天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
穀媛娘の年齢 かじひめのいらつめ First update 2008/03/06 Last update 2011/01/29 生没不詳 日本書紀 643皇極2年生 〜 689持統3年没 47歳 本稿 名前の穀媛娘の「穀」は日本書紀では部首に「木」を添え、「穀」をつくる文字です。「穀」の使用する書で他でも見かけるので本稿も甘えさせて頂きました。もっとも釈日本紀では「擬媛娘」と書き「かちめひめ」と読ませています。「擬」とはまがい物、似ているものという意味を持ちます。誰に似ているというのでしょう。 「書紀集解」では「木」に「疑」と書いて、読みはカジヒメとあります。 父 宍人臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ) 母 不詳 子供 忍壁皇子 705慶雲 2年薨去 (続日本紀) 磯城皇子 生没不詳 泊瀬部皇女 741天平 13年薨去 (続日本紀) 託基皇女 751天平勝宝3年薨去 (続日本紀) 【穀媛娘の関連年表】 643皇極2年 1歳 降誕(本稿) 662天智1年 20歳 忍壁皇子を産む。(本稿) 668天智7年 26歳 2月、斉明天皇の葬儀。 磯城皇子を産む。(本稿) 670天智9年 28歳 泊瀬部皇女を産む。(本稿) 672天武1年 30歳 壬申の乱。吉野に同行する。 674天武3年 32歳 託基皇女を産む。(主張) 686朱鳥元年 44歳 4月 託基皇女、山背娘王、石川夫人(太蕤天武夫人)を 伊勢神宮に遣わす。 9月 天武天皇崩御 689持統3年 47歳 草壁皇子薨去に伴い、兄忍壁皇子等失脚(本稿) この頃亡くなった。(本稿) 600 666666667777777777888888888899999 年 年 234567890123456789012345678901234 齢 天武天皇――――――――――――――――――――――――崩 穀媛娘RS――――25――28―――32――――――――――――――47 忍壁皇子@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――――44 磯城皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22 泊瀬部皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――72 託基皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――78 草壁皇子@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28 大津皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24 川島皇子EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――35 日本書紀の記述順からして、年齢は額田王、尼子姫より若かったとすべきでしょう。 生没年齢はわかりません。ここでの年齢設定は子供達の年齢から推測しています。長男忍壁皇子の誕生を20歳の時とし、家族全員が何らかの形で被害を被ることになる草壁皇子の薨去された年を没年齢と定めました。 宍人臣大麻呂の娘といいます。崇峻2年秋、近江臣満を東山道、宍人臣雁を東海道、阿倍臣を北陸道へ遣わしたという一族の実績が残っています。宍人臣は大和国宇陀郡・添上郡、山城・駿河・伊豆・武蔵・若狭・越前・伯耆などに分布する氏族になります。獣肉を調理することを生業とした品部と、岩波版日本書紀注にあります。ここでは宇陀郡を出身地としています。それは子供達の名前に由来します。壬申の乱に活躍する狩人集団。宇陀部の伴造で、息子、娘達もその近辺の地名を授かっていると伝える人もいます。宍人氏は阿倍氏と同祖です。また刑部氏と同祖伝承が雄略紀にあります。その刑部氏は物部氏と同祖とも言われます。 特に、壬申の乱では天武天皇に同行した夫人は鵜野皇女とこの穀媛娘の二人だと言われています。吉野から脱出した一行はまず、穀媛娘の古里とおぼしき宇陀の吾城(あき)に寄っています。急ぎ旅ではありながらここを根城とする宍人臣らから食事など厚い支援を受けています。まさに「かじ」一切を任せられ彼女は影のように天武天皇に付き従い身の回りの世話をしたのだと推測できます。 壬申の乱が一段落すると、すぐ、末娘、託基皇女が産まれたと推測できます。 夫人の長男となる忍壁皇子の名前や生まれた時期からも九州にも同行していたのではないかと思われます。九州香椎宮には刑部にまつわる土地や人名を見かけます。ここで草壁皇子が産まれましたが、同時に少し遅れ忍壁皇子も生まれたのではないでしょうか。 天武天皇の夫人達の中で一番多く長きにわたり四名の皇子を産んでいます。 天武天皇は九州でのこの時期、忍壁皇子や大津皇子が産まれると人が変わったように女性を絶っています。母が亡くなり喪に服す意味もあったのかもしれません。しかしその5年後、明日香に戻った天武天皇は、母、斉明天皇を墓に埋葬する儀式をすますと、また、磯城皇子をはじめとして、泊瀬部皇女を産ませると他の妻達からも多くの皇子を次々とつくっていきます。それ故か、持統天皇から疎まれていた気がします。 本当に天武天皇とともに歩んだ控えめな女性だったようです。 直木孝次郎氏のいうように、持統天皇が中国の呂大后に似ていると自覚していたのなら、天武天皇が崩御されると大津皇子のみならず、穀媛娘とその子供達にも残忍な行為が行われたと推測できます。 磯城皇子は皇席剥奪の憂き目に合います。よって、推定の域を出ませんが、長男忍壁皇子と同年齢の持統天皇の子草壁皇子が皇太子のまま薨去された年に穀媛娘は亡くなったと考えました。これ以降四兄妹も悲惨な目に遭って行きます。 呂大后とは古代中国漢の高祖の皇后のことです。 高祖は四人の妻をもち、八人の男子がおり、その一人として呂大后は息子を一人授かりました。孝恵帝です。しかし、高祖の死後、呂大后は次々と高祖の他の夫人やその息子達を殺すなどして排斥していきます。特に、戚夫人への残忍な行為は司馬遷の史記のなかでも最悪な記録です。美しかった戚夫人の眼球をくりぬき、耳をつぶしてふさぎ、薬で唖にしたとあります。手足の肘と膝を切り落とし、それでも生きていたので肥だめに落とし人豚と言って皆に見せたと書かれてあります。 戚夫人の長男を毒殺し、他の子供も殺せと指示したようですが、命令を受けたものはこれにしのびず、残った二人の姉弟をばらばらに売り飛ばしたと伝えられています。 皇子たちの年齢推定からひとつの可能性が浮かび上がりました。それは太蕤娘の娘、紀皇女とこの穀媛娘の娘、託基皇女がどうやら同年齢だということです。太蕤娘は蘇我氏の娘で、蘇我氏は天智天皇に蘇我本宗家を滅ぼされ、落ち目にある一族です。天武天皇の晩年、そろそろ交代の時期にいる伊勢齋王、大伯皇女の後釜として、自分の娘を守るために持統天皇には穀娘の娘、託基皇女を推薦したと思われます。天武天皇に愛される穀媛娘が嫌いな持統天皇はむろん依存ありません。太蕤娘はさらには託基皇女を伊勢に追いやった後、自分の娘、紀皇女を持統天皇の孫、文武天皇に娶せようとした形跡さえあります。 忍壁皇子は控えめですが、大津皇子と同様、頭のよい男だったようで、自分たちの生き残りをかけ、妹二人を天智天皇の二人の息子にそれぞれを嫁がせています。穀媛娘の思いだったのかもしれません。泊瀬部皇女には川島皇子を、託基皇女には施基皇子を娶せています。 この託基皇女は25歳から28歳まで伊勢におり、もどるとすぐ、38歳の施基皇子と結ばれ、春日王を生んでいます。その6年後709和銅2年、夫、施基皇子に白壁王、後の光仁天皇が第6子として生れます。母は紀朝臣橡姫です。託基皇女は生き残り続け、78歳で薨去されたと考えられます。天武天皇のなかで最後の皇子であり、最長の長寿者でした。女性ながら一品まで賜っています。 斎宮へ赴いた時期は忍壁皇子らの失脚の時期に符合し、斎宮から退下できたとき、持統天皇が亡くなったのです。まさにこの四兄妹は持統天皇ににらまれた者たちだったのです。 なお、中国呂大后により殺された戚夫人の生き残った女の子は呂大后の死後、母の美貌を受け継いだからか、生まれながらの高貴な物腰からか、その後の新皇帝の妃として返り咲きます。またその地位を利用し、弟を中国全土から無事捜し出し、涙の再会を果たしたと司馬遷は史記で伝えています。 追記 最近読んだ記事に、「藤原宮跡出土木簡に、宍人娘に鰒や氷魚を賜わった内容のものがあり、この宍人娘は“木穀”媛娘と推測されます。木簡の出土した溝は703年頃に埋められたと考えられています」とありました。まだ、未見です。 694持統8年藤原京遷都ですから、その頃までは穀媛娘は健在であったとようです。中国のように徹底的な一族排除はなかったようです。それにしても、賜り物は誰からなのでしょう。703大宝3年は持統大后が崩御された翌年にあたります。忍壁皇子を中心に持統天皇に振り回された一族という本稿の考え方に従えば、まるで持統崩御を一族皆で祝っているようにも見えます。 また、空想が過ぎたようです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |