天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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大伯皇女の年齢 おおくのひめみこ

First update 2008/03/16 Last update 2019/05/09

 

661斉明7年生〜701大宝1年没(41歳)日本書紀、続日本紀

 

一般的には、大来皇女または大來皇女と書かれるが、生まれた地名を重視する主旨に則し本稿では大伯皇女で統一しています。

 

父  天武天皇

母  大田皇女 天智天皇の長女、   667天智6年葬  24歳(本稿推定)

弟  大津皇子 663天智2年生 〜 686朱鳥1年薨去 24歳 日本書紀

義母 鸕野皇女 645大化1年生 〜 702大宝2年崩御 58歳 一代要記等

義弟 草壁皇子 662天智元年生 〜 689持統3年薨去 28歳 日本書紀

 

  舒明天皇

    ―――――天智天皇(671年崩)

  皇極天皇     ├――――皇后 鸕野皇女(645年生)

           |       ―――草壁皇子(662年生)

           |     天武天皇

           |       ―――大伯皇女(661年生)

           |       ―――大津皇子(663年生)

           ――――妃 大田皇女(644年生)

           ――――建皇子(651年生)

 蘇我山田石川麻呂――遠智娘(651年薨去?)

 

日本書紀斉明7年1月6日、岩波版注には岡山県邑久(おく)郡の海。小豆島の北方とあります。朝鮮出兵のため船団が難波を出航し途中大伯の海の上、つまり船上で生まれたのです。

生まれた時と場所、薨去されたときのわかる古代女性は数少ないものです。

 

弟が生まれる3歳まで九州にいた二人の姉弟は、白村江の敗戦に伴い両親と離れ大和にいる天智天皇のもとに預けられました。天智天皇が大伯皇女の弟の大津皇子を特に愛していたことが知られています。7歳で大和に戻った父天武天皇と再会し、翌年、近江遷都で移動します。ここでも天智天皇の子供らと仲がよかったようです。つまり、姪娘の娘、同年齢の阿閇皇女、一つ年上と思われる十市皇女、額田王の娘です。壬申の乱では弟の大津皇子は父天武天皇の元に走りましたが、大伯皇女は近江に留まったと思われる理由です。

 

【大伯皇女 関連年表】

661斉明 7年  1歳 大伯皇女、備前大伯の海上で降誕。

663天智 2年  3歳 弟、大津皇子生まれる。

667天智 6年  7歳 母大田皇女の死により斉明天皇の墓前に葬る。

673天武 2年 13歳 卜定。泊瀬の斎宮に入る。

             潔斎。身を清め、次第に神に近づける為。

674天武 3年 14歳 下向。郡行。泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移る。

675天武 4年 15歳 阿閇皇女(15歳)、十市皇女(推定16歳)が

             伊勢神宮に詣でる。

686朱鳥 1年 26歳 4月、託基皇女、山背姫王、太蕤娘が伊勢神宮に遣わされた。

             9月、天武天皇崩御

             弟大津の変により退下。

             伊勢神宮の斎宮の職を解かれ都に帰ること。

694持統 8年 34歳 甲午年、昌福寺金堂落成か(名張市)

701大宝 1年 41歳 12月、大伯内親王薨去

725神亀 2年     昌福寺建立「醍醐寺本薬師寺縁起」

 

600 66666666677777777778888888888 年

年   12345678901234567890123456789 齢

天智天皇――――40―――――46

天武天皇―――――――――――――――――――――――――崩

大田皇女QRS―――葬

大伯皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26――――41

大津皇子  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24

鸕野皇女PQRS―――――――――30―――――――――――42――――58

草壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25――28

 

天武天皇の御代となり、大伯皇女が齋王として選ばれ、伊勢に向かうことになります。斎宮への過程は記録に値します。

十市皇女の項でも述べますが、伊勢神宮に下向した大伯皇女の苦労は大変なものであったと思います。それまでの斎王の習慣はほとんど立ち切れ状態だったはずで、天武天皇がこれを復活させたわけです。いわば初めてといえる斎王の復活です。大和の天皇の皇女が山向こうの伊勢神宮の古い制度の中にとけ込み生活しなければならないのです。大変な軋轢があったと思います。当然この15歳の少女の精神状態はぼろぼろにされたことでしょう。

このとき、天武天皇はこれを敏感に察知し、自分が様子を見に行くのではなく、同世代の親戚で親しかった元気いっぱいの女の子二人を伊勢に派遣したのです。このことに私は強い父親の愛情とすぐれた天武天皇の資質を感じました。阿閇皇女15歳は続日本紀から導かれる年齢です。問題になるのは十市皇女ですが、本稿ではこの子は大伯皇女より一つ年上くらい女の子であったと推測しています。

くわしくは十市皇女の項をご参照ください。

 

その甲斐あってか、弟の問題が起こるまでの13年間を無事に巫女として斎王としてりっぱにやり遂げました。伊勢神宮側も彼女を認めたと思います。

しかし次期斎王が次々と立ちますが、正直言ってだらしないもので、制度として確立するためには大変な時間を要したようです。その後、大伯皇女が始めたこの齋王の制度はいつしか定着し、南北朝時代1334建武元年後醍醐天皇を父にもつ祥子(さちこ)内親王が退下するまで続くことになるのです。

 

大津皇子の変は天武天皇崩御とともに起こりました。

大伯皇女の歌は万葉集の歌中でも名歌といわれるものです。

相聞歌

藤原宮御宇天皇代

天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也

 

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首

大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて、上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

 

A105

吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

わがせこを  やまとへやると さよふけて あかときつゆに われたちぬれし

我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 曉露に 我が立ち濡れし

我が弟を大和へやるのだと思うと夜も更けて朝方の露に立ち濡れてしまった。

 

A106

二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

ふたりけど ゆきすぎがたき あきやまを いかにかきみが ひとりこえなむ

ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を   いかに君が  ひとり越えなむ

二人で行っても寂しいあの秋山をどうして君は一人で越えようとするのか

 

これらの歌を通してわかる重要な点は大津皇子が事前に朝廷側の策謀を察知していたことです。

伊勢神宮に勝手に参ることは当時禁じられていたといいます。彼に謀反の気持ちなど露ほども持っていないはずです。ですから伊勢神宮の加護を願いここにきたのではありません。彼は唯一の肉親である姉に本当に個人的にそれこそ密かに訪れ、今の現状と自分の行くべき姿勢を知らせにきたのです。これから起こることに正々堂々と対峙していく若い決意を態度で姉に示したのです。死んでもかまわぬと思っていましたが、一縷の可能性も抱いていたはずです。

姉はおろおろするばかりだったようです。姉のほうが世間の冷たい現実を理解しており、これから起こる悲劇をより現実的に予感していたのだと思います。

しかし、弟を説得するまでには到らず、明日香に戻る弟を見守るしかなかったのです。

 

ところで、この歌からこの姉弟の間に近親相姦の関係があったとする文献があることも一応紹介しておきます。この歌の位置が「相聞」に分類されており、相聞とは男女の私情を伝えあうことです。また、「竊か」という言葉が万葉集には他に6例あるようで、そのいずれもが男女間の密通の意味に用いられているというのが根拠のようです。

本稿は当然この説は採りませんが、この姉弟は本当に仲がよかったのだろうなと思うばかりです。

 

以下、A163,164は大津皇子の死により、大伯皇女が伊勢より帰京するときの歌です。

挽歌

藤原宮御宇天皇代

高天原廣野姫天皇 天皇元年丁亥十一年譲位 軽太子尊号曰太上天皇

大津皇子薨之後 大来皇女 従伊勢齋宮上京之時 御作歌二首

大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢斎宮より京より上る時に作らす歌二首

 

A163

神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

かみかぜの いせのくににも   あらましを なにしかきん   きみもあるくに

神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに

神風の吹く伊勢の国にむしろいたかった どうしてきたのか 君もいないのに

 

A164

欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

みまくほり わがするきみも あらなくに なにしがきけん うまつかるるに

見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに

逢いたいと思う我が君もいないのに 何で来たのだろう 馬も疲れるのに

 

以下、A165,166は殺された大津皇子の屍を二上山に移葬した時の歌といいます。

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時 大来皇女哀傷御作歌二首

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、

              大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首

 

A165

宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

うつそみの ひとにあるあれや あすよりは ふたかみやまを いろせとあれみん

うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我見む

現世にいる自分は明日からはあの二上山を弟として見よう

 

A166

礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

いそのうえに  おうるあしびを  おらめど  みすべききみが  ありとはいわなくに

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はくに

水辺の生える白い花を手折としたが見せるべき君がいるとは誰も言わないのに

 

右一首今案不似移葬之歌

盖疑従伊勢神宮還京之時 路上見花感傷哀咽作此歌乎

 

本当に悲しい挽歌です。

大伯皇女はたった一人になったのです。

その後、大伯皇女の人生は静寂そのものでした。41歳に死ぬまで独身で過ごしました。

 

大津皇子を殺した持統天皇は、この弟とは違う静かに存在し続ける隙のない大伯皇女をどうすることもできなかったようです。ましてや、大津皇子を殺したことで自分の息子、草壁皇子まで亡くす結果になったのです。701大宝1年12月27日大伯内親王は41歳で静かに息を引き取りました。そして、この翌年12月22日に持統太上天皇も崩御されたのです。58歳でした。

 

大伯皇女が薨去された12月27日の5日後の正月の朝廷の行事記録はいつになく華やかでした。大伯皇女は持統天皇にとって姉の子にあたりますが、喪に服する気配さえありません。

 

「2年春正月、天皇は大極殿にて朝賀を受けた。初めて親王と大納言以上は礼服を着、諸王以下は朝服を着た。〜。15日、群臣たちと西閣で宴を催した。五常楽、太平楽を奏し、歓楽のかぎりを極めて終わった。」(宇治谷孟訳 続日本紀)

 

持統天皇も本当の意味でほっとしたのかもしれません。

 

醍醐寺本薬師寺縁起(11世紀)に「大来皇女、最初斎宮なり、725神亀2年を以て浄原(天武)天皇の御ために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記されており、この昌福寺が現在の夏見廃寺だと言われています。しかし、神亀2年は聖武天皇の御代であり大伯皇女はすでに亡くなられています。大伯皇女の勅願により694持統8年には金堂は完成していたといわれます。夏見廃寺出土物の中に「甲午年□□中」の紀年銘を持つものがあり、この甲午が694年にあたるからです。そして死後、神亀2年に新たに豪華な講堂伽藍などが完成し、天武天皇の御ためと称し昌福寺と名付けられたのだと思います。

壬申の乱の往路の拠点に当たりますが、大伯皇女の伊勢齋宮と明日香の地をつなぐ重要な地でもあります。

10世紀末ごろに焼失。源氏、その夏見廃寺は整備され、三重県の名張中央公園のなかに夏見廃寺展示館、さらに金堂などの掘立柱基壇が保存され、当時を忍ぶことが出来ます。

金堂など掘立柱基壇に基づく復元配置図                         夏見廃寺展示館

2019/05/09加筆)

 

 

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