天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
弓削皇子の年齢 ゆげのみこ First update 2009/02/20
Last update 2011/01/29 699文武3年7月21日薨去 続日本紀 674天武3年生 〜699文武3年没 26歳 本稿主張 674天武3年前後生 〜699文武3年没 26歳前後 直木孝次郎氏 676−686朱鳥1年生〜699文武3年没 14−24歳 青木和夫氏 父 天武天皇 母 大江皇女 天智天皇の娘 699文武3年12月薨去 兄 長皇子 670天智 9年生〜715和銅8年没 46歳(本稿主張) 義妹 紀皇女 太蕤娘の娘 義母 額田王 蘇我赤兄――――――太蕤娘 ├―――穂積皇子 額田王 ├―――田形皇女 | ├―――紀皇女 天武天皇 | 遠智娘 | ├―――弓削皇子 ├――――持統天皇| 天智天皇 ├―――長皇子 ├――――――大江皇女 ├――――――川島皇子 色夫古娘 【弓削皇子 関連年表】 674天武 3年 1歳 弓削皇子が産まれる。(本稿) 679天武 8年 6歳 吉野の盟約に叔父、川島皇子が参加。 686朱鳥 1年13歳 天武天皇崩御 689持統 3年16歳 草壁皇子薨去(28歳) 693持統 7年20歳 長皇子(24歳)、弓削皇子に浄広弐位を授けられる。 吉野行幸に同行のおり里の額田王(51歳)に歌を送る。 696持統10年23歳 皇族会議にて弓削皇子、葛野王に叱責される。(懐風藻) 697文武 1年24歳 文武天皇即位(15歳) 698文武 2年25歳 紀皇女への秘められた愛の歌 699文武 3年26歳 7月21日、次男、浄広弐位弓削皇子薨去 12月3日、母、 浄広弐位大江皇女薨去 600 7777777888888888899999999990000 年 年 3456789012345678901234567890123 齢 大江皇女 S21――――――――30―――――――――40―――――46 弓削皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26 長 皇子 CDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――46 弓削皇子の年齢根拠 大江皇女の下の息子、弓削皇子は693持統7年に兄の長皇子とともに浄広弐位を授けられています。位制からこのときの年齢を20歳にしました。本来は21歳なのですが、なぜか天武天皇皇子は20歳の昇格記事が多い事、また2年後、舎人皇子がやはり20歳で浄広弐位を得ていることから693持統年を20歳としました。その結果、享年は26歳となります。なお、直木孝次郎氏も26,27歳と表記しておられます。 なお、母、大江皇女はこの息子と同年699年に亡くなっています。続日本紀によれば、699文武3年にはいろいろな人が死んでいるのです。 1月28日、浄広参の坂合部女王が卒した。 6月23日、浄広参の日向王が卒した。 6月27日、浄大肆の春日王が卒した。 7月21日、浄広弐の弓削皇子が薨じた。 9月25日、新田部皇女が薨じた。天智天皇の皇女である。 12月3日、浄広弐の大江皇女が薨じだ。天智天皇の皇女である。 次男、弓削皇子は流行病で死に、その可愛い子の看病疲れで母、大江皇女は死んだものか。疫病はその近辺に親しいものをつぎつぎ巻き込んでいったようです。大江皇女にとって新田部皇女はやはり天智天皇の娘で、天武天皇妃となり弓削皇子と年齢2歳ちがいの舎人皇子を産んだ義妹です。
春日王は万葉集に弓削皇子と併記されていることからも親しい間柄であったことがわかります。坂合部女王、日向王はよくわかりません。
この二人は同じ文武3年に亡くなりました。春日王が6月27日、弓削皇子が7月21日です。春日王がどのような人物なのかよくわかりません。ただ、位が浄広肆(従五位下相当)で卒したとき朝廷から弔いの使者があり物を賜った、とあることから身分の高い男性と思われます。非常に親しい間柄といえます。はじめ女性として捉えました。今もその思いは捨てきれません。 一般に「私は長くは生きられない」と弓削皇子のつぶやきをそばにいたこの春日王が「そんなことはありません。あなたは永遠に生きるでしょう。」という解釈が多くみられます。しかしこれは我々がこの二人が近くに死ぬことを知ったうえでの解釈と思います。むしろ万葉集の編者の作為的な歌の配置を感じます。 万葉集はこのあとA244の歌として、柿本人麻呂の歌を、弓削皇子の歌とほとんど同じ文言の歌を続けて載せています。まるで弓削皇子の歌はこの柿本人麻呂の歌を引用したものだと言わんばかりです。 万葉集の編者もこの弓削皇子の歌を吉野で「遊」ばれたときの歌とはっきり書います。本来はもっと軽い意味だったのではないでしょうか。軽いとは失礼だったかもしれません。現代流に考えると、社長の御曹司が社会人となり、父の会社の取締役に就任したさい感じた、自分の務まるのかといった大小の差はあるにしろ青年一般の抱える社会参加への不安と思えるのです。 続日本紀698文武2年の記事、 3月 7日、越後国に疫病の流行の報告により、医師と薬を送り救済した。 4月 3日。近江、紀伊の二国に疫病がはやった。医師・薬を送り治療させた。 5月 1日、諸国に旱害が起きた。そこで、幣帛を諸国の神社に奉った。 5月 5日、使いを京と畿内に遣わし、名山、大川に雨乞いをした。 翌699文武3年1月27日、内薬官の桑原加都に公務に勤勉であるとして直広肆の位を授け、連の姓を賜る。 このとき、流行病が宮廷をも巻き込んだ大きな猛威をふるったものであることがわかります。 699文武3年7月21日浄広弐で弓削皇子は薨去されました。続日本紀には、浄広肆の大石王、直広参の路真人大人らを遣わし喪葬のことを指揮させた、とあり、天武天皇の第六皇子とあります。とても反逆者と見えない朝廷からの重い扱いです。 弓削皇子病弱説や暗殺説を否定した上で、弓削皇子の被った事件の彼の行動記録を検討します。 まず、額田王への「いにしへに恋ふる鳥」の歌を送った経緯を検討します。
この歌は持統天皇が吉野へ行幸のおり、同行した弓削皇子が里にいる額田王に対し詠まれたものと言われます。伊藤博氏は693持統7年のこととしておられます。この年、弓削皇子は兄長皇子とともに、無位から浄広弐位を初めて授けられました。20歳と考えます。額田王は51歳です。父天武天皇の夫人だった人であり、義母にあたるわけです。30歳も年上の女性に対し、しかも名のある宮廷歌人に対し、こんな歌を送ったのです。 しかもこのとき本稿の試算では、額田王は親しかった中臣朝臣大嶋と死別したばかりであり、意気消沈していたはずです。 なぜ「古(いにしえ)」の鳥なのでしょう。なぜ「御井の上から」なのでしょう。どの解説書もすでにいない天武天皇の思い出と解釈しています。ではなぜ、今さら現役を引退した大和にいる額田王宛の歌なのでしょう。 その答えを額田王は即座に答えています。
額田王も息子同様の年の皇子より突然の歌を送られ驚いたことでしょう。しかし、この頭のよい歌姫は即座にこの歌の意味を理解しました。 額田王は弓削皇子の歌を「この鳥は何でしょう」という謎かけと捉え、いにしえに恋慕う鳥の名はホトトギスです、と回答したのです。ホトトギスとはどの解説書にもあるように冥界を行き来する鳥です。 しかし、額田王はこのあと、そっと切り返しています。もしかしたらその鳥は鳴きませんでしたか、と。今私が泣いていたように。 吉野で天武天皇の思い出を詠った若者の歌を額田王はそれに素直に答えながら、自分の今の思いを重ねたのです。この時、最愛の中臣朝臣大嶋を亡くしたばかりなのです。 しかも額田王はこの歌で満足することなく、もう一首を作り吉野に送ったことになります。一つの歌に二つの返歌をしたことになります。これは尋常なことではありません。自分の気持ちがこの歌だけでは収まらなかったのでしょうか。 もう一つの歌は苔の付いた松の枝に対して返礼した形を採ったと思われます。一般に「松之枝」は弓削皇子の歌に添えられたものとしていますが、本稿では、これは別のもので、逆に歌が添えられていないこの「松之枝」だけが送られたものと解釈しました。するとこの「松之枝」の送り主は誰なのでしょう。持統天皇だと思います。弓削皇子の歌に持統天皇が添えたのかもしれませんが、むしろ持統天皇がこの額田王に「松之枝」を送る際に、若い弓削皇子に歌を添えるよう命じたのかもしれません。 この歌は弓削皇子へのやさしい語り口の返歌と違い毅然としています。かえって万葉集の編者のほうがト書きで謙っています。「松之枝」を遣られたとか、額田王が奉ったといった最上級者への表現をします。額田王と持統天皇の関係は必ずしも良好であったとは思えません。同じ天武天皇の妻であり先輩夫人、しかも父の愛人にして優秀な宮廷歌人。持統天皇は、額田王がその後同棲していた藤原朝臣大嶋が亡くなったこのとき、額田王に苔の付いたきたならしい松の枝を送ったのです。あなたの時代は完全に終わった、と。 それに対する額田王の答えはふるっています。誰から贈られたのかすぐにわかったのではないでしょうか。とぼけて弓削皇子への返事のような書き方です。逆手にとり「玉松が枝は はしきかも」、「はしきかも」とはかわいい、いとおしいという、さらに賛美の気持ちを伴う言い方といいます。しかも「通はく」はク語法と言われ、体言止めに似て詠嘆がこもるとあり感動を示していますが、儀礼的ともいえます。 折口信夫氏は、口語訳万葉集で「贈答の歌に溢れる如き才能を持って、高貴の方々に愛せられた女王の風貌の思われる歌。併し、どことなく男性的なよみ口である。」と感想を漏らしておられます。一見、弓削皇子への返歌のようですが、明らかに口調が違います。額田王は誰からともわからないこの松の枝に最大限の賛美をもって返歌したのです。 同じ夫をもった中年女性二人が散らした一瞬の火花でした。 これらの歌には次のような後日談があるように思います。
無神経な歌を喪中の額田王に図らずも送ってしまった若者の純粋な後悔の歌と感じます。 額田王の悲しいホトトギスの返歌を見て気が付いたものか、親族や友人らから喪中の額田王のことを諭されたのかもしれません。それ以来、ホトトギスと聞けば、自分の額田王への情けない行動に申し訳ない気持ちでいっぱいになったことでしょう。傷つきやすい若者の思いです。 一般的に、吉井巌氏が言われるように「弓削皇子の非俗孤独の姿勢がうかがわれてよいのである。」普通「(この頃からか)渡り鳥である霍公鳥の声に時を知る生活があって、やがて季節感の成熟とともに、霍公鳥は風雅の美意識のもとに捉えられる素材となり、それが藤原から奈良への宮廷貴族の風雅の世界に育てられて、万葉集霍公鳥の歌の伝統の成立となったのであろう。」「(万葉集)における霍公鳥のあり方を眺めた場合、本節冒頭にあげた弓削皇子の作は例外と感じられはしないか。霍公鳥の居ぬ国に行きたいと言い、その声をきけば苦しいと歌うのはたしかに異例である。」 本稿では弓削皇子を病弱で孤独な変わり者とは描きません。吉井巌氏が「私注」を引用されたように「ほととぎすの声を、聞くに堪へぬまで苦しく感ずるというのは其の声に連想される特別な経験がある為と思われる」とあるとおりで、それ以上でもそれ以下でもないのです。 弓削皇子の変人扱いするような性格をこの歌から推し量る前に、単に霍公鳥の歌への失敗談と考えるほうが無難です。ここであえて弓削皇子の性格を云々するならば傷つきやすいやさしい性格の持ち主ではなかったかと思うのですがどうでしょう。 もう少し先を見ていきます。 かどののおう 705慶雲2年12月20日卒(続日本紀) 669天智8年生まれ 〜 705慶雲2年 37歳没 (懐風藻) 祖父 天智天皇 626推古34年生〜671天智10年没46歳崩御(日本書紀) 父 大友皇子 648大化 4年生〜672天武 1年 25歳没 (懐風藻) 母 十市皇女 天武天皇と額田王の皇女(懐風藻) 子 池辺王 703大宝3年生? 727年、無位より従五位下を受位。 この年を25歳と推理した年齢 孫 淡海三船 722養老 6年生〜785延暦 4年没 64歳没 【懐風藻が主張する系図】 天智天皇――――――大友皇子 | ├―――葛野王――――池辺王――――淡海三船 | 額田王 | | ├―――十市皇女 | 天武天皇 | ├――――長皇子 | ├――――弓削皇子 ├―――大江皇女 色夫古娘 【葛野王の関連年表】 669天智 8年 降誕。母は十市皇女(懐風藻) 1歳 672天武 1年 壬申の乱。父、大友皇子(25歳)自殺。 4歳 686朱鳥 1年 天武天皇崩御。 18歳 689持統 3年 4月13日 草壁皇子薨去(28歳) 21歳 693持統 7年 1月 2日 長皇子(24歳)、弓削皇子に浄広弐位を授けられる。 696持統10年 7月10日 太政大臣、高市皇子薨去。 28歳 皇族会議にて弓削皇子(23歳)を葛野王が叱責する。(懐風藻) 697持統11年 1月 7日 公卿大夫等に饗を賜る。白馬の節会 29歳 1月16日 公卿百寮 に饗を賜る。踏歌の節会 2月28日 軽皇子の立太子。 697文武 1年 8月 1日 持統天皇(53歳)譲位され文武天皇(15歳)即位。 705慶雲 2年12月20日 正四位上葛野王卒(続日本紀) 37歳 600 77777777888888888899999999990000 年 年 23456789012345678901234567890123 齢 大友皇子 25 葛野王 CDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――― 37 天武天皇 ――――――――――――――崩 草壁皇子 JKLMNOPQRS―――――――28 高市皇子 KLMNOPQRS―――――――――30―――――36(本稿) 軽皇子 @ABCDEFGHIJKLM即OPQRS――25 弓削皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――位―26(本稿) 長 皇子 CDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30(本稿)―46 懐風藻によれば、葛野王は天智天皇と長子大友皇子と天武天皇の長女十市皇女の子といいます。葛野王のこれから述べる弓削皇子叱責は有名です。天武天皇が崩御後、大津天皇が謀反の罪で排斥され、持統天皇がこれを引き継ぎますが、頼みの息子、草壁皇子が死に、高市皇子も相継ぎ死んで(695持統9年)しまいます。次の天皇を誰にするのか。そこで、皇位を定める会議のなかでこの葛野王が衆議を一つにして子孫相承を唱えることで、死んだ草壁皇子の子軽皇子こと文武こそ天皇にと提唱し、反対するものを退けたとあります。たぶん696持統10年のことでしたでしょう。 その会議において持統天皇は高市皇子が薨去され、時の群臣に自分の次の皇太子には誰がよいかと御下問します。むろん持統天皇には自分の孫、文武天皇(そのときはまだ軽皇子)をとの気持ちが決まっています。懐風藻によれば議論は紛糾していたといいます。そこに葛野王が颯爽と立ち上がり、血筋を優先すべきと高らかに宣言したのです。そんなとき、弓削皇子が一言いいたい模様であったものを叱りつけ抑えたと書かれています。葛野王の一言で皇継が定まったとして持統天皇は喜んだというものです。 このことで葛野王は正四位を授かり、式部卿になったというものです。 その翌年、697文武元年15歳の軽皇子が文武天皇として即位したのです。 大変重要な部分なので全文を示します。 懐風藻 葛野王小伝
果たしてそんなことがあったのでしょうか。 以下にこの文面の不実を列挙していきましが、その前に一つ注意しておきます。この文の最後に書かれた「時年三十七」の意味ですが、彼の没年齢を指しています。梅原猛氏などはこれをこの会議された時、持統10年を37歳とされていますが、これは間違いです。懐風藻全体の小伝を分析するにこの「時年」とは没年齢であることは明らかで、たいがいの解説書もそう訳されています。 まず、葛野王は天智天皇と天武天皇の両天皇の孫と自称するものであり、懐風藻作者と言われる淡海真人三船の祖先で、この懐風藻の証言で真人姓を得、恩恵を受けています。そんな者が作製した懐風藻はきわめて一方的で懐疑的な代物です。少なくとも、自分の祖先と称するものへの敬意は常軌を逸しています。わが祖先である葛野王は血筋正しく、頭脳明晰、勉強家で、風貌正しく、書画風流に長けた人物と書き綴っています。本当でしょうか。 次に、持統天皇の思いは会議を開くまでもなく、すでにすべての群臣が理解し、ことはすでに決まっていたはずです。絶対権力者のこの頃の天皇の発言に逆らうはずもありません。ましてや中国の高帝の妻、恐ろしい文后を自称する持統天皇です。今までにも大津皇子をはじめ自分の敵を次々抹殺してきた女性に対してです。仮に百歩譲って弓削皇子に兄を思う気持ちが合ったとしても、あくまで酒の上での政治談義程度であり、公然と天皇の御前で発言しようとしたなどありえることではありません。 会議では、群臣は各々が私情を持ち出し議論は紛糾したと書かれています。これも本当でしょうか。本稿の贔屓目からでしょうか、天武天皇が残した組織がそんなに短期間に崩れ去っていたとは思えません。議論は素早く集約され、この若い国家をどう進めるか前向きな場であったと想像します。誰をではなく何時、文武天皇として即位させたらよいかということに話題は集中していたのではないでしょうか。どうもこの懐風藻の想定した会議の雰囲気は後の作者、淡海真人三船の寺などでの衆議経験が色濃く繁栄したものに思えます。 それにしてもこの話はよく出来ています。皇太子草壁皇子が亡くなり、第二候補の大津皇子が殺され、第三の高市皇子も亡くなりました。すると第四皇子の兄、長皇子が急浮上するとしてもおかしくありません。これに対し、持統天皇の孫、軽皇子はまだ14歳です。 しかもこの話よく読んでみると弓削皇子がはっきり会議で発言したとは書いてありません。もぞもぞしていた弓削皇子を内々に叱りとばしたというものです。「弓削皇子在座(弓削皇子がこの座にいた)。欲有言(何か言うとなされた)。王子叱之(葛野王これを叱る)。乃止(すなわち止める)。」なかったのかもしれないということです。あったとしてもどんな発言をしようとしたのか。 また、こうした会議での持統天皇へのおべっか使いといえる葛野王の発言はありえそうな話です。 そんな葛野王が弓削皇子を叱責したといいます。これにも疑問が残ります。立場や身分の問題です。問題の持統10年時、弓削皇子は浄広二の天武天皇の皇子で、本稿の計算では23歳です。葛野王は懐風藻によれば、淨大四の天智天皇の孫で28歳となります。儒教観念に過敏な懐風藻の登場人物、葛野王が、年が少し上というだけで、自分より身分の高い天武天皇の皇子を公衆の会議の席上で叱責したなど信じられません。 この葛野王の小伝にはさらに気負いからか、思わぬ間違いがあります。「皇太后はその一言で国が定まったことを喜び、特に正四位を授けられた」とありますが、持統10年当時、正四位という官位はまだありません。大宝令による701大宝元年3月21日を待たねばなりません。善意に解釈しても、この正四位はこの会議での功績で官位が与えられたものではなく、少なくとも5年後となります。単なる記憶違いなのでしょうか。それともこの昇進はこの会議などはなく、後の別のたゆまぬ小官僚としての努力による成果だったではないでしょうか。 まだまだありますがここでは触れません。例えば、天武天皇の長女、十市皇女の子が葛野王というものにも大いに不満です。十市皇女が葛野王を生むことなどありえないことは十市皇女の項で述べます。 後に、本稿ではこの懐風藻の文章全部を否定しました。この文が日本の歴史解釈を歪めた張本人だと考えたからです。弓削皇子を貶め、十市皇女を辱め、その母、額田王の年齢を引き上げ、よって天武天皇の年齢さえ引き上げる要因を作ったのです。このことは、「まとめ」と「考察」で検討します。 ここでは、弓削皇子の叱責事件が無実無根であることのみを証明しました。 その後の兄、長皇子は順調に官位が上がりました。薨去されたとき一品(二品という説もあり)とあります。特に官位が遅れたとか得られなかったということはありません。しかし、公職に就くことはありませんでした。私には彼の能力の限界を感じています。遊び人だと自他ともに認めていたのではないでしょうか。子供は沢山つくったようです。しかし身分の高い夫人の名は皆無です。 本人の弓削皇子ですが官位はそのまま、2年後に病死しました。しかし、問題の会議の翌年には、紀皇女との不倫など血気盛んなところを見せています。 梅原猛氏などは高松塚古墳の被葬者をこの弓削皇子に比定しました。この叱責事件を重く見られ殺されたというものです。もっとも、有坂隆道氏「古代史を解く鍵」講談社学術文庫によれば高松古墳は6世紀の古墳だから違うと梅原説を笑止と叱責しています。本稿でも弓削皇子はあきらかに病死であると断定しました。殺されたとは思えません。 直木孝次郎氏は「忍壁皇子」のなかで、葛野王の逸話がそれ以前、忍壁皇子に対してもあったと紹介しています。この発言は重要です。私はむしろ逆に、まず忍壁皇子の追放事件があって、その後この弓削皇子の話が逆に懐風藻の作者によりねつ造されたのではないかと考えています。この忍壁皇子の生涯出世できなかったこと、弟、磯城皇子の消息不明で生没不明であることの事実のほうが切実と思うのです。 このことは、磯城皇子の項で語る予定です。 万葉集に「紀皇女を思ふ歌」という弓削皇子の歌があることからこの頃、弓削皇子とも恋仲であり、本稿では同年齢と考えています。 密会の恋愛歌でありながら、ひやひやさせる部分があるといいます。
紀皇女には親が決めた男がいました。密会を重ねるしかありません。 義兄大津皇子は草壁皇太子の妾を自分のものにし、その母である持統天皇に殺されています。
A120と類歌といえますが、こちらのほうが深刻です。死んだ方がましとまで言っているからです。 死ぬ死ぬいう男に少し真剣さを疑いますが、ここまで深刻にさせるとは、たぶん女のほうもそれなりのポーズを示したはずです。それにこの単細胞男が一方的に燃え上がってしまったのです。ところが、何らかの事情で恋を成就できずにいると考えるしかありません。女のほうも今の夫との関係を壊してまでして弓削皇子のもとに走る気配はないようです。 女がはっきり拒否していたのなら、よっぽどの馬鹿でないかぎり、熱は冷めていくものです。 しかし、その前に699年の流行病で弓削皇子はあっけなく死んでしまいます。 長い恋愛期間があったわけではありません。万葉集の配列から、前の歌が697持統11年頃と言われますから、その翌年のこととすれば、この恋は弓削皇子が亡くなる前年です。 男性が亡くなってしまうから、事が大事になったと考えられます。一方的に燃え上がり死んでしまった男に対し紀皇女も迷惑したのではないでしょうか。 じつは、柿本人麻呂から見た弓削皇子を描けるとも考えていますが、本稿の主旨を大きく逸脱するため今はやめます。弓削皇子のサロンに出入りし、多くの献歌を残した意味、また柿本人麻呂が残した数々の天皇皇子への挽歌のなかになぜ弓削皇子のものがないのか。思いは膨らみます。 そういえば、弓削皇子の子女の情報はありません。 そのせいか、子供っぽさの残る皇子のように見えます。川崎庸之氏は「一種独特な才気を弄ぶ人であった」と重々しく語られておりますが、軽いのりのそれでいて少し危うさを伴う男であったのではないかと思います。それには心根のやさしい傷つきやすい性格がなせる技といえそうです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |