天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
託基皇女の年齢 たきのひめみこ First update 2008/09/08
Last update 2011/01/29 751天平勝宝3年1月25日薨去 続日本紀 674天武3年生 〜 751天平勝宝3年没 78歳薨去 本稿主張 多紀内親王、当耆皇女とも書かれる。 父 天武天皇 686朱鳥 1年崩御 日本書紀 母 穀媛娘 宍人臣大麻呂の娘 生没不詳 実兄 忍壁皇子 705慶雲 2年薨去 続日本紀 磯城皇子 生没不詳 実姉 泊瀬部皇女 741天平 13年薨去 続日本紀 天武天皇 ├―――――忍壁皇子 ├―――――磯城皇子 ├――――――――――託基皇女 ├―――――泊瀬部皇女 | 宍人臣大麻呂―――穀媛娘 | ├――春日王 忍海造小竜――――色夫古娘 | | ├―――――川島皇子 | 天智天皇 | ├――――――――――施基皇子 越の道君―――――伊羅都売 ├――白壁王(光仁天皇) 紀氏―――橡姫(とちひめ) 【託基皇女の関連年表】 674天武3年 1歳 降誕(本稿主張) 686朱鳥元年 13歳 4月 託基皇女、山背娘王、石川夫人(太蕤天武夫人)を 伊勢神宮に遣わす。9月天武天皇崩御。 389持統3年 16歳 4月 草壁皇子薨去に伴い、兄、磯城皇子ら失脚 698文武2年 25歳 9月 伊勢斎宮に遣わす。(第11代斎王としてト定) 701大宝元年 28歳 2月 泉皇女、伊勢斎王に卜定され、託基皇女と交代。 702大宝2年 29歳12月 持統皇太后崩御。 703大宝3年 30歳 子、春日王生まれる(直木孝次郎「忍壁皇子」) 709和銅2年 36歳 施基皇子に第6子として白壁王が生れる。母は紀朝臣橡姫。 716霊亀2年 43歳 8月 夫、施基皇子薨去 737天平9年 64歳 2月 水主内親王、姉、泊瀬部内親王とともに三品。 741天平13年 68歳 泊瀬部内親王薨去 続日本紀 749天平勝宝1年76歳 一品に叙せられる。 751天平勝宝3年78歳 正月に薨去。 600 7777777888888888899999999990000 年 年 3456789012345678901234567890123 齢 草壁皇子 LMNOPQRS―――――――28 忍壁皇子 LMNOPQRS―――――――――――――――――――――――44 託基皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―78 春日王 @― 施基皇子 HIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――――51 年齢設定 母の生地宇陀に近い地名が残っています。大和志吉野郡宇智郡瀧村、とあります。 天武天皇の子の最後の生き残りであり、当時としても珍しい78歳まで生きた長寿者です。 託基皇女は当耆とも書かれ、その「耆」とは耆老(おきな)、耆女(おみな)に通じ、757天平字1年成立の養老戸令では66歳以上とあります。それに基づく大宝律令は701大宝元年です。漢和辞典では、中国では50歳を「艾」ガイ、60歳を「耆」キ、70歳を「老」ロウといったといいます。託基皇女が高齢まで生きていたとことがわかります。そのためか、一品まで昇りつめたのは元正天皇とこの託基皇女だけです。つまり、天武天皇皇子のなかで最長の長寿者です。また天武天皇皇子最後の生き残りであったわけです。薨去される2年前の授章とはいいながら、生きている間に一品を授かることは当然のことだったのです。もしかしたら、一品を除せられたとき749年は76歳ではなく祝いの年77歳であったのかもしれません。もしくは亡くなられた年が78歳ではなく、77歳だったのかもしれません。77歳は喜寿として現在でも通じる喜びの長寿者のことです。 しかしながら、国書、続日本紀には751天平勝宝3年1月25日1品の多紀内親王薨去。天武天皇の皇女とだけの記述に止められました。穀媛娘の皇子すべてに共通する記述様式です。 直木孝次郎氏「忍壁皇子」に託基皇女の年齢検証がのっています。万葉集C669にのる春日王歌の詞書により、春日王が志貴皇子と託基皇女との子であると書かれています。令集解所引の古記によれば、大宝令も同文と考えられ、723養老7年正月に無位より従四位下に叙せられたことからこの時21歳と考えられ、したがって逆算し春日王の生まれは703大宝3年の生まれといえるとあります。天平17年に春日王が没したので43歳というわけです。
以上から、私は次のように考えました。斎宮に赴いたかつての大伯皇女は13歳。天武天皇の意向によるものです。また、天武天皇の妻、鸕野娘は13歳で天武のもとにきたと書かれています。これらのことから、女13歳がひとつの家を出る目安があったのではないのか。すると、686朱鳥元年元年4月、託基皇女、山背娘王、石川夫人(太蕤天武夫人)を伊勢神宮に遣わされたのは13歳であり、天武天皇崩御9ヶ月前、病気平癒祈願もあっただろうが、斎宮候補としての訪問と考えるのが自然です。齋王は天皇の皇女が基本で山背姫王の身分はわかりませんが天皇の皇女ではないはずです。石川夫人はこのとき43歳ぐらいです。明らかに託基皇女の進むべき道筋を示したのです。天武天皇が崩御し、大津皇子の乱が一段落して、託基皇女はまず泊瀬斎宮に入り潔斎し、698年文武2年9月10日伊勢斎宮に第11代斎王として遣わされたのだと思われます。 太蕤娘の娘、紀皇女はこの託基皇女が同年齢だったようです。太蕤娘は自分の娘を守るために、次の齋王候補を持統天皇には穀娘の娘、託基皇女を推薦したと思われます。託基皇女の母穀媛娘が嫌いな持統天皇はむろん依存ありません。さらには託基皇女を伊勢に追いやった後、自分の娘、紀皇女を持統天皇の孫、文武天皇に娶せようとした形跡さえあります。 25歳から28歳まで伊勢におり、もどるとすぐ、志貴皇子と結ばれ、春日王を生んでいます。これだと、託基皇女は78歳でなくなったことになるのです。もっと若くてもいいのかもしれないのですが、それだと兄たちや夫、志貴皇子とますます年齢差が生じてしまいます。施基皇子はこのとき38歳です。その6年後、施基皇子に白壁王、後の光仁天皇が709和銅2年に第6子として生れます。母は紀朝臣橡姫です。 斎宮へ赴いた時期は忍壁皇子らの失脚の時期に符合し、斎宮から退下できたとき、持統天皇が亡くなったのです。まさにこの四兄妹は持統天皇ににらまれた者たちだったのです。 まとめとして、忍壁四兄妹の年齢差に言及します。死亡年に注目しました。 忍壁皇子 705慶雲 2年没 磯城皇子 ? 泊瀬部皇女 741天平13年没 託基皇女 751勝宝 3年没 長男の忍壁皇子が705年、託基皇女が751年薨去です。その差は46年にもなります。これは託基皇女の長寿によると思われます。しかし、忍壁皇子が直木孝次郎氏のいうように46,47歳で薨去されたとし、仮に4兄妹の年齢差が2歳ずつ合計6歳の差があったとすると、託基皇女は86,87歳の長寿でなければなりません。今で言えば、100歳を優に超えた感覚です。 46,47歳+46年後−6歳差=86,87歳 本節では忍壁皇子の年齢を44歳とし、兄妹の年齢差を12歳とすることで78歳という値を得ています。しかし確固たる根拠が乏しいので正しいとはとても言えたものではありません。 44歳 + 46年後−12歳差=78歳 託基皇女が当耆皇女の諱をもつなど、高齢の証拠がないかぎり70歳を超える年齢を簡単に設定するべきではなく、また80歳を超えることは論外だということを改めてここで感じる次第です。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |