天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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田形皇女の年齢 たかたのひめみこ

First update 2008/09/07 Last update 2011/02/10

 

           728神亀5年3月5日薨去  続日本紀

676天武5年生 〜 728神亀5年薨去 53歳  本稿

674天武3年生 〜 728神亀5年薨去 55歳  Wikipedia2007

 

父   天武天皇

母   太蕤娘       724神亀元年7月没

同母兄 穂積皇子(第1子) 715和銅8年  薨去

同母姉 紀皇女 (第2子) 生没不詳

夫   身人部王(むとべのおおきみ)六人部王とも、正四位上 万葉集

子   笠縫女王(かさぬいのおおきみ)           万葉集

 

  穀媛娘

   ――――多紀皇女

 天武天皇

   ――――穂積皇子(672生 本稿)

   ――――紀 皇女(674生 本稿)

   ――――田形皇女(676生 本稿)

  太蕤娘     ├――――笠縫女王

        身人部王

 

【田形皇女 関連年表】

676天武5年  1歳 降誕

686朱鳥1年 11歳 天武天皇崩御

701大宝1年 26歳 2月 泉内親王を遣して伊勢斎宮に侍らしむ。(卜定)

706慶雲3年 31歳 1月28日 泉内親王、伊勢大神宮に参る(郡行)。

            8月29日 三品田形内親王を遣して伊勢大神宮に侍らしむ。

            12月6日 四品多紀内親王を遣して伊勢大神宮に参らしむ。

707慶雲4年 32歳 6月15日 文武天皇崩御

709和銅2年 34歳 夫、身人部王との間に笠縫女王をこの頃出産する。

710和銅3年 35歳 平城京遷都

            夫、身人部王、鈴鹿王とともに無位から従四位下を授かる。

715霊亀1年 40歳 7月    同母兄、穂積親王薨去

721養老5年 46歳 夫、身人部王、従四位下から従四位上

724神亀1年 49歳 2月 4日 聖武天皇(24歳)即位

            2月 6日 吉備内親王とともに二品を授かる。

            7月13日 母、太蕤娘薨去

728神亀5年 53歳 3月 5日 二品田形内親王薨去

729神亀6年     1月11日 夫、身人部王、正四位上で薨去。

 

600 44444555555555566666667777777777

年   89012345678901234567890123456789

天智天皇―――――――――――――――38―――――――46

蘇我赤兄――――30―――――――――40―――――――――50

常陸娘 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――?

山辺皇女               @ABCDEFGHIJKLMNO―

太蕤娘      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

穂積皇子                        @ABCDEFG―

紀皇女                           @ABCDE―

田形皇女                            @ABC―

 

本稿の年齢推定は同母の第三子になることから、長男穂積皇子の四歳年下と推定しました。

ウィキペディアのこの年齢根拠は不明ですが、本稿主張年齢に近似しています。

 

万葉集 巻第一 雑歌

太上天皇 幸干 難波宮時歌

@68

大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉

おほともの みつのはまなる わすれがひ いへなるいもを わすれておもへや

大伴の 御津の浜にある 忘れ貝 家にある妹を 忘れて思へや

大伴の三津浜にいる忘れ貝という名ではないがあの家にいる人を何で忘れられようか

右一首身人部王 右の一首は身人部王

 

伊藤博氏によれば、天皇位を文武天皇に譲った持統が難波宮に行幸したときのこの歌は699文武3年のものと言われます。4歌ある行幸時の歌の3番目にあたります。後に身人部王(むとべのおおきみ「六人部王」とも書く)と結ばれる田形皇女を思う歌といわれています。これに従えば時に田形皇女は24歳と思われます。

伊勢斎王になる前に二人は夫婦関係にあったことになり齋王の条件に反してしまいます。齋王になる前に娘、笠縫女王を出産したのかもしれないと初め考えました。しかし、以下で述べたとおり、699年のとき身人部王は10歳にすぎません。歌を詠むには若すぎます。万葉集の前後を詠んで気が付きました。万葉集の年代順の表記にこの歌だけが反するのです。@66〜75の歌はすべて、太上天皇や大行天皇時に歌われた歌ではなく、慶雲3年に歌われた持統天皇と文武天皇を奉ずる歌ではないかと考えました。

するとこの歌は699年の歌ではなく、706慶雲3年の歌ということになり、身人部王は17歳になります。伊勢より退下したすぐ後の愛の歌となるわけです。

 

万葉集 巻第一 配列一覧 

藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代

年代    前書き                         歌番号

持統2年頃)天皇の御製歌                      28

持統2年頃)近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌  29〜31

同上   )高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌        32〜33

持統4年 )紀伊の国に、川島皇子の作らす歌             34〜35

持統在位中)吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌       36〜39

持統6年 )伊勢の国に幸す時に、今日に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌40〜44

持統6年 )軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 45〜49

持統8年 )藤原の宮の役民の作る歌                 50

持統8年後)明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌 51

持統朝  )藤原の宮の御井の歌                   52〜53

大宝元年、 辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の歌    54〜56

大宝二年、 壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌         57〜61

      三野連、入唐する時に、春日蔵首作る歌          62〜63

慶雲三年、 丙午に、難波の宮に幸す時、志貴皇子の作らす歌      64〜65

      太上天皇、難波の宮に幸す時の歌             66〜69

      太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    70

      大行天皇、難波の宮に幸す時の歌             72〜73

      大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌             74〜75

和銅元年、 戊申                          76〜77

和銅三年、 庚戌の春の二月に、藤原の宮より寧楽の宮に遷る時に−   78〜80

和銅五年、 壬子の夏の四月に、長田王を齊宮に遣はす時に−      81〜83

神亀初年 )寧楽の宮                        84

  注  )は推測される歌が歌われた年を本稿にて書き足した。

 

上記の一覧表のように万葉集の記載上、藤原の代では時代順に例外はないのです。

 

伊藤博氏は「万葉集釋注」でこれらの歌の配列66〜75での矛盾を正直に述べられています。

1.「@64の「慶雲三年丙午」の題詞は64、65の双方の歌にかかる。しかし、体裁としては異例。」

つまり、この「慶雲三年丙午」はそれ以降の75までの歌をも含むことを暗示しておられます。

2.太上天皇こと持統天皇退位後の敬称。太上天皇が難波の宮を訪れた記録は史書には記されていない。

3.大行天皇とは、今上天皇の元明天皇を意識した文武天皇への表現で難波宮への行幸は文武3年と慶雲3年との二回があるがどの歌かは不明。

つまり、年代順としては天皇名を意識するとばらばらになってしまう配列となります。

4.@72は藤原宇合の歌ですが、「宇合は、文武3年に6歳、慶雲3年に13歳となる。〜一方、宇合の行年44(懐風藻他)を54の誤りと推察して、矛盾を解決しようとするむきもある(代匠記以下)。44歳だと、兄房前と13、弟麻呂と一つ違うことになり、54歳だと房前と3つ、麻呂と11違うことになる。行年54と見て、慶雲3年、宇合23歳の詠とするのがおだやかであろうか。

麻呂の年齢が本稿でも大きな問題としてきたが、ここではあえて触れません。

ここで問題すべきは、宇合と同様、身人部王も文武3年では10歳にすぎないということです。

ここでは、慶雲3年の歌と結論付けていいと思います。

 

笠縫女王歌一首 六人部王之女母 曰 田形皇女也

笠縫女王が歌一首 六人部王が女(むすめ)、母を田形皇女といふ

 

G1611

足日木乃 山下響 鳴鹿之 事乏可母 吾情都末

あしひきの やましたとよめ なくしかの ことともしかも わがこころつ

あしひきの 山下響め 鳴く鹿の 言ともしかも 我が心夫

 

賀茂女王歌一首 長屋王之女、母曰阿倍朝臣也

賀茂女王が歌一首 長屋王が女(むすめ)、母を阿倍朝臣という

G1613

秋野乎 旦徃鹿乃 跡毛奈久 念之君尓 相有今夜香

あきののを あさゆくしかの あともなく おもひしきみに あへるこよひか

秋の野を 朝行く鹿の 跡もなく 思ひし君に 逢へる今夜か

 

右歌 或云 椋橋部女王作 或云 笠縫女王作

右の歌は、或いは「倉橋部女王が作」といふ。或いは「笠縫女王が作」といふ。

 

身人部王についての問題点

身人部王は続日本紀の記述から710和銅3年に無位から従四位下に、721養老5年従四位下から従四位上、729神亀6年1月11日、正四位上で没したことがわかっています。無位から従四位下を授かったとき、鈴鹿王と一緒の叙位でした。蔭位制から初叙位が従四位下であることから親王に連なる家系と考えられ、このとき21歳と考えるのが順当です。薫弘道氏「弓削皇子について」万葉集研究第六集によれば、六人部王とも言われた身人部王は天智天皇の孫と言われます。志貴皇子の甥にあたります。つまり妻とした田形皇女より14歳も年下ということになってしまうのです。

 

さらに年齢検証を続けると、藤原家伝「武智麻呂伝」神亀6年の記録のなかで、身人部王は「風流侍従」の一人として紹介されています。この年、六人部王は亡くなります。36歳と仮定できます。このとき藤原家伝によれば、藤原武智麻呂は50歳です。

「風流侍従」と呼ばれた他の者達ですが、門部王(710年無位より従五位下を叙位)、桜井王(714年に無位より従五位下を叙位)は長皇子の子なのです。また、狭井王(714年無位より従五位下を叙位)は中臣不比等の妻、県犬養三千代の子などですから、やはり30代と若いはずです。

 

「風流侍従」とは呼ばれていませんが、兄、穂積皇子の子、上道王(712年無位から従四位下に叙位)境部王(717年無位から従四位下を叙位)は皇胤紹運録では長皇子の子と誤って書かれるなど、同世代として親しい関係にあったと想像できます。

この派手な若者達と太蕤娘の家族は懇意にしていたようで、特に紀皇女と田形皇女は兄の息子達やその仲間達と親しかったことになるのです。姉、紀皇女は高安王とうわさされる関係を持ちますが、これもあの若者達と同類だったようです。歌にも彼の気風が現れています。そんな姉に比べて温和しいまじめな女性でしたが付き合いはどうしてもこうした姉のお取り巻きに影響を受けたと思います。

 

また、田形皇女との間にもうけた笠縫女王は上記の歌にもあるとおり、長屋王の娘賀茂女王と混同されることから同世代の娘であることがわかります。つまり、身人部王が20歳ぐらいにもうけた子供であることになります。このとき田形皇女は34歳になる高齢出産となります。

 

600 888888899999999990000000000111111

年   234578901234567890123456789012345

持統大后――40―――――――――50―――――――58             

長皇子 LMNOPQRS―――――――――30―――――――――40――――――

文武天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25        

紀皇女GHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――――40――

田形皇女FGHIJKLMNOPQRS――――――――――31――34――――――

身人部王        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――

笠縫女王                           @ABCDE―

高安王           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――

門部王     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25―――――

桜井王         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

狭井王         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

 

 

話を少し戻しますが、706慶雲3年8月29日、突然だったのでしょう、田形皇女が伊勢斎王に決まります。卜定、潔斎の経緯も不明です。本稿の研究では前任に泉皇女はかなりの高齢者で伊勢に赴くとすぐ戻されたと考えています。慌てた朝廷側がその代わりとして選んだのが田形皇女のようです。31歳になる齋王です。泉皇女よりは若い皇女でしたが伊勢側は難色を示したはずです。齋王は清らかな処女が基本です。その年の12月6日にはもう「四品多紀内親王を遣して伊勢大神宮に参らしむ。」と続日本紀にあることでもわかります。二代前の元齋王多紀内親王を伊勢に遣わして説得しているのです。これも失敗に終わったようです。翌707慶雲4年文武天皇が崩御することで沙汰止みとなりました。

 

710和銅3年、夫の身人部王が21歳で無位から従四位下になります。田形皇女は35歳です。仲間は皆従五位下の授受でしたから過分なものです。その頃から関係があったようです。娘、笠縫女王が生まれたのは交友関係から見ると伊勢齋王問題以降のようですが定かではありません。

 

それにしても田形皇女とは身分が違いすぎるようです。田形皇女は724神亀元年、吉備内親王とともに二品を授かります。吉備内親王は元明天皇の娘で、元正天皇の妹、左大臣長屋王の妻です。この頃40歳と考えられます。この彼女と同格です。

 

この年の7月13日 母、太蕤娘が薨去しました。母として娘の栄達を見られ、72歳、大往生だったのではないでしょうか。

その4年後、728神亀5年3月5日二品田形皇女が薨去されました。推定53歳。正四位下の石川朝臣石足(いわたり)らを遣わして葬儀を監督、護衛させた、とありますから、国葬級の扱いです。

その8ヶ月後の1月に夫、正四位身人部王が36歳でひっそりと亡くなりました。変わらなかった田形皇女のやさしい庇護をその死で失ったからかもしれません。

 

なお、齋王については田形皇女の後の経緯を含めて別途まとめてみたいと考えています。この頃の伊勢斎宮はいい意味で、天皇家とは一線を画したしっかりした組織だったように見えるからです。

 

 

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