天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
氷上娘の年齢 ひかみのいらつめ First update 2008/4/27 Last update 2011/01/29 682天武11年1月18日薨去 日本書紀 656斉明2年生 〜 682天武11年没 27歳 本稿の主張 父 藤原鎌足 母 不詳 子供 但馬皇女 生年不詳 〜708慶雲5年薨去 妹 五百重娘(母が同じかどうかは不明) 義弟 新田部皇子 天智天皇――大友皇子 女 ├―――壹志姫王(いちしの)皇胤紹運録 ├―――耳面刀自(みみおものとじ) 皇胤紹運録 中臣鎌足 ├―――五百重娘 | ├―――新田部皇子 ├―――氷上娘 (682没) 女 ├―――但馬皇女 (708没)和銅元年6月 天武天皇 | ├―――穂積皇子 (715没)霊亀元年七月没 蘇我赤兄――太蕤娘 (725没) 【氷上娘 関連年表】 656斉明 2年 1歳 降誕(本稿推定) 662天智 1年 7歳 妹、五百重娘生まれる。 669天智 8年 14歳 父、中臣鎌足亡くなる。 672天武 1年 17歳 壬申の乱 675天武 4年 20歳 但馬皇女を出産する。 681天武10年 26歳 妹、五百重娘が大原にて新田部皇子を出産する。 天武天皇の末子。 682天武11年 27歳 氷上夫人 1月18日宮中で薨去。 1月27日赤穂に葬られた。 600 677777777778888888888999999999 年 年 901234567890123456789012345678 齢 中臣鎌足―50 氷上娘 ―MNOPQRS――――――27 但馬皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――34 穂積皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――44 高市皇子―HIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――36 氷上娘の消息はその資料が少ないためよくわからない。しかしながら、日本書紀に紹介された天武天皇夫人たちのなかでその崩御年と葬式の模様がわかるという希少性のある女性です。続日本紀で鸕野皇女こと持統天皇の崩御が知れるのは当然として、もう二人、天智天皇の娘、大江皇女と新田部皇女が流行病で699年に次々亡くなったことがわかる程度で、流行病がなかったらこの二人の消息もわからなかったのではないでしょうか。持統天皇の姉、大田皇女でさえ斉明天皇の葬式と同日にその墓前に葬られたことがわかる程度です。その他の夫人はまるでわかりません。氷上娘の妹である五百重娘もその派手な生涯のわりに死亡年もわかっていません。 682天武11年1月18日に宮中で薨じられたとあることから、天武天皇と同居していたことになります。なぜ宮中であることを強調したのか、同居というより宮中に訪れたおり亡くなられたということか疑問が残ります。わざわざ宮中で亡くなられたと書かれるのは異例といえます。その9日後の1月27日に赤穂に葬られました。一般的な日付感覚がわかりませんが早いような気がします。十市皇女と同様のケースに見えます。十市皇女は自殺と思われ、やはり亡くなられた7日後に赤穂に葬られています。「延喜式」神名帳に添上郡赤穂神社がみえ、奈良市高畑町にあるといいます。 結論はでませんが、両者とも尋常な死でないことは確かだと思っています。 天武紀(下) 十市皇女と氷上娘の死亡記事の比較
和名抄に丹波国氷上郡があると書かれています。娘の但馬皇女の名も丹波地区の名前です。姓氏録にのる但馬海直は丹後国与謝郡、三代実録に但馬公見の名も見えるそうです。その後の但馬国は兵庫県北部にあります。これが氷上娘の生誕地とどう関係するかはまだ調査不足です。 あの策士の中臣鎌足がなぜ、天智天皇ではなく、天武天皇に娘二人を嫁入りさせたのでしょう。しかも後に壬申の乱で戦うことになる、天智天皇の息子大友皇子にも娘を納めています。しかも、娘たちが天武天皇の子を宿すのは天武天皇の後年です。ここから想像できることは、大友皇子は早く娘を嫁入りさせたが、天武天皇には口約束はあったが、実際に天武天皇に嫁いだのは、中臣鎌足が亡くなり、壬申の乱を経験し、天武天皇が政権を掌握した後だということです。中臣家の生き残り策の一端だったのでしょうか。しかも一人ではなく、まだ幼さが残る五百重娘まで嫁がせたのです。 氷上娘を知る手がかりが万葉集に一首あります。
相聞歌か哀傷歌といわれています。天武天皇挽歌だとして、天皇崩御前に薨じた氷上夫人の作ではなく、妹、五百重娘の作との説がありますがここでは取りません。万葉集にあるとおり氷上大刀自の歌であると思います。万葉集に載るこの歌の前後の歌との関連から、ここに突然、天皇挽歌が配列されるのは不自然です。何をそんなに泣き悲しむのかわかりませんが、繊細で臆病な女性を連想させます。妹の五百重娘とは大違いです。 年齢推定は、娘、但馬皇女の年齢からその誕生年を氷上娘20歳としました。すると、27歳で亡くなったことになります。高貴な中年女性を意味する大刀自(おおとじ)と呼ばれていたとするならば、もう少し年上かもしれません。もっともこの頃30歳はすでに老婆に属します。高島正人氏は、藤原不比等より年上としています。その説を採用しました。その上で、娘但馬皇女の年齢推敲を経て、氷上娘が娘を生んだ年を20歳としました。 娘、但馬皇女を20歳で出産し、その娘を残し天武11年1月18日27歳宮中で亡くなりました。日本書紀にはなにも述べられていませんが、天武天皇の前後の記録から近親者への思いは人並み以上です。心痛は大変なものであったと想像が可能です。翌日の地震という天変地異も何かを物語っているのでしょうか。この年の年頭行事がこの年にかぎって何も書かれていません。 本稿では氷上娘が亡くなった翌年2月に行われた、大津皇子が朝政参加という出来事は本来ならばこの天武11年に予定していたことと考えています。大津皇子20歳での政治参加こそふさわしいからです。これが氷上娘の死によって天武12年に先送りにされたと考えています。 実はその前年、天武10年妹が新田部皇子を出産しています。姉氷上娘はこのことに心を痛めていたのかもしれません。別項、考察で述べますが、新田部皇子は天武天皇の子供ではない可能性があるからです。姉氷上娘が宮中で亡くなったとわざわざ書かれ、すぐに埋葬されたということなど関連があるのかもしれません。 620推古28年生〜669天智8年没 50歳 書紀「日本世記曰く」に基づく 本稿説 614推古22年生〜669天智8年没 56歳 書紀「墓碑」、藤原家伝書等 本稿では前項でも触れた理由「3.資料研究」により、通説の56歳ではなく、50歳説を採用し本論を進めています。ここでは、それに基づきまとめました。 子供 貞彗(定恵、真人) 母は車持国子君の娘、与志子 不比等(史)母は貞慧に同じ。658斉明4年生〜720養老4年没 63歳 氷上娘 天武妃となり、但馬皇女を生む。682天武11年薨去。 五十重娘 天武妃となり、新田部皇子を生む。 斗売娘 又従父弟にあたる意味麻呂を猶子として迎え、東人、安比等を生む。 (尊卑分脈−中臣氏の項、及び高島正人氏「藤原不比等」による。) 長男貞慧以降、鎌足に男子が生まれないため養子を迎えたという。 耳面刀自 みみものとじ。大友皇子妃 概要は懐風藻、名は皇胤紹運録による。 壹志姫王(従四位下)を生む。672天武元年下総銚子にて死去。 車持国子君――與志古娘(尊卑文脈による) ├―――――貞慧 中臣 ├―――――不比等(母を鏡女王とする説あり) 可多能古 中臣 | ├――御食子――中臣鎌足 大友皇子(天智天皇の息子) | (一男) | ├―――壹志姫王 | ├―――――耳面刀自 | ├―――――氷上娘 | | ├―――但馬皇女 | | 天武天皇 | | ├―――新田部皇子 | ├―――――五百重娘 | ├―――――斗売娘 | 女 ├―――東人 | ├―――安比等 ├―国子――─国足――――中臣意美麻呂 女 (二男) 注)「女」の子等は同腹とはかぎらない。 600 444444455555555556666666666777 出典 年 345678901234567890123456789012 根拠 天智天皇QRS―――――――――30―――――――――40―――――46 書紀 大友皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25 懐風藻 中臣鎌足24―――――30―――――――――40―――――――――50 日本世記 貞慧 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――23 藤家伝 耳面刀自 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25 斗売娘 @ABCDEFGHIJKLMNOP――― 氷上娘 @ABCDEFGHIJKLMNOP― 不比等 @ABCDEFGHIJKLM――補任 五百重娘 @ABCDEFGHI―― 意味麻呂 @ABCDEFGHIJKLMNOP―――高島説 中臣鎌足の50歳説は簡単に言うとその息子達の年齢が56歳にすると皆晩年の子になり、20歳代では子供ができなかったことになります。ここに日本書紀に書かれた「日本世記」の記述による50歳説に本稿の意図が合致したものです。 まさに、彼の一生は天智天皇と共にありました。しかし、長男、貞慧を早くに亡くし、それ以降生まれてくる子供が皆女の子ばかりでした。これは天智天皇にもいえる不思議な巡り合わせです。しかたなく親戚より意味麻呂を親戚より迎え跡取りにしようとしたようです。そんなとき不比等が生まれたわけです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |