天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
忍壁皇子の年齢 おさかべのみこ First update 2008/08/31
Last update 2011/01/29 705慶雲2年5月7日薨去 続日本紀 662天智1年生 〜 705慶雲2年没 44歳 本稿主張 (663〜672天武1年)生〜 705慶雲2年没 34〜43歳 青木和夫氏 658、9斉明4,5年 生〜 705慶雲2年没 47、48歳 直木孝次郎氏 666天智5年以前生 〜 705慶雲2年没 40歳以上 ホームページ 千人万首略伝 のち親王。忍坂・刑部とも書く。天武天皇の第九皇子とする(続日本紀)。 父 天武天皇 686朱鳥 1年崩御 日本書紀 母 穀媛娘、宍人臣大麻呂の娘 弟妹 磯城皇子 生没不詳 泊瀬部皇女 741天平 13年薨去 続日本紀 託基皇女 751天平勝宝3年薨去 続日本紀 遠智娘 ├――――――鸕野皇女(皇后) 天智天皇 ├―――――草壁皇子 天武天皇 ├―――――忍壁皇子 ├―――――磯城皇子 ├―――――泊瀬部皇女 ├―――――託基皇女 宍人臣大麻呂―――穀媛娘 【忍壁皇子の関連年表】 662天智 1年 1歳 降誕(本稿主張)年齢では高市、草壁に次ぐ。 672天武 1年11歳 忍壁皇子は壬申の乱では吉野から天皇と行を共にした。 674天武 3年13歳 忍壁皇子は大和の石上(いそのかみ)神宮に赴き、 膏油で神宝を磨いた。 679天武 8年18歳 吉野誓約に参加。 順位は草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基。 681天武10年20歳 川島皇子、忍壁皇子ら帝紀及び上古諸事の記定事業に参加。 685天武14年24歳 官位改定に伴い浄大参位を受ける。 同年 宴席で皇太子以下それぞれに布を賜る。 忍壁皇子までという表現がほかにも多く見られる。 686朱鳥 元年25歳 大雷雨があり、民部省の舎屋に火災。 忍壁皇子の宮の失火が原因というものあり。 封百戸を加えられた。 天武天皇崩御。 689持統 3年28歳 草壁皇子(28歳)薨去。忍壁皇子の記事がなくなる。 700文武 4年39歳 勅を受けて藤原不比等と「大宝律令」の撰定を主宰。 忍壁皇子が参加。このとき14年の時を越えて、再登場する。 701大宝 1年40歳 大宝律令施行 左大臣多治比嶋の逝去に際し、三品忍壁皇子が第に行き弔う。 忍壁皇子や藤原不比等らが大宝律令の完成の功に浴する。 702年大宝2年41歳 持統皇太后崩御。葬儀のため、造大殿垣司となる。 703大宝 3年42歳 知太政官事となる。 704慶雲 1年43歳 封2百戸加増される。 705慶雲 2年44歳 越前国の野鳥町一百町を賜る。 5月7日、三品で薨じた。(続紀) 600 66666666677777777778888888888999 年 年 12345678901234567890123456789012 齢 天武天皇―――――――――――――――――――――――――崩 穀媛娘 RS――――25――28―――32――――――――――――――47 忍壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――44 磯城皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22 泊瀬部皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――72 託基皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR―78 草壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28 大津皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24 年齢設定根拠 681天武10年3月に忍壁皇子は川島皇子らとともに帝紀及び上古諸事の記定事業の記定参加を命じられています。このときが忍壁皇子の初仕事です。これを他の皇子同様に20歳の出来事としました。つまりこの年、草壁皇子が皇太子となり20歳を迎えています。草壁皇子と忍壁皇子は同じ年になります。 また、直木孝次郎氏は忍壁皇子の業績が川島皇子と時を同じにしていることから、ほぼ同年齢ではないかとしていますが。懐風藻では川島皇子は大津皇子とも親友(「莫逆の契り」)であったとありますから、忍壁皇子の年齢だけを引き上げることには同意できません。忍壁皇子は大津皇子とほぼ同じ年齢であると考え、むしろ懐風藻のいう川島皇子の年齢35歳を引き下げるべきでしょう。 参考文献:直木孝次郎「忍壁皇子」(飛鳥奈良時代の研究所収) 日本書紀の記述に「草壁皇子・忍壁皇子」という表記があり、これを年齢順と評価しました。多少の月日で差があったと考えます。むろん身分による差という意見もありますが、年齢を定める手法でも述べましたが、ここは青木和夫氏の説を支持します。もっとも青木氏はこの天武10年を21歳としています。本稿では20歳にしています。 直木孝次郎氏は674天武3年8月に忍壁皇子が石上神社に遣わされたという行為が壬申の乱の翌々年、政情いまだ安定したとはいえないときに、大和の武器庫といってもよい石上神宮へ使いする皇子では若すぎるといいます。このことが青木和夫説(11歳)を批判する年齢根拠としておられます。直木幸次郎説では15,16歳になります。本稿では12歳です。高市皇子が壬申の乱を経験した年です。問題ないと考えたいのです。逆に高市皇子が経験した12歳という同じ年齢に忍壁皇子が達したときに、天武天皇は重要任務を彼に課したと考えます。 忍壁は刑部に通じ、岡山県(備中国阿哲郡)あたり。九州から大和に戻る途中の子か。いずれにしろ朝鮮遠征時に生まれた子供です。 地名による分析では、刑部は今の岡山県、備中国阿哲郡の村。郡の東部に偏しあり。美作国勝山町よりの要路にして、此より北小刑部川に沿い、伯耆国板井原に通じる山路があります。また刑部郷を備中(岡山)阿賀郡、また和名抄には英賀郡刑部郷、於佐加倍と訓じたとあるといいます。 刑部村、上刑部村をさし、丹部郷の北に位置します。刑部は古姓氏号となります。 小坂部駅(今刑部村)は、刑部丹治両郷の中央に位置し、美作国高田より、英賀哲多に入るあたりです。 忍壁皇子の妃は飛鳥皇女(天智娘)と言われていますが、この説はとりません。飛鳥皇女の身分が忍壁皇子に比べ高いこと、年齢があわないこと、飛鳥皇女は川島皇子と同居していたと思われることなどがその理由です。飛鳥皇女の項で述べます。 忍壁皇子の子供たち 山前王(やまさき) 忍壁没の年、705慶雲2年12月に無位より従四位下に上るが一度も昇進されず、養老7年12月散位従四位下として卒した。懐風藻には刑部卿とある。ということは、蔭位制に従い慶雲2年を21歳、逆算して、忍壁皇子22歳のときの子ということになります。この山前王が紀皇女の崩御時に詠った万葉歌の解釈は別途、紀皇女の項で論じます。この歌を含み、万葉集で4首、懐風藻に漢詩1歌を残しています。 なお、訳注大日本史によれば、山前(やまさき)王の子、葦原王は人となり凶悪。好みて酒屋に遊ぶ。天平宝字5年3月24日、御使麻呂と博飲し、酒に酔い麻呂を刺す。罪はそれだけでなかったと記されています。淳仁帝宗室ゆえ、法に置くに忍びず、王爵を削り、姓龍田真人を賜い、子女共に種子島に流されました。一方娘の池原女王は、はじめ母姓栗原連を称し、宝亀11年8月にいたってようやく王名を許されて池原女王と称し、従五位を授けられますが、それ以降、一統は政界に名をあらわすことがなく、衰退したようだと、直木孝次郎氏は書いておられます。 春日王 723養老7年無位から従四位下とありますから、蔭位制に基づき、703大宝3年生まれとなり忍壁皇子42歳で晩年の子ということか。 小長谷女王(おはつせ)は尚膳(しょうぜん)従三位。尚膳とは天子の御膳を掌る官のことです。他はよくわかりません。 本稿は草壁皇子と忍壁皇子を同年齢としています。草壁皇子が薨去されたとき、母、持統天皇の思いは如何ばかりであったことでしょう。なぜ同じ年の忍壁が生き、息子草壁が死ななければならないのかという思いがあったはずです。持統天皇には一人しかいない息子、草壁皇子、一方、忍壁皇子の母、穀媛娘は生前、天武天皇に愛され続け、四人も子供を授かっているという嫉妬もあったかもしれません。そこに、磯城皇子の不用意な発言、たぶん次の天皇には兄、忍壁皇子を言ったことに逆上したのでしょう。 日本書紀に記載された「忍壁」という文字。これは草壁の影に忍んだ忍壁皇子、本来は刑部皇子が忍壁皇子と表現されたものだと思われます。本稿では懐風藻の弓削皇子の発言問題を磯城皇子に置き換えて見ております。 史実でも、持統3年に草壁皇子薨去されるに合わせたように、忍壁皇子の記事がなくなってしまいます。むろん弟、磯城皇子はその死亡記事を含めて一切が不明です。塁は忍壁皇子に及び、京を離れたと言われている所以です。「兄の忍壁はより慎重であったので、(磯城皇子のように)皇族の身分を失うには至らなかったが、宮廷・政界から締め出され、失意の状態で十数年をすごしたのではないかと思われる。」(前提書) 忍壁皇子の記事はその11年後です。文武4年39歳になって、勅を受けて藤原不比等と「大宝律令」の撰定を主宰した、とあります。この2年後に亡くなられる持統天皇はまだ生きておられましたから、たぶん権力の絶頂期にあった藤原不比等の強い希望が実現したのでしょう。これ以降、忍壁皇子は藤原不比等とともに歩んでいきます。 705慶雲2年5月7日、三品で薨じられました(続紀)一品でもおかしくありません。使いを遣わし葬儀のことを指揮されたと書かれています。具体的な名はありません。幾多の皇子より年上でありながら、天武天皇の第九皇子などと書かれています。最後まで低い扱いを受けた忍壁皇子でした。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |