍事訓練ができたのです。 坂田公・さかたのきみ 継体の皇子、仲王の後、と新撰姓氏録にあります。 近江国坂田郡(滋賀県坂田郡)の地名にもとづく地方豪族です。天武5年9月「坂田公雷卒。以壬申年功、贈大紫位」とあります。現在の米原市あたりですから、つまり、天武天皇は関ヶ原から琵琶湖へ抜ける街道を押さえていたことになるのです。 羽田公・はたのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣王より出づ、と新撰姓氏録にあります。 近江国栗本郡羽田庄(滋賀県八日市市羽田)琵琶湖を南下した地域の豪族です。息長氏と同族のようです。 日本書紀によれば、この頃まで近江の將軍であった羽田公矢国とその子、大人等は7月2日に天武側に寝返ったとあります。これに対しすぐ、天武天皇は彼らに印綬を与え、将軍に任じたとあります。これもすごいことです。敵の将軍だったものを歓迎し、すぐさま自分の将軍として抜擢したのです。そして7月17日には出雲臣狛合と共に琵琶湖北部の三尾城を下したと羽田氏の活躍を伝えています。 天武15年3月25日、羽田真人八国は亡くなりました。「以壬申年之功贈直大壹位」とあります。 山道公、やまじのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後、と新撰姓氏録にあります。 越前国足羽郡(福井県足羽郡、福井市)あたりにあった地名に基づく豪族で息長氏とは親戚関係のようです。 猪名公・いなのきみ 宣化天皇の皇子、火焔王の後、と新撰姓氏録にあります。 為奈、為名、韋那とも書きます。 6月大友皇子の命により勅使として猪名公磐鍬、書直薬、忍坂直大摩侶が東国に遣わされました。ところが、不破の地に入った途端に潜んでいた天武天皇の高市軍に書直薬、忍坂直大摩侶の二人が捕まってしまいます。日本書紀には磐鋤(いわすき)だけは伏兵があることを疑って二人から遅れたので助かり近江に逃げ帰ることができた、といっています。磐鋤(いわすき)だけが高市軍がすでに関ヶ原の地にいたことを知っていたような文面です。 この壬申の乱では猪名公は近江軍側の人間だったはずです。しかし、後年、天武天皇は壬申の功労者の一人として猪名公に真人姓を与えているのです。これは猪名氏らが実は天武側とはじめから内通していたようにも思えるものです。 またこの文章から、6月のこの頃までには、天武天皇らは関ヶ原だけではなく琵琶湖に通じる街道をすべて押さえていたことがわかるのです。高市軍は関ヶ原盆地内だけに息を潜める、どころか、地方豪族の協力を得られたことで、のびのびと軍事訓練を行うことができる環境を整えていたことがわかります。 猪名鏡公と呼ばれた高見なる人物がいます。 本稿では彼を額田王の父の鏡王としました。本稿「鏡女王」を参照。 日本書紀は、天武元年12月「是月、大紫韋那公高見薨」と伊奈鏡公高見が亡くなる記事をこの日本書紀最大のテーマである「壬申の乱」を締め括る最後の言葉として選んだのです。 猪名鏡公高見がどう死を迎えたのかは書かれていません。 内通者であると露見し殺されたのか、内通者としての不名誉を恥じ自殺したのか、単に戦死したものかはわかりません。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |