天武天皇の年齢研究

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「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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川嶋皇子の年齢 かわしまのみこ

First update 2009/02/22 Last update 2015/02/04

           691持統5年9月9日薨去 日本書紀

657斉明3年生 〜 691持統5年 35歳   懐風藻

 

河嶋、河島、川島とも書きます。日本書紀は吉野会盟に「河嶋」と書き、他はすべて「川嶋」ですのでここでは「川嶋」としました。万葉集も「河嶋」と「川嶋」、懐風藻、新選姓氏録が「河島」です。「川島」は古代人名辞典など近年によく使われています。

 

【川嶋皇子縁戚表】

父 天智天皇

母 忍海(おしぬみ)造小竜の娘、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)

姉 大江皇女

妹 泉皇女

妻 忍壁皇子の妹、泊瀬部皇女 (万葉集)

子 母は不明だが、春原朝臣、淡海朝臣などの家系が続いている。(新選姓氏録)

 

【川嶋皇子系譜】

蘇我石川麻呂――遠智娘

右大臣      ├―――大田皇女

         |     ├――――大伯皇女

         |     ├――――大津皇子

         |     | 穀媛娘(かじひめのいらつめ)(木+穀)部首が木へん

         |     | ├――忍壁皇子

         |     | ├――泊瀬部皇女(妃川嶋皇子

         |    天武天皇

         |      ―――長皇子

       天智天皇     ├―――弓削皇子

         ├――――大江皇女

         ├――――川嶋皇子

         ├――――泉 皇女

忍海造小竜――色夫古娘

 

【川嶋皇子の関連年表】

657斉明 3年  1歳 川嶋皇子降誕。

672天武 1年 16歳 壬申の乱

679天武 8年 23歳 吉野会盟に天智皇子として参加

680天武 9年 24歳 舎人王の葬儀に高市皇子とともに遣わされた。

681天武10年 25歳 詔を奉じ忍壁皇子や諸臣と共に、帝紀及び上古の諸事を記す。

685天武14年 29歳 忍壁皇子とともに浄大参位を得る。

686朱鳥 1年 30歳 百戸加増。天武天皇崩御。大津皇子(24歳)の変。

691持統 5年 35歳 8月、百戸加増。合計五百戸。

      同年9月9日 薨去。浄大参位。越智野に葬る。

 

【川嶋皇子関係年齢予測】

    ――孝徳紀―→←―斉明紀―→←――天智紀―――→←――天武紀――〜

600 44555555555566666666667777777777

年   89012345678901234567890123456789

天智天皇――――――29――――――――――――――――46         46日本書紀

天武天皇DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――〜

忍壁皇子              @ABCDEFGHIJKLMNOP―〜

大津皇子               @ABCDEFGHIJKLMNO―〜24日本書紀

長皇子                       @ABCDEFGH―〜

弓削皇子                          @ABCD―〜

大江皇女      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――〜

川嶋皇子         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――〜35懐風藻

泉皇女            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―〜

注:年齢記載のないものは、すべて本稿の推測値

 

●年齢根拠

川嶋皇子の年齢は懐風藻に35歳と記されています。日本古代氏族人名辞典などにも紹介される年齢です。

日本書紀には浄大参川嶋皇子が691持統5年9月9日に薨じたとあるだけで、年齢記載はありません。因みに、薨去日9月9日は天武天皇の命日と同日で、重陽の節句(五節句のひとつ)にあたります。

この川嶋皇子の年齢から、姉妹の大江、泉の年齢を推測しました。姉の大江皇女は天武妃として長皇子と弓削皇子を出産しました。二人の息子の出産年齢から考え、川嶋皇子より2歳ではなく3歳上と考えました。さらに1、2歳ほど年上かもしれませんが、川嶋皇子35歳に矛盾はないようです。

 

●懐風藻の川嶋皇子批判をどう判断するか

本稿では、川嶋皇子に関する有名な懐風藻の文面は誤解を生む表現だと思っています。我々は、懐風藻に書かれた川嶋皇子への誹謗中傷を信じ、意識しすぎているのではないでしょうか。

 

【懐風藻 河島皇子小伝】

<原文>

皇子者,淡海帝之第二子也。志懷溫裕,局量弘雅。

始與大津皇子,為莫逆之契。及津謀逆,島則告變。

朝廷嘉其忠正,朋友薄其才情,議者未詳厚薄。

然余以為,忘私好而奉公者,忠臣之雅事。背君親而厚交者,悖コ之流耳。

但未盡爭友之益,而陷其塗炭者,余亦疑之。位終于淨大參。時年三十五。

<読み下し文>

皇子は,()(うみ)(てい)の第二子なり。()(かい)(おん)(ゆう)(きょく)(りょう)(こう)()

はじめ大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契をなし、津の逆を謀るにおよびて,島すなわち(へん)を告ぐ。

朝廷その忠正を(よみ)し,朋友その才情を(うす)んず。議者いまだ厚薄を(つまびら)かにせず。

しかも余おもへらく,()(こう)を忘れて公も奉ずる者は忠臣の()()、君親に(そむ)きて交を厚する者は悖コ(はいとく)の流のみ。

ただいまだ爭友の益を尽さざるに,その塗炭(とたん)(おとしい)る者は余またいまだこれを疑ふ。

淨大參(じょうだいさん)に終ふ。時に年三十五。

<現代語訳>

「皇子は天智天皇の第二子である。気持ちのおだやかな人で、度量が広く正しく上品な方であった。

はじめ大津皇子と意気投合し深く交際した。大津皇子が謀反を計画したとき、河島皇子は密告した。

朝廷ではその忠誠を賞したが、朋友は薄情者とみた。この是非についての論議は未だはっきりしない。

余が思うに、私情を捨て公に仕えるは忠臣の賀事、君や親に背いて交友を重んじるは背徳の行為である。

しかし、友に忠告もせず、水火の苦しみに追い込んだ者を、余はその気持ちを未だに疑う。

位は浄大参で終わり、時に三十五歳。」

 

大津皇子の変については、別項(大津皇子の年齢)に譲りますが、天武天皇が崩御されてすぐ、息子の一人大津皇子が謀反を企てたとして殺された事件です。

大津皇子は朝廷の動きを事前に察知していました。万葉集に書かれた歌でわかります。川嶋皇子など朋友からの情報といえます。身を隠すべきと姉大伯皇女などからも意見されていたと思います。しかし、大津皇子は逃げませんでした。24歳の大胆な性格からそれは想像できます。ずっと彼の歩んできた第一人者としての自信が心の片隅にあまい読みを生んでいたのかもしれません。

懐風藻が語った、朝廷に「変を告ぐ」行為が川嶋皇子にあったかどうか、朝廷側の記録といえる日本書紀に記載がないのでわかりません。ただ、以下で示すように、その28年前の同様の事件、有馬皇子の変を万葉集が川嶋皇子と関連づけるなど、何らかの形で周囲に噂があったことは事実のようです。

一方、朝廷の行動は迅速で事務的でした。10月3日謀反が発覚したとして、すぐ大津皇子を含む三十余名を逮捕し、翌日4日には大津皇子を殺しています。たぶん、夜半に襲い、早朝には殺害したのでしょう。大津皇子への聴取さえなかったと思われます。大津皇子のその時の和歌や漢詩が残っていますが、これらは後世の作です。歌を詠む余裕さえなかったでしょう。その後、同月29日に、ほとんどの逮捕者は皆赦された事件です。裁きは、妃山辺皇女(天智の娘)が殉死、大津皇子の同母姉、大伯皇女(斎王)が伊勢から戻され、礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に流罪、新羅沙門(ぎょう)(しん)は飛騨國に転居、これだけです。

 

本稿ではこの事件を以上のように解釈しました。その上でこの文章を読み直します。

751年の懐風藻は686年の大津の変、すなわち65年も前の事件をまるで見てきたかのように批判しています。懐風藻の見解では、密告は当然だが、その前に、大津皇子を説得すべきだったとあります。それを言うのなら逆でしょう。川嶋皇子は再三止めようとしたが適わず、仕方なく朝廷に報告したと言うべきです。懐風藻の文章では、川嶋皇子は極悪の皇子で、友の大津皇子を説得もせず裏切り、朝廷に走ったことになってしまいます。

 

●川嶋皇子と葛野王の官位比較

葛野王は天智天皇の孫で、懐風藻の編者と言われる淡海三船の祖父です。

懐風藻五小伝の一つ、川嶋皇子の最後には「淨大参(じょうだいさん)に終ふ。時に三十五。」とあります。一方、葛野王の項には「特閲して正四位を授け式部卿に拝す。時に三十七。」とあり、書き方が違います。川嶋皇子には浄大参位(当時の正五位上相当)で止まったというニュアンスに対し、葛野王では特別に正四位(上)を授かり、式部省の長官にまで登り詰めたとなります。位の比較より言い方がはっきり違うおかしな書き方なのです。川嶋皇子の行動は朋友からみれば許せないものでも、朝廷(持統天皇)側から見れば同じ功労者であるはずです。有馬皇子の変でも、密告した蘇我赤兄は取り立てられ後に左大臣にまでなりました。当時、浄大参位は忍壁皇子と同じです。早世しなければ,忍壁皇子同様に皇位三品、施基皇子のように皇位二品を授けられたかもしれません。天智天皇の三世葛野王と単純に比較はできないのです。懐風藻が川嶋皇子の官位が上位に上ることができず薨去されたという言動は間違っています。

明らかに懐風藻の作者は、川嶋皇子を貶めているのです。

 

そもそも懐風藻の小伝には嘘や誇張が多すぎます

大友皇子は20歳(弱冠)で太政大臣、23歳で皇太子とありますが、少なくとも、日本書紀では太政大臣は24歳で、皇太子になったのは大海人皇子です。懐風藻に書かれた五人への歯の浮いたような美辞麗句は露骨です。

川嶋皇子は天智天皇の第二子とあり、第一子(長子と記載)が大友皇子(葛野王の父)とあります。天智皇子は四人で、建>大友>川嶋>施基のはずです。

また、大津皇子は天武天皇の第一子(長子)とありますが、これも違います。上に草壁皇子がいますし、年齢順にこだわれば高市皇子もいます。

葛野王の小伝では、これまた、天武皇子の一人、弓削皇子を貶めています。

 

朋友からは冷たい目で見られたと懐風藻の作者は述べていますが、むしろ、懐風藻作者自身の実体験の基づくものであったような気がします。この男、淡海三船は、かつて朝廷の反逆者たちを虐待し、これに驚いた朝廷から三船を罷免されたほど過酷な男です。朝廷に媚び、公と称して朝廷を批判するものすべて、自分の朋友さえ厳しく罰していた人物です。とても正義感の強い人物などではありません。

 

川嶋皇子は周囲からどう思われようとあえて自ら責任逃れはしなかったと思います。むしろ、川嶋皇子自身は自戒の念に苛まれたことでしょう。これは万葉集に書かれた実姉大伯皇女と相通じるものがあります。無謀といえる大津皇子の行動を説き伏せられず、甥を死に至らしめる結果になったからです。

 

●萬葉集に見える川嶋皇子

【万葉集】

幸于紀伊國時、川嶋皇子御作歌 或云、山上臣憶良作

@34

白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃経去良武 

                  一云 年者経尓計武 

しらなみの はままつがえの たむけくさ いくよまでにか としのへぬらむ

                      いちにいふ としはへにけむ

(読み下し文)白波の 浜松が枝の 手向けくさ 幾代までにか 年の経ぬらむ 

                  一には年の経にけむ、といふ 

日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、(持統)天皇幸紀伊國也。

 

H1716

山上歌一首

白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄経監

しらなみの  はままのきの  たむけくさ いくよまでにか  としはへぬらむ

(読み下し文)白波の 浜松の木の 手向けくさ 幾代までにか 年は経ぬらむ 

右一首或云、川嶋皇子御作歌

 

この二つの歌はほとんど同じもので小異歌とされるものです。意味は、どちらも同じです。

「白波寄せる浜辺の松の枝に結ばれた、この手向けのものは、結ばれてからもうどれくらい年月が経ったのであろうか」伊藤博「萬葉集釋注」

 

上が689朱鳥4年に紀伊に持統天皇が行幸されたときに披露されたもので、下は近江の旅宿の宴で披露された5人の歌の一つと言われます。658斉明4年に変を起こし殺された有間皇子(640〜658)を想い歌ったものです。

不思議なことに、この山上憶良(660〜733?)の歌を、万葉集がこれは川嶋皇子(657〜691)が歌ったものかも知れないと言うだけで、我々はこの歌が詠われてから4年前の大津皇子の変を連想してしまいます。川嶋皇子は持統天皇の紀伊行幸に同行しています。天皇の前で堂々とこんな歌が歌えたのです。

万葉集に書かれるくらいですから、大津皇子の変のきっかけは、川嶋皇子かもしれません。

 

他に、柿本朝臣人麻呂により、川嶋皇子が葬られた際、忍壁の妹、泊瀬部皇女に献じられた歌A194,195があります。これにより、泊瀬部皇女が川嶋皇子の妃であったことがわかります。(「泊瀬部皇女の年齢」参照)

 

【万葉集 川嶋皇子挽歌】

柿本朝臣人麻呂獻、泊瀬部皇女、忍坂部皇子 歌一首、并短歌

柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍壁皇子とに献る歌一首併せて短歌

A194 

略(「泊瀬部皇女の年齢」に掲載)

A195

反歌一首

敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方

          一云 乎知野尓過奴 

しきたえの そでかへしきみ たまだれの おちのすぎゆく またもあわめやも

                 一云 おちのにすぎぬ

(書き下し文)敷栲の 袖交へし君 玉垂の 越智野過ぎ行く またも逢はめやも

(現代語訳)袖を差し交わして寝られたお方は越智野の彼方に行ってしまわれた。またとお逢いできようか。

 

右或本曰、葬河嶋皇子、越智野之時、獻泊瀬部皇女歌也

右は、或本には「河嶋皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」という。

日本紀云、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨

日本書紀には「朱鳥の五年辛巳の朔の丁丑に、浄大参皇子川嶋薨ず」といふ。

 

もう一人の天智皇子、施基皇子にも、忍壁皇子は自分のもう一人の妹託基皇女を嫁がせています。天武天皇の意思が働いていた可能性もありますが、忍壁皇子の政治手腕を評価できます。

 

【忍壁兄妹と天智の皇子たち】

          天武天皇

           ―――――忍壁皇子

           ――――――――――託基皇女

           ―――――泊瀬部皇女  |

 宍人臣大麻呂―――穀媛娘      |    ――春日王

 忍海造小竜――――色夫古娘     |    |

           ―――――川嶋皇子   |

          天智天皇          |

           ――――――――――施基皇子

 越の道君―――――伊羅都売

 

懐風藻によると川嶋皇子は「志懐温裕、局量弘雅」とあり「始與大津皇子、為莫逆之契」とあります。6歳も年下の大津皇子と本当に親しい間柄だったのでしょうか。

 

●川嶋皇子と忍壁皇子

川嶋皇子が天武皇子のなかで本当に親しかったのは、大津皇子より年長の忍壁皇子の方だったと思います。上記で示した姻戚関係や双方の母の身分の低さ、吉野会盟での序列順の近さ、帝紀編纂の協力、さらに昇進、加増のタイミングが一緒であり、当然接する機会も多かったはすです。

 

川嶋皇子の母、色夫古娘の身分は宮人ですが、天智天皇との間に3人もの子を生みました。

忍壁皇子の母、穀媛娘の身分は低く書かれていません。しかし、天武との間に4人もの子を生みました。その父はそれぞれ宍人臣大麻呂、忍海造小竜とあり、山と海の男達と想像されます。

身分は低くとも、二人とも両天皇から愛されていたと思います。

 

吉野会盟「天皇詔、皇后及草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子忍壁皇子、芝基皇子

帝紀編纂「以詔、川嶋皇子忍壁皇子、廣瀬王、竹田王、桑田王、三野王、

授位「十四年春正月丁未朔川嶋皇子忍壁皇子、授淨大參位。

加増「朱鳥元年八月〜川嶋皇子忍壁皇子、各加百戸。

どれも、一緒です。よって、大津皇子と「莫逆(ばくぎゃく)の契」を結んだという表現は、懐風藻度独自の誇張した表現であり、甥、伯父以上の親密さがあったとは思えません。

ただ、691持統5年の加増で川嶋皇子が百戸加増されたときから、忍壁皇子の名がしばらく消えてしまいます。大津の変に対する行動の違いが双方に見られたのかもしれません。

 

●川嶋皇子の子孫、淡海真人について

後に、朝廷は天智皇子の子孫たちに臣籍降下させる形で、次々「淡海真人」姓を与えています。一般に大友皇子子孫だけが淡海真人と言われることが多いのですが、違います。

 

新選姓氏録(左京皇別上)

春原朝臣。天智天皇の皇子。浄広壱、河島王の後なり

 日本後紀806大同1年5月16日に、川嶋皇子の子孫、五百枝王は春原朝臣の賜姓を要望し、認められ臣籍降下したとあります。藤原種継暗殺事件に巻き込まれ、伊予に流され後に許された経緯に基づくものです。

 

天智天皇――┬――施基皇子―┬―光仁天皇――能登内親王

      |       |         ├――五百枝王

      |       └春日王┬安貴王―市原王

      └――川嶋皇子(―春日王┘)

 

五百枝王は光仁天皇の二世王であり、光仁天皇は川嶋皇子の弟施基皇子の子ですから、これは直系とは考えにくいようにも思えますが、近年、新選姓氏録の記述を重視し、川嶋皇子の子に春日王が別にいたという説もあるそうです。(Wiki)問題はその後です。

 

淡海朝臣。春原朝臣と同じ祖。河島親王の後なり。

 日本後紀812年弘仁3年6月30日に、「左京の人、美作真人豊庭ら三人に淡海朝臣を賜姓した。」とあり、ここから淡海朝臣が始まりました。しかし、元は「真人」姓であったようで、大友皇子から始まる、淡海真人とは流れを異にするとあります。淡海真人三船が、真人姓を取得(751天平勝宝3年1月)した張本人ですから、淡海朝臣(元は真人)の祖、川嶋皇子と張り合う発言があったとしても不思議ではありません。又、

 

從五位下淡海眞人眞直。爲伊勢介。

 日本後紀797延暦16年1月13日に「従五位下淡海真人真直(まなお)を伊勢介に任じた」とありますが、日本後紀806大同1年2月16日「従五位下淡海朝臣貞直(さだなお)を少輔に任じた」とあり、二人が同一人物なら、淡海朝臣の旧姓が「淡海真人」であった可能性が高いとする佐伯有清氏の意見があります。「」と「」を書き違えることが多いといいます。

左京人六世無位三坂王。賜姓淡海真人。河島王子裔孫也。

 三代実録に865貞観7年6月16日にもこうあり、大友皇子系列だけでない、川嶋皇子を祖とする「淡海真人」姓が逆に、淡海真人姓に戻っているのです。

 

どうやら、淡海真人三船は、大友皇子の子孫を天智天皇、第一の直系「淡海真人」として、その他の淡海姓、特に彼がいう第二子川嶋皇子を批判に曝しておこうとしていたのではないでしょうか。

 

 

参考文献

江口孝夫全訳注「懐風藻」講談社学術文庫2000

佐伯有清「新選姓氏録の研究 考證篇第一」吉川弘文館S56

森田悌訳「日本後紀(上・中)講談社学術文庫2006

伊藤博「萬葉集釋注一」集英社1995

 

 

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