天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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大江皇女の年齢 おおえのひめみこ 

First update 2009/2/22 Last update 2015/02/04

 

         699文武3年12月3日薨去 続日本紀

654白雉5年生〜699文武3年12月3日薨去 (46歳) 本稿

 

父  天智天皇 626推古34年生〜671天智10年 46歳(日本書紀)

母  忍海(おしぬみ)造小竜の娘、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)

夫  天武天皇 644皇極3年生 〜 686朱鳥1年 43歳

子供 長皇子  670天智9年生 〜 715和銅8年 46歳

   弓削皇子 674天武3年生 〜 699文武3年 26歳

弟妹 川嶋皇子 657斉明3年生 〜 691持統5年 35歳(懐風藻)

   泉皇女  659斉明5年生 〜 734天平6年 76歳

                      (年齢は本稿の主張によるもの)

 

              天武天皇

                ―――長皇子

忍海造小竜――色夫古娘     ―――弓削皇子

         ├――――大江皇女

         ├――――川嶋皇子

         ├――――泉 皇女

       天智天皇

 

600 445555555555666666666677777777

年   890123456789012345678901345678

天智天皇――――――29――――――――――――――――46

天武天皇DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――――

大江皇女      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――

長 皇子                      @ABCDEFGH

弓削皇子                          @ABCD

川嶋皇子         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――

泉皇女            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS

 

【大江皇女 関連年表】

654白雉 5年 1歳 降誕(本稿)

667天智 6年14歳 斉明天皇埋葬

670天智 9年17歳 長皇子を出産(本稿)

672天武 1年19歳 壬申の乱

674天武 3年21歳 弓削皇子を出産(本稿)

679天武 8年26歳 吉野の盟約に川嶋皇子が参加。

681天武10年28歳 川嶋皇子、忍壁皇子らと帝紀や上古の諸事を撰した。

685天武14年32歳 川嶋皇子、浄大参位。

691持統 5年38歳 弟、川嶋皇子没。浄大参位(35歳、懐風藻)

693持統 7年40歳 長皇子、弓削皇子、ともに浄広弐位を授けられる。

696持統10年43歳 皇族会議にて弓削皇子、葛野王に叱責される。(懐風藻)

699文武 3年46歳 7月21日、次男、弓削皇子没、浄広弐位

            12月3日、大江皇女薨去、浄広弐位

 

年齢推定根拠

大江皇女は上記二人の息子、長皇子と弓削皇子の年齢と実弟、川嶋皇子との釣り合いから判断しました。長皇子、弓削皇子の項で細説するように先に息子達の年齢を判断しそのうえでの推定です。

父、天智天皇23歳のときの子供であり、成人し10歳年上の天武天皇に嫁ぎ、17歳で長皇子を産み、また21歳で弓削皇子を生みました。また、弟、川嶋皇子とは3歳ちがいとなります。そして46歳のとき、息子弓削皇子を流行病で亡くすと、あとを追うように4ヶ月ののち薨去されました。続日本紀によれば、天智天皇の皇女として浄広弐で薨じ、皇族・臣下とすべての官人に葬儀に参列させたとあります。かなり大きな取り扱いかたです。

川嶋皇子との姉弟年齢差から思い切って若くしてみました。

 

なお、大江皇女の母は、日本書紀では色夫古娘(しこぶこのいらつめ)忍海造小竜(おしぬみ)のむすめであり、女官として天智天皇のもとにあがり、大江皇女、川嶋皇子、泉皇女を順に出産しました。岩波版によれば、忍海造とは雑工の品部の忍海部の伴造を指すのだそうです。姓氏録に河内皇別に比古由牟須美の後とあります。天武10年4月、忍海造鏡らに連姓を賜る記事、天武12年9月に忍海造ら38氏に連姓を賜る記事などが見られます。母方は高い身分ではありませんでしたが、あの天智天皇の子供を3人も生んだことや色夫古娘と漢字を綴る名前からかなり美しい女性だったと想像されます。

 

 

泉皇女 いずみのひめみこ

           734天平6年2月8日薨去 続日本紀

659斉明5年生 〜 734天平6年没 76歳  本稿

 

父  天智天皇 626推古34年生〜671天智10年 46歳(日本書紀)

母  忍海(おしぬみ)造小竜の娘、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)

姉  大江皇女 654白雉5年生〜699文武3年薨去 46歳 本稿主張)

兄  川嶋皇子 657斉明3年生〜691持統5年薨去 35歳(懐風藻)

 

天智天皇の皇女であり大江皇女の同母妹の泉皇女です。

川嶋皇子より2歳年下とすると76歳まで長生きしたことになりますが、齋王に選ばれて、伊勢齋宮に赴いていることからもっと年下と考えるべきなのかもしれません。48歳になり齋王として伊勢に行き、76歳まで生きていたことになる設定に疑問も残りますが周囲の年齢設定からこうしました。

父天智天皇崩御に生まれたとしても31歳で潔斎、36歳で伊勢斎宮です。いずれにしても、斎王として異例の高年齢の女性が選ばれたことに間違いありません。

続日本紀に734天平6年2月8日に天智天皇の皇女として二品で薨じたとあります。

 

泉皇女関連年表

西暦 和暦    年齢 事象              

654白雉5年     姉、大江皇女誕生(本稿主張)

657斉明3年     兄、川嶋皇子誕生(懐風藻)

659斉明5年  1歳 泉皇女誕生           

672天武1年 14歳 壬申の乱

686朱鳥1年 28歳 天武天皇崩御

691持統5年 33歳 同母の兄、川嶋皇子没(35歳) 

699文武3年 41歳 同母の姉、大江皇女薨去     

701大宝元年 43歳 2月伊勢斎宮に侍し、卜定(潔斎)  

702大宝2年 44歳12月持統皇太后崩御。

706慶雲3年 48歳 1月伊勢斎宮に群行。8月前に退下。

            8月田形皇女が伊勢齋王として卜定。

715霊亀元年 57歳 1月三品泉内親王に封一百戸を益す。

            同時に四品、水主、泊瀬部内親王にも封一百戸を益す。

734天平6年 76歳 2月8日二品泉内親王薨ず。

 

泉皇女の年齢設定根拠

1.この設定だと泉皇女薨去年齢が76歳にもなり高齢すぎると思われます。しかし691持統5年没の兄川嶋皇子が懐風藻では35歳で2歳年齢差のある兄妹となります。さらに、姉、大江皇女が5歳年上となり相応しい同母姉妹の設定条件に思えます。

2.出水(いづみ)は山背国相楽郡出水郷の地名として新撰姓氏録や続日本紀に見えます「日本古代氏族事典」。斉明5年3月に斉明天皇は近江へ行幸しています。このとき泉皇女は生まれたのかもしれません。

3.泉皇女は齋王に選ばれます。齋王になる女性は未婚処女が基本条件だったはずです。43歳すぎの齋王、701大宝元年に卜定され潔斎し5年もの準備をして慶雲3年1月伊勢入り(群行)します。なかなか伊勢側の許可が降りなかった証拠です。ところがすぐ戻されたようです。同年8月には次の田形内親王が伊勢大神宮に侍らされているからこれがわかります。それにしても40歳すぎではおそすぎる気がします。中年女性を押し付けられた伊勢神宮側も当惑したことでしょう。

 

何故なのでしょう。もし、年表に表された経緯を素直に解釈することが許されるなら、親代わりに等しい姉大江皇女が亡くなったのち、すぐ泉皇女は伊勢齋王として潔斎され世俗から遠ざけられたと考えられます。何か理由があったと考えてしまいます。

701年泉皇女が齋王として卜定された翌年702大宝2年に持統天皇が三河行幸の途中、伊勢に立ち寄られています。行宮を目前に控えた予定の行動であったと想像が可能です。当然、その一つの目的は天皇自ら伊勢神宮を訪れ、新しい齋王となる泉皇女を伊勢神宮に交渉、承諾させることだと思われます。

 

 

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