天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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持統天皇(鸕野皇女)の年齢 じとうてんのう(うののひめみこ)

First update 2008/11/31 Last update 2011/01/29

 

45大化1年生〜702大宝2年崩御 58歳(一代要記、本朝皇胤紹運録など)

 

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、菟野皇女、沙羅羅皇女にも作る。

後に即位し、持統天皇(在位 690持統4年〜697持統11年)

地位として、皇后、称制、天皇、太上天皇の名で呼ばれる。

 

父  天智天皇 持統紀に第二女とある。

母  蘇我倉山田麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)別名、美濃津子娘(みのつこ)

姉  大田皇女 同母姉に当たる。同じ天武天皇に嫁ぎ、大伯皇子大津皇子を生む。

叔母 姪娘または宗我嬪(元明紀)

夫  天武天皇

子供 草壁皇子 662天智 元年生〜689持統3年   28歳

孫  文武天皇 683天武12年生〜707慶雲4年6月 25歳

 

  舒明天皇

    ├――――――間人皇女

    ├――――――天智天皇

    |       ├――――皇后 鸕野皇女(645年生)

    |       |       ├―――草壁皇子(662年生)

    ├―――――――|――――――天武天皇

  皇極天皇      |       ├―――大伯皇女(661年生)

            |       ├―――大津皇子(663年生)

            ├――――妃 大田皇女(644年生)

 蘇我山田石川麻呂――遠智娘

 

【鸕野皇女 関連年表】

645大化元年  1歳 中大兄皇子(20歳)と遠智娘との間に生れる。

657斉明3年 13歳 姉、大田皇女とともに大海皇子に嫁ぐ。(持統前紀)

662天智元年 18歳 草壁皇子を九州で出産。          

672天武元年 28歳 壬申の乱 天武天皇とともに吉野脱出

673天武2年 29歳 正式に天武天皇の皇后となる。    

679天武8年 35歳 吉野盟約に参加する。        

686朱鳥元年 42歳 9月 天武天皇崩御           

689持統3年 45歳 4月 草壁皇子薨去(28歳)

            6月 飛鳥浄御原令を施行

690持統4年 46歳 正月 持統天皇として正式に即位する。  

            9月 庚寅年籍の作成に着手

694持統8年 50歳12月 藤原京に遷都         

697持統11年53歳 2月 軽皇子(15歳)を皇太子とする。

            8月 軽皇子に譲位し、文武天皇とする。

701大宝元年 57歳 8月 大宝律令成立

702大宝2年 58歳12月 22日、太上天皇として崩御する。

 

こうして年表をみると、政治手腕逞しい持統天皇ですが、その事業はほとんど天武天皇が手掛けたことの継承のようにも思えます。

 

持統紀に天智天皇の第二女とあります。第一女は大田皇女となります。

58歳説に一代要記、神皇正統記、本朝紹運皇胤録、等があります。姉、大田皇女で示した計算結果からも、息子の年齢、父、天智天皇の年齢などからも、当を得ているものです。

 

持統前紀に「鸕野讃良皇女(さらら)」、天智紀7年に「娑羅羅皇女」とあります。和名抄に「讃良<佐良良>」河内国更荒郡(大阪府北河内郡四条畷町)とありますから鸕野、讃良(さらら)はともに地名、河内郡更荒郡鸕野邑(欽明紀23年)から取られたと考えられています。生駒山の北西部に位置するといいます。

 

天武皇后となった鸕野皇女は、本朝皇胤書運録、一代要記、帝王編年記の記述により、上記の通り年齢を特定できます。別に扶桑略記は持統天皇を文武天皇に譲位した持統11年を50歳とする説(55歳崩御となる)もありますがここでは取りません。これでは一人息子の草壁皇子の出産時の年齢が15歳と若くなりすぎると思えるからです。

 

すると、鸕野皇女は天智天皇20歳の時の子です。この鸕野皇女は13歳で天武天皇に嫁ぎ、662年18歳で草壁皇子を九州で出産しています。その後、天武天皇が亡くなると、息子を天皇にと考えますが、草壁皇子も亡くなり、自ら持統天皇となり、草壁の忘れ形見、軽皇子、後の文武天皇が成長するまでと尽力します。曾孫の文武天皇の即位(697年)を確認後、702大宝2年に58歳で崩御されています。

 

天武天皇が中国漢の高祖に自ら例えたように、後に持統天皇となる鸕野皇女も高祖の皇后、文后を自称したといいます。中国歴史上でも悪名高い女性です。

 

藤原宮御宇天皇代 

高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇

持統天皇 元年が丁亥の持統11年に位を軽太子に譲る、尊号を太上天皇という。

 

天皇御製歌

@28

春過而 夏来良之 白栲妙能 衣乾有 天之香来山 

はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま

春過ぎて 夏来るし 白栲の 衣干したり 天の香具山

過ぎ夏来たらしい。真っ白な衣が干されているあの天の香具山を見ると

 

天武天皇の死後、緊張の連続だった持統天皇が皇位を孫の文武に譲る瞬間です。53歳。文武天皇即位は8月秋です。2月に皇太子とし、夏がきて譲位の期日を間近に迫る頃の歌と思っていいはずです。

伊藤博氏は「万葉では、夏の名歌が絶無に近いばかりでなく、夏歌自体が極端に少ない。」と言います。

あらゆるものが光輝いて見える歌といえます。あまりに有名な歌の元となるものです。新古今集に所載され、百人一首の一首で今日よく知られるものです。

 

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣すてふ あまのかぐ山

 

金子武雄氏は「改作せられるに及んで、著しくきびきびした感じが殺がれている」といいます。

持統天皇の性格を示すものといえるのかもしれません。

 

天皇賜志斐嫗御歌一首

B236

不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里

いなといえど  しふるしひのが  しひかたり このころきかずて あれひにけり

いなと言へど 強ふる志斐のが 強ひ語り このころ聞かずて 我恋ひにけり

もう聞きたくないと言うのに止めないこのうるさい志斐の「強ひ語り」、

         この頃聞くことができずちょっと恋しい。

 

志斐嫗奉和歌一首 嫗名未詳  

B237

不聴雖謂 語礼〃〃常 詔許曽 志斐伊波奏 強語登言

いなといへど かたれかたれと のらせこそ  しひいはまをせ しひかたりといふ

いなと言へど 語語れと 宣らせこそ 志斐いは申せ 強ひ語りと言ふ。

私はもういいですと言うのに貴方が話せ話せとおっしゃいますので

      この志斐バアは申すのです。それを「強ひ語り」などと言うなんて

 

ここでいう「天皇」は「持統女帝という見るむきが多い」と紹介しながら、伊藤博氏は文武天皇の歌として解釈されました。本稿も文武天皇の歌だと思いますが、それなら、文武天皇が賜うこの志斐嫗(しひのおみな)とは誰なのでしょう。

「新撰姓氏録(左京皇別上)」に、阿倍志斐連が天武の御代に楊(やなぎ)の花を献じた。天皇は何の花かと問われた。それに辛夷花(こぶしのはな)と答えた。群臣がこれは楊の花ですと異を唱えた。しかし、志斐連はなお強いて辛夷花ですと申したという。よって、阿倍志斐連の姓を賜った、とあります。

佐伯有清氏はこのあと、「強ひ語り」をする専門的な語り人がいたとする説や、万葉集の志斐嫗を中臣志斐連の一族とする折口信夫氏の意見を紹介しています。

「新撰姓氏録」のこの記事は「志斐」とは名前ではなく、あだ名と考えられるということです。つまり天皇に強烈に意見する人を志斐といったのです。この文武天皇に意見できた人といえば、この頃は持統太上天皇か中臣不比等しかいません。しかも、嫗という老婆だというのです。そこで志斐嫗とは持統太上天皇ではないのでしょうか。つまり、孫の文武天皇がお婆さまを志斐嫗とあだ名で呼んだのです。

こう考えてこの歌を詠むとまだまだ天皇として未熟な孫を心配のあまりあれこれと諭す肉親の大先輩の関係が見えるようです。

「歌柄から推して20歳を過ぎた文武」天皇の歌といわれます。文武天皇が20歳のときは702大宝2年でこの年、持統太上天皇は58歳で崩御されています。つまり、最晩年の歌ということになります。文武天皇が望んだ持統太上天皇の「強ひ語り」は、もうすぐ本当に聞きくことができなくなったはずです。

 

ところで、最近読んだ書籍、砂川恵伸氏の「天武天皇と九州王朝」で独創的な記事を見つけましたのでご紹介します。それによると壬申の乱で天武天皇と共に東国への逃避行の最中、鸕野皇女の疲労からとされる輿での移動、家をまるまるつぶしてまでの暖をとるたき火の模様、度重なる休息の原因を、鸕野皇女が妊娠していたからというものです。砂川恵伸氏は外科医だそうですが、お医者様ならではの鋭い指摘と思いました。ただ、これをこのとき草壁皇子が出産したものとして捉え、母、鸕野皇女の年齢を下げ、草壁皇子の子、のちの文武天皇を年齢が合わないとして高市皇子の子にしてしまうなど承伏できません。

もし妊娠が正しいとするならば、ここは流産したと考えた方が自然だと判断します。その後、持統天皇となった鸕野皇女の吉野への執拗なまでの強烈な思いは、案外この水子への祈りも含まれていたのかも知れません。

 

追記 この妊娠説を思わぬところで目にしました。里中満智子著「天上の虹―持統天皇物語E」という漫画です。インターネットの幾多の天武天皇の記事を読みあさっていたなかで、この書物の存在を知りました。この書物の意外な影響力の大きさを感じたからです。女性ならではの鋭い観察力だと感心しきりです。種本があるのかもしれませんが、流産として確定的に採用した視点に賛同致します。

 

 

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