天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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長皇子の年齢 ながのみこ

First update 2008/06/29 Last update 2011/01/29

 

             715和銅8年6月4日薨去   続日本紀

670天智 9年生   〜715和銅8年没 46歳    本稿主張

666天智 5年生   〜715和銅8年没 50歳    伊藤博など

676−686朱鳥1年生〜715和銅8年没 30−40歳 青木和夫氏

674天武3年前後生  〜715和銅8年没 42歳前後  直木孝次郎氏

 

長皇子は那我親王とも書かれ、弓削皇子の実兄になります。同じ大江皇女の息子です。続日本紀によれば第四皇子とあります。草壁、大津、舎人に次ぐ身分順と思われます。

 

父 天武天皇

母 大江皇女 天智天皇の娘    699文武3年12月薨去

弟 弓削皇子 674天武3年生 〜699文武3年 7月薨去26歳(本稿主張)

子 栗栖王(くるす)従三位中務卿 753天平勝宝5年10月薨去

  智努王(ちぬ )従二位大納言 693生〜770宝亀 1年10月薨去76歳

  大市王(おち )正二位大納言 704生〜780宝亀11年11月薨去77歳

  広瀬女王    従三位    765天平神護1年薨去

  一般に子は本朝皇胤紹運録などから9名と言われるが他にも多数いたと思われる。

 

              天武天皇

                ―――長 皇子

忍海造小竜――色夫古娘     ―――弓削皇子

         ――――大江皇女

         ――――川島皇子

         ――――泉 皇女

       天智天皇

 

【長皇子の関連年表】

670天智 9年 1歳 降誕(本稿)

672天武 1年 3歳 壬申の乱

674天武 3年 5歳 弓削皇子が産まれる。(本稿)

679天武 8年10歳 吉野の盟約に叔父、川島皇子が参加。

686朱鳥 1年17歳 天武天皇崩御

89持統 20歳 草壁皇子薨去(28歳)

693持統 7年24歳 長皇子、弓削皇子(20歳)に浄広弐位を授けられる。

696持統10年27歳 皇族会議にて弓削皇子、葛野王に叱責される。(懐風藻)

699文武 3年30歳 7月21日、次男、浄広弐位弓削皇子薨去(26歳)

            12月3日、母、 浄広弐位大江皇女薨去

704大宝 4年35歳 舎人、穂積、忍壁皇子らと二百戸加増。この時二品。

714和銅 7年45歳 舎人、新田部、志貴皇子と二百戸加増。この時二品。

715和銅 8年46歳 6月4日 一品長親王薨去。(二品説あり)

 

600 677777777778888888888999999999 年

年   901234567890123456789012456789 齢

川島皇子LMNOPQRS―――――――――30――――35  

大江皇女OPQRS―――――――――30―――――――――40―――――46

長 皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――3046

弓削皇子     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26

智努王                         @ABCDEF76

 

何かの文献で享年50歳(666天智5年生)という記事があったのを記憶しています。伊藤博氏もこれを採用しているようです。栗栖王のところで詳細に論じますが、本稿ではこれをとりません。それはここで設定した弟、弓削皇子との年齢差が8歳とさらに開くことになるからです。なぜ開きすぎるとまずいかというと、666年で長皇子を生んだとすると母、大江皇女の年齢も必然的に高くする必要があるからです。さらにこの大江皇女の実弟、川島皇子とも年齢が9歳と離れすぎてしまうことになるのです。

 

そこで、ここは兄弟そろって浄広弐位を授けられたことに注目しました。本来蔭位制から弟よりもっと前に授かることのできたはずのものが、弟が20歳のときに一緒にまとめて授位されたのには理由があると考えました。調べてみると689持統3年に皇太子草壁皇子が薨去された記事があり、ぴたり当てはまることがわかります。この年が長皇子20歳であり、浄広弐位を授けられる予定であったものが、皇太子薨去によってさきのばしにされたと考えました。むろんこの年は誰も授位されていません。長皇子は序列でも第四位で次の皇太子に最も近い存在だから持統天皇に疎まれていたのかもしれません。

 

長皇子は早世した弟弓削皇子とちがい46歳まで生きたと思われます。天武天皇家の血筋として高い位、二位を得ましたが役職についた記録はありません。また、万葉集に5つの歌が残されていますが、1つを除いてみな羈旅遊宴の作であって技巧的作風、錯雑な言葉使いといったが評論が見られ、個性を浮かび上がらせるものではないようです。お坊ちゃまでいっぱしの遊び人気取りです。子供もたくさんです。親は極楽蜻蛉、子供達はみな苦労したようです。

 

この除かれた歌がこの歌です。

 

長皇子与皇弟御歌一首 長皇子、皇弟に与る御歌一首

A130

丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 戀痛吾弟 乞通来祢

にふのかは せはわたらずて ゆくゆくと こひたしわがせ いでかよひこね

丹生の川 瀬は渡らずて ゆくゆくと 恋痛し我が背 いで通ひ来ね

羽生川の川瀬を渡らない 行く行くと言うばかり 恋しい我が君 さあ早く来て

 

相聞歌です。恋の歌のはずです。皇位争いに敗れ孤独な長皇子が弟に早く来てくれと呼びかけたという難解な解釈には賛成できません。以下の解釈は叱られるかもしれません。

 

これは弟、弓削皇子の紀皇女への恋心を兄である長皇子がおちょくっている歌だと思います。長皇子を弁護するとすれば、兄は弟の道ならぬ恋を心配しています。

女の立場で長皇子が弟弓削皇子に詠んだ歌であるといいます。そのこと自体、真剣さの気持ちが見えません。この歌が長皇子の苦悩する歌だとしても同じことで物事を真正面に捕らえていない証拠です。羽生の川は吉野川の支流です。吉野川を渡るに渡れない弓削皇子の紀皇女への恋の歌は弓削皇子の項で述べたとおりです。まさに長皇子はこの歌をもじったのです。その道に長けた兄が弟に何やってん、早くものにしていまえ、と弟をからかっています。紀皇女がすでに違う男のものであることを知っていたはずです。弟の苦悩を知りながらからかっているのです。

 

長親王は715和銅8年6月4日一品で薨去されました。天武天皇の第四皇子と書かれています。続日本紀には朝廷からの葬儀への応援は書かれていません。朝廷から疎まれていたと勘ぐるより、朝廷になんの貢献もしなかった男への当然の扱いのように思えます。753天平勝宝5年10月の中務卿従三位の栗栖王や780宝亀11年11月の前大納言正二位の七子文屋真人邑珍、さらに765天平神護1年10月従三位の広瀬女王の薨じた記録から長親王は二品と書かれています。本来は二品が正しいように見えます。もっとも、770宝亀元年10月の従二位文屋真人浄三の薨去記録からは父長親王を一品としています。追贈と考えるのが妥当なようですが、いつ贈られたのか脈絡がなくよくわかりません。

 

もう一つの検証方法として長皇子が残した子供たちの年齢です。

そのなかでも智努王の年齢が比較的確かなものです。717霊亀3年蔭位制により無位から従四位下に除せられました。25歳のことです。

 

600 888899999999990000000000011111 年

年   678901234567890123456789012345 齢

長 皇子PQRS―――――――――30―――――――――40―――――46

智努王        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――76

栗栖王              @ABCDEFGHIJKLMNOP―55

大市王                   @ABCDEFGHIJK―77

長田王                          @ABCD―

 

智努王(文屋真人浄三) 693持統7年生〜770宝亀1年没 76歳

 

本稿の年齢設定に従えば、長皇子24歳のときの子となり矛盾はないようです。かなりの高年齢のようですが、761天平宝字5年正月69歳のとき大納言に昇格し、高齢により杖、扇の使用が許されたとあり、天平宝字8年には高齢を理由に致仕を願い許されたものです。実際、晩年の高年齢での苦労が見えるようです。

 

しかし、他の息子達が皆70歳代の長寿であることには不信です。

例えば栗栖王(くろすおう)ですが、682天武11年生まれ7537天平勝宝5年10月薨去で72歳となります。一代要記に723天武11年壬子生まれとあります。しかし、天武11年は壬午に当たり矛盾します。このことが、長皇子の生まれを666天智5年に引き上げる一般説につながったと考えられます。この一般説では長皇子17歳のときの子となるかれです。ちなみに本稿説では13歳のときの子となってしまいます。さらに疑問が広がります。蔭位制により無位から従四位下を得た723養老7年が42歳では年齢が下りすぎています。また、聖武天皇時代、734天平6年歌壇での連盟表によると一門の位で栗栖王は長田王より劣るのです。正四位下長田王、従四位下栗栖王とあるからです。長田王が従四位を得るのは735天平7年4月のことです。これはあきらかに年齢が違うと判断した。上記の年齢表では無位から従四位下を得た723養老7年を25歳として表記しました。

 

また、大市(邑珍)王(おおちおう)にも疑問が残ります。続日本紀にはっきり77歳で薨去と記されているのですが、従四位を得た739天平11年には36歳だったことになります。また長皇子の第7子とあります。もっと年下でもいいのではないかとも思っています。もっとも蔭位制の天平11年を25歳とすると66歳で薨去となるわけですが、長皇子46歳で亡くなった年に生まれたことになりぎりぎりで不安も残ります。

 

だらだらと申し訳ありませんがもう少しお付き合いください。詰まるところ、長皇子には後世に混乱をきたすほどの子沢山だったといいたいわけなのですが。

 

さきほど少し述べた長田王ですが、長皇子の子とも孫とも言われています。ここでは子供と結論づけます。それは三代実録 859貞観1年10月23日条に広井女王の薨伝記事、「広井は二品長親王の後なり。曾祖二世従四位上長田王、祖従五位上広川王、父従五位上雄河王」とあるからです。つまり、これは長皇子の子が長田王と解釈できます。一方、日本古代氏族人名辞典ではこの三代実録の文を載せながら、長親王の孫としているのです。しかし、この広井女王の系譜関係に栗栖王の名がないのはおかしい。この頃の系図に途中を省くことはありえません。三代実録でははっきり「天武天皇―長親王―長田王―広川王―雄河王―広井女王」の系譜を示していたものと考えたいものです。その長田王の記録ですが。735天平7年4月、無位から従四位下に除せられました。「曾祖二世」とは天武天皇の二世という意味で、「従四位下」ですから長皇子の子のはずです。孫では従五位下でしょう。天平12年11月従四位上、同13年8月、刑部卿。没年ははっきりしません。天平12年を25歳とすると711和銅4年生まれ、長皇子42歳の晩年の子となります。長田王を孫とする理由は一代要記などの系図にあります。

 

<一代要記>  (ここでは智努王がだぶっています。)

 長皇子―智努王

    ―栗栖王長田王―浄原王―直世王        

            ―廣川王―雄法王―廣井女王   

                ―大原王―綿麻呂    

                    ―秋津     

        ―文屋真人(大納言従二位元智努王)―浄王

        ―大市(大納言正二位中務卿)      

        ―川内王(従三位)―高安王―高田女王  

                 ―櫻井王       

                 ―門部王―高橋清野  

        ―奈良王                

        ―茅沼王(大納言従二位智奴)      

        ―川斗王(大納言正二位中務卿)     

        ―境部王                

        ―上道廣川女王             

 

長皇子の子である一連の王を智努王と栗栖王以外すべて栗栖王の子としているのです。しかし、この系図をよく観察すると「智努王」と「文屋真人」が同一人物であり系図上にダブって登場しているところから、一代要記は元資料にあった二つの系図を合成し上記のような統合した系図を作成し間違ったと想像できるのです。しかし本来は長田王以下すべて長皇子の子とすべきと考えます。

この系図が後世の紹運録にも影響を与え、間違いに気付いたものの長田王だけが、三代実録の記述を尊重し長皇子の孫として残ってしまったものと考えられます。

 

<本朝皇胤紹運録>

 長皇子―栗栖王長田王―浄原王―直世王     

            ―廣川王―雄河王―廣井女王

    ―文屋真人浄三(元智奴王。従二大納言)  

        ―大原王―綿麻呂         

            ―秋津          

    ―大市(大納言正二位中務卿)       

    ―川内王(従三位)―高安王―高田女王   

             ―櫻井王        

             ―門部王―高橋清野   

    ―奈良                  

    ―茅沼女                 

    ―川斗王(大納言正二位中務卿)      

    ―境部王                 

    ―上道廣川女王              

 

<本来の系図>

 長皇子智奴王(文屋真人浄三。従二大納言)          

        ―大原王―綿麻呂                

            ―秋津                 

    ―栗栖王(従三位 中務卿)               

    ―長田王(従四位上刑部卿)               

        ―浄原王―直世王                

        ―廣川王―雄河王―廣井女王           

    ―大市王(大納言正二位中務卿)第七子とある       

    ―川内王(従三位)                   

    ―高安王(和銅6年従五位下)―高田女王         

    ―櫻井王(和銅7年従五位下)              

    ―門部王(和銅3年従五位下)―高橋清野         

    ―奈良                         

    ―茅沼女                        

    ―川斗王(大納言正二位中務卿)             

    ―境部王     (万葉集は穂積皇子の子とする)    

    ―上道王―廣川女王(万葉集は廣川女王を穂積皇子の孫)  

 

ここで、境部王と上道王は万葉集では穂積皇子の子としています。長皇子と穂積皇子は年齢的には1,2歳ほど長皇子が年上という程度の兄弟であり、蔭位制で検討してみても境部王と上道王はこのどちらかの兄弟の孫ではなく子とするに相応しい年齢といえます。穂積皇子の項を参照。

 

川内王の年齢矛盾(とりあえず、高安王、櫻井王、門部王にも系図の混乱が皇胤紹運録で正されなかったと考え修正しておきます。但し、年代的にはこの位置ですが、川内王一族そのものが長皇子の子孫でないのかもしれません。)、高安王の動向、智努女王と齋王のことなどまだまだ話は尽きません。ここはひとまずまとめとして次の点を述べて終わります。

 

賜姓降下(臣籍降下)

賜姓降下とは、元天皇の子孫が皇族の身分を離れ家名を賜うことです。815弘仁5年嵯峨天皇が自らの皇子ら32名を一挙に源氏名を名乗らせたのが初めといわれます。これは皇族が増え所得分配に限界が来たため、皇位継承のない皇族に身分を離れてもらうためです。

これが嵯峨天皇に先立ってこの長皇子の子供達からすでに本格的に始められたのだと思われます。それだけ長皇子の子供達の数が多く目立っていたのではないでしょうか。

一般にこの頃は五世に至ってはじめて皇室を離れていました。三世での臣籍降下は異例です。

 

文屋真人(ふみやのまひと)

751天平勝宝3年1月 大市王 文屋真人姓を賜う。邑珍(おおち)とも書く。

752天平勝宝4年9月 智努王 文室真人姓を賜う。のち浄三(きよみ)に改める。

 

 

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