天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
穂積皇子の年齢 ほづみのみこ First update 2008/07/28
Last update 2011/02/10 715和銅8年7月27日薨去 (続日本紀) 672天武1年生 〜 715和銅8年没 44歳 (本稿) 667天智6年生 〜 715和銅8年没 49歳 (伊藤博氏など通説) 673天武2年生?〜 715和銅8年没 43歳 (千人万首略伝より) 父 天武天皇 同母妹 紀皇女 生没不詳 田形皇女 728神亀6年薨去 子 境部王 享年25歳 懐風藻 上道王 727神亀4年卒 続日本紀 天智天皇 蘇我赤兄 ├――――山辺皇女(大津皇子妃) ├――――常陸娘(姉) ├――――太蕤娘(妹) 女 ├――――穂積皇子 ├――――紀皇女 ├――――田形皇女 天武天皇 ├――――多紀皇女 穀姫娘 【穂積皇子 関連年表】 672天武1年 1歳 降誕 691持統5年 20歳 1月、浄広弐で封戸五百戸を賜う。 この頃、但馬皇女との密通事件。 692持統6年 21歳 この頃、息子上道王が生まれる。(本稿) 694持統8年 23歳12月 藤原京に遷都 697文武1年 26歳 この頃、息子境部王が生まれる。(本稿) 704慶雲1年 33歳 1月、御名部内親王とともに封百戸を益す。正三位 705慶雲2年 34歳 9月、知太政官事 708慶雲5年 37歳 但馬皇女薨去 710和銅3年 39歳 平城京遷都 715和銅8年 44歳 1月、一品を授かる。 7月27日 穂積親王薨去。 724神亀1年 7月13日 母、太蕤娘没。正二位を贈られる。 600 44444555555555566666667777777777 年 89012345678901234567890123456789 天智天皇―――――――――――――――38―――――――46 蘇我赤兄――――30―――――――――40―――――――――50 常陸娘 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――? 山辺皇女 @ABCDEFGHIJKLMNO― 太蕤娘 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――― 穂積皇子 @ABCDEFG― 紀皇女 @ABCDE― 田形皇女 @ABC― 【穂積皇子 年齢推定根拠】 第一に691持統5年に穂積皇子ははじめて浄広弐で封戸五百戸を授けられます。蔭位制からこの年を20歳としました。671天武1年生まれで享年44歳となります。 次に日本書紀が長>穂積>弓削と推定される年齢順に記載されている部分があることから、本稿の推定による長皇子の生年670年、弓削皇子の生年674年の間とする予測値672年に合致します。 万葉集釋注の伊藤博氏は穂積皇子の昇進は最初、長皇子と同様に進んだ事から667年頃の生まれとされ、同氏が提唱している長皇子の年齢とほぼ同年齢(長皇子が1歳年上)とされています。とすると、但馬皇女との事件当時691年は25歳、但馬皇女は23歳とされていますがもっと若い皇子と皇女であったと思われます。但馬皇女を参照。 穂積皇子の逸話として藤氏家伝の武智麻呂伝にのるものが残っています。幼い武智麻呂を穂積皇子が見とめて、武智麻呂をはじめとした中臣の幼子らは皆賢いと感想を漏らしたというものです。 「むかし、年若き時に、穂積親王、宴に遇い、顧みて群英(すぐれた人々)にかたりて、『遍く(あまねく)藤氏の子を見るに、此の児奇を懐にすること人と殊(こと)なり。〜この児必ず台鼎(高貴)の位に至らむか』といいたまいき。」 藤氏家伝にこれは藤原武智麻呂の栄達の予言として後世に誇らかに伝えられるものです。 穂積皇子は母が蘇我氏で中臣武智麻呂の母も蘇我氏です。そんな関係から中臣家の大原第に気兼ねなく出入りできたのかもしれません。そして、武智麻呂同様、中臣鎌足の孫となる但馬皇女や新田部皇子もこの大原の館もいたと思うのです。 穂積皇子は武智麻呂だけをみていたのではなく、むしろ但馬皇女を視野にいれてこの大原にいる中臣の子供達を褒めちぎったのだと思うのです。穂積皇子のこの言葉を聞いた中臣家側では、天武天皇の息子の御言葉に悪い気はしません。 その後の穂積皇子の足跡は中臣不比等と歩調を合わせ、出世街道をまっしぐらに進むのです。 この太蕤一族は母をはじめとして皆、当時の権力者、すなわち持統天皇、そして中臣不比等に忠実です。 没年は715和銅8年7月27日。知太政官事として44歳。その年のはじめ一品という官位を受けられていたものです。その年の6月長親王が第四皇子として薨去されたあとのことで、第五皇子とあります。ここは年齢順で正しいと思われます。従四位上石上朝臣豊庭、従五位上小野朝臣馬養(うまかい)を遣わし、葬儀のことを監督させたとあります。 本稿の年齢設定に何の疑問がないわけではありません。穂積皇子の生年が天武1年とまさに壬申の乱真最中のなか生まれたことになるからです。地名で穂積は奈良県天童市穂積に当たります。 日本書紀を紐解くと天智天皇の大津遷都により、滋賀大津京に来ていたと思われる穂積一族でしたが、壬申の乱により穂積百足(ももたり)、弟五百枝(いおえ)らは彼らの古里に近い明日香に派兵され、武器庫の警備にあたっていました。 ところが天武天皇側の舎人、吹負(ふけい)の計略により急襲され、穂積百足は殺され、穂積五百枝らは許され、天武軍に組み入れられたのです。そんな中で穂積皇子がうまれたということになります。 たぶん、母、太蕤娘は大津側の左大臣、蘇我赤兄の娘でしたから大津京の地で出産したのだと思います。日本書紀が記録しているように穂積一族は大津で生まれてくる穂積皇子を見守り舎人として守備していたはずです。 壬申の乱で勝利した天武天皇は大津側の最高位の蘇我赤兄を以後の政治生命は絶ちましたが、殺すことはしていません。夫人太蕤娘の存在を無視できません。 穂積皇子は若い頃、藤原家の娘、但馬皇女と恋愛事件を起こしたことがあります。詳細は但馬皇女の項に譲りますが、歴史が示す結果は、但馬皇女は寂しく死に、逆に穂積皇子は日本の中央集権国家の重鎮として君臨していくことになります。 ここでは、但馬皇女との恋愛事件その後の穂積皇子に焦点を絞ります。 万葉集
この三首は、非常に残酷な歌に見えます。 穂積皇子の二首は奈良京遷都直後の歌と伊藤博氏は言います。すると710和銅3年頃のことでしょうか。但馬皇女はその2年前に亡くなられています。 そして三首目の但馬皇女と書かれた歌も同時期に詠まれたものと考えます。つまり但馬皇女が詠んだのではなく、子部王(こべのおおきみ)が詠んだものです。「子部王はO3821の児部女王と同一人と見られ、その歌によれば、座興を好んだ人のようである。どちらかといえば、但馬皇女の歌が子部王によって利用されたのであろう」と伊藤博氏は淡々と述べられていますが、これが事実なら赦されざる歌の一群だということです。 過去に起こった穂積皇子と但馬皇女の関係はこの頃皆が知っていたことと思います。どういった状況での歌かはわかりませんが、穂積皇子が2年前に亡くなった但馬皇女を思い、まだ苦しい胸の内を示す二首の歌を詠ったのでしょう。 これに対し、子部王という女が、死んだ但馬皇女に成り代わり、当時の但馬皇女に擬して歌を詠んだことになります。こんな歌を詠った子部王という女も女ですが、こんな歌を詠わせることが許される場で但馬皇女の思いを二首も詠いこむ穂積皇子の軽率な態度もいただけません。これらを聞いた周囲の人々は悲しみを共感するどころではなく、驚いたのではないでしょうか。 穂積皇子は但馬皇女の思い出が彼の私生活において歪んだ影を落とすことになっていたようです。 万葉集は晩年の穂積皇子の歌を紹介しています。酒宴の席でよく歌ったという歌です。
現代に通じる困ったおやじです。穂積皇子自身は年を重ねながらも、若いときのあの但馬皇女の若いほとばしる情熱を忘れることができなかったようです。地位と財力にものをいわせ、幼い女の子を閉じこめ囲い弄ぶ性癖が心の傷となって残ったようです。力を持つ彼に誰も非難できません。 相手の幼い女性は、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)といわれた女性で、後に万葉集に輝かしい歌の数々の業績を残します。万葉集C528大伴郎女の和歌四首の左注に詳しい。 万葉集C528 左注
万葉集によると、大伴坂上郎女は佐保大納言卿の娘です。初め一品の穂積皇子に嫁ぎ、寵愛を受けることたぐいなく、しかし、穂積皇子が薨ぜし後に藤原麻呂大夫(695〜737)と再婚されました。このとき坂上の里に住んでいたことから坂上郎女といわれたのです。 それは長く続かず、大伴宿奈麻呂(?〜724)とさらに再婚、ここで、大嬢、二嬢を産んだといわれます。大嬢は大伴家持の妻になる女性です。宿奈麻呂も10〜20歳以上の年上といわれています。のちに彼女の苦労は歌で開化し、才女として甥にあたる大伴家持におおきな影響を与えているのです。 伊藤博氏によれば、大伴坂上郎女は700年前後の生まれとし、穂積皇子が49歳(本稿では44歳)で亡くなった年、彼女はこのとき15歳。いかに彼女が低年齢で高齢の男性に囲われていたかがわかります。再婚した藤原麻呂も穂積皇子とほぼ同年齢だったと考えられています。 この白鳳時代、意外と健全な同年齢での婚姻関係が多いと感じていました。しかし、その後の平安の安定期、貴族はこぞって幼い娘を引き取り自分好みの女性に育てる風潮が見られてくるようになります。穂積皇子はそのはしりと言えるのでしょうか。 追記 穂積皇子の子供達について 697文武1年生〜721養老5年卒 25歳 本稿推定 25歳 懐風藻 続日本紀では坂合部王と表記されています。 一代要記、紹運録などには境部王とあります。 ただ、一代要記は長皇子の孫、紹運録は長皇子の御子、としています。 万葉集O3833に一首あり、編者の注として穂積皇子の子とあります。 「境部王詠数種物歌一首 穂積親王之子也」数種類の事物を歌に織り込んだものです。 続日本紀には 717養老1年正月、4日無位から従四位下に叙せられる。 同年10月、封戸を増やされる。 721養老5年6月、26日、従四位下で治部卿に任ぜられる。 蔭位制から上記717年を境部王が21歳であるとしました。境部王が生まれたとき穂積皇子は26歳です。 また、治部卿に任じられたこの養老5年が25歳のときであり、この年亡くなられたと想像されます。 懐風藻には「従四位上治部卿境部王二首 年二十五」とあります。 懐風藻に2つの漢詩が残り、享年25と思われます。 長屋王宅での宴における詩一首、他一首の二首が残ります。 この漢詩は長屋王宅の宴での作であることから、長屋王が左大臣であった頃、神亀年代(724〜729)の作と言われています。この根拠は懐風藻には長屋王自身の69番目の漢詩のほか、75、82,84、104、107があるからです。 しかし、この境部王の懐風藻の詩集での位置はそれ以前の32番目であり、もっと早い年代、すなわち、721養老5年の頃もしくはそれ以前の歌としてもいいのではないでしょうか。この年1月5日、長屋王は従二位右大臣となり、前年、藤原不比等が亡くなっており、長屋王はこの世の春がきた時といえそうです。長屋王はこのとき38歳。境部王は25歳でこの年に亡くなったわけです。 近年、長屋王家木簡に「□合部王」(□は未解読部分)とあるものが発見されました。まだ未見で確認してはおりません。「奈良国立文化財研究所編「平城京長屋王邸宅と木簡」吉川弘文館H3」 上道王 かみつみちのおおきみ 692持統6年生〜727神亀4年卒 36歳 本稿推定 727神亀4年卒 続日本紀 万葉集歌に広河王の父として、また穂積皇子の子として紹介されています。 続日本紀には、 712和銅5年1月19日に無位から従四位下に任ぜられた。 727神亀4年4月 3日に散位従四位下で卒した。 712年に蔭位制を適用すれば、このとき21歳。穂積皇子が21歳のときに産まれた子となり、727年36歳で卒したことになります。 上記の年齢設定が正しいとすると、持統5年に露見したと思われる穂積皇子と但馬皇女との恋愛事件の裏では、上道王が生まれていたことになります。 穂積皇子は但馬皇女一筋の純な若者ではなかったことになります。 広河女王 ひろかわのおおきみ 万葉集には上道王の娘と書かれた編者の言葉があります。 C694〜5「廣河女王歌二首 穂積皇子之孫上道王之女也」とある。 つまり、広河女王は上記、上道王の子、穂積皇子の孫にあたります。 続日本紀には 763天平宝字7年正月9日、広河女王を無位から従五位下を授けたとあります。 蔭位制を単純に女性にも適用できないのが残念です。 一代要記は「上道廣川女王」と表記していますが、これを穂積皇子ではなく長皇子の孫としているのです。 皇胤紹運録もその後「上道廣川女王」と記していますが、これを長皇子の孫と修正しているのです。上道王と廣川女王とを混同したものか。 この広河女王の歌C695は、穂積皇子の歌O3816「恋の奴がつかみかかりて」と同じ表現方法が使われていることから、この一連のものは長皇子の関係者ではなく穂積皇子に関係するもの達と考えたいところです。 なお、本研究によれば長皇子は穂積皇子より2歳年上となりほぼ同年齢の兄弟であることがわかっています。どちらの皇子の子にしろ、この二人の皇子の年齢は大筋間違いではないようです。 酒人女王 さかひとのおおきみ もう一人、万葉集C624にのる穂積皇子の孫と題詞脚注にある酒人女王なる人物がいます。誰の子なのかは不明です。酒人とは、お酒を育む家柄といわれます。 歌から聖武天皇に愛されていたと思われる方らしいことしかわかりません。 なお、別にも酒人女王がいます。この方は聖武天皇の孫にあたります。 深く追求はしていませんが、この二人の酒人女王は意外と同一人物かもしれません。根拠はないのですが、この万葉集の聖武天皇が愛人である酒人女王に贈った歌は、天皇が孫娘に贈った歌とも解釈できないことはないと思えるのですがどうでしょう。 女 ├――――上道王―――広河女王 |女 太蕤娘 |├―――境部王 |――穂積皇子――???―――酒人女王 天武天皇 | ├――草壁皇子――文武天皇――聖武天皇 持統天皇 ├―――井上内親王(717〜775) 県犬養広刀自 ├―――酒人女王 白壁王 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |