天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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泊瀬部皇女の年齢 はつせべのひめみこ

First update 2008/03/05 Last update 2011/01/29

 

           741天平13年3月28日薨去 続日本紀

670天智9年生 〜 741天平13年薨去 72歳 本稿の主張

 

泊瀬部内親王、長谷部(はせべ)とも書かれます。

 

父  天武天皇  686朱鳥  1年崩御 日本書紀

母  穀媛娘   宍人臣大麻呂の娘

実兄 忍壁皇子  705慶雲  2薨去 続日本紀

   磯城皇子  生没不詳

実妹 託基皇女  751天平勝宝3年薨去 続日本紀

夫  川嶋皇子  

 

          天武天皇

           ―――――忍壁皇子

           ―――――磯城皇子

           ――――――――――託基皇女

           ―――――泊瀬部皇女  |

 宍人臣大麻呂―――穀媛娘      |    ――春日王

 忍海造小竜――――色夫古娘     |    |

           ―――――川嶋皇子   |

          天智天皇          |

           ――――――――――施基皇子

 越の道君―――――伊羅都売

 

【関連年表】

670天智 9年  1歳 降誕 (本稿主張)

686朱鳥 1年 17歳 父、天武天皇崩御

689持統 3年 20歳 草壁皇子薨去に伴い、兄忍壁皇子等失脚(本稿主張)

691持統 5年 22歳 9月夫、浄大参川嶋皇子薨去(35歳、懐風藻)

698文武 2年 29歳 9月妹、託基皇女、伊勢斎宮に遣わされる。

700文武 4年 31歳 兄、忍壁皇子(39歳)政界に復帰。

705慶雲 2年 36歳 兄、三品忍壁皇子薨去(44歳)

715霊亀 1年 46歳 正月11日同じ四品の水主内親王と三品の泉内親王

             ともに封一百戸を加増される。

737天平 9年 68歳 2月14日水主内親王、妹、託基内親王とともに三品。

741天平13年 72歳 3月28日薨去。

 

600  777777777788888888889999999999 年

年    012345678901234567890123456789 齢

忍壁皇子 HIJKLMNOPQRS―――――――28―――――――――3844

磯城皇子 BCDEFGHIJKLMNOPQRS―22          

泊瀬部皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――3072

託基皇女     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――2678

川嶋皇子 MNOPQRS―――――――――30――――35

大津皇子 GHIJKLMNOPQRS―――24

草壁皇子 HIJKLMNOPQRS―――――――28

 

泊瀬部は長谷部に通じます。これは雄略天皇の名代部です。その宮居は長谷部朝倉宮です。また、欽明天皇の皇子に泊瀬部皇子がおられ、後の崇峻天皇のことです。この辺の由来なのでしょうか。

 

万葉集A194、195に柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女と忍壁皇子に献じた歌があり、このことから天智天皇皇子、河島皇子の室と言われています。

 

年齢設定は単に忍壁皇子、磯城皇子と託基皇女の間と設定したにすぎません。具体的には、予想される磯城皇子の年齢の2歳年下としました。資料不足と勉強不足によるものです。

 

年連検証の結果では、夫となった川嶋皇子は13歳年上です。その川嶋皇子が35歳で亡くなったとき、泊瀬部皇女は22歳でしかありません。かなり政略的なにおいがします。

天武天皇が崩御された年、身の危険を感じていた兄、忍壁皇子は17歳の妹を親しい格上の川嶋皇子に託したように思えます。川嶋皇子は身分が上、天智天皇の皇子で時の権力者、持統天皇の弟に当たります。この川嶋皇子とは日本書紀編纂事業でともに働いていた同僚でもあります。

ついでに言えば、その下の妹、託基皇女もやはり天智天皇の皇子、志貴皇子に娶せています。

 

川嶋皇子との正常な関係は2年間だけだったと思います。泊瀬部皇女が20歳になったとき、兄等が失脚します。泊瀬部皇女もその煽りをもろに受けたはずです。兄妹そろって家を出なければなりません。そんな頼みの綱の川嶋皇子はすぐその2年後に亡くなってしまいました。

下記の歌はそんな悲しみ深い若妻の泊瀬部皇女に捧げられました。しかし、本稿ではこの歌の次の長歌の飛鳥皇女が、本来の川嶋皇子の妻と考えています。それゆえ、やむを得ず、二つの歌を比較することになってしまいました。この泊瀬部皇女の思いは次の歌と同列で、同じ川嶋皇子の妻として飛鳥皇女に対しても同じ語句を多く使用しています。しかし、単純比較で恐縮ですが歌は飛鳥皇女の方が長く悲しいものです。飛鳥皇女の項を参照

 

万葉集

柿本朝臣人麻呂獻 泊瀬部皇女忍坂部皇子 歌一首 并短歌

柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍壁皇子とに献る歌一首併せて短歌

A194 

【原文】   【読み】     【語釈】

飛鳥     とぶとり     <明日香の枕詞>

明日香乃河之 あすかのかはの  明日香の河の

上瀬尓    みつせに    上瀬に

生玉藻者   おふるたまもは  生い茂る玉藻、

下瀬尓    しもつせに    下瀬に

流觸経    ながれふらばふ  流れ靡いて触れあう。

 

玉藻成    たまもなす    (そんな)玉藻のように

彼依此依   よりかくより  ゆらゆらと寄り添い

靡相之    なびかひし    靡きあった

嬬乃命乃   つまのみことの  嬬の皇女の(「命」は敬称)

多田名附   たなづく    <枕詞(幾重にも重なる意)>

柔膚尚乎   にきはだすらを  柔肌だというのに

劔刀     つるぎたち    <「身に添う」の枕詞>

於身副不寐者 みにそへねねば  添え寝ないと

烏玉乃    ぬばたまの    <「夜」の枕詞>

夜床母荒良無 よどこもあるらむ 夜床も荒れていよう。(現在推量)

一云

阿礼奈牟   どこもあれなむ 夜床も荒れるだろう。(未来推量)

 

所虚故    そこゆゑに    それゆえに

名具鮫兼天  なぐさめかねて  慰めかねて(じっとしておれず)

氣田敷藻   けだしくも    もしや

相屋常念而  あふやとおもひて 逢えるかと思って

一云

公毛相哉登  きみもあふやと  皇子が現れるかと

玉垂乃    たまだれの    <「を」の枕詞>

越能大野之  をちのおほのの  越智の大野の

旦露尓    あさつゆに    朝露に

玉裳者埿打  たまもはひづち  美しい裳が土汚れ

夕霧尓    ふぎりに    夕霧に

衣者沾而   ころもはぬれて  衣が濡れて

草枕     くさまくら    <「旅」の枕詞>

旅宿鴨為留  たびねかもする  旅寝をしてまでして

不相君故   あはぬきみゆゑ  逢えない皇子であるというのに。

 

A195

反歌一首

敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方

          一云 乎知野尓過奴 

しきたえの そでかへしきみ たまだれの おちのすぎゆく またもあわめやも

                 一云 おちのにすぎぬ

敷栲の 袖交へし君 玉垂の 越智野過ぎ行く またも逢はめやも

袖を差し交わして寝られたお方は越智野の彼方に行ってしまわれた。

またとお逢いできようか。

 

右或本曰 葬河嶋皇子 越智野之時獻 泊瀬部皇女歌也

右は、或本には「河嶋皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」という。

日本紀云 朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑 浄大参皇子川嶋薨

日本書紀には「朱鳥の五年辛巳の朔の丁丑に、浄大参皇子川嶋薨ず」といふ。

 

ここでも、本稿は「君」を川嶋皇子、「嬬」を泊瀬部皇女に固定して解釈しました。

おそらく、川嶋皇子は泊瀬部皇女のところへ通っていたのだと思います。袖交わすという愛情深い露骨な表現ですが、この頃の夫婦を示す一般的表現だったのかもしれません。それほど深い交わりになる前に川嶋皇子は亡くなりました。この頃、忍壁皇子は失脚中であり、泊瀬部皇女もそんな兄に同行していたと思います。その失脚の地からそっと越智野を訪れ、川嶋皇子を偲んだ泊瀬部皇女であったのかもしれません。

 

泊瀬部皇女が20歳のとき、兄らは失脚します。泊瀬部皇女17歳で訪れた川嶋皇子を受け入れたとして、3年ほどの短い夫婦の契りといえます。歌もなかなか夫に逢えない悲しい歌です。縁薄い夫婦であったと思えます。古田武彦氏も「壬申大乱」のなかで、この歌を「越を恋うる嬬の歌」として「何らかの理由で、彼女は夫に会うことができない。会っていないのだ。」と解釈されました。本稿とは論点は違いますが歌の解釈では相通じるものがあります。

 

737天平9年に妹、託基内親王とともに三品を授かりますが、741天平13年3月28日薨去されました。おそらく72歳の長寿だったと思われます。長谷部内親王、天武天皇の皇女と紹介されただけで、葬儀一切の記述はありません。

 

 

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