天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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太蕤娘の年齢 おおぬのいらつめ 

First update 2008/03/25 Last update 2011/01/29

 

           724神亀元年7月13日薨     続日本紀

653白雉4年生 〜 724神亀元年7月13日 72歳 本稿推定

 

石川夫人とも言われた。続日本紀に石川朝臣大蕤比売とある。特に各史書においても「太」ではなく「大」を使用することが多いが、ここでは岩波版日本書紀の天武2年の事例をもって「太」で統一しています。

 

父   蘇我赤兄    623推古31年生〜672天武1年没 50歳没

    天智朝左大臣                扶桑略記、公卿補任

母   不詳

同母姉 常陸娘(天智天皇夫人) 大津皇子妃となる山辺皇女を生む

子供  穂積皇子  672天武 1年生〜715和銅8年没 44歳(本稿主張)

    紀皇女   674天武 3年生〜696年以前没  22歳(本稿主張)

    田形皇女  676天智10年生〜728神亀6年没 53歳(本稿主張)

 

       天智天皇

蘇我赤兄    ――――山辺皇女(大津皇子妃)

  ――――常陸娘(姉)

  ――――太蕤娘(妹)

  女     ――――穂積皇子

        ――――紀皇女

        ――――田形皇女

       天武天皇

        ――――多紀皇女

       穀姫娘

 

【太蕤娘の関連年表】

653白雉4年  1歳 降誕(本稿)

672天武1年 20歳 穂積皇子を出産(本稿)

674天武3年 22歳 紀皇女を出産(本稿)

676天武5年 24歳 田形皇女を出産(本稿)

686朱鳥元年 34歳 4月 多紀皇女・山背姫王とともに伊勢神宮に遣わされた。

            9月 夫、天武天皇崩御

           10月 大津皇子の変で、姉常陸娘の娘、山辺皇女殉死。

689持統3年 37歳 4月 草壁皇子薨去

691持統5年 39歳 1月 穂積皇子に浄広弐で封戸五百戸

               この頃、但馬皇女と密通事件により謹慎。

697文武1年 45歳 8月 文武天皇即位

699文武 年 47歳 7月 紀皇女を愛した弓削皇子薨去

704慶雲1年 52歳 1月 穂積皇子に封百戸を益す。正三位

705慶雲2年 53歳 9月 穂積皇子、知太政官事

710和銅3年 58歳    平城京遷都、紀皇女の愛人、石田王没

715和銅8年 63歳 7月 一品穂積親王薨去。

724神亀1年 72歳 7月 太蕤娘 没。 正二位を贈られる。

728神亀5年     3月 二品 娘の田形皇女薨去

 

600 44444555555555566666667777777777

年   89012345678901234567890123456789

天智天皇―――――――30―――――――38―――――――46

蘇我赤兄――――30―――――――――40―――――――――50

常陸娘 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――?

山辺皇女               @ABCDEFGHIJKLMNO―

太蕤娘      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

穂積皇子                        @ABCDEFG―

紀皇女                           @ABCDE―

田形皇女                            @ABC―

 

年齢推定は本稿で推定した息子、穂積皇子の出産を20歳としました。

 

夫人のなかでも没年のわかる希少な方です。続日本紀によれば、724神亀元年7月13日まで生き続けた長寿の持ち主です。天武天皇夫人のなかで一番長生きをし、最後まで生き残った夫人です。

夫人・正三位石川朝臣太蕤比売と紹介され、従三位阿倍朝臣広庭、正四位下石川朝臣石足らを派遣して、葬儀を監督・護衛された。また、正三位の大伴朝臣旅人らを派遣して、邸宅において詔をのべ、正二位を追贈した。また、絁(あしぎぬ)三百疋、絹糸四百絇(く)、麻布四百端を賜るなど至れり尽くせりです。

 

太蕤娘の記録はほとんどありませんが、天武天皇の子供を3人も産んでいることから、穀媛娘の4人に次ぐ天武天皇からは愛された女性と考えていいのではないかと思います。

しかし、天武天皇が崩御されると事情は一変します。同様に愛された穀媛娘とは一線を画し、逆に鸕野皇后に媚びへつらうようにも見える生き残り策にでます。

 

それは唯一歴史上にあらわれた太蕤娘の行動記録です。

686朱鳥元年4月27日 太蕤娘こと石川夫人は多紀(託基)皇女・山背姫王とともに伊勢神宮に遣わされたという記事です。多紀皇女とは同じく愛された天武天皇の夫人の穀媛娘の娘です。山背姫王はわかりません。ひとりの天武天皇夫人がもう一人の天武夫人の娘を連れて伊勢神宮に行ったというものです。

 

一般的には天武天皇病気平癒祈願といわれており、事実その年の9月9日に天武天皇は崩御されます。しかし、見方を変え歴代齋王の軌跡を追ってみると大津事件と密接につながる持統天皇の考えぬかれた行動だったことがわかってきます。天武天皇崩御の翌月10月2日、大津皇子の謀反が発覚したということで大津皇子が捕らえられすぐ翌日には殺されます。さらに11月17日大津皇子の姉大伯皇女が伊勢齋王を引きずり下ろされるように伊勢から退下します。

 

そのあと、この託基皇女が新しい齋王として伊勢に遣わされるのです。この大津事件では大津皇子の妃となっていた太蕤娘の姉の娘山辺皇女が、大津皇子の死にあわせて殉死しています。

一方、太蕤娘はそんな厳しい世情の中で徹底して持統天皇に協力します。このことで自分の命と子供達の繁栄を勝ち得たていきます。

その努力の成果でしょうか。息子の穂積皇子は順調に出世していきます。また、持統天皇存命中は太蕤娘の皇女らは母から引き離され、斎王として伊勢に送られることはありませんでした。太蕤娘の生き方は父、蘇我赤兄のそれと同一の考え方があったようにも見えます。

 

それにしても太蕤娘の「蕤」ぬ、とはひどい字で「奴」と訓じます。蕤は中国語でズイと発音し花が垂れ下がるさまをいうそうです。岩波版の注釈によれば、字音、儒隹切。呉系の字音はヌイ。これをヌにあてた。当時の中国語にはヌ(nu)という音節が無かったので、いろいろな文字を日本語のヌにあてて使った、とあります。漢和辞典には@花のたれさがるさま、Aさがる、B飾り、とあります。釈日本紀では本来は「美」といい、日本書紀通釈によると、「玉の義」とありますが、本居宣長は蕤に玉の意味はないとしているとも紹介しています。

旧本、異本では草冠が小さくなり「豕」の上にのり右に「生」と書かれたり、草冠がなく、単に「豕」辺に右に「生」と書かれたりしています。違いは調べていませんが、どちらも「豚」のことでしょう。

日本書紀の編者のひとり、穀媛娘の息子でもある忍壁皇子らが憎しみを込めて消極的表現で罵倒したのかもしれません。蘇我家に関わる人はみな変な当て字が使われており、太蕤娘も例外ではありませんでした。親が娘に付ける名前、天皇夫人に付ける名前としては不自然で、少なくとも「蕤」「奴」ではなかったはずです。

 

以下に太蕤娘の子供達、穂積皇子、紀皇女、田形皇女の調査結果を書き連ねました。穂積皇子のSMまがいの少女趣味、紀皇女の関係した若い男達をつぎつぎ取り殺すように見える悲しい性、温和しいが兄姉の影響を受けながらも静かに若い男を保護しつづけた田形皇女と、自分の勉強不足と資料が少ないことから、空想が膨らんでしまいました。

 

田形皇女の高齢出産など紀皇女とともに本当の年齢はもう少し年下とも考えていますが本主旨に添い、根拠の見当たらない場合には2歳差の兄弟、姉妹としました。根拠なく変更することはしていません。

紀皇女、田形皇女の年齢がもっと下がる要素

1.紀皇女―愛人としての文武天皇、石田王、高安王の年齢が若すぎること。

      没年齢死亡年わからない皇女のわりには46歳と高すぎる。

2.田形皇女―夫としての身人部王の年齢が若すぎる。

       娘の出産が34歳となり高すぎる。

 

 

蘇我赤兄の年齢 そがのあかえ

623推古31生 〜 672天武1年没 50歳 扶桑略記、公卿補任

 

父  蘇我倉麻呂

母  不詳

子  姉 常陸娘(後の天智天皇夫人、山辺皇女を産む)

   妹 太蕤娘(後の天武天皇夫人、穂積皇子、紀皇子、田形皇女を産む)

 

蘇我稲目―┬―堅塩媛(欽明夫人)

     ├―小姉君(欽明夫人)

     ├―馬子―┬―蝦夷(645没)――入鹿(645没)

     |    ├―倉麻呂―┬―倉山田石川麻呂―┬―遠智娘(天智夫人)

     |    |     |   (649没)├――姪娘(天智夫人)

     |    |     |         └――乳娘(孝徳夫人)

     |    |     ├―連子(武羅自)―┬―安麻呂

     |    |     |(664没54歳)└――娼子(中臣不比等夫人)

     |    |     ├―赤兄―――┬――――常陸娘(天智夫人)

     |    |     |      └――――(天武夫人)

     |    |     └―日向(武蔵)

     |    ├―法提郎媛

     |    |   ―――古人大兄皇子――――倭姫王(天智皇后)

     |    | 舒明天皇   (645没)

     |    └―刀自古郎女

     └―石寸名    ―――山背大兄王(643没)

        ―――聖徳太子

       用明天皇

 

600 44444555555555566666667777777777

年   89012345678901234567890123456789

天智天皇―――――――30―――――――38―――――――46

蘇我赤兄――――30―――――――――40―――――――――50

常陸娘 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――?

山辺皇女               @ABCDEFGHIJKLMNO―

太蕤娘      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

穂積皇子                        @ABCDEFG―

紀皇女                           @ABCDE―

田形皇女                            @ABC―

 

蘇我赤兄は蘇我馬子の孫にあたり、蘇我倉麻呂の知られている3人の子なかで2番目に当たります。1番目は倉山田石川麻呂です。赤兄同様、天智天皇に嫁とついだ遠智娘、姪娘の父です。3番目が蘇我日向(武蔵)で兄の倉山田石川麻呂の長女、天智天皇に嫁ぐ予定であった娘を奪うことになる男です。

蘇我赤兄の年齢は扶桑略記や公卿補任によれば、672天武元年壬申の乱で大友皇子側が破れ、配流されたときが50歳とあります。天智天皇より3歳年上の同年齢世代の参謀と考えていいと思います。ちなみに、天智天皇に嫁いだ常陸娘が産んだ山辺皇女はその後、大津皇子と結ばれますので彼と同年齢とし、その山辺皇女を20歳で産んだとすると、常陸娘は蘇我赤兄が22歳のときの子ということになり妥当なものです。

 

もう少し、赤兄をまとめておきます。有間皇子の変との関わりが有名なので少し触れます。658斉明4年、湯治へ行く中大兄皇子らに都の留守を任されていた蘇我赤兄が、有間皇子の邸宅を訪れ斉明天皇の政治の「三失」を指摘し謀反を画策したというものです。「三失」とは「民への重い税金」「狂心渠と呼ばれた土木工事による疲労」「石山丘の築造」などのことだといいます。有間皇子は孝徳天皇の長子であり、その孝徳天皇が前年死亡、さらに、天智天皇の息子健皇子も死んだことから、彼が天皇継承者第一人者と思われ始めたときでもあります。このとき赤兄36歳。ところがこの赤兄は有間皇子に失政を批難しながら、その足で中大兄皇子と斉明天皇に有間皇子が謀反を画策していると密告するのです。有間皇子はすぐ捕らえられ処刑されてしまいます。陰謀といわれる所以です。

 

いずれにせよ、天智天皇に終生よく従った近習といえます。むしろ649大化5年27歳のとき兄、倉山田麻呂を殺した天智天皇を恐れ、終生、忠誠を尽くした男のようにも見えます。有間皇子への陰謀の首謀者となり、そのすぐあと、自分の娘、常陸娘を天智天皇に納めています。また、天智天皇が天武天皇へ娘達(大江皇女や新田部皇女)を入れているのを見るや自分も太蕤娘を天武天皇へ娘を納めています。

 

669天智8年、筑紫率(大宰帥)に就任。藤原鎌足の死に際し、勅命で詔を読み、周囲に存在感を示しています。

671天智10年、天智天皇の子、大友皇子が太政大臣に就くのに合わせて左大臣に就任しています。天智天皇の子、大友皇子の後見ともいうべき立場にいたことになります。

 

最後、壬申の乱により子らとともに流罪に処せられる。右大臣、中臣金が処刑されたのに、左大臣、蘇我赤江は流罪ですんだのです。

その後の消息はしれないので、ここではこのときを彼の死として定めておきます。時に672天武元年。土佐の豪族、安芸(安喜)氏が蘇我赤兄の裔を称しているところから、彼は土佐に流されたのかもしれません。それとも若い頃地方でドサまわりでもしていたものか。いずれにしろ、孫娘が大津皇子と非業の死を迎えたことを、赤兄は知らないで死ねたようです。

 

山辺皇女の母、常陸娘は、663年ごろ、天智天皇晩年38歳前後に山辺皇女を生んだことになります。つまり、斉明天皇が亡くなり、その息子である、中大兄皇子が天智天皇として立とうとするときに、赤兄より捧げられた女というわけです。

 

これは想像の域をでませんが、蘇我赤兄ははじめ、娘二人を天智天皇に嫁がせようとした気がします、兄、山田右大臣をまねたのです。それを天智天皇が拒み、一人は弟の大海人皇子に譲ります。なにしろ、天智天皇にとって、この二人の娘は小娘同然の年齢差があったからです。身が持たん。一人は弟に譲ると言ったのかもしれません。

こうしてこの常陸娘の妹、太蕤娘は蘇我赤兄の意に反し、大海人皇子の妃になります。将来、壬申の乱では、敵側となったこの娘に命を救われる一助になるのですから、小説よりおもしろい。

 

 

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