天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
祥瑞 しょうずい First update 2015/05/05
Last update 2015/05/05 祥瑞 祥瑞とは、「めでたいしるし」、「めでたい前兆」、「喜ばしいしるし」などと辞書に書かれています。 古代中国漢書には「正義 善事、当有
祥瑞」、後漢書に「祥瑞 之降、以応 有徳」とあります。 「五色大雲」など珍しい天候、「鳳凰」など架空の生き物、「白鹿」「白亀」「白雉」などの珍しい色の動物、鳥や海洋生物、「芝草」など薬剤、「三足雀」などの奇形も指します。 中国唐令では「瓶甕」。「神鼎」など古くから伝わる文物も対象だったようです。 祥瑞は古代中国から輸入されたもの 古代日本も。昔からさまざまな「吉兆」がありました。古代中国から「祥瑞」が輸入されると、その体系的な知識として、少しずつ定着していったようです。 律令制下でまとめられた『延喜式治部省』に「祥瑞」があります。 【延喜式巻二十一治部省 祥瑞】
注:原文注は省略した 祥瑞は「大瑞58種」「上瑞38種」「中瑞34種」「下瑞15種」合計145種が記されています。大上中下の4種類に段階別に分類されたものです。 これは。古代中国『唐令』の丸写しと言われていて、その説明文も中国『芸文類聚』の引用文とそっくり同じといいます。 日本書紀の段階では、まだ個々の祥瑞に差別意識は無く、上中下の差は見られません。 その後段々、日本も唐化していきますが、それまでの日本書紀に記された祥瑞は、中国のものとは完全には一致しませんでした。日本独自、もしくは朝鮮の影響もあるのではないかと思います。日本書紀に書かれた祥瑞を示す個々の名称が、唐令のそれと正確に一致するものは15種類ぐらいと極端に少ないからです。現在も、唐令に載らない日本書紀に記され「瑞」や、それとおぼしき異常な朝廷への贈り物を、祥瑞かどうか判断できずにいるのが現状です。 祥瑞を奉る本性―――――――――――――――――――――――――――――――――― 古事記には、ほとんど書かれていませんが、日本書紀では、特に、皇極、孝徳、天武紀に多く、なかでも天武紀では、毎年のように祥瑞が現れています。これは天武紀の特徴の一つです。 中国の影響化のなかで、古代日本でも祥瑞そのものを喜ぶより、為政者の行いが、祥瑞に保証され、天から公認されたかのように使われ、考え方が変質していきます。 孝徳天皇がこの事をはっきり言っています。 同様に、天武天皇がこれを引き継ぎ、祥瑞について語っています。 日本書紀以降では、元正天皇の頃までは、亀がもてはやされ元号名称に改元が頻繁に行われるようになります。 聖武天皇から称徳天皇の頃は、仏教を賛美するために祥瑞が現れもしました。 孝徳天皇の「白雉」(はくち)年号――――――――――――――――――――――――― 孝徳紀10年間は二期に分かれています。645大化1年〜4年と650白雉1年〜5年までです。 この孝徳天皇の詔に「祥瑞」が論じられています。当時の考え方が推測できます。 祥瑞は舶来の考え方だったのです。 以下、意訳ですがまとめてみました。 650白雉1年2月9日長門国司から白雉が献じられた。 そこで、孝徳天皇は皆に意見を求めた。 百済君豊璋は、「後漢明帝の時代に白雉があちこちにいた」と言い、 日本の法師たちは、「見たことも聴いたこともない事ゆえ、天下に罪を許し民心を喜ばせるべき」と進言した。 道登法師は、「昔、高麗に白鹿がいたところに伽藍を造り、白鹿苑寺と名付けた。 又、白雀がある寺で見つかり、『休祥(大きな吉祥)』といわれ、 大唐から死んだ三本足烏を持ち帰ると『めでたいしるし』と言われた。 これらはみな祥物という。まして白雉はおめでたい」と。賞賛した。 僧旻は、「休祥ともいい珍しく、王者の徳が四方に行き渡るときに白雉が現れる。 また王者の祭祀が正しく行われ、宴会、衣服等に節度のあるとき現れる。 王者の行いが清楚なときは、山に白雉が出て、仁政が行われるとき現れる。 周の成王のとき。白雉が奉られた。このとき、長く大風淫雨もなく、海浪の荒れず三年、これは聖人が国を治めていたからである。晋の武帝の時にも現れたという。正しい吉祥であり大赦すべき」と言った。 巨勢大臣は「陛下が徳をもって。平らかに天下が治められたから、白雉が現れた。今後も末永く大八島の我が国をお治め下さい。」 よって、天皇は次のように詔した。「聖王が世を治めるとき祥瑞が示される。昔、周の成王、漢の明帝の時に白雉が現れた。応神天皇の世に白烏が宮に巣を作り。仁徳天皇の時。龍馬が西に現れた。古くから祥瑞が現れて有徳の君に応える例が多い。いわゆる鳳凰・騏・白雉・白烏など鳥獸や草木に至るまで休祥嘉瑞を英明な君が受けられるのはもっともだが、不詳の自分がどうしてそれを受けられよう。これは、自分を助けてくれる公卿・臣・連・伴造・國造等が各々誠を尽くし、制度を奉遵してくれるからである。これからも今まで通り公卿・百官等皆で清白にして~祇を奉じて、皆で休祥を受け天下をいよいよ栄えさせてほしい。」 これにより。天下に大赦し、位により褒賞し、白雉を奉じた長門国司に位を与え、長門国に調役を免除し、白雉元年と改元した。 天武天皇が引き継いだ祥瑞――――――――――――――――――――――――――――― 伯父孝徳天皇の祥瑞に対する思いは、甥の天武天皇に引き継がれました。 在位15年間の中で、682天武11年8月13日に、筑紫大宰が「三足雀」を報告したことに端を発し、翌年1月2日に、この丹比眞人嶋等がこの三足雀を奉りました。 『延喜式治部省』にまとめられた「祥瑞」では、「上瑞」に「三本足烏」が日の精として掲げられていますが、これは烏であり雀ではありません。雀は赤雀が「上瑞、白雀が「中瑞」、~雀・冠雀が「下瑞」です。「三足雀」は厳密には祥瑞ではないのです。古代日本では、まだ、中国の祥瑞を正確に把握していないのです。 天武天皇は同月7日に親王以下群臣にいたるまで、大極殿の前に集め、宴を催し、その中で、「三足雀」を群臣に見せた。その上で天皇は次のように詔して、 「明~御大八洲日本根子天皇(最大級の呼び名の一つ)の勅命を、国司・国造・郡司・百姓等、皆と共に聞け。朕は、皇位を引き継いでより以来、天瑞が一つや二つではなく数多く現れた。伝え聞くところによると、この天瑞は、政が天道に協っているときに現れるという。今、朕の時に、(このような祥瑞が)毎年重ねて現れることに恐れ、また喜んでいる。親王と諸王及び群卿の百寮、あわせて全国の黎民も共に喜んでほしい。よって位が小建以上に、それぞれ祿物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」といわれた。 引き続き大極殿の庭では、小墾田の舞が踊られ、高麗・百済・新羅三国の音楽が奏でられた。 これでは、一つの物語の大団円。ハッピーエンドを表したような構成になっており、他文書からの引用で潤色といわれても否定できません。 確かに天武天皇紀には、呆れるほど多くの祥瑞が現れます。日本書紀のなかで、天武天皇紀は記録が正確だと言われながら、このような突然変異的な動植物が毎年紹介されるのは、意外な感じです。ここまで祥瑞が集まると信じられず、日本書紀編纂時に祥瑞記事を強引に挿入したのではないかと考えたくなります。 もっとも、天武時代は、祥瑞を持って行くと褒美がもらえ、大赦がたびたび実行されていますから、この頃は万民が祥瑞を探していたと考えると不思議ではないのかもしれません。 ただ、このことが日本書紀における天武天皇の正当姓を示したという説には賛成です。 天武天皇の政治改革は天武10年頃から始まる遅いものです。天武紀の祥瑞を祝うという天武12年の記事は逆に言えば、やっと壬申の乱以降、天武天皇の正当な皇位が万人に認められたということです。12年も掛かったということで、天武天皇崩御まで残り時間は3年しか残らなかったのです。 日本国を祥瑞の国と表す記述―――――――――――――――――――――――――――― 日本書紀は我が国を祥瑞の穂がそだつ国と表現しています。 豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに) 昔、我が天~高皇産靈尊・大日孁尊(=天照大神)、この豊葦原瑞穗国を挙げて、我が天祖、彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。(神武天皇即位前紀) 豊葦原千五百秋瑞穗之地(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに) 一書に曰く、天~、伊弉諾尊と伊弉冉尊に謂りて曰く、豊葦原千五百秋瑞穗之地あり。 (神代上第四段一書第一) 古事記では、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國」とあり。水と稲穂の豊かさを示します。 古事記に載る祥瑞は前文と本文に載る合計二カ所――――――――――――――――――― 古事記は中国祥瑞を基本的に重視していませんが、太安万侶の前文に祥瑞を用いて時の元明天王を讃えている文章は印象的です。「天皇が即位されると、徳に満ちあふれ、祥瑞が次々現れ、天皇のお名前は中国、夏の禹王より高く、徳は殷の湯王にも勝っていると言えるでしょう」と書かれました。その祥瑞例が次の三つです。 日浮かびて暉を重ぬる貢=太陽が空にあって光を重ねる重光という祥瑞 雲散りて烟に非ず =雲でもない煙でもない非煙という祥瑞 柯を連ね穂を并す瑞 =連理木の枝や一本の茎に多くの穂の出る祥瑞 序文で太安万侶が元明天皇を讃える際に、祥瑞が使われました。古事記の編纂者が日本書紀の編纂者に先駆け、祥瑞を示したことになります。 古事記本文には一カ所だけに表されました。 饒速日命が神武天皇に恭順する時に、祥瑞を奉じる場面です。 かれ、ここに邇藝速日命參赴きて、天神の御子に白さく、「天神の御子、天降りましぬと聞きしかば、追ひて參降り來つ。」即ち天津瑞を献りて仕え奉りき。 日本独自ともいえる祥瑞の独特な展開――――――――――――――――――――――― 夢も祥瑞の対象のようです。 神武即位前3年6月〜果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の曰はく、「此の烏の来ること自ずからも祥夢も叶へる。大きなるかな、赫なるかな。」 垂仁即位前紀「夢の祥に因りて、立ちて皇太子と為りたまふ。」 天皇諡号にも、瑞齒別天皇と反正天皇に対し使われています。立派な歯を持っていたようです。 元号では、白雉(孝徳)〜朱鳥(天武)〜慶雲(元明)〜霊亀(元正)・養老(元正)・神亀(聖武) 〜神護景雲(孝謙)・宝亀(光仁)〜などに使われました。 「白鳳」という私年号―――――――――――――――――――――――――――――― 白鳳とは白い鳳凰のことで。私年号の一つです。 『延喜式治部省祥瑞』には大端>上端>中端>下端の「中瑞」になります。平安後期後になると、この「白雉」が大瑞の「白鳳」に変化し、天武紀などにも使用されるようになったようです。「朱鳥」は具体的な「朱雀」に変化しています。 中国で生まれた祥瑞の考え方で、この頃から上下関係が日本でもはっきり理解され始め、高い位の祥瑞に書き換えられたと考えられます。 「白鳳」が使われた書物ごとの勝手な使い回し 1.孝徳天皇時代(藤氏家伝)。 2.斉明。天智時代(年代記。皇代記等)。 3.天智時代(神皇正統記。等)。 4.弘文天皇(大友皇子即位説)壬申年 ここは。朱雀と云われることが多い。 5.天武天皇時代天武1〜(多武峯略記等) 6.天武天皇時代天武2〜14年(扶桑略記。水鏡等) しかし。調べるほどに。一定の区分けが定まらないのが現状です。 神亀元年冬十月一日。 詔報曰、「白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明。亦、所司記注、多有粗略。一定見名、仍給公験。」 詔し報へて曰く、「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。 亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給え」とのたまふ。 白鳳は白雉より、朱雀は朱鳥以前。つまり、650白雉1年から686朱鳥1年を指すといいます。 神亀と書かれましたが、実際は白亀が奉られました。元号も白亀ではなく、進化して神亀となったようです。 坂本太郎氏の優れた研究により、昔から我々が使っていた「白鳳時代」という表現は、今では使用されなくなりました。「白鳳朱雀年号考」『日本古代史の基礎的研究』 この研究では。「白鳳」の使用例は平安後期になってから俗使用例が一般化したもので、それ以前、ましてや天武朝の頃に使われたことはなかったというものです。 私年号は孝徳天皇の「白雉」が最初です。『唐書東夷伝』に倭国の元号白雉を記していますから。この時代からの元号使用は確実のようです。 これ以前に「法興」が法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や『伊予国風土記』逸文(伊予温泉碑文)にあるといいますが、ここでは保留します。 それ以降は上記例のように、白鳳はさまざまな解釈がなされ、書物により異なり、一定していませんでした。 一例として、扶桑略記を例えますが、その他、いろいろな数え方も存在しています。 『日本書紀』 →『扶桑略記』 天武1年 → 朱雀1年 天武2年〜天武14年→ 白鳳1年〜白鳳13年 朱鳥1年 → 朱鳥1年 ただ、祥瑞は確かに、孝徳天皇の前、皇極時代から頻繁に現れました。天武時代は毎年のように祥瑞が現れています。本稿の最後に、祥瑞を一覧にして見たので比較してみてください。ただ、個人的集計なので、漏れや間違いがあるかもしれません。日本書紀全般に言えることですが、どこまでが祥瑞なのか、中国にもない例で瑞祥と判別できないものもあります。このような例は多く。定めにくかったことも事実です。 その中で。本稿が注目したのが。次の案件です。 万世一系の系譜を疑う記述―――――――――――――――――――――――――――― 瑞蓮、劔池に生ひたり、一莖に二つの花あり。 応神11年10月に作られた橿原市石川にある劔池の蓮の花が、一つの茎に二つ咲いた。 644皇極3年6月6日 劔池の蓮の中に一莖に二つの萼のものあり。 舒明7年と皇極3年の同じ、劔池の蓮の記述が「一茎二花」「一茎二萼」と多少違いますが、意味は同じです。「通釈」のように重複記事と捉える考え方があるくらいです。 さらに、次のような逆になる記述まであります。 644皇極3年6月1日 大伴馬飼連、百合の華を獻れり。その莖の長さ八尺、その本異にして末連へり。 『延喜式治部省祥瑞』に「椒桂合生、木連理」とは「仁木也。異本同枝、或枝旁出、上更還合」とあります。 日本書紀は、豊浦大臣(蘇我蝦夷)が妄推して曰く、「これ蘇我臣の栄えんとする瑞なり」と。 蘇我氏の繁栄を指す考えを日本書紀自身が否定しています。確かに蘇我氏のことを指すとは考えられません。はっきり、舒明天皇と皇極天皇の間で血筋に別の流れが生じたことを予感させる記述になっているのです。 フクロウと祥瑞――――――――――――――――――――――――――――――――― その中で。ふくろうが豊浦大臣の大津宅の倉で子を生んだ記述が書かれたのです。 本稿では、これが天武天皇降誕の慶事と考えました。 日本書紀の記述は、そのあと祥瑞の印を我々に示すように続けて記しています。 この頃、倭国菟田山で6尺の紫キノコが沢山見つかる。 毒キノコと怪しんだが煮て食べると、はなはだ香ばしくうまい。 その後、彼等は病無く、命長らえたという。 これが祥瑞「芝草」であることを知らなかったようだ、と言葉を結んでいます。 『延喜式祥瑞』の分類では「芝草」とは「下瑞」で、分注に 「形似珊瑚、枝葉連結、或丹・或紫・或K・或金色・或隨四時變色。一云一年三華,食之令眉壽」とあるものです。 この事などから「フクロウ」を祥瑞と捕らえる学者もいますが、全体的印象としてフクロウを見て喜ぶ記述は少ないようです。無論、唐の祥瑞一覧にふくろうは載ってもいません。 西洋では夜行性からか、学業の鳥として、ハリーポッターなどでも扱われています。 日本では、フクロウは猛禽類でもあることから、夜鷹ともいわれ恐れられた一面をもつ鳥です。 常陸国風土記の表現が一番。当時の感覚をよく表しています。 茨城郡の項に昔。国巣(くず)山の佐伯と言うもの達がいた。 狼の性(さが)と梟の情(こころ)をもち、鼠のごとく隙をうかがってかすめ盗むと書かれています。ふくろうの情とは蔭に隠れる者を指し示すようです。 日本書紀に載るふくろをすべて拾い出しました。 神武即位前3年10月1日、「八十梟帥」と対峙する。古事記は「八十建」 景行12年12月5日、「襲国の熊襲梟」を景行天皇が成敗 景行27年12月、熊襲国の「川上梟帥」を日本武尊が成敗しています。 古事記は「熊曾建」 伝説的4人ですが、3人の「梟」は日本武尊(古事記では倭建命)の「建」は古事記では同じ「建」と書かれています。 313仁徳1年1月3日、応神天皇に子が生まれる際。産屋に木菟(みみずく)が入り込んだ。 不吉と判断した武内宿禰は、息子が生まれた際、やはり産屋に鷦鷯(みそささい)が入ったとして、二人の赤子の名を入れ替えた。大鷦鷯尊(おおさざき)木菟(つく)宿禰となったという。 482清寧3年7月。飯豊皇女が角刺宮で男と交合した。飯豊=「いいとよ」とはフクロウのこと。飯豊皇女はあだ名のようである。青海皇女(あおみのひめみこ)、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)が本来の名前か。 587用明2年7月、朝庭は苻を下し稱はく「(死んだ萬を)八段に斬り、八国に散し梟せ。」 河内国司。即ち苻旨に依りて、斬り梟す時に臨み、雷鳴り大雨ふる。 実はこの捕鳥部萬の茅渟縣有真香邑(和泉郷)は古くから茅渟と呼ばれたところです。すなわち、皇極天皇の父、茅渟王の故郷であり、弟、軽皇子(後の孝徳天皇)の住む宮があるところでもありました。乳母は和泉郷の大豪族、安曇氏の中から大海人連が選ばれました。これにより大海人皇子と名付けられたものでしょう。皇極天皇はこうした地で出産した可能性は高いと楽しく想像しています。 644皇極3年3月。休留【休留は茅鴟(ふくろう)也】。豐浦大臣の大津の宅の倉に子産めり。 681天武10年8月16日。白茅鵄が貢れり。 本稿では。新田部皇子の誕生がこの天武10年と考えていたため。偶然とも思えず。新田部皇子は天武天皇の子ではないかと考えました。 天武天皇の年齢−五百重娘の年齢を参照。 天武紀における。祥瑞一覧――――――――――――――――――――――――――― 備後国の司。白雉を龜石郡に獲て貢る。乃ち当郡の課役をことごとく免除免。なお天下に大赦した。 ●675天武4年1月17日 是日、大倭国、瑞鶏(にわとり)を貢れり。東国。白鷹(たか)を貢れり。近江国。白鵄(とび)を貢れり。 ●676天武5年4月4日 倭国添下郡、鰐積吉事、瑞鷄を貢れり。其の冠、海石榴(つばき)の華に似し。是日、倭國の飽波郡、言さく、「雌鷄。雄に化れり」とまうす。 ●677天武6年11月1日 筑紫大宰、赤鳥を獻れり。則ち大宰府の諸司の人に、祿賜ふこと各差あり。また專ら赤鳥を捕れる者に爵五級を賜う。乃ちその郡の郡司等に、爵位を加増したまふ。因りて郡内の百姓に給復したまふこと、一年。是日に天下に大赦したまふ。 ●678天武7年9月、 忍海造能麻呂、瑞稻五莖を獻れり。莖ごとに枝あり是に由りて、徒罪より以下、悉く赦す。 ●678天武7月10月1日 物有りて綿の如くして、難波に零れり。長さ五六尺、廣さ七八寸ばかり。則ち風に随ひて松林と葦原に飄る。時人の曰く「甘露なり」といふ。 縵造忍勝。嘉禾を獻れり。畝(盛り土)異にして頴(穂先)同じ。(延喜治部式に下瑞とある) ●679天武8年是年条 紀伊國の伊刀郡、芝草を貢れり。その状菌に似たり。莖の長さ一尺。その蓋二圍、 また因播國、瑞稻を貢れり。莖ごとに枝あり。 ●680天武9年3月10日、攝津國、白巫鳥を貢れり。【巫鳥。此おば芝苔々と云う。】 ●680天武9年7月10日、朱雀、南門に有り。(延喜治部式に上瑞とある) ●681天武10年7月1日、朱雀見ゆ。(延喜治部式に上瑞とある) ●681天武10年8月16日、伊勢國、白茅鴟を貢れり。 ●681天武10年9月5日、周芳國。赤龜を貢れり。乃ち嶋宮の池に放つ。 ●682天武11年8月13日、筑紫大宰言さく「三足ある雀有り」とまうす。 9月10日、日中に、數百の鸖、大宮に當りて、高く空に翔りぬ。四尅にして皆散けぬ。 ●683天武12年1月2日、筑紫大宰、丹比眞人嶋等、三足雀を貢れり。〜 丙午(7日)詔して曰はく、「明~御大八洲日本根子天皇の勅命をば、國司と國造と郡司と百姓等と諸に聽くべし。朕、初めて鴻祚に登りてより以來、天瑞、一、二に非ずして多に至れり。傳に聞くならく。其の天瑞は。政を行う理。天道に協うときには。則應ふと。是に今。朕が世に當りて、毎年に重ねて至る。一は以て則懼り。一は以て則嘉す。是を以て、親王と諸王及び群卿と百寮、并て天下の黎民、共に相歡びむ。乃ち小建以上に、祿を給うこと各差有り。因りて大辟罪より以下、皆赦す。亦、百姓の課役、並に兔す」とのたまう。 よって官位のある者には禄を賜い、大赦。税金を免除する。 ●684天武13年3月8日、吉野人宇閇直弓、白海石榴(つばき)を貢れり。 ●686朱鳥1年1月2日。 攝津國の人、百濟新與、白馬瑙を獻れり。 参考文献 坂本太郎「白鳳朱雀年号考」『日本古代史の基礎的研究 下 制度篇』1954東大出版会 江畑武「皇極紀三年の祥瑞記事」『日本書紀研究』第20冊 塙書房 水口幹記「延喜治部省瑞祥条の構成」『日本歴史』596号 1998/1月号 東野治之「飛鳥奈良朝の祥瑞災異思想」『日本歴史』259号 1969/12月号 「治部省−祥瑞」『国史大系 延喜式 中篇』 新訂増補<普及版>吉川古文館 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |