天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
五百重娘の年齢 いおえのいらつめ First update 2008/5/11 Last update 2011/01/29 生没不詳 662天智1年生 〜 695持統9年没 34歳 本稿主張 大原大刀自、藤原夫人ともいわれる。 父 藤原鎌足 母 不詳 子供 新田部皇子 681天武10年生〜735天平 7年薨去 55歳 本稿主張 藤原麿 695持統 9年生〜737天平 9年没 49歳 公卿補任 姉 氷上娘( 天武天皇妃 682天武11年没 姪 但馬皇女 氷上娘の娘 708和銅 1年没 藤原鎌足――氷上娘(氷上大刀自) ├――但馬皇女 天武天皇 |――新田部皇子(681天武10年生〜735天平7年没) 藤原鎌足――五百重娘(大原大刀自) ├――麿 (695持統 9年生−737天平9年没)第4子 藤原鎌足――藤原不比等 ├――武麻呂 (680天武 9年生〜737天平9年没)第1子 ├――房前 (681天武10年生〜737天平9年没)第2子 ├――宇合 (694持統 8年生〜737天平9年没)第3子 蘇我武羅自古―石川娼子 【五百重娘 関連年表】 662天智 1年 1歳 五百重娘 降誕(本稿) 669天智 8年 8歳 父 中臣鎌足亡くなる。 672天武 1年 11歳 壬申の乱 375天武 4年 14歳 姉、氷上娘が但馬皇女を産む。(本稿) 681天武10年 20歳 新田部皇子を産む。天武天皇の末子。(本稿) 682天武11年 21歳 母の姉、氷上娘が宮中で亡くなる。 686朱鳥 1年 25歳 天武天皇崩御。 695持統 9年 34歳 中臣不比等の子、中臣麿を産む。 この頃、亡くなったとした。 600 777777888888888899999999990000 年 年 456789012345678901234567890123 齢 天武天皇―――――――――――――崩 氷上娘 ――20――――――27 27 但馬皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――34 五百重娘―LMNOPQRS―――――――――30―――34 新田部皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――55 藤原麿 @ABCDEFGH―49 藤原不比等―――20―――24―――――30―――――――38―40―――――――63 五百重娘は中臣鎌足の末娘と思われます。姉の氷上娘とともに五百重娘は天武天皇の夫人となり、その後、天武天皇の末子として新田部皇子を681天武10年に生みました。しかし、天武天皇が崩御してのち異母兄の藤原不比等と関係し、藤原四家の第四子として京家の祖と言われるようになる藤原麿を695持統9年に出産しています。このことは「尊卑分脈」などに記載されていることです。 年齢根拠は息子新田部皇子を20歳で生んだとして仮設定しています。尊卑分脈には658斉明4年生まれの中臣不比等の義妹とありますなら本稿の仮設定ですと4歳違いの妹ということになります。没年はさらにわかりません。中臣不比等と関係し藤原麿を生んだのが695持統9年です。このとき34歳。高齢出産であり、周囲の冷たい視線のなかでの出産、それ以降の官位など消息がないことを鑑み、このとき亡くなったと考えました。尼になり退いたのかもしれません。 万葉集に天武天皇と夫人五百重娘の愛の歌が残されています。
天武天皇と五百重娘との愛情が吐露した歌として知られています。伊藤博氏は日本書紀に「雪」に関する記録がふたつあり、「一つは、677天武6年12月1日で、雪ふりて告朔(ついたちまうしせず毎月一日の儀礼)とあり、もう一つは、天武15年3月10日で、「雪ふる」とある。とくに大雪であったために記録されたもので、〜いずれかといえば、旺盛間天武6年を思うべきかもしれない」と絞り込まれました。すると、本節に従えば16歳となります。1歳ほど若いかもしれませんが、姉と違いしっかりした性格だったようですので16歳の歌と思ってもおもしろいかもしれません。 大雪を心配した天武天皇の見舞いの歌をこの子は、この雪は神様に私がお願いしたものです。それなのに私の雪の欠片がそっちにも降ってしまいました、と天変地異の大雪を明るく解釈しました。 万葉集は天武天皇の歌を二つだけ取り上げています。一つが最初の夫人、額田王で、一つがこの最後の夫人、五百重娘です。偶然かもしれませんが、他の8人の妻に見られぬこの二人の共通点は夫である天武天皇以外の男性と関わりがあったという事実です。額田王は天智天皇、五百重娘は中臣不比等です。 母となる五百重娘は天武天皇の夫人として新田部皇子を生みましたが、天武天皇が崩御してのち異母兄の藤原不比等と関係し、藤原四家の第四子、藤原麻呂を695持統9年に出産しています。このことは「尊卑分脈」に記載されていることです。 「夫人 五百重娘 天武天皇女御 後舎兄 淡海公 密通 生 参議麿卿」 原注 淡海公=中臣朝臣不比等、参議麿卿=中臣朝臣麻呂 「密通」という言葉は穏やかではありません。夫人五百重娘の年齢は20歳で新田部皇子を生んだとすると、藤原麻呂を34歳で生んだことになります。異母兄、藤原不比等とは4つ違いです。14年目の子ということですが、藤原不比等の子作りは、妻石川娼子に武智麿と房前の二人を生ませたのち、やはり14年のブランクを経て、三男、宇合を生ませています。その一年後に五百重娘と関係し、藤原麿が四男として出まれます。上記の年齢関連表をみてわかるとおり、五百重娘の生んだ二人の息子は、藤原不比等の子の年齢と緊密に関連しています。 武智麿、房前、宇合は同じ母、蘇我連子の娘娼子の子ですが、藤原家伝書は武智麿伝で母が年若くして夭折したとあることから、宇合も五百重娘の子という説もあります。いずれにしろ、未亡人は他夫に嫁ぐのが当たり前だったこの頃、「密通」と書かれるのはこのこと以外によほどのことがあったと考えられないでしょうか。不比等が天武天皇在位中に五百重娘と関係していたとは考えられないでしょうか。上記「尊卑分脈」のこの一節を次のように読み替えてみました。 「義兄に当たる淡海公こと藤原不比等と密通していた天武天皇の夫人五百重娘が藤原麻呂を生んだ。」 密通して麻呂を生んだのではなく、天武天皇の生前から密通していた五百重娘夫人がこのほど中臣不比等の子麻呂を産んだ、と解釈しました。 つまり、藤原麿と同様、新田部皇子も、天武天皇の子ではなく、藤原不比等の子供ではないかと疑問をもったのです。 また、この歌で重要なことは新田部皇子が生まれる頃、二人が同居していないとわかることです。藤原夫人こと五百重娘は大原の里(高市郡明日香村小原)の藤原邸に住んでいるのです。大原大刀自といわれる所以です。 当然、不比等も出入り自由のはずです。またこの歌から見えてくる五百重娘は年差のある夫、天武天皇の歌に負けていません。あなたの言っていることは違いますと歌を返しています。大雪の降った天武6年の歌とすると、新田部皇子を産む4年前になります。新妻といえる若い年齢のはずです。 藤原家伝武智麻呂伝によると、中臣不比等の長男、武智麻呂は680天武9年4月に大原の家で産まれているのです。翌年、上記のとおり同じ大原で五百重娘が新田部皇子を出産します。さらに同じ年、不比等の夫人、娼子は次男、房前を年子として出産します。たぶん同じ大原の家と思われます。その中心に中臣不比等がいたはずです。 2.もう一つのフクロウ伝説 日本書紀では二度に渡り、あのフクロウの話が出てきます。 「644皇極3年、フクロウが豊浦大臣(蘇我蝦夷)の大津(泉大津)の家の倉で子を産んだ。」 「681天武10年8月16日、伊勢国が白いフクロウを天武天皇に貢いだ。」 「まとめ」で述べますが、フクロウは不義の子が産まれた抽象表現です。皇極3年に表現されたフクロウは天武天皇の可能性があります。ここでは、もう一羽の天武10年のフクロウを検証します。 新田部皇子が生まれた681天武10年5月11日に、天武天皇は詔して、宮廷の女官達への媚びへつらいに行き過ぎがあると注意しています。日本書紀の本意は賄賂が宮廷女官にまで及んでいることへの警告にありますが、私は風紀が乱れていると注意したと解釈しました。 そして姉の氷上娘が新田部皇子が生まれた翌年に突然、宮中で亡くなります。涙にくれた歌が万葉集に残っています。妹の不始末に対する周囲からのプレッシャーに負けたのかもしれません。 天武天皇のこの詔は、天皇自身も薄々気が付いていた気配を感じます。それゆえでしょうか。天武天皇時代には、あの藤原鎌足の息子であるはずの不比等は官位に恵まれていません。それどころかこの頃の中臣不比等の消息ははっきりしません。生活はかなり苦しかったようです。左遷、さらには命の危険さえも意識していたのではないでしょうか。中臣不比等は決して順風満帆なエリート出世した御曹司ではなかったことがわかります。 少し時代は下がりますが、源氏物語などにはこうした事例が実に多いことを物語っています。例えば、光源氏が父天皇の夫人と密通して子が産まれてしまいます。右大臣の恋人とも関係を持つが露見してしまい、須磨に自らひきこもります。その後、戻ることが出来たが、今度は、光源氏自身が自分の子に自分の夫人と関係を持たれ、子が産まれてしまうのです・・・・
5月までほととぎすの声を残してほしいと、その声を惜しんだ風流歌と言われている歌です。あえて、違った解釈をしてみました。 ホトトギスにはいろいろな解釈がありますが、「ホトトギス」の原語「霍公鳥」は古代朝鮮語では反逆の意味を持つそうです。また「ホトトギス」は他の鳥に自分の卵を任せ、育てさせる習性があることがこの頃から知られています。五月玉はくす玉のこと。くす玉は左右に割れて大願成就する。又、玉は女性の膣。「あえぬくまでに」の原文は「相貫左右二」です。 「反逆だと、みんなでわめかないで。大きなお腹の子に聞こえてしまう」こんな解釈ではいけないのでしょうか。 新田部皇子が天武天皇の子ではない状況証拠をまとめると以下のとおりです。 1.天武10年のフクロウ伝説は不義の子がうまれたと伝える。 2.天武10年、宮廷女官らへの風紀を正す詔が出される。 3.大宝令の蔭位制から新田部皇子は天武10年の生まれと考えられる。 4.新田部皇子は天武天皇崩御の5年前に生まれた末子である。 舎人皇子をもうけた以降、天武天皇には子供はなく、5年後に生まれた末子である。 5.藤原不比等の四男の藤原麿の母は五百重娘である。 6.「尊卑分脈」に天武天皇の女御の夫人五百重娘が密通して藤原麿を生んだと書かれる。 7.五百重娘は万葉歌の詠い口から気の強い女性と思われる。 8.五百重娘は大原に住まい、姉氷上娘のように天武天皇と一緒に住んでいない。 9.藤原不比等は五百重娘とは異母兄であり、邸宅に出入りでき、五百重娘と親しい。 10.藤原不比等の子供をつくるタイミングが五百重娘の出産のタイミングと合う。 11.その後、藤原四兄弟の子孫のうち北家、南家、式家は繁栄するが、 京家であるこの麿の子孫だけは早くに滅んだと神皇正統記にある。 12.新田部皇子の二子、道祖王(ふなど)、塩焼王の結末も空しい。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |