天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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紀皇女の年齢 きのひめみこ

First update 2008/09/08 Last update 2011/02/10

 

生没不詳

674天武3年生 〜 719養老3年薨去 46歳(本稿主張)

 

父   天武天皇

母   太蕤娘 (蘇我赤兄の娘) 724神亀元年没 

同母兄 穂積皇子         715和銅8年薨去

同母妹 田形皇女         728神亀6年薨去

夫   文武天皇、弓削皇子、石田王、高安王

 

       天智天皇

蘇我赤兄    ├――――山辺皇女(大津皇子妃)

  ├――――常陸娘(姉)

  ├――――太蕤娘(妹)

  女     ├――――穂積皇子

        ├――――田形皇女

        ├――――紀皇女

       天武天皇   |

        ├――――弓削皇子

       大江皇女

 

【紀皇女 関連年表】

672天武1年     兄穂積皇子生まれる。 (本稿)

674天武3年  1歳 紀皇女 降誕     (本稿)

676天武5年  3歳 妹田形皇女生まれる。 (本稿)

699文武3年 26歳 弓削皇子薨去

            この頃、兄穂積皇子が但馬皇女との密通事件。

707慶雲4年 35歳 文武天皇崩御

710和銅3年 37歳 平城京遷都

            石田王死去

715和銅8年 42歳 兄穂積親王薨去。

719養老3年 46歳 高安王左遷

            この頃、薨去。

 

600 8999999999900000000001111111111222年

年   9012345678901234567890123456789012齢

穂積皇子QRS―――――――――30―――――――――40―――44

紀皇女 OPQRS―――――26―――――――34――37――――――――46

文武天皇FGHIJKLMNOPQRS――――25

弓削皇子OPQRS―――――26

石田王 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――26

山前王 DEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――――35―――39

高安王 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25―――――31―――54

 

天武天皇の皇子17名のうち死亡年がわからない皇子は磯城皇子とこの紀皇女だけです。直木孝次郎氏の指摘で、磯城皇子が皇籍剥奪の憂き目あったことがわかってきたことなどから、この紀皇女も尋常ではないと考えました。しかし、万葉集に「紀皇女薨後」と「薨」の字が使われていることから、皇籍はあったまま亡くなったようです。

 

この女性はかなり醜聞の多い女性だったようです。わかっているだけで、弓削皇子、石田王、高安王、さらに文武天皇の名前が異説として存在します。本稿ではこれら男性との関係がすべてあったとして、その場合の可能性を追求しました。

 

 軽皇子(文武天皇)との関係

 弓削皇子との関係

 石田王との関係

 高安王との関係

 

生年は兄弟である穂積皇子と田形皇女の間です。本稿では穂積皇子の妹で2歳年下と概算で設定しました。死亡年は万葉集の記述が最後として紀皇女との関係から高安王が伊予に左遷された年としました。山前王が紀皇女薨去の後に詠んだ歌が残っているので山前王の亡くなる前に紀皇女は亡くなったことになります。

偶然の結果のひとつでしょうが上記の年齢分布を見ますと、紀皇女は20歳代の若い男性が好みのようです。

 

軽皇子(文武天皇)との関係

紀皇女と関係をもった他の男性はみな紀皇女と密会しています。弓削皇子のような身分の高い男でも太刀打ちできないほどの強力な後ろ盾が紀皇女にはいたはずです。これは文武天皇以外にはありえません。また文武天皇の祖母はあの恐ろしい持統天皇です。

こう言うと誤解されそうだが、紀皇女は万葉集に、男(あなた)がほしい、という名歌を残しています。

 

B390

譬喩歌

紀皇女御歌一首

軽池之 汭廻徃轉留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 獨宿名久二

かるのいけの うらみゆきみる かもすらに たまものうえに ひとりねなくに

軽の池の 浦行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なく

軽の池の奥で泳ぎ回る鴨でさえ褥(しとね)の上でひとりでは寝ないのに

 

万葉集譬喩歌の冒頭歌です。軽の池とは軽皇子を指すと思われ、これは文武天皇の皇太子以前の名前です。(今の)あなたにはすてきな奥様がいらっしゃるのに私は一人寂しく夜を過ごしているのです。こんな裏の意味があるのではないでしょうか。この頃の文武天皇は藤原宮子に夢中で紀皇女は眼中にかたったはずです。ことのおこりは家族ぐるみで特に紀皇女の母、太蕤娘が持統天皇に忠誠の証として、文武天皇の初めての夜伽の相手として紀皇女を差し出したことだと思われます。この頃、紀皇女25,26歳です。9歳も年下の男性に対してです。文武天皇の年齢に近い年下の妹もいましたが、紀皇女が選ばれました。後の男性遍歴でもわかりますがかなり魅力があったはずです。持統天皇も文武天皇も大変な面食いでした。聖武天皇を産んだ藤原宮子も恐ろしく美しい女であったと言われています。

 

弓削皇子との関係

万葉集に「紀皇女を思ふ歌」という弓削皇子の歌があることからこの頃、弓削皇子とも恋仲であり、本稿では同年齢と考えています。

密会の恋愛歌でありながら、ひやひやさせる部分があるといいます。

 

弓削皇子思紀皇女御歌四首

弓削皇子、紀皇女を思ふ御歌四首

 

A119

芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問

よしのがは ゆくせをはやみ しましくも よどむことなく ありこせぬかも

吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも

吉野川の瀬の流れが早く 一瞬たりとも 淀むことなく ありたいものだが

 

A120

吾妹兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾

わぎもこに  ひつつあらずは あきはぎの さきちりぬる はなにあらましを

我妹子に 恋いつつあらずば 秋萩の 咲きて散りぬる 花にありましを

あの子に 恋い続けるならば 秋萩の 咲き散る花であったほうがましだ

 

A121

暮去者 塩満来奈武 住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名

ゆふさらば しほみちきなむ すみのえの あさかのうらに  たまもかりてな

夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな

夕暮れで潮が満ちる(その前に)住吉の浅香浦の玉藻を刈りましょう

 

A122

大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能兒故尓

おほぶねの はつるとまりの  たゆたひに  ものもひやせぬ ひとのこゆゑに

大船の 泊つる泊りの たゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子へに

大船の泊まる港で揺れるたびに物思い痩せてしまった。他人のものなのに

 

紀皇女が唯一愛された歌です。他の人の歌は紀皇女から問いかけ歌が多いのですが、これは男性からの熱烈な恋愛歌です。同年代同士、紀皇女も本当に恋していたと思います。しかし、彼女は親が決めた主人がいました。密会を重ねるしかありません。義兄大津皇子は草壁皇太子の妾を自分のものにし、その母である持統天皇に殺されています。

しかし、699年の流行病で愛する弓削皇子はあっけなく死んでしまいます。互いに26歳であったと思います。

 

石田王との関係

石田王の出自や年齢がまるでわかりません。そこで、石田王の死を我が事のように悲しんだ同僚の山前王(やまさきのおおきみ)と同じ年齢と仮定しました。山前王は忍壁皇子の子です。705慶雲2年12月に無位から従四位下になったことから685天武14年の生まれとしました。723養老12月20日に没しました。39歳です。そこで石田王を同じ685年生まれとし、そして下記万葉歌の配列に基づき奈良への遷都前に亡くなったと思われることから、この年を没年と仮定しました。26歳ぐらいで亡くなったと思われます。このとき紀皇女は37歳です。

 

下に示すように万葉集 第三巻に載せられている、一連の挽歌は一読して思うことは、まともに死んだものを追憶した歌ではなく、すべて悲惨な死を嘆く近親者たちの怒りに満ちた歌ではなかったのかということです。そのなかにあった石田王の死も決してまともであったとは思えないのです。ここでは、石田王は紀皇女の夫であったとは考えていません。石田王は紀皇女の恋の相手であり、元天皇の思い人と関係を持った不埒物として不覚にも殺された王と考えたいのです。紀皇女の甘い色香の虜となったのです。

 

万葉集第三巻 挽歌

415   聖徳太が龍田山の死人を見て悲傷して作った歌    →行路死人

416   大津皇子が死を被りし時の歌            →刑死

417〜9 河内王を筑前鏡山に葬るときの妻、手持女王の歌   →流刑地での死

420〜2 石田王が卒りし時に、妻、丹生王が作る歌       (694年)

423〜5 同じ時、友、山前王が作る歌

426   柿本朝臣人麻呂、香具山の屍をみて、非慟して作る歌 →行路死人

427   田口広麻呂が死に時に、刑部垂麻呂が作る歌    →刑死

428   土形娘子が泊瀬山に火葬する時に、         →自殺、または

               柿本朝臣人麻呂が作る歌      尋常でない死

429〜30溺れ死にした出雲娘子を吉野に火葬する時に、

               柿本朝臣人麻呂が作る歌     →入水、水刑

すべてまともな死ではありえません。

 

石田王卒之時丹生王作歌一首 并短歌

いしだおうが みまかりしとき にゅうのおおきみが つくるうた いっしゅ あわせて たんか

石田王が卒りし時に、丹生王が作る歌一首 併せて短歌

B420

名湯竹乃    なゆたけの   なゆ竹の<枕詞>

十縁皇子    とをよるみこ  しなやかな御子

狭丹頬相    さにつらふ   丹つらふ(頬が赤みを帯びた)

吾大王者    わごおほきみは 我が大君は

隠久乃     こもりくの   こもりくの<枕詞>

始瀬乃山尓   はつせのやまに 泊瀬の山に

神左備尓    かむさびに   神として

伊都伎坐等   いつきいますと 葬られていますと

玉梓乃     たまづさの   玉梓の(使いの)

人曽言鶴    ひとぞいつる 人が言ってきた。

於余頭礼可   およづれか   でたらめを

吾聞都流    わがききつる  我は聞いたのか

狂言加     たはことか   戯言を

我聞都流母   わがききつるも 我に聞かせたのか

天地尓     あめつちに   天地に(掛けこれほど)

悔事乃     くやしきことの 悔しきこと(はありません)

世間乃     よのなかの   世の間の(一番)

悔言者     くやしきことは 悔しいことは

天雲乃     あまくもの   天雲の

曽久敝能極   そくへのはみ 遠く隔てた

天地乃     あめつちの   天地の

至流左右二   いたれるまでに 接する先まで

杖策毛     つゑつきも   杖をついても

不衝毛去而   つかずもゆきて つかなくても行って

夕衢占問    ふけとひ   夕占問ひ

石卜以而    いしうらもちて 石占もちて凶事を事前にしるべきだったのに

吾屋戸尓    わがやどに   我が家に

御諸乎立而   みもろをたてて 祭壇を設け

枕邊尓     まくらへに   枕辺に

齋戸乎居    いはひべをすゑ 斎瓮を据え

竹玉乎     たかたまを   竹玉を

無間貫垂    なくぬきたれ 隙間なく貫き垂れ

木綿手次    ゆふだすき   木綿たすき

可比奈尓懸而  ひなにかけて かいなに懸けて祈るべきだったのに

天有      あめなる    天なる

左佐羅能小野之 ささらのをのの ささらの小野の

七相菅     ななふすげ   七相の菅を

手取持而    てにとりもちて 手に持ち

久堅乃     さかたの   さかたの<枕詞>

天川原尓    あまのかはらに 天の川原に

出立而     いでたちて   川に立ち

潔身而麻之乎  みそぎてましを 禊ぎをして厄を除くべきだったのに

                (それらを私はしなかった。それで)

高山乃     たかやまの   (あの方は)高山の

石穂乃上尓   いはほのうへに 巌の上に

伊座都類香物  いませつるかも 居られるままになってしまった。

 

反歌

B421

逆言之 狂言等可聞 高山之 石穂乃上尓 君之臥有 

およづれの たはこととかも たかやまの いはほのうへに きみがこやせる

およづれの たはこととかも 高山の 巌の上に 君が臥やせる

でたらめ、戯言ではないのか。あなたが亡くなったというのは。

 

B422

石上 振乃山有 杉村乃 思過倍吉 君尓有名國

いそのかみ ふるのやまなる すぎむらの おもすぐべき きみにあらなくに

石上 布留の山なる 杉群の 思い過ぐべき 君にあらなくに

石上布留の山の杉のように、思い亡くす あなたではないのに

 

同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首

同じく石田王が卒りし時山前王が哀傷して作る歌一首

B423

角障経    つのさはふ    <岩の枕詞>

石村之道乎  はれのみちを  磐余の道を

朝不離    ささらず    毎朝

将歸人乃   ゆきけむひとの  行かれた方の

念乍     おもひつつ    思い

通計萬口波  かよひけまくは  通ったことであろうことは

霍公鳥    ほととぎす    ほととぎすの

鳴五月者   なくさつきには  鳴く五月には

菖蒲     あやめぐさ    菖蒲草の

花橘乎    はなたちばなを  花橘を

玉尓貫    たまにぬき    玉に貫き(髪飾りにしようと、)

一云

貫交     ぬきまじへ    貫き交え

蘰尓将為登  かづらにせむと  (髪にさす)蔓にしようと、

九月能    ながつきの    九月の

四具礼能時者 しぐれのときは  時雨時は

黄葉乎    もみちばを    紅葉を

折挿頭跡   をりかざさむと  折って髪に挿そうと、

延葛乃    はふくずの    這う葛のように

弥遠永    いやとながく  末長く

一云

田葛根乃   くずのねの    葛の根のように

弥遠長尓   いやとほながに  遠長に

萬世尓    よろづよに    いつまでも

不絶等念而  たえじとおもひて 絶えることなくと思って

一云

大舟之    おほぶねの    大船の

念憑而    おもひたのみて  思い頼んで

将通     かよひけむ    通っていた(のに)

君乎婆明日従 きみをあすゆ  君を明日からは

一云

君乎従明日者 きみをあすゆは  君を明日からは

外尓可聞見牟 よそにかもみむ  この世の外の人として見るなか。

 

右一首或云柿本朝臣人麻呂作

 

或本反歌二首

B424

隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方

こもりくの はつせをとめが てにまける  たまはみだれて ありといはずやも

こもりくの 泊瀬娘子が 手を巻ける 玉は乱れて ありといはずもや

泊瀬の娘が手に巻いている玉が(緒が切れ)飛び散ったというのか

 

B425

河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶

かはかぜの さむきはつせを なげきつつ きみがあるくに にひともあへや

川風の 寒き泊瀬を 嘆きつつ 君があるくに 似る人も逢へや

川風の凍みる泊瀬を嘆きながら君が歩くに似た人にも逢えない。

 

右二首者或云紀皇女薨後山前王代石田王作之也

右の二首は、或いは「紀皇女の薨ぜし後に、山前王、石田王に代わり作る」という。

 

石田王の突然死。泊瀬山にすばやく葬られました。このことからも石田王は尋常な死を迎えたとは思えません。B420〜422は妻、丹生王の後悔と自責の歌です。彼が死んだのは祈りを欠かした自分のせいだ、これもしていない、あれもできなかった、と泣き崩れています。素早く葬られたことを後で知り、骸(むくろ)にすがることもできず、その悲しみが納まりません。生前いつも浮き浮きしながら出かける石田王に嫉妬していた自分を悔いるばかりです。

 

B424、425の山前王の歌は石田王が殺され、その後、時が過ぎ紀皇女が薨去すると、友人、山前王が死んだ紀皇女に向って、石田王が死んだのは紀皇女あなたのせいだと、この後におよんでまでも告発し続ける歌であると考えたい。石田王の死後、まだ高安王との密通事件があるわけですから、その後、紀皇女が亡くなったのは石田王が死んでから10年後のことです。よほどの恨みがあり、石田王を惜しむ思いがあったのでしょう。山前王は忍壁皇子の息子です。忍壁皇子は紀皇女の母、太蕤娘を嫌っていったふしがありますから、個人的恨みもあったかもしれません。

 

高安王との関係

689持統3年生 〜 742天平14年12月19日卒 54歳 本稿主張

 

高安王(長皇子の子)は713和銅6年無位を従五位下となることから688朱鳥3年を生年としました。

万葉集は、紀皇女が密かに高安王に通じ、それを責められたときの歌とあり、この密通事件により王が伊予守に左降されたとあります。「続日本紀」にも719養老3年7月条に伊予高安王とあります。

 

K3098

於能礼故 所詈而居者 青馬之 面高夫駄尓 乗而應来哉

          「青」は本来、部首「馬」、造りを「公」に「心」と書く

おのれゆゑ のらえてをれば あをうまの おもたかぶだに のりくべしや

おのれゆえ 罵られて居れば 青馬の 面高夫駄に 乗りて来べしや

おまえさん、もう逢ってはならぬと叱られているときに、

                  おおっぴらに目立つ馬にのってくるなんて

 

右一首 平群文屋朝臣益人傳云

昔聞紀皇女 竊 嫁高安王 被嘖之時 御作此歌

但 高安王左降任之伊与國守也

右の一首は、平群文屋朝臣益人、伝えて云わく、

昔聞くならく、紀皇女竊かに高安王に嫁ぎて嘖はえたりし時にこの歌を作らす、という。

ただし、高安王は左降せらえ、伊予国守に任けらゆ

 

続日本紀(岩波版)も吉永登氏の説を紹介しています。万葉集文面「昔聞 紀皇女」を「昔 多紀皇女」の誤伝という説です。(吉永登「万葉―その異伝発生をめぐって」)「聞」と「多」が草書の書体いわゆるくずし文字が似ているので間違えたというものです。「昔聞」とはこの頃の慣用句であり、原本がこのときだけ「昔 多紀皇女」とあった場合、間違いやすいといいます。

また、年差があるからありえないというわけです。本稿でもこのとき、紀皇女は46歳で高安王は27歳と考えています。さらに、身分が違いすぎるともいいます。かたや天武天皇の皇女、かたや天武天皇のひ孫になる男です。

 

 太蕤娘                | 穀媛娘

  ――紀皇女            |  ――託基(託基)皇女

 天武天皇               | 天武天皇

  ――長皇子―川内皇子―高安王   |  ――長皇子―川内皇子―高安王

 大江皇女               | 大江皇女

 

一方、伊藤博氏が指摘するには紀皇女は多紀(託基)皇女だとしても、年齢差は埋まらないといいます。本稿でも紀皇女と託基皇女は同年齢と推論しています。しかし紀皇女は奈良遷都以前に他界していると思われるとして、後の高安王の話はなかったとします。今度は話そのものを否定されてしまいました。

 

本稿は石田王の話も高安王の話も本当だったとして推論を進めました。紀皇女は年をとっても求める男は皆な同じ若い年齢の男でした。また、長皇子の項でも述べましたが、長皇子の系図には混乱が見られます。本稿では高安王は長皇子の孫ではなく子であったと考えています。また、紀皇女と多紀皇女とを書き間違ったとは思えません、あまりに違いすぎる性格の二人です。科学的推論を本稿でも歓迎しますが、人間性を無視してまでの推理はいかがなものでしょう。

 

高安王が伊予に去ってすぐ紀皇女は亡くなったはずです。そして上記にもふれた山前王の恨みの挽歌が詠われ、4年後山前王も亡くなりました。紀皇女がいつどのような死に様だったのかはわかりません。病死などでないことは確かです。紀皇女の死亡記事が続日本紀に載せられていないのには何か大きな理由があったはずです。書き漏れでは納得できません。

 

天武天皇の皇子17名中15名の崩御年を伝えているのです。わからないのはこの紀皇女と磯城皇子だけです。また、紀皇女の官位を受けた記事も見あたりません。

 

 

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