天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
但馬皇女の年齢 たじまのひめみこ First update 2008/07/01
Last update 2011/01/29 708慶雲5年6月25日薨去 続日本紀 678天武7年生 〜 708慶雲5年薨去 34歳 本稿推定 669天智8年生 〜 708慶雲5年薨去 40歳 伊藤博氏 579天武8年生 〜 708慶雲5年薨去 30歳 和田萃氏 父 天武天皇 母 氷上娘 中臣鎌足の娘 682天武11年没(日本書紀) 叔母 五百重娘 (母が氷上娘と同じかどうかは不明) 義弟 新田部皇子 中臣鎌足――氷上娘 (682没) ├―――但馬皇女 (708没)和銅元年6月 天武天皇 | ├―――穂積皇子 (715没)霊亀1年7月没 蘇我赤兄――太蕤娘 (725没) 【但馬皇女の関連年表】 675天武 4年 1歳 降誕 681天武10年 7歳 母の妹、五百重娘が大原にて新田部皇子を出産する。 682天武11年 8歳 母、氷上娘が1月18日宮中で薨去 27日赤穂に葬られた。 686朱鳥 1年12歳 父、天武天皇 崩御 691持統 5年17歳 穂積皇子(20歳)と但馬皇女との密通事件 695持統 9年21歳 叔母、五百重娘が中臣不比等の子、麿を出産する。 696持統10年22歳 太政大臣 高市皇子 薨去 708慶雲 5年34歳 三品 但馬皇女 薨去 715和銅 8年 一品 穂積皇子 薨去 600 677777777778888888888999999999 年 年 901234567890123456789012345678 齢 天武天皇――――――――――――――――――崩 氷上娘 ―PQRS―――――――――30 但馬皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――34 穂積皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――44 高市皇子―HIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――36 新田部皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―55 中臣武智麻呂 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS― 伊藤博氏は691年持統5年の事件として、穂積皇子25歳と但馬皇女は23歳としています。天武天皇子女序列の観点から考察すると、日本書紀の記載順から但馬皇女は穂積皇子より前に記載され、年も但馬皇女が穂積皇子より上と誤解されそうですが、実際は穂積皇子のほうが年上と考えられます。これは同じ官僚の娘でも藤原氏を蘇我氏より身分を上として順位し記載された結果のようです。しかしながら、本稿では穂積皇子は持統5年は20歳と設定しており、すると但馬皇女はもっと若いと考えられます。 しかし、但馬皇女の生年は新田部皇子より上のはずです。和田萃氏は「日本の古代、別巻P230(講談社学術文庫)」で、母親の氷上娘天武11年の正月に亡くなったことを手がかりとして、但馬皇女が亡くなった年は少なくとも27歳以上だとし、708年和銅1年を30歳として試算されました。すると生まれは天武8年となり、義弟の新田部皇子より2歳年上で、穂積皇子と恋に落ちた持統6年頃は14歳だったとしています。 よって、この間を折衷案として考えました。その根拠は、万葉集に載せられた但馬皇女が14歳では若すぎあまりに心許ないと考え、また母が大刀自と呼ばれた以上亡くなられた天武11年には30歳にはなっていたろうと判断し、氷上娘20歳のとき、675天武4年に但馬皇女が生まれたとして計算しました。すると伊藤博氏が考える明るみに出る持統5年は但馬皇女が17歳となり、それなりの年齢と考えます。穂積皇子とはその前14歳くらいから知り合っていたとすれば、和田萃氏の思惑にも合致すると考えています。 宮中で母とともに住んでいた但馬皇女ですが、その母、氷上夫人を8歳のとき失ってしまいます。また、父、天武天皇をその4年後に失うのです。12歳でした。そこで、一旦彼女は母の妹が住む大原に引き取られたのではないでしょうか。すなわち旧中臣鎌足邸、祖父の館です。 一方、穂積皇子は前から宮中で幼く可愛い但馬皇女を見知っていたはずです。あるいは、大原の中臣邸で見知ったのかもしれません。証拠があります。藤氏家伝書である武智麻呂伝によりますと、大原での宴でこの武智麻呂をみた穂積皇子が藤氏の子は皆賢いと褒められたと書かれています。おそらく穂積皇子は武智麻呂よりこの但馬皇女を目にしながら語ったのではないでしょうか。穂積皇子は蘇我氏ですが武智麻呂の母は中臣不比等に嫁いだ蘇我娼子で連子(むらじこ)の娘です。中臣邸に出入りが可能でした。仮にこの頃が688朱鳥3年とすると、但馬皇女14歳、穂積皇子17歳で、武智麻呂は9歳、ちなみに義弟の新田部皇子は8歳で、皆大原の屋敷にいたはずです。 そして問題の持統5年です。但馬皇女は17歳と年頃になり、長子でもある高市皇子がこの但馬皇女を香具山宮に引き取りました。親戚筋の希望による婚姻関係からか、それともすでに怪しい関係にある穂積皇子とを引き離すためかは判然としませんが、このとき但馬皇女は大原から香具山に移り住んでいたのです。 穂積皇子は20歳になり、朝廷より浄広弐の位と封戸五百戸を授かりました。得意絶頂の穂積皇子はかねてから顔見知りのこの少女と関係を一段と強めます。これにより17歳の但馬皇女は20歳になる大人の穂積皇子に一途な激しい恋心を抱いたのでしょう。但馬皇女が高市皇子の宮に入ることで二人の関係が前に増して親密となり、その結果、露見したと考えるのが一番自然のように思えます。 万葉集はこのことを詳細に歌に込めて残しました。
ことが露見し、穂積皇子は近江の志賀山寺(大津市滋賀里町の崇福寺)に謹慎させられています。おそらくは「近江崇福寺の造成か何かの公用(攷証)にかこつけて皇子を遣り、人の噂の75日が程は二人の間を遠ざけておこうとされたのであるらしい。」井上哲夫「悲恋の物語」(国文学S47.11) その後696持統10年7月、高市皇子が亡くなられますが、22歳の但馬皇女は穂積皇子と一緒にはなれませんでした。上記のような但馬皇女の激しい思いをぶつけられても、穂積皇子は返事を書いてはいないようです。 その後、穂積皇子は政治の世界で華々しく活躍しています。しかし、但馬皇女の記録は続日本紀に一行のみ書かれただけでした。「708慶雲5年6月25日、三品の但馬内親王が薨じた。天武天皇の皇女である」と。本稿の試算では34歳だったと思われます。
井上哲夫氏は「皇女に冷たかったのは雪ではなかった。あの純でひたむきな皇女の愛に対して、義理とはいえ、かたくなに心を閉ざしてしまったおのれこそ、雪にもまして冷たい人間なのではなかったか」と書かれました。 但馬皇女は奈良桜井市初瀬の東、吉隠猪養(よなばりいかい)の岡に葬られました。時に、知太政官事の要職にある穂積皇子は政治官僚としてますます重鎮となっていきます。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |