天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇崩御の謎 

First update 2009/05/10 Last update 2011/03/01

 

本稿では通説を疑い、天武天皇が若くして崩御されたとしました。歴史的には本朝皇胤紹運録に代表される65歳説、現在は56歳とされていますが、本稿では43歳としました。そのため、なぜ若くして亡くなったかをもう少し詳細に見ておく必要が生じました。

天武天皇の死因には漠然とではありますが、一つの思いをずっと抱いておりました。しかし、あまりに突飛で証拠もないため、空論として自分のなかで黙殺していました。あるとき読んだ里中満智子氏の「天上の虹」で自分の思いが確信に変わりました。里中満智子氏は持統天皇が仙薬を使用していたというのです。

結論だけを先に述べておきます。

天武天皇は仙薬の乱用により自らの命を縮めたのです。しかも、それは皇后をはじめ子、孫、曾孫の代までその健康を冒し続けることになるのです。

 

天武天皇の崩御の経緯

 

天武天皇が病に倒れたのは次の記事にはじまります。すでに天武天皇の身体をかなり蝕んでいたように見えます。

 

685天武14年9月24日、発病。三日間、大官大寺、川原寺、飛鳥寺で誦経させた。

     同、10月 4日、100歳になる百済の僧常輝に食封30戸を授ける。

     同、    8日、百済の法蔵、益田直を美濃に遣わして白朮(おけら)を求め、煎じ薬をつくらせた。白朮は胃の薬として当時、よく知られた漢方薬であったらしい。野山に自生するキク科の多年草オケラの根だそうです。

     同、  10日、信濃に行宮つくりを命じられた。これを遷都計画とする説を見かけますが、日本書紀がいうように、束間温湯(長野県美ヶ原か)にお出でになる病気治療の計画でした。現在と同様に胃臓病の他、皮膚病、眼病、神経病の効用があると信じられていたのでしょうか。しかし、もう動かせる状態ではなかったのです。実行には至りません。

     同、11月6日、白錦後苑(しろにしきのみその)にお出でになる。場所は不明のようですが、少し具合が改善させたのでしょうか。

しかし、 同、  24日には、再度、法蔵法師・金鐘に白朮(おけら)の煎じ薬を与えられています。古代中国葛洪の抱朴子によれば、仙薬の一つとして紹介されており「朮を服用すれば肥えて頑健になる」とあります。この頃の天武天皇はかなりやせ衰えていたのかもしれません。

さらには招魂という魂が身体から遊離しないよう祈られる儀式が行われたとありますから、危篤といえる状態であったのでしょう。

翌686天武15年1月2日、大極殿にお出ましになり皆と供応されたようです。天武天皇の最後の晩餐といえるものです。これ以降、公衆の前に姿見せることはありませんでした。

      同、4月27日には伊勢神宮へ多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わしています。これは、いろいろ目的があったところですが、その一つに天武天皇の病気平癒祈願目的があったことには賛同します。

      同、5月24日、重体。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居された。

このころ、全国に大赦が行われ、獄舎が空になったと伝えています。

      同、6月10日、占いにより草薙剣の祟りがあるといわれ、即日、熱田社に送り安置しています。

      同、  16日、「この頃わが体が臭くなった。願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故、仏に誓願してほしい」と言われたとあります。なんとも痛ましい記述です。

      同、7月15日、最後の詔です。「天下のことは大小のことなく、ことごとく皇后および皇太子に申せ。」とうとう、天武天皇は業務を放棄されたのです。

     同、  20日に朱鳥(あかとり)元年と改元されました。そうとう天武天皇の容態が悪いと感じさせる形振り構わない朝廷の困惑が見て取れます。改元は鸕野皇后こと持統天皇の最初の政治行動でした。

その後、各寺で祈祷、各皇子たちの誓願、観音像などの作製、大量な得度、恩赦、賜り物の記述が続きます。

686朱鳥元年9月9日、天武天皇は崩御されました。

これが一年におよぶ闘病の記録です。

 

死因の特定

 

日本書紀 朱鳥1年9月9日

丙午、天皇病遂不差崩于正宮

 

日本書紀はっきり天武天皇病死と記述しています。よって、それ以降の歴史書や最近の異説等でも暗殺説は皆無といっていいでしょう。本稿も暗殺説は排除します。

 

天武天皇の治療記録で二度ほど使われたのが、白朮(おけら)を煎じて与えられたというものです。白朮とはキク科の多年生植物で、煎じて薬用としていたようで、胃の漢方薬ですが、仙薬としてもリストにのる薬です。下痢、泥状便、食欲不振、上腹が張るなどの病状に効果があるといいます。逆に考えればそういう症状があったのかもしれません。

当時、周囲のものは、天武天皇の病は胃に原因があったと判断していたようです。

病状は示されていませんが、素人判断では、胃痛、吐き気(食べてもすぐに吐く)、食欲不振といったところでしょうか。

同時に招魂という魂を体に納める儀式があったといいます。これは憶測といえる領域かもしれませんが、けいれん、震えといった病状を示しているのかもしれません。魂が遊離するのを必死で留めようとしていたかに見えます。

 

これが、天武天皇の病状でした。

ところで、天武天皇の血を受け継ぐものたち、特に帝位もしくはそれに準じるもの達が皆短命なのが気になるところです。

 

天武天皇      43歳(本稿)

草壁皇子(皇太子) 28歳(日本書紀)

文武天皇      25歳(続日本紀)

高市皇子      35歳(本稿)

 

これは、よく近親相姦による虚弱体質によるものと言われます。

本当なのでしょうか。実は短命とはいえないのかもしれませんが、病弱であった事実をあげるとさらにリストは拡大するのです。

 

高市皇子 35歳(本稿)。

通説では43歳です。持統天皇の信頼厚く、故草壁皇子の島ノ宮に居をかまえること許されたといわれています。薨去されたとき日本書紀はこの太政大臣を「後皇子尊」と讃えています。しかし、高市皇子の突然の死に対して暗殺説がいろいろと取りざたされてきました。

土淵正一郎氏は「高松塚は高市皇子の墓」において、詳細な高松塚古墳のデータ分析から鉛糖による毒殺とされました。鉛糖とは有機系鉛化合物の一つで醋酸鉛のこととあります。水に溶け味が甘い猛毒と古代ローマより知られていたようです。これは、武庫川女子大学薬学部教授、安田博幸氏の論文に基づくものです。「古代の漆喰の原料の一つと考えられる貝殻の鉛含有量はふつう微量であり、高松塚の漆喰のみが、このように、顕著な量の鉛を含むのはなぜか、ということになお研究の余地がある。おそらく鉛白などの鉛化合物として混入されたものと考えられるのであるが、当時高貴薬の扱いをうけたであろう鉛白が、どういう効果を期待してここに使用されたのかは、いまのところ即断できない。」と紹介されています。その多量の鉛含有量が墓全体の定量分析から棺から流出されたものとしているのです。

ここでは暗殺の有無は別として、白い粉「鉛白」が「高貴薬」を的確に指摘した安田博幸氏の言葉に注目したいのです。

 

聖武天皇 56歳。

早死にとはいえませんが、彼は若い頃から病弱であったことはよく知られた事実です。724霊亀1年聖武天皇は15歳なり、ちょうど父文武天皇即位と同じ年齢、しかし、天皇位は姉の元正天皇が即位します。聖武天皇はそれから、9年後、24歳になってはじめて天皇に即位したのです。これが病弱だったからと言われ、その後の度重なる遷都も転地療養のためとする説や、大仏開眼供養や全国への国分寺建設は諸説あるところですが、健康をキーした行動にも捉えられるところです。多くの丸薬を納めた記録もあります。

 

聖武天皇の母、藤原宮子。

藤原宮子は聖武天皇の出産以来心身の不調に悩み、人事を廃すること久しかったとあります。それを怪僧とうわさされる玄ムの介護により回復するのです。

 

松本清張氏の著書「玄ム」によれば光明皇后も宮子と共にその頃、体調すぐれず玄ムにより直ったとしています。松本清張氏の推理は大陸から持ち帰った麻薬類により気分をほぐし、病を治したというものです。

玄ムは後の道鏡と同じで二人とも実はまじめな僧ではなかったかと思うのです。光明皇后や宮子の仙薬依存をやめさせたのではないかと考えています。

 

なぜこのように、長々と天武朝に潜む黒い遺伝子ともとられる伝統を羅列したたかは、ここに天武天皇自身が愛用した秘薬があったのではないかと推測するのです。

 

4世紀の中国の文人、葛洪はこの研究の第一人者です。その著作の一つに、抱朴子がいうには、長年不死の研究をしていたといい、その道は険しくそんな古代中国においてもなかなかその内容を理解するものは少なかったとあります。「世間の多くは仙道を信じない」といったうえで次のように語ります。「丹薬を合成する場所としては名山の中、人のいない地でなければならぬ。仲間を組んでも、三人を過ぎてはならぬ。事前に百日の斎戒をし、五香の湯で沐浴する。できるだけ清潔にし、穢れに近づいてはならぬ。俗人と往来してはならぬ。また道を信じない人に知られてはならぬ。神薬を悪口されたら事はならぬから。薬が成れば、自分一人だけでなく家族全部が仙人になれる。」本田済訳

天武天皇はその秘薬を自分だけでなく家族に勧めていたと思うのです。

また、抱朴子では、丹は不老不死に必ず必要な薬であるけれど、その製法は非常に難しい。だからといって諦めることはない。少しでも仙薬に近づければ、千年の命とはいかないまでも、2,30年の延命が可能となるとも断言しています。

 

天武天皇の性格

 

天武天皇 上 即位前紀

天渟中、渟中、此云農難。原瀛眞人天皇、天命開別天皇、同母弟也。

幼曰、大海人皇子。

生而有岐嶷之姿。

及壯雄拔~武。

天文遁甲

納天命開別天皇女、菟野皇女、爲正妃。

天命開別天皇元年、立爲東宮。

 

天渟中、渟中、これをヌナと読む。原瀛眞人天皇、天智天皇の同母弟なり。

幼い頃、大海人皇子という。

生れたときより大変よい姿であられた。

成人になると雄々しく武徳に優れられた。

天文遁甲(とんこう)によく通じておられた。

天智天皇の娘、鵜野皇女を納正妃とされた。

天智天皇の元年、東宮に立たれた。

 

和風諡号を「天渟中原瀛眞人天皇」と書きます。

「あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと」

岩波版注によれば、

天   あま  」は敬称

渟中原 ぬなはら」は瓊(ぬ)を産出する原、

瀛   おき  」は水上遙か彼方

眞人  まひと 」真人は貴人に対する尊称、とあります。

つまり、瓊を産出する原の奥に居られる貴人となります。

 

瓊とは何でしょう。

漢和辞典では瓊は瓊玉のことで、美しい赤い玉とあります。ヒスイとも言われています。

 

万葉集L3247

沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉 君之 老落惜毛

ぬながはの そこなるたま もとめて えしたまかも ひりひて えしたまかも あたらしき きみが おゆらくをしも

沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき 君が 老らく惜しも

瓊の川底の玉。探し求め得た玉、拾い求め得た玉、そんな我が君が老いて行かれるのが辛い。

 

天上に関する歌群の一つ。いずれも老いをテーマにしています。

天武天皇はまさに不老不死を手に入れた仙人ということになります。

 

もう一つの問題は「天文遁甲」という言葉の意味です。これは諸葛孔明が用いた戦略占術のことと言われます。また、よく「天文、遁甲」と分かれて解説されています。日本書紀に602推古10年10月、百済の僧観勒が来日したおり、暦の本と天文地理の書、併せて遁甲方術の書を奉ったとあるからです。しかし、本来はすべて一つの言葉のようです。「天文遁甲」とも「遁甲方術」とも書かれたようです。

注意すべきは、道教から発展した仙道に「仙道五術」といわれるものがあります。「山・医・命・卜・相」といわれる五つの術です。山とは山岳で修行する武術、医は医術というより漢方薬学、命とは四柱推命ともいえる宿命論、卜は運命の変化論、相は手相、人相に代表される真理を見分ける学問といえます。「仙道」は中国四千年の歴史を持ち、道教の医術、符呪術、遁甲方術などとも深く関ってきました。

さらに憶測を進めると、仙道は仙人への道と解され、その一策に仙薬を用いた不老不死への方法が論じられました。つまり、天武天皇は外来の学問である仙道に通じ仙薬にも知識があり本気で取り組んでいたことになるのです。

 

天武天皇と朱色

 

井上通泰氏が唱えたとされる、天武天皇が自らを漢の高祖に擬したという定説があります。

漢の高祖が赤帝の子であると自負して皆赤旗を用いたと漢書、高帝紀にあり、天武天皇も壬申の乱で軍旗に赤色を用いたというものです。

 

日本書紀 天武天皇 上 秋7月2日

恐其衆與近江師難別、以赤色著衣上。

その軍が近江軍と判別し難いことを案じて、赤いきれを衣服の上につけさせた。(宇治谷孟訳)

 

古事記 序

杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。

矛が威力を示し、勇士が煙のように四方から起こり、赤い旗が兵器を輝かして、近江の軍勢は瓦の崩れるように敗れ去った。

注:絳旗こうき=赤い旗。古代中国では天子の旗とされた。(次田真幸訳)

 

万葉集 巻第二199(長歌抜粋)

 

高市皇子尊、城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首

 

指擧有   ささげたる     捧げた

幡之靡者  はたのなびきは   旗のなびきは

冬木成   ふゆこもり    (春の枕詞)

春去来者  はるさりくれば   春が来れば

野毎    のごとに      野山に

著而有火之 つきてあるひの   火が燃え立ち

一云

冬木成   ふゆこもり

春野焼火乃 はるのやくひの   春野火の

風之共   かぜのむた     風にあおられ

靡如久   なびくがごとく   靡くようだ。

 

その他、日本書紀の天武天皇の崩御の年は朱鳥(あかとり)と改元されました。赤ではありません。

確かに、古代中国の漢の高祖に擬したという説には説得力がありますが、高祖に心酔していたとまではいかないようです。上の例からも、赤きれは単に他兵との区別に利用され、自軍は火のように燃えさかったという擬似的表現なのです。

天武天皇のこだわりは「赤」ではなく「朱」であったと思うのです。

朱と赤は違うのです。混同して用いてはいけないのです。

 

 

仙薬とは

 

辰砂(しんしゃ)は硫化水銀(HgS)からなる鉱物である。別名に赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがあります。日本では古来「丹(に)」と呼ばれました。水銀の重要な鉱石鉱物です。

不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出し、錬丹術などでの水銀の精製の他に、古来より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として今も一部では珍重されているのです。

中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになったようです。日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されています。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた痕跡があります。

 

古代においては、水銀や辰砂(鮮血色をしている)はその特性や外見から不死の薬として珍重されてきました。特に中国の皇帝に愛用されており、それが日本に伝わり飛鳥時代の持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされるものです。しかし現代から見ればまさに毒を飲んでいるに等しく、始皇帝を始め多くの権力者が命を落としたといわれている猛毒です。水銀は毒として認知されるようになった中世期以降といわれます。

 

砂金の採掘では金を含む砂に水銀を通し、砂中の金を溶け込ませた後に水銀を回収・蒸発させて金を回収するという手法がとられることがあります。このような採掘方法はしばしば設備の整っていない環境で行なわれるため、水銀汚染が問題になるのです。

 

水銀中毒の表情

 

硫化水銀は粉塵を吸入したり、経口摂取すると、悪心、嘔吐、発熱、中枢神経病状、貧血、 視野狭窄などの水銀中毒を起こす。水俣病は有機水銀中毒ですから、一概に同じとはいえませんが同類の病です。

 

丹の産出地

 

奈良県、徳島県、大分県、熊本県などで産する。

日本書紀には秘中の秘とされたように語ることのなかった丹の記録が続日本紀には顔料や染料として現れてきます。

 

698文武2年9月28日

乙酉、令近江国献金青。

伊勢国朱沙・雄黄、常陸国・備前・伊予・日向四国朱沙、安芸・長門二国金青・緑青、豊後国真朱。

28日、近江国に金青(こんじょう 紺青とも書き、青色の顔料)を献上させた。

伊勢国には朱沙(すさ)・雄黄(ゆうおう)、常陸国・備前・伊予・日向の四国には朱沙、安芸・長門の二国には金青・緑青(ろくしょう)、豊後国には真朱(まそほ)を献上させた(いずれも顔料)。

<続日本紀(上)宇治谷孟訳>

 

岩波版でも注には顔料とあるます。「金青」は硫黄塩に硫化第一鉄を化合させて作り、和名抄には「空青之最上也」とあります。「朱沙」は朱砂とも書き、水銀と硫黄の化合した赤色の土。「雄黄」は黄色の顔料、ヒ素化合物です。薬としても用いたとあります。「緑青」は緑色の顔料で酸化銅です。「真朱」は赤色の顔料とあります。

どれも最上の高価な顔料で、このことから持統太上天皇が使用したと言われています。しかし、このとき持統は54歳。本当に化粧品のためだったのでしょうか。

上記の品は仙薬の原料が多く含まれています。

天武天皇の長男、高市皇子は3年前に35歳(本書)で薨去、その6年前には皇太子草壁皇子28歳が薨去されていました。このとき、文武天皇16歳。これから9年後崩御されるのです。

 

713和銅6年5月11日

癸酉。相摸・常陸・上野・武蔵・下野、五国輸調、元来是布也。

自今以後、〓[糸+施]・布並進。

又、令大倭・参河並献雲母、伊勢水銀、相摸石硫黄・白樊石・黄樊石、近江慈石、

美濃青樊石、飛騨・若狭並樊石、信濃石硫黄、上野金青、

陸奥白石英・雲母・石硫黄、出雲黄樊石、讃岐白樊石。

11日。相摸・常陸・上野・武蔵・下野の五国の輸納する調は、本来は綿布であったが、

今後は[糸+施](あしぎぬ)も合わせて上納するように。

又、大倭・参河の両国は共に雲母(きらら)を、伊勢は水銀(みづかね)、相摸は硫黄石・白樊石・黄樊石(樊石は明礬みょうばん、染料)、近江は慈石(じせき磁石)、美濃は青樊石、飛騨・若狭は共に樊石(ばんしゃく)、信濃は硫黄石、上野は金青(こんじょう黄色の顔料)、陸奥は白石英・雲母・硫黄石、出雲は黄樊石、讃岐は白樊石を輪納させる。

<続日本紀(上)宇治谷孟訳>

 

上記、文武2年より15年の後の記録です。今度は染料をイメージした文章に見えます。

しかし、さすがに今度は学者たちもだまされません。今度は仙薬と記されたものが多いと注釈しています。

雲母(きらら)は耐寒暑・不老・軽身・延年・志高神仙等の効能があり、水銀(みづかね)は神仙・不死の薬、硫黄石は樊石液で硫黄を含む鉱石で染料(白、黄、青、黒、緑がある)。しかし、いずれも本草集注によるもので、不老・軽身・増年の効能があると書かれています。

続日本紀(一)岩波版補注>

 

文武天皇はもういません。母が元明天皇となっていました。首(おびと)こと後の聖武天皇は翌年14歳で皇太子になります。首の母、藤原夫人宮子はこの頃には体が悪いようです。聖武天皇は病弱になっていくのです。

 

 

以下の「関西地盤環境センター」のホームページの記事などが、水銀鉱床群は古来から丹、丹生といわれた地区と一致し、丹生神社が全国に分布するといいます。

 

●中央構造線沿いの水銀鉱床群

このように辰砂(朱砂−朱色の硫化水銀:HgS)を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布しています。特に、中央構造線沿いの水銀鉱床群が規模も大きく、水銀鉱床群の主流を成しています。以下が主な鉱床群です。

大和鉱床群:伊勢から紀ノ川河口の間、伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座する。

阿波鉱床群:阿波吉野川沿い、若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼が多数出土。

九州鉱床群:大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附に分布する。

九州西部鉱床群:佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市に分布する。

http://www.ks-dositu.or.jp/cnews1904/image1.gif

↑西日本の水銀鉱床群

「関西地盤環境センター」の地図は天武天皇の足跡を語る上で非常に重要であることがわかるのです。

 

舞鶴地区は天武天皇の米の産出地とされる非常に関連の深い地区ともいえるのです。

吉野川や伊勢は壬申の乱に関わり、伊勢神宮も天武天皇にとって重要です。

紀伊半島や四国吉野川流域は余り知られていませんが、天武天皇の勅願寺が集中している地区でもあるのです。

九州には、若い頃の大海人皇子としてそこにいたのです。そこで、母、斉明天皇と、最愛の妻、大田皇女を失っています。

Googleマップで「天武天皇の年齢研究―勅願寺」として入力されると天武天皇との関連がさらにあきらかになるでしょう。

 

丹生に関わる地域名

 

地区名とともに山河の名称にも残っています。

日本各地に残る丹生の地が、古代の朱砂の採取地であったことは、水銀の微量分析によってほぼ確認されています。

ただ、地区名は、ニウ、ニブ、タン、などいろいろです。

○関東地区にも残っていますが、とりあえず割愛します。

○奈良県吉野郡南芳野村に丹生滝があります。その北には吉野川に流れ込む丹生川があり、丹生川上神社が鎮座しています。

○和歌山県多気郡の伊勢に丹生神社があります。かなりの名刹のようです。

○滋賀県伊香郡に丹生村があります。さらに北、福井県には広く丹生郡が広がるのです。

鶴賀湾の西側には丹生浦があります。

○和歌山県には日高郡として、丹生神社がいくつもあります。

○四国、香川県大川郡に丹生村があります。また、小松川市にも丹生神社があったとしています。吉野川に流れ込む丹生川もあります。

○愛媛県越智郡に鈍川(にぶかわ)があります。昔、丹生川ともいったといいますがよくわかりません。気にしている地域なので記録しておきます。

○播磨国には丹生山があり、そこに丹生神社があります。

 

丹生氏の存在

 

朱砂の採取に従事した氏族です。丹生の氏名は水銀の原鉱の硫化水銀の産出に由来します。古墳時代からの施朱風習を管掌していたのがこの丹生氏といわれます。この地は渡来系の秦氏が重複していることから、6世紀中頃以降はアマルガム鍍法による鍍金の技術導入をはたした秦氏が丹生氏にとって代わったといわれています。

丹生直氏が越前国丹生郡・遠江国磐田郡に、丹生公氏が伊勢国に、丹生氏が伊勢国多気郡・若狭国遠敷郡などに分布するといわれています。なお、近江国坂田郡を本拠とする息長丹生真人がいます。

 

古代の丹

 

朱(しゅ)と丹(に)はその違いがはっきりしません。

名前も、朱砂、丹砂、丹朱、鉛丹とさまざまです。

しかし、現象としてとらえると、古墳時代、石室がベンガラ(赤鉄鋼)で赤色に塗られているのは印象的です。これで死者がよみがえるとされるといいます。硫化水銀との分離が完全ではなかったのかもしれません。

 

辰砂(しんさ)は赤い鉱物で成分は硫化水銀です。これが、赤色の顔料として最近まで用いられていた顔料ですが、不老不死の薬ともなるものです。

また鉱石として別に、水銀と硫黄の化合物もあり、ことらは赤色絵の原料です。

 

「魏志倭人伝」に見える丹

 

以朱丹塗其身體。如中國用粉也。 「朱丹をその身体に塗る。中国の粉を用いる如きなり。」

出真珠青玉。其山有丹。     「真珠、青玉を産出する。その山には丹あり。」

特賜汝、〜銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤、「特に汝に〜銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々 五十斤を賜い、」

訳注:鉛丹=道家で鉛を練って作った丹、炭酸鉛・紅色結晶性の粉末、という。

倭王復遣使、〜八人上獻、生口・倭錦・〜・丹・〜。

            「倭王、また使〜八人を遣わし、生口・倭綿・〜・丹・〜を上献した。」

 

三世紀の魏志倭人伝の時代から古代中国では仙薬は興味の的だったようです。倭人はそのことを知らず、朱丹を体に塗り、化粧ならぬ武装をしていたようです。古代中国人は日本が仙薬原料の豊富な国と捉えていたのでしょう。逆に中国側からは調合した仙薬を与えたとあります。真珠はおそらくはすりつぶした白い粉を酪漿(乳)に混ぜ水銀と同じ効果があるという仙薬、鉛丹は鉛と丹を混ぜた赤い丸薬を作らせ授けたのでしょう。

 

こうしてみると、中国の文献魏志倭人伝にはじまり、古事記、続日本紀、万葉集、風土記などに丹の記述が色濃く残っていくのがわかるのです。

この頃の古代日本の歴史は「丹生」ぬきにして語ってはいけないほど重要な要素だったのです。

そして天武天皇ほど仙薬に深く関わった天皇はおらず、その強力な推進者でもあったのです。

 

 

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