天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
建皇子の年齢 たけるのみこ First update 2008/06/01
Last update 2011/02/10 651白雉2年生 〜 658斉明4年薨 8歳 日本書紀 父 天智天皇 母 蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ) 姉 大田皇女 661斉明7年生 〜 701大宝1年没 41歳 鸕野皇女 645大化1年生 〜 702大宝2年没 58歳 蘇我倉山田石川麻呂―――遠智娘 ├―――大田皇女 第一子(後に天武天皇妃) ├―――鸕野皇女 第二子(後に天武天皇皇后) ├―――建皇子 第三子 皇極天皇―――天智天皇 ├―――御名部皇女 (後に高市皇子夫人?) ├―――阿閇皇女 (後に草壁皇子夫人 ) 蘇我倉山田石川麻呂―――姪娘(桜井娘) 【建皇子 関連年表】 644皇極3年 姉 大田皇女降誕 645大化1年 姉 鸕野皇女降誕 649大化5年 母の父、蘇我山田右大臣が妻子ともに殺された。 妃蘇我造媛(山田大臣の娘)が死ぬ。 651白雉2年 1歳 中大兄皇子と越智娘の子として生まれる。 658斉明4年 8歳 5月 建皇子薨去。 667天智6年 斉明天皇と間人皇女が合葬墳として葬られる。 【建皇子 年齢相関図】 600 4444444455555555556666666666777 年 年 2345678901234567890123456789012 齢 天智天皇PQRS―――――――――30―――――――――40―――――46 46 大田皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――葬 24 鸕野皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――58 建皇子 @ABCDEFG 8 天智天皇の長子として生まれ、将来を期待されたのですが8歳で薨去されました。 斉明紀 4年
5月、皇孫、建(たける)皇子、8歳で薨ず。 今城(いまき)谷の上に、殯(もがり)し収めた。 天皇、元より皇孫が有順、器重であったので、 故に哀しみに耐えられず、傷慟の極み、甚だしかった。 群臣に詔して曰く、我が死する後、必ず朕陵に合葬せよ。 すなわち作歌して曰く、 今城(いまき)なる、小丘(おむれ)が上に、雲だにも、著(しる)くし立たば、何か嘆かむ【其一】 射(い)ゆ鹿猪(しし)を、つなぐ川上(かはへ)に、若草の、若くありきと、吾が思はなくに【其二】 飛鳥川、漲(みなぎら)ひつつ、行く水の、間も無くも、思(おも)ほゆるかも【其三】 天皇は時に々唱い、また悲哭された。 ここで、日本書紀の異様な記述を2つ記します。 一つ、日本書紀は一つの事実に対し各種の説があり集約できないと、異説を一書曰く、とすべてを記述する方法をとっているのですが、日本書紀の中でも時代の新しいこの天智天皇の時期に、遠智娘の子に対し3つの異説を唱えているのです。 定説として、上記のように1男2女(大田、鸕野、建の順)を述べています。しかし、或本には、それは美濃津子(みのつこ)娘だといいます。 次説として、生んだ順番が違う1男2女(建、大田、鸕野の順)を唱えます。 三説として、茅渟娘(ちぬのいらつめ)というものが2女(大田、鸕野)だけを生んだというものです。 天智紀7年
さらに、本文の中で、造媛(みやつこ)という蘇我山田大臣の娘が登場しています。父が殺され、塩を堅塩と忌み嫌い、死んだ娘です。 つまり、同一人物と思われる妃に名が四種類もあるのです。 越智娘、美濃津子娘、茅渟娘、造媛です。 一般的には、越智娘=美濃津子(みのつこ)娘=造(みやつこ)媛です。 しかし、そうすると日本書紀本文の上からは、遠智娘が死んだ後に、建皇子が生まれたことになるのです。658斉明4年5月、8歳で建皇子がなくなったことを日本書紀は伝えているのですが、遠智娘は建皇子が生れる651年より2年前、649大化5年に亡くなっているのです。そのため、建皇子が大田皇女より早く生まれた、又は、建皇子は遠智娘の子ではないような書き方です。 もう一つ。 644皇極3年正月、天智天皇は自分の勢力をのばすために藤原鎌足と相談して、蘇我倉山田石川麻呂の長女を嫁にもらうことにしました。しかるに、長女は「所期の夜」(ちぎりし夜)、族に盗まれてしまう。族を蘇我身狭臣(むさのおみ)といいます。父、倉山田臣は憂い臥していると、少女(おとひめ、次女)が慰めて「まだ遅くはありません。私を代わりに、天智天皇に捧げてください」といい、天智天皇に嫁いだのです。この少女が遠智娘です。 そして、日が過ぎ5年後、蘇我臣日向(蘇我身狭臣のこと)が異母兄、倉山田臣が天智天皇の暗殺を計画していると讒言したのです。天智天皇はこれを信じ、倉山田臣は無実の罪に追い込まれ、結局、自殺します。それを聞いた娘、天智妃(造媛(みやつこひめ))つまり遠智娘は悲しみのあまり死んだとあります。 日本書紀は民の言葉として、無実の罪に落としたのは、蘇我臣日向とうわさしたとありますが、天智天皇と藤原鎌足による蘇我日向を利用した陰謀といえそうです。蘇我日向は九州筑紫の宰相にして送り出します。隠流(しのびながし)という左遷だといいます。 天智天皇の屈折した人間性を感じないではいられません。 この二つのことから別の推測がなりたちます。 一般に、「造媛=遠智娘」とされているのですが、じつは蘇我日向に奪われた娘とは造媛で、別の娘に身代わりに天智天皇の嫁いだのがその妹の遠智娘となることです。 とすると、悲しい事実が浮かび上がります。 蘇我日向は造媛を奪いますが逃げ切れず、卑怯にも造媛を天智天皇に戻してしまったことになります。ところが5年後父が天智天皇に殺されたのを見て悲しみのあまり自死してしまうのです。蘇我山田石川麻呂大臣は落ち延びた寺を兵に囲まれ自殺しましたが、これを物部二田塩(ふつたのしお)に命じてわざわざ首を斬らせています。首を切り刻んだ男の名が塩であることと、たぶん塩漬けにされた父の頭を見て塩を忌み嫌い食べられなくなったのかもしれません。 結局のところ日本書紀の記載とおり、遠智娘は大田、菟野、建の三人を産んだことになります。 長女、造媛は天智天皇の子供は産みませんでした。だから、天智7年の后妃一覧に載らなかったのです。 第三子、建皇子ですが頭に障害のある子であったようです。遠智娘も父の死の2年後、建皇子を産んで死んだのでしょう。彼女の父の死に対し心と体に傷を残したまま子供を産んだのです。 不具であったようで、天智紀に、唖にして語ふこと能(あた)はず、とあります。 建皇子は8歳で亡くなりますが、祖母である斉明天皇は孫の死を本当に悲しみ、その慟哭の姿を書紀は克明に伝えています。必ず、自分の墓に、建皇子を合葬するよう託しました。しかし、それは叶えられなかったようです。斉明天皇の葬儀において、自分の合葬者は斉明の娘、孝徳皇后であり、そのそばに、孫の天智妃大田皇女が葬られたと、日本書紀には書かれただけでした。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |