天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
大田皇女の年齢 おおたのひめみこ First update 2008/06/01 Last update 2014/10/22 667天智6年2月27日葬 (日本書紀) 父 天智天皇(中大兄皇子) 母 遠智娘(おちのいらつめ)。蘇我山田石川麻呂の娘 子 大伯皇女 661斉明7年生 〜 701大宝1年没 41歳 大津皇子 663天智2年生 〜 686朱鳥1年没 24歳 同母妹 鸕野皇女 645大化1年生 〜 702大宝2年没 58歳 甥 草壁皇子 662天智元年生 〜 689持統3年没 28歳 弟 建 皇子 651白雉2年生 〜 658斉明4年没 8歳 下線は日本書紀、続日本紀に記述があるものです。 大田皇女の「大」には「太」と書かれた文献もあるようです。ほぼ大田皇女が一般的ですのでここでも大田皇女で統一します。 【大田皇女関連系譜】
【大伯皇女 関連年表】 644皇極3年 1歳 中大兄皇子(19歳)と遠智娘の長女として生まれる。 645大化元年 2歳 妹 鸕野皇女降誕 651白雉2年 8歳 弟、建皇子降誕 657斉明3年 14歳 大海人皇子、後の天武天皇に嫁ぐ。(本稿) 658斉明4年 15歳 弟、建皇子(8歳)が薨去。 661斉明7年 18歳 1月、瀬戸内、大伯の海の船上で大伯皇女を出産。 7月、夫大海人皇子の母、斉明天皇崩御。 662天智元年 19歳 妹、鸕野皇女(18歳)が草壁皇子を九州で出産。 663天智2年 20歳 大津皇子を九州の大津で出産。 朝鮮白村江にて日本軍敗退 百済滅亡 665天智4年 22歳 中大兄皇子の妹 間人皇女こと孝徳皇后が崩御 667天智6年 24歳 大田皇女薨去。斉明天皇と間人皇女の合葬墳前に葬られる。 【大田皇女 年齢相関図】
姉が大田皇女、妹が鸕野皇女(後の持統天皇)となる実の姉妹です。二人とも大海人皇子に嫁ぎました。鸕野皇女が持統紀に天智天皇の「第二女」とあるところから、その姉、大田皇女は天智天皇の長女となります。 大田皇女は大海人皇子こと天武天皇に嫁いで二人の子を生んで早世したため、日本書紀には、身分として「妃」と書かれました。妹は夫とともにその後の壬申の乱を乗り切り、「皇后」となります。 大田皇女の年齢の算出は、出生が結果的には父天智天皇の受けた花嫁奪略事件により推定が可能です。 644皇極3年正月のことです。当時19歳の中大兄皇子は花嫁と決まっていた蘇我山田石川麻呂の娘を蘇我日向(ひむか)に奪われたのです。蘇我日向は蘇我山田石川麻呂の弟で花嫁の叔父にあたります。蘇我山田石川麻呂はすぐ、代役にその妹、遠智娘(おちのいらつめ)をたて中大兄皇子に納められました。こうして二人の間に生まれた大田皇女は、その年の12月までに生まれた子としなければなりません。この翌年、妹となる鸕野皇女が生まれているからです。鸕野皇女は702大宝2年、持統天皇として崩御時58歳ですから生まれたのは645大化1年のはずです。二人の姉妹は年子となります。 持統紀によると、その後、妹の鸕野皇女は657斉明3年天武妃となったと記されています。13歳で大海人皇子に嫁いだことになります。姉、大田皇女も同時かそれ以前に嫁いだと考えられます。本稿では姉の大田皇女は鸕野皇女と同年の657斉明3年に天武天皇に嫁いだと仮定しました。14歳と思われます。 こうして、二人は成人し子を授かります。その子供らの年齢は日本書紀からわかります。 661斉明7年、斉明天皇は大軍を率いて九州に向かいます。斉明天皇は大田皇女にとって、祖母にあたります。1月6日に海路にて難波を出航した2日後、これに同行した18歳の大田皇女は大伯の海の船上で大伯皇女を生みました。この慌ただしいなかでの出産ゆえ、大きなニュースとして驚きとともに吉兆ととらえられたことでしょう。 【日本書紀 斉明7年1月6日条】
一方、18歳の妹、鸕野皇女もその翌年662天智1年にやはり九州の地で草壁皇子を生みます。 さらに翌年、663天智2年には20歳になった大田皇女は大津皇子を生みました。 しかし、大田皇女は大津皇子を出産するとすぐ亡くなったようです。 661斉明7年、天武天皇の母斉明天皇が亡くなり、667天智6年2月27日に、娘、間人皇女とともに合葬されましたが、その陵の前に大田皇女を葬ったと日本書紀にあることから、亡くなられたのはそれ以前であることがわかります。生きていれば24歳です。 本稿では、天武天皇はこの白村江の戦いのさなか、ずっと九州にいたと考えています。それは妻である二人の蘇我の姫がこの戦渦のなか九州の地で三人の子を生んでいるからです。兄、天智天皇は母の亡骸とともにすでに帰路についていました。 大田皇女が二人目の子大津皇子を九州の博多で生んだ年8月に朝鮮の白村江において、日本軍は中国唐、朝鮮新羅の連合軍に敗退しています。そして、9月には百済国は滅亡しました。 このとき天武天皇は同行していた妻子をすべて大和に戻したと考えました。しかし、天武天皇は大田皇女とだけは九州の地に留まったのではなかと思います。出産で体力を消耗しており動かせないという判断があったと思います。 5年後、667天智6年2月27日、大和明日香の地で斉明天皇と娘間人皇女の合葬墳が完成し、大きな葬式が挙行されました。この挙式の予定を聞き、大海人皇子は大田皇女の亡骸とともに明日香に戻ったのです。 だからその亡骸は斉明天皇に合葬されず、斉明天皇墓の前に大田皇女の墓が新たに作られたのです。 なぜ、合葬されず、斉明天皇陵の前に葬られたのか 一説に、大田皇女が斉明天皇や間人皇女と仲が悪かったからとありますが、何を根拠にしたのかわかりませんが、それはないと思います。 また、天智天皇の妹、間人皇女への特別な思い入れがあったからとの説も考えられますが、 夫の大海人皇子の意志で、一緒に連れ帰った棺をみて、父、天智天皇はもちろん、誰も合葬に反対するものなどいなかったはずです。 しかし、現実的には完成間近な巨大な石室制作の追加変更はできなかったと思います。 棺をさらに追加して合葬するには狭すぎるのです。 決められた挙式の日取りに間に合わせ、別途、大田皇女用の石室が墓として用意されたのだと本稿では考えました。 【日本書紀 天智6年2月27日条】
24歳以下で亡くなったと思われるものの、これ以上の資料がないことから、ここではこの大田皇女が墓に葬られたとき、667天智6年24歳を薨去年としました。 追記 2010年12月18日 今月11日の新聞に牽牛子塚古墳の前に別の小さな墓が見つかったと、報道されました。後に、 越塚御門古墳と命名されました。大田皇女墓と考えられます。牽牛子塚古墳の為に整地された土地の一部を取り壊して造られているとあります。日本書紀の記述を信じるならば、同日の埋葬ですから、大田皇女が薨去されたときには、斉明、間人合葬墳の築造は始まっていたことになります。 牽牛子塚古墳を知ったのは、私の読書録によると1999年の暮れに手に入れた冊子でした。「斉明紀 飛鳥資料館 平成9年」とあります。ここではすでに牽牛子塚が斉明天皇の墓である可能性が高いとしており、浅学な私は単純にこれを信じてきました。 上記の文章はこれを踏まえた内容になっていますが、正直いって発見された墓がこれほどすばらしい立派なものだとは思っていませんでした。父、天智天皇と、夫、大海人皇子の深い愛情を改めて再確認した次第です。 「宮内庁指定の斉明天皇陵は、高取町車木の華厳寺の裏山にある。実際は東土ケンノウ古墳と呼ばれる小古墳であるとされる。本当の斉明天皇陵については、明日香村越にある牽牛子塚古墳が有力な候補とされる。」 すでに大正3年と昭和52年から調査され続けていたようです。それにしても、手元にある冊子を基準としても10年以上、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵と信じつつ、調査し続けた調査団に敬意を表します。ましては、今以て、断定しないところは、科学者らしいと思いました。これからも新たな発見を期待してやみません。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |