天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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草壁皇子の年齢 くさかべのみこ

First update 2008/09/28 Last update 2011/01/29

 

662天智元年生〜689持統3年4月13日薨去 28歳 日本書紀

 

日並知皇子(ひなみしのみこ)続日本紀、万葉集など

日下部太子         釈日本紀などと書かれる。

 

父  天武天皇

母  鸕野皇女  天智天皇と遠智娘の子、後に持統天皇 58歳崩御

妻  阿閇皇女  後、元明天皇 61歳崩御

子供 氷高皇女  後、元正天皇 69歳崩御

   軽皇子   後、文武天皇 25歳崩御

   吉備内親王 後、長屋王妃 729天平元年薨去

伯母 大田皇女 鸕野皇女の実姉

義姉 大伯皇女 大田皇女の娘

義弟 大津皇子 大田皇女の息子

 

      遠智娘

       ―――――鸕野皇女(645年生)

       |       ―――草壁皇子(662年生)

      天智天皇   天武天皇    ――氷高皇女(680年生)

       |             ――軽皇子 (683年生)

       |             ――吉備内親王

       ―――――――――――阿閇皇女(661年生)

      姪娘

 

【草壁皇子 関連年表】

662天智 元年   九州大津で誕生             1歳

672天武 元年   壬申の乱 父、母とともに吉野脱出   11歳

679天武 8年   吉野盟約               18歳

680天武 9年   阿閇皇女(20歳) 氷高皇女を生む  19歳

       11月 僧恵妙の病を問う使いとして立ちました。

        翌日、亡くなったので大津、高市皇子の3人が弔いに訪れています。

681天武10年2月 皇太子となる。            20歳

682天武11年7月 高市皇子とともに、壬申の乱の功臣膳臣麻呂の病を見舞う。

683天武12年   阿閇皇女(23歳) 文武天皇を生む  22歳

685天武14年正月 官位改定に伴い浄広壱位を授かる    24歳

686朱鳥 元年8月 大津皇子、高市皇子とともに4百戸加増 25歳

同年      9月 天武天皇崩御

同年     10月 大津の乱、弟、大津皇子(24歳)憤死

689持統 3年4月 草壁皇子没              28歳

 

600 66666666677777777778888888888 年

年   12345678901234567890123456789 齢

天智天皇――――40―――――46

天武天皇―――――――――――――――――――――――――崩

鸕野皇女PQRS――――――――――――――――――――――――――58

草壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25――28

阿閇皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――61

氷高皇女(元正天皇)             @ABCDEFGHI―69

軽皇子(文武天皇)                 @ABCDEF―25

吉備内親王(推定)                   @ABCD―

大田皇女QRS―――葬

大津皇子  @ABCDEFGHI―――――――――20―――24

 

持統紀に662天智元年、大津宮で生まれたとあります。筑前国嘉麻郡(福岡県山田市のほぼ全域と嘉穂郡東半および飯塚市の一部)、筑後国山門郡(福岡県山門郡と柳川市南部)に草壁郷が存在するそうです。そこで生れたと言われています。九州に多く分布する日下部と関連があるのでしょうか。このとき母でもある鸕野皇女は18歳でした。

その後、成人した草壁皇子は天智天皇の娘、阿閇皇女(661年生)を妻に向かえ、19歳で氷高皇女、22歳で軽皇子、とさらに数年後、吉備内親王をもうけます。国書から草壁皇子の周囲の年齢がわかる稀なケースです。同じ持統紀の689持統3年4月13日薨去された記載から28歳であったこともわかります。

 

この時代、生年と没年のわかる人物は限られています。草壁皇子はその数少ない皇子の一人です。しかも生まれた場所と亡くなられた場所もわかっています。日本書紀はこの草壁皇子の存在を重要と考えていたのです。それは母である持統天皇の存在ぬきには考えられないことも周知のとおりです。

しかしながら、それゆえに逆にそれを疑う異説が多く存在することも確かです。懐風藻などは草壁皇子が薨去後100年も経たないうちから大津皇子が「長子」であると記述し、草壁皇子を退けるほどです。

 

持統紀

開別天皇元年生草壁皇子尊於大津宮 天智天皇元年に大津宮にて草壁皇子尊が生まれた。

乙未皇太子草壁皇子尊薨     (持統三年四月)十三日、皇太子草壁皇子尊が薨じた。

 

大津宮とは九州の筑紫の娜大津(なのおおつ福岡県博多港)のことであり、草壁皇子が薨じた場所は嶋宮(しまのみや明日香村島庄)であることは確実です。

 

日本書紀、続日本紀記載

父  天武天皇           〜686朱鳥 1年 9月 9日崩御

母  鸕野皇女           〜702大宝 2年12月22日崩御

妻  阿閇皇女  661斉明 7年生〜721養老 5年12月 7日崩御61歳

子供 氷高皇女  680天武 9年生〜748天平20年 4月21日崩御69歳

   軽皇子   683天武12年生〜707慶雲 4年 6月15日崩御25歳

   吉備内親王          〜729天平 元年 2月12日薨去

 

草壁皇子は18歳で吉野において皇子達の代表に指名され、20歳のとき681年天武10年2月に正式に皇太子となります。住居は嶋宮(高市郡明日香村島庄)に住んでいたこと、諸皇子中最高位とはいえ、浄広壱という浄大壱という最上位ではない位を授けられたこと、同年、草壁皇子ではなく大津皇子が聴政に参加したこと、天武天皇死後、直ちに、草壁皇太子が即位しなかったことなどから、草壁皇子のひ弱さがよく取りざたされます。

 

草壁皇子の政治的業績はほとんど見られません。以下に示すのは日本書紀に現れた草壁皇子の天武天皇葬式を取り仕切ったという記録だけですが、彼が天武天皇の後継者と内外にアピールする手立てであり彼の実力ではありません。

 

686朱鳥 元年 7月、母とともに死の床にある天武天皇の大権を委任されました。

687持統 元年 正月、天武天皇の殯宮での慟哭儀礼の先頭にたつ。

            天武大内陵造営も主宰したという。

688持統2年 11月、草壁皇太子は、公卿・百官と海外からの使者を率いて、

            殯宮に詣でて慟哭されました。

 

注意しなければいけないのは草壁皇子を取り囲んだ舎人集団のことです。彼の優秀な頭脳集団です。天武天皇が舎人を重用したことは周知のことですが、皇后も自分の一人息子のために優秀な若い部下を数多く引き寄せたようです。万葉集に残る草壁皇子挽歌23首の舎人等の歌はそれぞれに名歌と讃えられています。東宮職員令に「舎人六百人」とあり、皇太子に付き従った舎人軍団が半端なものでないことがわかります。決して皇太子個人だけを単に侮るわけにはいきません。

 

草壁皇子とはどういう人物だったのでしょう。

一つ史実からわかることは、天武天皇が崩御されたとき、皇太子である草壁皇子が天皇として即位すべきなのにならなかったことです。天皇崩御直後に起きた大津皇子の変による弟の絞殺を聞き、母鸕野皇女を非難し、そのことからも天皇即位への強い拒否反応があったようにみえます。

ここにただ一つともいえる草壁皇子の意志を感じるのです。彼にも天武天皇の皇子としての自覚はあったと思います。争いのない国を作りたいとの父の崇高なビジョンを彼なりに理解していたのです。それを自分の母が裏切ったのです。

草壁皇子は頑なに天皇位を拒み続けたようです。

母のこれまでの行為はすべて息子のためでした。しかたなく天皇空位のまま、鸕野皇后が政務を代行しています。しかし、その3年後28歳になった草壁皇子は天皇位の責任という重圧に押しつぶされたかのように亡くなってしまいました。

まさに、草壁皇子薨去の年、「蛇と犬とが相交(つる)んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ」のです。日本書紀(宇治谷孟訳)より。

川崎庸之氏は「すべてを(草壁)皇子に委ねることを危惧したというような事情があったのではないかと思われる。〜この皇子の将来については慎重な配慮が必要だったのかもしれない」と書かれています。「天武天皇の諸皇子・諸皇女」

川崎庸之氏が意識して述べられたことなのかはわかりませんが、これはあきらかに、強い母が弱い息子を甘えさせる典型的パターンです。

 

草壁皇子を知る手がかりに万葉集があります。草壁皇子の妾であったと思われる石川郎女という女性を、弟の大津皇子に奪われたというものです。

 

万葉集

大津皇子贈石川郎女御歌一首

大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

A107

足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二

あしひきの   やまのしづくに  いもまつと われたちぬれぬ やまのしづくに

あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに

おまえを長い間外で待っていたらしっとり濡れてしまいました。

 

石川郎女奉和歌一首

石川郎女、和へ奉る歌一首

A108

吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

あおまつと  きみがぬれけむ  あしひきの  やまのしづくに ならましものを

我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを

皇子様を濡らしたという山のしずくに私がなれたらいいのに(寄り添っていたい)。

 

個人的に好きな歌です。日本独特の湿度の高い風土を愛で満たしているように思えます。

この歌のあと、二人は結ばれたようです。

 

大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首

大津皇子、秘かに石川女郎と結ばれた時、

        津守連通、其事を占い暴露した歳の皇子御作歌一首

A109

大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之

おおぶべの つもりがうらに のらんとは  まさしにしりて  わがふたりし 

大船の 津守が占に 告らむとは まさしにしりて 我がふたり寝し 

津守の占いで告げられる知りながら私は二人で寝たのだ

 

草壁皇太子の女を自分のものにした大津皇子の無謀ともいえる大胆さは、皇太子側から見れば確かに許せないものでしたでしょう。

 

日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首  女郎字曰大名兒也

日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、字を大名児といふ

A110

大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八

おおなこ  おちかたのべに かるかやの つかのあいだも われわすれめや

大名児 彼方野辺に 刈る草の 束の間も 我忘れめや

大名児よ、彼方の野辺で草刈するつかの間もお前のことを我は忘れない。

 

万葉集にはいつもびっくりさせられます。これが草壁皇子の歌です。

嫉妬に狂った歌といえます。草刈り釜で草をざくざく刈り取りながら、おまえのことは絶対忘れないぞと言っているのです。刃物をイメージする言葉の中で、「我は」と強調する、なにか陰湿な病的なものを感じさせます。しかも、愛する男性にしか知らせることのないその女性の秘められた大切な名前を躊躇なく暴露し、この名前を知っている我はおまえの夫に他ならないとうそぶいているのです。我はひと時も忘れないのに、なぜお前はあんな大津皇子と関係をもったのだと詰っています。

よほど大津皇子に取られたのが悔しかったようです。

 

一方、草壁皇子夫人、阿閇皇女は草壁皇子をどう思っていたのでしょう。万葉集に次の歌があります。

 

万葉集

越勢能山時阿閇皇女御作歌

背の山を越ゆる時に。阿閇皇女の作らす歌

@35

此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山

これやこの  やまとにしては  わがこうる きじにありとう なにおうせのやま

これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山

これが大和にいて私が見たいと願っていた、紀伊道にあるという背の山なのね。  

 

背の山は背の君を連想させ、夫を偲ぶ歌と言われています。

このとき690持統4年9月、天皇紀伊行幸時の歌といいます。先年の持統3年4月に夫、草壁皇子を亡くし、皇女30歳のときに読まれた歌となります。当然、持統天皇行幸時の歌なのだから、持統天皇も聴いただろうし、阿閇皇女も当然、姑となる天皇を意識しながら歌ったものと思われます。息子の死に接した翌年、息子の嫁が歌って歌を、持統天皇は涙をながして聞いたことでしょう。

 

しかしながら、阿閇皇女の心に偽りはなかったと思うのです。彼女は20歳、23歳、そしてその数年後(おそらくは25歳)にも都合、3人の草壁皇子の子をなした女性です。二人の仲は疑いようがないと思います。狭隘な性格の草壁皇子も、1歳年上のこの妻には、存外やさしかったと思います。強い母の下にいた草壁皇子が中国の女帝文后の息子に準えられるとするならば、文后の息子は文后に虐げられた人々をかばう心優しい人だったといいますから、草壁皇子もまたやさしい男だったのかもしれません。

また、草壁皇子が死んだあと、取り残された妻、阿閇皇女の辛い思い出は昇華され、甘い思い出に満ちていたことだろうと察せられるのです。

 

持統天皇は天武天皇の墓に合葬されたのに、阿閇皇女は草壁皇子の墓に合葬されなかったから二人は不仲であったという文章をどこかで見たきがしますが、それはないと思います。持統天皇は天武天皇の政治戦略を引き継いだ、切っても切れぬ思いがあった女性ですが、阿閇皇女には草壁皇子の思想を引き継いだものは何もなく、ただ子供や孫を守るためその後、元明天皇となり61歳に崩御されたのです。夫の死後30数年後のことです。元明天皇として自分の死後は人民のため墓は簡素にし、奈保山で火葬後そのままにその地に葬れと具体的に指示を残し崩御された名君でもあったのです。

 

 

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