天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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白村江戦前夜(斉明天皇崩御)

First update 2009/07/11 Last update 2011/03/01

 

日本書紀によると斉明天皇は7年3月25日に娜大津(博多湾)に到着、磐瀬行宮(福岡市三宅?)に入りました。本来の航路に戻ってと、わざわざ書いているところから、その前の伊予熟田津の石湯行宮泊が予定外であったことがわかります。

ここは普通、愛媛県松山市道後温泉付近とし、寄り道だからと解釈されていますが、どうでしょうか。熟田津ではあまりに行き過ぎです。後世の学者たちは潮の流れや夜の船出など苦心して航路の正当化に奔走されておられます。航海は命がけです。そんな寄り道をするはずがありません。

伊予の熟田津の石湯行宮泊が予定外とは、1月14日に到着してから2ヶ月以上もそこに留まったからではないでしょうか。

この頃、天皇の九州到着を百済の使者は痺れをきらして待っていたはずです。百済の現状はすでに虫の息、一刻も早く、日本にいる百済王家の血を引く豊璋王子を祖国に迎えたかったからです。日本書紀は4月に百済の使者がやってきて表を奉ったとありますが、実際にはすでに使者は博多に着いており、3月25日に斉明天皇の到着次第、一刻も早く会いたかったはずです。

周りの人々の切迫した気持ちとは裏腹に、2ヶ月も遅れて到着した斉明天皇らは、5月9日には朝倉橘広庭宮にお移りになってしまいます。日本世紀には4月に移ったとより早い日付を併記しています。つまり百済使者と面会しますが、すぐに磐瀬行宮を離れたことになります。

この時まで、天智天皇らも斉明天皇のともにいたようなのです。朝倉宮近くの丸木殿に住まわれていたといいます。斉明天皇は7月に崩御されます。天智天皇は8月1日に朝倉宮で天皇の喪をつとめたとあり、その後にやっと磐瀬行宮に戻られたのです。白い喪服のまま政務に就かれたということは、私情より公務を優先した天智を讃える表現と考えるべきではなく、このとき博多では静かに喪に服すなどといっていられないほどてんやわんやであったということなのです。

天智が戻るとすぐさま、海外の軍の指揮をとられることになり、前軍の将軍安曇、河辺ら、後軍の将軍阿倍、物部、森氏らを百済救援に遣わし、また、武器や食糧を送らせたとあります。このあとさらに続けて別部隊として狭井、秦造らを遣わしたと次々といままで遅々と進まなかった軍事を処理していく記事が続くのです。

やっと朝鮮への本格的出動が実現したのです。

そして9月には百済悲願の王子豊璋が日本軍に守られながら百済に向かいました。4月の百済誓願から5ヶ月が過ぎていました。どこを向いても遅すぎる対応だったのです。

しかも、豊璋を見送った天智天皇は10月7月日には、長津を離れ、さっさと大和に母の遺体とともに戻ってしまったのでした。やむを得ないことではありましたが、天皇が大和に帰るのです。このとき軍人は残れと指示していたかもしれませんが、大方の大和人が九州博多の地を離れたはずです。

 

斉明天皇が選ばれた朝倉の地とは

 

この朝倉宮が問題です。博多から南東、朝倉街道の一本道ですが優に40km以上の内陸に位置します。その間にはこの頃はまだ存在していない太宰府があり、そのさらにその奥地という位置です。

当時、朝倉宮付近は吉田東吾氏によれば、「此地方は古名安野(ヤスノ)と云ふ、〜斉明女皇行宮を建て、百済に出師にたまへる故蹟とす、朝倉の名は其宮号に出づ」とあります。

斉明天皇は娜大津を長津(那河津)と名を改めたように、この安野を朝倉と名付けたのでしょう。本稿では、熟田津の石湯を朝倉の地に求めましたから、もしこれが正しいようなら同名とした訳で、2ヶ月もの間滞在した斉明天皇は、よほど伊豫温泉が気に入っていたのだと改めて思います。統計は取っていませんが、日本書紀に載る温泉旅行が多い天皇は斉明天皇がダントツに多いはずです。

朝倉の地までくると原鶴温泉や筑後川温泉があるのです。原鶴温泉は明治14年、筑後川温泉は昭和30年開湯とありますが、斉明天皇当時からこの辺には「単純硫黄泉、九州屈指の名泉として評判がある」(原鶴温泉旅館組合)温泉があったのかもしれません。

また、妙な偶然ですが、伊豫の朝倉郷の頓田川と九州の朝倉の地を流れる筑後川はかなりの暴れ川であるということです。土地の人を苦しめたこの川も逆に言えば、肥沃な土地で斉明天皇の好みに合ったのかもしれません。治水を兼ねた宮殿内の池への嗜好は明日香の地でも遺跡として確認されています。

 

不思議なことに、さらに時代を遡りますが、神功皇后もこの地を訪れています。本稿ではこの神功皇后は斉明天皇の投影された形跡が多いとしました。今もこの気持ちに変わりありませんが、ここでは日本書紀の神功皇后の軌跡を忠実に再現してみようと思います。

200仲哀9年2月、神功皇后の夫、仲哀天皇が香椎宮(福岡市香椎)で崩御されました。神功皇后は31歳と計算され、仲哀天皇は52歳とあります。仲哀天皇の死の原因は、財宝の国、新羅を求めるよ、との神功皇后を通じて語られた神の言葉に従わなかったからと言われています。

神功皇后は自ら発したその3月のお告げに従い、まず、部下の吉備臣に熊襲国(くまそのくに)を撃たせます。自らは熊鷲(くまわし)を撃つべく、斉明天皇と同じ朝倉の地を目指すのです。まず香椎宮から松峽宮(まつをのみや)に移りました。ここが福岡県朝倉郡三輪町栗田だといいます。つむじ風で笠が飛んだので御笠と名付けたとの伝承、兵を招集したという伝承があります。現在、福岡県筑紫郡太宰府付近といわれています。層増岐野(そそきの)に至り、やっと熊鷹を撃ち取り、心が安んじ、この地を「安」と名付けたというのです。この安が吉田東吾氏のいう安野です。後に今度は斉明天皇が朝倉と命名するわけです。岩波版注にも、「和名抄に筑前国夜須郡(今、福岡県朝倉郡北部。甘木市)。万葉集555に「安野」が見える」とあります。

この後、神功皇后はさらに佐賀方向に遠征を続け、3月25日には福岡県山門郡山川村(邪馬台国候補地の一つ)に向かい、その後松浦にも行動範囲を広げ、こうして朝鮮に渡るのです。

日本書紀の記録が正しいとすると、斉明天皇はかなり神功皇后の伝承を意識していたことになります。やはり神功皇后が行った伊豫温泉に2ヶ月も逗留し、福岡磐瀬行宮から、たぶん香椎宮に参拝したのち、南に下り太宰府を通り、伝承とおりに安野まで来たのでしょう。しかし、斉明天皇はさらに奥まで進み、温泉を湧き出る地に至り朝倉橘広庭宮を開いたと考えられるのです。

 

もうひとつ、九州朝倉市を訪れてわかったことは、この甘木、朝倉の地が、田舎などではなく、昔から続いた大規模環濠集落があった地であることがわかったのです。古墳群も膨大で現在見つかっている朝倉の川添遺跡は「筑後川の支流、小石原の氾濫原に営まれた集落跡です。今から約二千年前の弥生時代中期から古墳時代前期までの約三百年間人々が住み続け、弥生後期(2〜3世紀頃)には集落を濠で囲んだ第集落となりました。」平塚川添遺跡公園パンフレット、朝倉市教育委員会文化課

この発掘地域の公園面積は約12万m2ですが、実際に存在すると思われる大勘合集落の規模はこれをはるかに超えるものであると言われています。

この筑後川沿い下流にはあの吉野ヶ里遺跡が控えているのです。

 

安本美典氏はこの甘木、朝倉の地を邪馬台国の地と唱えられました。

「朝倉地方には「甘木」をはじめとして「天」に関係する地名が多く見られる、安川(夜須川)がある、香山(かぐやま)がある、岩屋・岩戸があるなど日本神話に現れる地名が集中的に残っている。

朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。これは後述の邪馬台国東遷説につながる考えであるが、この考え方も安本の独創ではなく鏡味完二が指摘しているものであり、また折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も持ち運ばれたからであるとする説を述べているとしている。

朝倉地方には考古学的な遺跡が多く、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に匹敵するかそれ以上ともいわれる平塚川添遺跡も発掘されている。安本は邪馬台国の政治の中心地は朝倉地方にあったが国としては筑紫平野一帯に広がった諸国の連合で吉野ヶ里遺跡もそれに含まれるとみている。(実際吉野ヶ里と朝倉地方とは20有余kmの距離しかなく共に筑後川の北岸で途中はまったくの平野であり地勢的には同一である。)

朝倉地方は古来より村落が多い地帯であり、朝倉街道という地名が残っているように九州の交通の要所であった。(現在の朝倉地方には大分自動車道が通っており、甘木インターチェンジから東へ行けば大分方面へ抜ける。また西へ行けば九州を南北に走る九州自動車道と交わる鳥栖ジャンクションが近く、それを越えて長崎自動車道に入った最初のインターチェンジが吉野ヶ里遺跡に近い東脊振インターチェンジである。大宰府も近い。)」

 

そんな、朝倉の地に斉明天皇は朝倉橘広庭宮を開いたのはある意味当然だったです。

 

九州の人々に恨まれた斉明天皇

 

このときの斉明天皇の気持ちは明らかです。どの書物も同じですが、政治やこの戦争の意義に対し興味を失っていました。通説では68歳にもなります。これは明らかに年の設定がおかしく、本稿では55歳と修正しました。それでもかなりの高齢になります。

前に書きましたが、この戦争を発議したのは斉明天皇本人です。朝鮮出兵は古くは欽明天皇の頃からの想いであり、推古天皇を含めた天皇家の悲願でもあったのです。しかも、斉明天皇に神功皇后の気持ちが乗り移っていたとすれば、この美しい女王は、中国唐を通した文化に憧れ、新羅の国を財宝の国と思い違いもしていたきらいがあります。この派手な行動力ある女王は神功皇后に憧れに近い気持ちさえ抱いていたかもしれません。

しかも、バックには実力者、中大兄皇子や秀逸な中臣鎌足が控えていました。この決議に周りの男達の機運は一気に高まったと考えられるのです。しかし、準備が進み、全国から集まる軍人の数と武器の数々、軍船の膨大な迫力に、斉明天皇自身が次第に気後れしてきたのではないでしょうか。

九州に上陸するもすぐに、内地朝倉の地を目指しました。朝倉行宮は急な突貫工事であったようで、「朝倉社の木を切り払ってこの宮と造られたので雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった」とあります。

斉明天皇の土木工事は大和の明日香でも悪名高いものです。いろいろな当時最先端の建造物を次々建造してきました。九州での朝倉の地もその例外ではありませんでした。大和軍団の大集団の力は莫大なものだったはずです。地元の木々を大和の技術集団は次々伐採してさっさと建物を建造していったことでしょう。しかし、九州の民はこの行動には驚き呆れ恐れたのです。反抗行動は火事や鬼火となってあらわれます。

大舎人や近侍が病んだとありますから、おそらくは大和からきた斉明天皇の周囲のものたちが中心に亡くなったのでしょう。地元九州の民の協力もなく、大集団の食糧にも事欠き、地元の知恵を得られず、夏の九州、暑さと湿気という風土の違いに苦しみ、食中毒などにもあったのでしょう。7月24日、現在換算すれば、8月の猛暑のなか、斉明天皇もこの朝倉宮で崩御されました。

 

こんな伝承地があります。

 

桂の池跡、朝倉町大字入地字東入地1440−5

 

斉明天皇が朝倉橘広庭宮に移られた時、この池で船遊びの宴を催されたと伝えられているものです。

能の謡曲「綾鼓」あやのつづみは、この池を舞台としたもので、世阿弥元清の作と伝えられ、宝生流の秘曲とされています。朝倉橘広庭宮に奉仕する女御と庭掃きの源太老人の悲恋の哀話です。

 

筑前の国、桂の池という名高い池があって、木の丸の御殿からこの頃、御遊びに来られた女御がいた。池のお庭掃きの老人が、そんな女御のお姿を拝見して恋に落ちた。これを聞きおよんだ女御が哀れに思いになり、あの池のほとりの桂の枝に鼓を掛けて老人に打たせ、その鼓の音が御殿にまで聞こえたなら、今一度姿見せよう、と言われた。それを聞いた老人はその池に置かれた鼓を必死に鳴らすが、その鼓は皮でない綾絹が張られた鼓ゆえ鳴るはずもなく、幾日も幾日も鼓を打ち続け、とうとう老人は恨んで池に身を投げてしまう。この能の後半は女御に取り付いた老人の霊が、女御を陰惨に責める。常軌を逸した女御になおも綾の鼓を打たせて責め続け,恨めしい、恨めしいと叫びつつ恋の淵へと沈んだ。

 

古作の能に属するものと言われ、世阿弥(1363?〜1443?室町初期)が手を入れて現在の形に近いものに修正改作されたものとあります。原作がどのくらい昔に書かれたものかははっきりしていません。日本の古典16能・狂言集 昭和47版 河出書房新社より

三島由紀夫氏はこれを元に現代風にアレンジして再演しておられます。

『近代能楽集』新編古典全集59所収。

 

こうしてみると、この話は意外に古いもので、老人は九州の民の象徴として、女御は斉明天皇以下の大和から来た宮に住む来訪者として捉えてみることができます。古い九州の民には理不尽としか思えぬことを命じる新しい力を誇示するこの大和人に腹を立て、恨んでいたように見えてくるのです。

 

実はこの朝倉橘広庭行宮の正確な位置は現在もよくわかっていません。現在の宮址の碑はその一説に過ぎないのです。近くに朝闇神社があります。「あさくら」とも読ませることが可能とのことで、なにか暗いイメージを持ちます。

ここの筑後川は大変な暴れ川としても有名です。たぶん、その後、流され壊れたか、鬼火で焼けたのでしょう。しかし、地元住民による再建はされなかったのです。

実は、博多大津にあるはずの、岩瀬行宮又は長津の位置も不明です。よほど、斉明天皇や大和の大軍隊集団は地元住民には嫌われていたと感じます。

 

戦争に熱心だったはずの中大兄皇子なども斉明天皇と同行して、磐瀬行宮から離れ、遠い朝倉行宮に同道しているのです。居残る手立てもあったはずです。

これは、推測ですが九州博多での軍事会議がうまくいっていなかったのではないでしょうか。

なぜなら、斉明天皇が崩御され、天智天皇が磐瀬行宮に戻ると、滞っていた軍事行動が突然スムーズに進んだのです。天智天皇の才覚とも思われますが、当時の九州人の思惑では、東の大いなる軍事力は喉から手が出るほどほしいが、主導権は九州氏族らが持ちたいと考えていたと思います。旧九州氏族のプライドは高いのです。まだ、九州王国の意識が高かったのかもしれません。しかし、天智天皇らがさっさと内陸の朝倉に退くことで、急を要するはずの軍事行動がストップしてしまったのです。その結果、会議は遅々と進みません。こうして斉明天皇が崩御され、天智天皇が戻ると堰を切ったように策が打たれていくのです。九州部族の協力体制がやっとこのブランクで整ったというより、従わざる得ない状況になっていたということなのでしょう。

 

私は、もう一つの思いつきをこの旅行で感じ取りました。

それは磐瀬長津宮の位置がはっきりしないことです。たぶん東からの1万を超えたといわれる大船団を収容するはずの娜大津の湊(博多湾)を九州氏族らは明け渡しに非協力的だったと思うのです。1万を超えるといわれる大軍船団です。これを受け入れることは、地元博多湾の住民の糧を脅かしかねない九州氏族の死活問題でもあったはずだからです。そこで、外海が用意されたのです。

 

現在、磐瀬長津宮の一つの有力候補と言われるのが、福岡市南区三宅と言われています。これは宣化天皇の詔のなかで、宮家(みやけ)を那津(なのつ)の口(ほとり)に修造せよとあり、那津は博多大津の古名とあるからです。和名抄に筑前那珂郡中島郷(今、福岡市博多)、なお同郡三宅郷(今福岡市三宅)は南隣です。三宅は屯倉に通じます。延喜兵部式の筑前国の駅名に石瀬があるといいます。つまり、長津=那珂津・娜大津・那津はみな同じというわけです。現在、福島市南区高宮という地区です。

 

私はこれを、現在の、福岡県糟屋郡新宮(しんぐう)あたりだったと考えてみました。

新宮村役場によると、新宮町、杜の宮町、上府町、下府町、そして高台に斉明の橘を連想する立花町と高貴な地名ずらりと並びます。これだけの高貴な地名のあるところは、中央の国府レベルの施設がかつて存在したはずなのです。なぜか地名ばかりが残っているのです。

「新宮」の名は「湊に住吉の神を新たに招き磯崎のお宮にした」『筑前国続風土記』また、「『筑前国続風土記拾遺』では、新宮浦という名前は上府・下府の氏神である新宮大明神からつけられたものだ」とあります。

この地区は本来、安曇氏の勢力圏です。あれだけ、斉明天皇らに近しい安曇氏ですが、天智天皇らの不信をかったのか、これ以降、急速に大和での勢力が衰えていきます。もっともこの衰えは蘇我氏と共にあった為かもしれません。逆に、この後、宗像氏が天武天皇の外戚として台頭していくことになるのです。

 

このように、ここでも東朝といわれた大和の大軍は博多の町には入れなかったのです。斉明天皇もここが初めは博多湾だと言われたのかもしれません。しかし、すぐここが神功皇后のいた香椎宮の付近ではないことがわかります。怒った斉明天皇はここを長津と名付け、朝倉へ旅立ったのです。

その後、天智天皇は斉明天皇の遺骸とともにこの地を離れます。九州の民はこの地を自ら忘れました。磐瀬行宮を保持しようとは思わなかったようです。そしてこの地の高貴な地名だけが残ったのです。

 

今回の取材旅行、この九州では、大変熱心な地元の歴史研究に携わる方々に、お引き留め頂き、大いなる知識を頂きました。特に、川添遺跡公園、太宰府展示館、太宰府文化ふれあい館、新宮町役場の皆様には御礼申し上げます。

むろん、上記で示した史実や多くの正しい情報以外の推論、憶測などはすべて筆者の責任となるものです。反論、誤記の指摘などはすべて、当ホームページまでお問い合わせください。

合わせて、別項で公開する写真でもご確認下さるとありがたいです。

 

 

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