天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
博戯(賭博) はくぎ(とばく) First update 2013/08/20
Last update 2013/12/04 「ギャンブルにはまった天武天皇」とあるニュース記事を読みました。他でもこれに類した書き込みを見た覚えがあります。あまりに誤った見解なので、一言誤解を解いておきたいと、あえて筆を起こしました。これは次の天武天皇、最晩年の記録から想像が膨らんだようです。 【日本書紀 天武14年9月条】
「18日、天皇は大安殿(内裏の正殿)におでましになり、王卿らを前に召して博戯(双六などのかけごと)をされた」(宇治谷孟訳) 博戯とは、岩波版日本書紀注では「双六などの賭をともなう勝負ごと」とあります。筒から2個の骰を振り出し、その目で局の上の黒白各15箇の馬を進めて勝負します。 双六は現在、正倉院に残っています。立派なものです。筒は紫檀木画、骰は象牙、馬は宝石類でできています。この現物は、唐の皇帝から日本の聖武天皇と同型のものが残るトルファンの王に贈られたのではないかと考えられています。むろん、後に国内に広まったものは、これほど豪華ではないでしょう。 原文は「博戯を令す」ですから直訳として、大安殿の前に王卿達を集め、博戯を命じた、となります。この記事は「博戯」として初見です。ハクギと音読させています。当時、中国を中心とした大陸の遊びは一部の例外、例えば渡来人を除き、王卿らもほとんどが知らなかったでしょう。よって、ここでは、天武天皇はわざわざ博戯を披露し、この遊び方について知るものを招いて皆の前で説明させたのです。つまり、中国ではこういう遊びをしていると紹介したのです。 日本書紀のこの記述の前も同様に解釈できます。歌、笛を習い、子孫に伝えよ、と命じています。日本古来の歌、笛の伝承では当たり前の記事です。ここは、大陸からの珍しい歌舞、楽器を習い覚えさせ、日本に残そうとしていたと解釈できます。 このように、天武天皇の目的は明らかで、皆に大陸のさまざまな文化を紹介し、吸収させようとしていたのです。 また、博戯の記事のすぐ後には、10人ほどに天皇の衣服を賜うなどの記事が続きます。褒美を与えていますが、「是の日」と前後の記事とわけていますから、これは別件の内容であることがわかります。博戯で勝った褒美などではありません。 その後、天皇が病に倒れた記事と続きます。体力が弱っており、気力も衰え、この頃はあらゆる功労者に物を賜う記事が多くなっているのです。 「ギャンブルに、はまっていた天武天皇」とか、「紫宸殿で諸官を集めて、皆で賭博を催した」とか「この博戯の勝利者に御衣,袴,獣皮などを下賜した」などと解釈するのは間違っています。 ところが、後にこの博戯の賭博行為には行き過ぎがあったようで禁じられてしまいます。 このことが、また天皇賭博説に拍車をかけているように見えます。 【日本書紀 689持統3年12月条】
【続日本紀 698文武2年7月条】
相当に広まり流行っていたようです。天武天皇崩御から4年しか経っていません。 大陸からのこうした悪影響としては、他に流行病があります。遣唐使が戻ると途端に人がばたばたと倒れることがあります。文化交流もよい事ばかりではなかったということです。 あまりいい例ではありませんが、昔、会社の重役からパソコンにつながったばかりのインターネットをどんどん使えと進められ、時間に関係なく、ネットで遊んでいた経験があります。叱られることもありませんでした。今でこそネット利用の社内ルールも整備されてきていますが、あの頃は、ネットの世界をいち早く知れ、慣れろ、が最優先の時代でした。 天武天皇は博打好き、などと思わないでいただきたいものです。 それにしても、なぜ専門家たちは、世間に公然と公表されているこうした誤解を正そうと、はっきり教えないのでしょうか。まさか、専門家たちも、天武天皇は皆と博打をして楽しんだ、などと本気で考えているのでしょうか。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |